神の影 5
湿った空気が雨に濡れる庭先から流れて、足首を撫でていく。夜明け前から降り出した雨は止む気配がない。眠れず、窓際のソファにもたれたまま朝を迎えたゼクスは、気怠げに濡れた庭の草木を眺めていた。 雨に打たれて身を震わせる葉が、溜まった雫に葉先を垂れている。オットー達も濡れているのだろうか。ぽたぽたと葉先から落ちていく水滴にぼんやりと眼を奪われていると、雨音を掻き消すように廊下を歩く、いくつもの堅い靴音が近づいてきた。 オットーのものではない。皇帝の優雅な足取りとも違う、何人かの従者を引き連れた早足の律動。嫌な予感に身を起こしたゼクスの前に、足音の主は速度を緩めぬままドレープを割って姿を現した。 白髪に覆われかけた銀灰の髪。筋張った首筋と手首。一分の隙もない身のこなしで立つ老人は、射抜くような眼光でゼクスを見据えた。 「随分、朝がお早いですな」 ザインの重臣ゼヴィアスのあからさまに威圧的な声に、ゼクスは座ったまま視線だけを鋭く返した。 「何用でしょうか」 「ゼクス殿は昨晩、街娘を宮殿に連れ込んだそうですな」 昨夜の一件が、早くもゼヴィアスの耳に入ったらしい。やはりノイン達をすぐに発たせてよかったと思いながら、ゼクスは無表情を装って頷いた。 「それがなにか?」 老人の無表情な口許が、僅かに歪んだ。 「その娘を送った貴殿の臣下が、ルシュナで死んだ」 ゼクスはバネ仕掛けの人形のように立ち上がった。老人の唇はさらに歪んだ。 「ルシュナに潜伏していたエレミアの残党共と、貴殿の臣下は通じていた。よって、その者らと同様残らず斬り捨てたとの報告が、先程入った」 ゼクスは千切れるほどに唇を噛みしめた。目前の老人は、無表情でいながらその鋭い眼の奥に薄笑いを浮かべている。勝ち誇った、打ち負かした相手を見下げる笑みだ。 「貴殿の臣下が通じていたということは、貴殿もルシュナの残党の企みを知っていたということだ。もはや、陛下の客人として扱う訳にはいかない。共に来て戴こうか」 無造作に兵士の拘束の腕が伸びてくる。ゼクスは力一杯それを打ち払った。パシッと乾いた音が上がった。 兵士達がひるむ間に、ソファの後ろに手を伸ばす。隠してあった剣を掴んで振り返ると、拘束の輪が慌てて広がった。ゼクスはゆっくりと剣を抜きはなった。 研ぎ澄まされた刃が、異様な緊張感にぎらりと光る。 「そこをどけ」 低く恫喝する。エレミア王の武勇を知る兵士達が、じり、と後退る。だがゼヴィアスは全く動じず、鉱石のような双眸でゼクスを睨み付けた。 「やはり謀反を起こす気だったか」 ゼクスは剣を構える。静まり返った室内に、雨の音が満ちる。 「邪魔をするなら、斬る」 「陛下の恩情をあだで返そうとは……やはり貴様はザインに仇 なす凶星。生かしてはおけぬ」 老人とは思えない早さでゼヴィアスが剣を抜く。気迫の声と共に居合いで斬り込んでくる刀を、ゼクスは正面から受け止め、力任せに振り払った。 金属のぶつかり合う、鈍い音が上がる。沈黙を打ち破ったその音を合図に、兵士の怒号が一斉にゼクスに襲い掛かった。 繰り出される切っ先をかわし、踏み込み、なぎ払う。飛び散る赤がゼクスの身を生臭く染める。足許に崩れ落ちた屍から湧き出る血溜まりに足を踏み込み、返す刀を背後から襲う敵の肩口に振り下ろす。一撃で絶命させるその太刀筋に、迷いは微塵もない。 立て続けに3人の兵士を斬り捨て、ゼクスは流血の中に動きを止めた。大理石の床や壁にぶちまけられたような血糊が飛び散り、室内に漂っていた雨の匂いは、むせかえるような血の香に変わっていた。 「おのれ……!」 カッと眼を見開いたゼヴィアスが、剣を翳して再び斬りかかってくる。ゼクスの眸が動いた。低く身を落とし、振り下ろされる剣を横に一閃する。鈍い音と共にゼヴィアスの剣がぱっくりと折れ、刃先が回転しながら宙を飛んだ。愕然とする老人へ、流れるような動作で剣を振り上げる。 「ゼヴィアス様!」 