神の影    4




 数日が過ぎた夜半のことだった。
 不意に夜の静寂を破った喧噪を、ゼクスは自室の寝台で聞いた。木々を吹き抜ける風のように、衛兵達の声が遠くざわめいている。月明かりの中ゼクスが上肢を起こした時、前の間で休んでいたオットーが厚いドレープを割って姿を見せた。
「何の騒ぎだ?」
 声が自然と囁きになる。ひざまづいたオットーは、青白い月光を眸に弾きながら、低く口を開いた。
「侵入者のようです」
 一瞬、ゼクスははっとする。だがザインには敵対する国も、滅ぼされた国も数多い。エレミアの者とは限らない。
 オットーもそれを気にしているようだった。
「私のところにそのような計画は知らされていないのですが、ひょっとして血気に逸った者が単独で行動を起こしたのかもしれません」
「オットー、様子を見てきてくれないか?」
 オットーは首を振った。
「どんな賊が入ったか知れません。陛下をお一人には出来ません」
「自分の身は自分で守れる。それより、もし無茶なことをしている者がいるのなら、なんとしても捕らえられる前に助け出さねば」
 僅かな間逡巡したオットーだが、ゼクスの言葉と、仲間への心配が先行したのか、すぐに頷き立ち上がった。
「……判りました。陛下も、くれぐれもお気を付け下さい」
「ああ。お前もな」
「は」
 オットーは軽く頭を下げると、部屋を出ていった。
 ざわめきは徐々に近づいてきているようだった。 独りになったゼクスは、寝台から出ると夜着のまま窓際に立ち、蒼い光に照らし出された庭を眺め遣った。月の光を浴びて草木の葉が艶やかに輝いている。振り仰ぐと樹上に磨き抜かれた鏡のような月が上がっていた。宵の内は雲に隠されていたのが、風に吹き払われたらしい。上弦が少し欠けた十三夜の月は、射るように光を注いでくる。
 全ての罪を暴くように。
 未だ何の結論も出せずにいる自分の胸の内を見透かされたような思いがして、ゼクスは微かに眼を細めた。
 いずれかの道を選択しなければならないのなら、エレミア王としてのゼクスは迷うことなく反乱を起こすことを選ぶだろう。国王であったゼクスには、エレミアの民に対し、生涯に渡って責任を負うことが課せられている。だが、王位の責務とは関わりないところで、一個人の人間としての感情が、そうすることを未だためらわせている。
    君が側にあることを。
 彼はそう言った。彼はゼクスを望んでいる。王としてではなく、一人の人間としてゼクスを必要としている。その彼を裏切ることに、ゼクスはどうしても踏み切れない。時を経るごとに、彼と言葉を交わし関わっていくごとに、その想いは強くなっていく。
 彼は故国を滅ぼした、憎むべき敵国の皇帝であるというのに。その彼を、自分はエレミアと天秤にかけてさえいる。
 湧き上がる自己嫌悪にたまらず首を振った時、兵士のざわめきが急に近づいた気がして、ゼクスは庭の向こうを見遣った。中庭を挟んだ向かいの棟で、灯りがちらちらと揺れている。侵入者が発見されたのだろうか。眼をこらしたその前を、黒い影が横切った。
 はっとするゼクスの耳に、若い女の声が飛び込んだ。
「ゼクス」
 咄嗟に耳を疑い、直後に腕を伸ばす。懐かしい、耳に馴染んだ声だった。彼女は差し出された腕にすがり、部屋の中に転がり込んだ。
「ノイン! 何故こんなところに……」
 息を弾ませる彼女の肩を抱き、顔を覗き込む。一体どんな危険をくぐり抜けてここまで辿り着いたのか、月明かりに照らされる強ばったその表情は、それでも強い意志を秘めてまっすぐにゼクスを見返した。
 短い髪に、女性としては長身の身体。彼女はゼクスがまだ少年の内に即位してからずっと、近衛隊長を務めていた女性だった。女性でありながら、そしてゼクスと同い年でありながら剣の腕は随一で、彼女の相手が務まるのはエレミアではゼクス以外にはいない。ゼクスの幼友達であり、良き相談相手でもあった。
「陛下!」
 彼女は近衛隊長としての顔で、ゼクスを見上げた。
「お迎えに上がりました。エレミアの民は皆、陛下のご帰還を心待ちにしております。国に戻りましょう」
「ノイン……その為に、君一人でここまで?」
 ノインはきっぱりと頷いた。
「ルシュナまで戻れば、そこからは待機している同志がおります。それまでは私が陛下をお守り致します。さあ」
 まるで疑いもなく、ノインはゼクスの手を引こうとする。彼女はザインとの戦いで捕虜となり、国外に追放されたと聞いた。恐らくその後秘密裏にエレミアに戻り、仲間を集め、国と国王を奪還する為に様々な工作を行ってきたのだろう。それでもなかなか動かないゼクスに業を煮やして、自ら乗り出してきたに違いない。きっと彼女は、脱出に手間取ってゼクスがここに留まっていると思っている。ゼクスの心に迷いが生じているなど、思いもせずに。
「ノイン」
 彼女が振り向く。疑いもなく向けられるその信頼に少しでも背くことは、どんな罪にも勝る大罪なのだろう。ゼクスは軋む胸の痛みを感じながら、彼女のまっすぐな眸を見つめ返した。
 この眸は裏切れない。たとえ何があっても。
「民が望むなら私は責務を果たす。だが、今は少しでいい、時間が欲しい。私には、まだここでやらなければならないことがあるんだ」
「ゼクス……? 何故です? ザインで一体なにを……」
 ノインが暗闇に大きく眼を見開く。ゼクスは微かに頷いた。