脇から飛び込んできた兵士が老人を突き飛ばす。その兵士の右肩へ剣は叩き込まれた。 生温かい血が吹き上がる。生き残った者らが息を飲む。半ば肩から二つに裂かれてくずおれるそれに一瞥もくれず、ゼクスは噴水のように血飛沫を上げる死体をまたぎ越え、廊下へ出た。 驚愕から我に返った兵士が叫ぶ。血まみれのゼクスと遭遇した侍女が悲鳴を上げる。広い宮殿の至るところから、騒然とした人々の声がゼクスを追いかける。ゼクスはまっすぐに彼の部屋を目指した。ゼクスの部屋から彼の部屋は、さほど遠くはない。一度訪れただけのそこへの道筋は、驚くほど鮮明だった。自室を出れば案内なしでは歩けなかったのが嘘のようだった。 幾つか廊下を曲がり、確かに見覚えのある部屋が見えた。扉の前の立つ二人の衛兵が、ゼクスの姿にぎょっとした顔で剣を抜いた。 「どけ」 扉を背に、脅えた表情を見せながらも、彼らは頑なに剣を握り締める。その眼に、抜き身の剣から血を滴らせ、全身血まみれで立つゼクスは、魔物か悪魔に見えるのかもしれない。ゼクスの胸の内で、押さえ込んでいた何かが大きく膨れ上がる。 「どけ!」 ゼクスは初めて大きな声を上げた。その覇気に、衛兵の身体がびくりと震える。それでも退かない彼らにゼクスが剣の柄を握り直した時、室内から声がかかった。 「彼をお通ししろ」 衛兵は背中越しに、悲鳴じみた声を上げた。 「なりません、陛下! ここにいるのは陛下のお命を狙う敵です!」 彼の声は静かだった。 「構わない。お通ししろ」 「殺されてしまわれます、陛下!」 「私が通せと言っているのだ」 僅かに険のこもった声に、兵士らは額に汗を浮かべゼクスを凝視した。皇帝の言葉に彼らが逆らうすべはない。二人の衛兵は、一瞬でも眼を離すのが恐ろしいかのようにゼクスを凝視しながら、じりじりと身を退いた。 重々しい音と共に開かれた扉の奥で、彼は椅子に座り、じっとこちらを見つめていた。ゼクスは抜いた剣を手に提げたまま部屋に入った。衛兵が背後から剣を構える。彼はゼクスを見つめたまま衛兵に命じた。 「彼と二人で話がしたい」 衛兵は眼を瞠る。 「陛下、どうかそれはお止め下さい!」 「私が許すまで誰も通すな。ゼヴィアスでもだ」 「陛下……!」 「私の言葉が聞こえなかったか?」 彼の声に、また少し険が混じる。その声に撃たれたように衛兵らはためらいつつ後退り、やがて扉は閉じられた。 二人だけで向かい、感じるのは正面にある彼の気配だけになる。雨の音は止まない。湿った空気が足許から絡みついてくる。彼を睨み付けて沈黙していたゼクスは、呼吸が落ち着くのを待って、低い声を発した。 「ルシュナへ兵を送るよう命じたのは、貴方か」 彼も静かに口を開く。身じろぎもない。 「ああ」 「オットー達をわざと逃がして、後を尾けた」 「そうだ。私が許可を与えた」 「ならば私は、貴方を許す訳にはいかない」 ゼクスは血まみれのサンダルで、彼へ一歩踏み出した。彼は表情も何一つ変えなかった。 「そうか」 穏やかとも取れる声で、そう言っただけだった。 ゼクスはゆっくりと彼の前に立ち、剣を構えた。座る彼を見下ろし、見つめあう。その瑠璃の眸に感情は窺えなかった。風のない湖の水面 のように、不思議に凪いでいた。 「何故、逃げることも戦うこともしない」 「君に殺されるのなら、構わないと思っている」 耳鳴りがした。こらえている内圧が膨れ上がってきていた。目の前が眩みそうだった。 激流のように押し寄せるものを振り払い、ゼクスは渾身の力で彼に踏み込み、腰溜めに剣を突き入れた。無意識のうちに声を上げていた。堅い衝撃が痺れるほど掌を疾った。髪と髪が触れ合う。凪いだ眸がまっすぐにゼクスを見つめる。息が出来なかった。 突き破った椅子から、破片がぱらぱらと落ちた。剣は彼の肩をかすめて椅子の背もたれに突き刺さり、衣の端を切り裂いて深々と裏側まで貫いていた。 剣に手をかけた姿勢のまま、ゼクスは間近に彼を見つめた。彼の瑠璃色の眸に、自分の姿が映っているのが見えた。 「ゼクス」 瞬きもなくゼクスを見つめる彼が、囁きのように言った。 「……私を、救ってくれ」 全身から力が抜けていくようだった。 ゆっくりと崩れるように片手を背もたれにつき、顔を寄せていく。目眩に襲われながら、自分を見つめる瑠璃の眸の深さに、吸い込まれていく。 唇が唇に触れる。甘い水音が上がる。彼の腕が腰を抱き、その胸に崩れ落ちるゼクスは、口腔に忍び込んでくる舌が理性をすくい上げるのにゆだねて、ようやく眼を閉じた。 血に濡れた衣をはがされ、あらわになった肌を彼の手と舌が這う。ずっと、息が出来ずに声が出せなかったのが嘘のように、彼の愛撫に震えるたび、ゼクスの唇は意味を成さない声を発した。 彼の手が下肢に降りていく。膝の上にまたがったまま、ゼクスは彼の肩にすがり身を固くする。 「あ……」 すがる指に力がこもる。直接触れてきた指は、ゼクスの高揚を確かめるようにやんわりと絡んで離れると、さらに奥へ進み入った。 「は……トレ…ズ……っ」 くん、と背筋が反る。内股が強ばったのを察して、唇を噛みしめてこらえるゼクスに彼が頬を寄せる。 「大丈夫だ。力を抜いて……」 囁いて耳許に口吻ける。指先が内壁を押し開いて体内に滑り込み、その感覚にたまらずゼクスは声を上げる。 「あっ……や…め……」 眼を閉じる。熱い息を吐き出す。首を振って彼にしがみつく。駆け上ってくる熱と痺れるような快感が、何もかもをゼクスから切り離す。 「や……んっ…あっ!」 指が大きく内壁をえぐる。足先が痙攣しそうな痺れが突き抜ける。 「もう、辛いか?」 ゼクスは首を振った。 「もっと……つよく……!」 不意に蠢いていた指が引かれた。思わず息を詰めるゼクスの腰を、彼が持ち上げる。 「あ……あ………!」 彼の楔が挿し入ってくる。指とは比べものにならないその強さに、ゼクスの身体は硬直する。彼の肩を掴んだ指が爪を立て、肌に血を滲ませる。 「……ゼクス」 熱い吐息を含んだ彼の声が頬をかすめる。その声に、背筋がさぁっと粟立つ。 この声が聞きたかったのだ。この声が欲しくて、ここに来たのだ。 「あ……ああっ」 彼が動き始め、ゼクスは翻弄されるままに身を跳ね上がらせた。揺すり上げ、攻め落とす愛撫の波にさらわれて、その熱の激しさに意識が飛ばされていく。 滅茶苦茶な声を上げる唇を彼の唇に塞がれて、激しさは絶頂に達する。 絡みつく舌の愛撫に応え切れず、喉を逸らして切れ切れの嬌声を上げるゼクスへ、彼はきつく抱き締めながら囁いた。 「私の……永遠の友……私の………」 高鳴る鼓動の早さに、ゼクスは彼の言葉を聞き取れない。その声の響きだけが身体を痺れさせる。 「は…あ……あぁっ!」 深く身体を貫く彼の熱を感じながら、ゼクスは己を解き放った。 暗い、湿った場所で、誰かが話す声を聞いた。 ……やはり……呪われて…のか ……定められた凶星……エレミアを……滅ぼすと ぼそぼそと交わされる声は頭の上から聞こえる。ここはどこだろう。手も足も動かない。眼さえ開かない。 ……災いが……陛下のおらぬ間に 身体が冷たい。湿った匂い。ここはどこだろう。 ……毒は ……まだ…だがこのまま放って ……凶星は消さねば ……殺せ 闇が深くなる。深く深く、飲み込まれていく。底のない凍てつく闇に落ちていく。 怖い。 「どうした……?」 眼を覚ますと、彼が頬に手を触れていた。 熱いものが、眼からこぼれて落ちた。雨の音がしていた。 「辛い夢を見たのか?」 「わたしが……」 彼の腕に抱かれて、ゼクスはようやく震える唇を開いた。 「わたしがエレミアを滅ぼしたんだ。私がオットーやノインを殺した……」 涙がぱたぱたと頬を滑り落ちた。強い腕がゼクスを引き寄せる。温かな胸にじかに抱き締められて、ゼクスは喉を震わせた。 「君の国を滅ぼしたのは私だ。何かを憎むことが必要ならば、私を憎めばいい。