 王としての運命を持つ者が、個としての想いなど持ってはならないのだ。彼に決別を告げなければならない。彼の敵として、エレミアの奪還を掲げて反乱を起こすとのだと、彼に伝えなければ。そうしなければ、彼を振りきれないような気がした。
「君は先に戻って待っていてくれ。私は後で必ず戻る。必ず国を再興させる」
 ノインは瞬きもせずゼクスを見つめていたが、しばらくして「判りました」と言った。
「信じております、陛下。必ずお戻り下さい」
「ああ」
 彼女の眸が潤んだようにみえた。
「ずっと、待っていますから」
 不意に、その肩がか細く見えた。ああそうか、と気づく。彼女は女性だったのだ。いくら強くとも、女性がこんな敵陣にたった一人で乗り込んで平静でいられる訳がない。
 華奢な肩に腕を回し、慰めるように軽く叩こうとしたその時、複数の足音が廊下を駆けてくるのが聞こえた。
 目指しているのは多分この部屋だ。ノインの姿が目撃されたのかもしれない。ゼクスは咄嗟に部屋を見回したが、人一人が隠れるような場所はなかった。
「ゼクス、これを」
 ノインはフードの下から剣を抜き出した。
「いざという時、お使い下さい」
 そのまま踵を返し、外へ駆け出そうとする彼女の腕を、ゼクスは慌てて引き留めた。
「待て、ノイン。顔を見られた訳ではないのだろう?」
 ノインにフードを脱ぐように言い、剣と一緒に寝台のシーツの下に押し込んだところに、騒々しい足音がドレープを割って押し寄せてきた。
 ゼクスは咄嗟にノインを抱き寄せた。
「なんの騒ぎだ」
 薄着の彼女の身体の線が、月明かりに浮かび上がる。密会の場に踏み込んだと誤解した兵士達は一瞬唖然とし、直後に困惑と狼狽の顔で同僚と顔を見合わせた。
「も、申し訳ございません。この部屋に賊が入ったのを見たという者がおりまして、ゼクス様の身に万一のことがないかと……」
 本当のところは、賊とゼクスが接触し何事か企てているのではないかと、飛んできたのだろう。ゼクスは不機嫌を装って口を開いた。
「この者は、セジェスタの街の娘だ」
「は……まことに申し訳ありません。不審な者はご覧になられませんでしたか」
「君達の騒ぐ声しか聞いていないな」
 眉を寄せて言うと、兵士らは慌てて退出していった。皇帝がゼクスに過度な待遇を施しているのを知っているのだろう。
 彼らが出ていって、ゼクスはほっと肩から力を抜いた。
「陛下!」
 入れ替わりにオットーが飛び込んでくる。彼も二人の密着した姿を見るなり、ぎょっとした顔で立ち竦んだ。
「ノインだよ、オットー」
 さすがに顔をしかめてゼクスが言うと、ずっとゼクスの胸に顔を埋めていたノインが、くすくすと笑った。それで一旦は気が抜けたようにほぐれたオットーの顔はすぐに引き締まった。
「ノイン様、あれほど自重をと念を押したのに……私を信じて下さらなかったのですか?」
「申し訳ない」
「オットー、ノインを責めるな。元は私の不甲斐なさが原因だ」
 ゼクスはオットーに眼を向けた。
「警備は厳しくなっているのか?」
「はい。ご覧の通り衛兵が宮殿中を走り回っていて、見つからずに脱出するのは至難の業です」
「そうか。だが、ここも安全とは言えない。オットー、ノインのことは私がセジェスタの街から連れてきたことにしてある。済まないがノインを街まで送るふりをして、ルシュナまで護衛してくれ」
 オットーが頷くより早く、ノインが声を上げた。
「私は一人で戻れます」
「一人では危険だ」
「それは、私が女だからですか」
 きついまなざしが見つめてくる。ゼクスは改めて彼女を見直した。彼女はこうして、女であるという障害を蹴散らして近衛隊長の地位にあり続けてきたのだろう。ゼクスは首を振っていたわりのまなざしを向けた。
「今の君の立場に誰が立とうと、私は同じことを言う。これ以上、大切な者達を死なせたくないからだ」
 ノインの闇色の眸が大きく瞠られ、また少し、潤んだように揺れた。
「……ゼクス」
「判ってくれるな」
 ノインは小さく頷いた。
「はい」
「ではすぐに出た方がいいでしょう。あのゼヴィアスの耳に入れば、感づかれるかもしれません」
 再びフードをかぶる彼女に、ゼクスは剣を差し出す。
「持っていった方がいい。何が起きるか判らないのだから」
「いえ」
 ノインは頑なに首を振った。
「これは陛下がお持ち下さい」
「だが」
「自分の身は自分で守れます。ですが、陛下の御身は離れていては守れません。ですからこれは私の代わりに」
 そう言って控えめに微笑んでみせる姿に、ゼクスの胸は再び痛みに軋む。
「……判った。くれぐれも気を付けてくれ」
 そう言うのが精一杯のゼクスに、オットーが声をかける。
「ルシュナならば一日で帰ってこれると思います。それまで、陛下もご身辺にはお気を付け下さい。ゼヴィアスが探りを入れてくるかもしれませんが、私の不在については陛下は何もご存じないということで通して下さい」
「そんなことをすれば、お前の立場はどうなる」
「盗賊に襲われたとか、適当に理由をつけてごまかしますよ。ご心配は要りません」
 オットーは軽やかに笑った。
「では陛下、行って参ります」
 一瞬で険しい顔に戻ったオットーは、素早く廊下を見渡し人気のないことを確認して、ノインと共に宮殿の夜陰に消えた。
 独り取り残されたゼクスは、遣りきれない思いで月明かりに立ち尽くしていた。
 いつの間にか再び現れた雲が、月光を遮る。




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