自分自身を傷つけてはいけない」 「トレ……ズ……わたしは…呪われているのです……エレミアを滅ぼす…凶星なのだ…と……」 どこで聞いたかも憶えのないその言葉を振り払う為に、幼い日に王位についた時からゼクスは必死で善政を敷き、他国と戦ってきた。だが結果、エレミアはザインに敗北し、ゼクスを最後の王として滅亡したのだ。 「ゼクス」 優しい囁きが耳許に触れた。 「私は占術など信じない。だが、君がその言葉に脅えるなら、私がその呪いを引き受けよう。君の運命を私が吸い取ろう。だからもう、独りで脅えることはない。君が罪や苦しみを感じることはない。私が、いつでも側にいる」 ゼクスはあふれそうな嗚咽をこらえて、強く彼の肩に頬を押し当てた。 救って欲しかったのは、破裂しそうな胸の痛みをすくい上げて欲しかったのは、彼ではなく自分だったのかもしれない。 運命の重責に堪える孤独を誰かに知って欲しかった。それが辛いことなのだと、言って欲しかった。自分を責め立てる得体の知れない何かから、逃れたくてもがいていた自分を、救って欲しかった。 彼の掌が、ゆっくりと髪を撫でる。その優しさに張りつめていたものが溶けていく。唇を震わせていた嗚咽を何度も飲み込んで、ゼクスはぎこちなく顔を上げた。見つめる瑠璃の眸がすぐ側にあった。 「もう泣くことはない」 「トレーズ……」 唇が重なる。ゆっくりと互いの舌を絡めて陶酔を分かち合い、息を継いだゼクスはうっすらと眼を開いた。 口吻けの間にこぼれた涙を、彼の指先が拭う。 再び頬を寄せてくる彼を迎えながら、ゼクスは涙の混じった声で言った。 「私は……どうしたら貴方を救えるのか、判らない」 頬に、唇が触れる。 「側にいてくれるだけでいい」 頬から首筋に掌を滑らせ、彼は言った。 「それだけで、私は救われる」 雨は強さを増して降り続ける。すぅっと胸元を撫で下ろす指先に眼を細め、ゼクスは全身の力を抜いて瞼を閉じた。 雨の降り込める庭の東屋に黒衣の女が佇む。 「ソレル殿」 共も連れず濡れながら歩いてきた老人を、彼女は物憂げに振り向いた。 「お怪我はなさいませんでした?」 「いや。ソレル殿のご助言のお陰で、私は傷一つない。だが、代わりに兵が4人殺られた」 壁に咲き誇る蔓薔薇は、雨に打たれてほとんど匂わない。 ソレルは老人ににこりと微笑んだ。 「運命を変えるには、代償が必要ですもの」 「代償か」 ゼヴィアスは深いしわが刻まれた眉間を険しくした。 「陛下は、あの男の乱行を全て許すと仰せになった。逆に、あの男への手出しは一切許さぬと仰せられる。……あの男が現れてから、陛下は変わってしまわれた」 「いいえ、変わってなどおりませんわ。ゼクス様への接し方が他の者とは違うだけ。陛下にとって、ゼクス様は特別なお方ですもの」 ゼヴィアスは苛立たしげにソレルを睨み付けた。 「そのゼクス・マーキスが、陛下の御身を滅ぼす凶星だというのだろう」 「ええ」 ソレルは微笑んで頷いた。ゼヴィアスは重ねて言う。 「その運命は未だに変わらぬのか」 「変わりませんわ。陛下にとって、ゼクス様は生涯で最も大きな不幸をもたらす凶星。それは、お二人がお生まれになった時から定められた運命なのですから」 ソレルの笑みに妖艶な香が漂う。ゼヴィアスはその笑みには目もくれず、眉を吊り上げた。 「その不幸はいつ、もたらされるのだ」 「あと少し、時はありますが」 「それまでに、あの男を消し去れば良いのだな。代償などいくらでも払って構わぬのだ。事が起こる前に急がねば……」 老人は踵を返し、雨をものともせずに去っていく。 ソレルは頬の笑みを消し、庭を眺めた。銀に光る雨の軌跡が無数に重なり、ヴェールとなって景色を覆い隠していく。この地には珍しい激しい雨だ。荒涼とした荒野も、これで少しは潤うだろう。 ルシュナで流れた血も、清め流されるだろう。ちょうど、かつてのあの殺戮の場と同じように。 ソレルは東屋の窓辺に両腕を乗せて、顔を伏せた。 眠るには、少し強い雨音だった。 |