「ゼクス様のお側に、エレミアの者をお付けになったそうですね」 穏やかな昼下がりの光に包まれて、黒衣の女が微笑む。執務の間のソファにもたれたトレーズは、テラスに佇む彼女を振り向きもせず口を開いた。 「いつもながら、話を聞きつけるのが早いな」 「これでゼクス様も、退屈なお顔をされることはありませんわね。でも、ゼヴィアスが眼をむいていきり立っておりましたわ。エレミアの残存兵が必ず何かを企てると」 ふわり、と風が舞い込んでくる。彼女が部屋に入ってくる気配を感じながら、眼を細めた。 「あの男は、彼のことになると過剰に反応するようだ。再三の私の命にも背くというのであれば、相応の処断を考えなければならないな」 「陛下の御身を思うが故の献身でございましょう。その、建国以前からの忠臣を陛下の私情で罰すれば、臣民に動揺が広がります。それでなくとも、ゼクス様の存在を苦々しく思う者は少なくないのですから。陛下もそれでゼヴィアスの処遇を持て余していらっしゃる。そうではありませんか?」 ソファの背後に回り込んで、トレーズを覗き込む。その長い髪がトレーズの肩にはらはらと落ちかかってくる。トレーズはようやく彼女に視線を向けた。 「全て見通しだな、ソレル。それで君は、私に何を望んでいる?」 優美な微笑を湛えていながら、トレーズの眸は冴え冴えとして熱を持たない。凍った瑠璃の眸の前で、ソレルはさらに身を屈めていきながら、艶やかに微笑み、言った。 「陛下が陛下であらせられることを」 寄せられていく魅惑的な微笑を、トレーズは表情を変えず見返す。 「わたくしは、あるべき姿の陛下が好きですもの。本気を出された陛下の前には、あの雷帝と謳われたエレミア王でさえ敵いませんでしたわ」 トレーズは僅かに口の端を歪めた。 「彼は強い。今少しの経験を積めば、私でも互角以下の戦いを強いられるだろう」 「でもあのお方が陛下と刃を交えることは、もうありませんわ」 彼女のオリーブの眸が深くなる。 「かつて失われたかの星を、陛下は再び手にされたのですから」 トレーズの眸は一瞬、何も映さない無防備な色になり、そして静かに窓の外へと逸らされた。 「 そして、冷淡な声で言う。 「ソレル。彼に余計なことを吹き込むな」 触れ合いそうな位置の唇にそう告げられて、彼女は動ずることもなくくすりと笑って身を退いた。 「かしこまりました。天も地も星も、全ては陛下の御心のままに」 トレーズはもう彼女の存在など忘れたように、窓の外を眺め遣る。そのまなざしが、ふ、と無心に遠くを見るように細められた。 オットーから聞く祖国の現状は、どれも差し迫った反乱を促すものではなかった。旧国全土は戒厳令下の統制を受けており、市街にはいたるところにザイン兵が巡回するという物々しさではあるが、今のところ市井人に対する略奪や暴行などはみられず治安は安定しており、政治面についても、おおむねそれまでのエレミアの制度を引き継ぐ形を取り、特に重税をかけるというような本国との差別化もないという。 捕らえられた王族は、戦死した者以外は皆無事で、彼がゼクスに言及した通り、非道な扱いを受けることなく各所に隔離されているということだった。 彼の行っていることは全く、征服地に対する模範的な統治だった。それに民衆が不平を抱くはずもなく、今のところ暴動の兆しもない。ゼクスさえも素直に感心したくらいだ。大抵はあらゆる物資を略奪し、王宮も街も国もろとも破壊し尽くして廃墟にしてしまうというのに、これほど良心的な征服者というのも珍しい。 これで民が平穏に暮らせるのであれば、エレミアという一つの国の名が滅んだとしても構わないのではないだろうか。ゼクスはまた一つ、矛盾を抱え込む。それでもかつての臣民は自国の王を必要としているのだろうか。戦争を起こし、多くの血を流してまでも、エレミアの誇りを取り戻したいと願うのだろうか。 「ゼクス様」 軽やかな声に、ゼクスは夢から覚めたような思いではっと眼を見開いた。いつかの蔓薔薇の東屋にソレルが微笑んでいた。相変わらずの黒の衣が、今は陽の光を吸い込んで艶やかにみえる。 「せっかく陛下が退屈なさらないように、新しい近侍をお付けになったのに、相変わらず難しいお顔をされていらっしゃるのね」 彼女には妙なところばかり目撃されてしまう。ゼクスは苦笑した。 「……いや、陛下のお気遣いには感謝している」 常に側に控えているオットーは、少し離れた位置で二人の遣り取りを見守っている。 「そんなお美しいお顔を曇らせて、何をお悩みかしら?」 浮かべる彼女の笑みは深い。ゼクスは密やかに背筋を正した。ゼクスが思い悩んでいることを、ソレルに知られる訳にはいかない。ソレルは、私的には最も彼に近づくことのできる人間だ。 「個人的なことだ。悩みというほどのことでもない」 「では陛下にご相談なされたら?」 離れたところに控えるオットーがぴくりと動いた。緊張し始める空気にも無邪気に、ソレルは続ける。 「小さな悩みでも、積もり積もればその重みで心が歪んで、病になってしまうこともありますもの。陛下ならば、ゼクス様のお心を穏やかなものに戻して下さいますわ。行ってごらんなさい。陛下は今、レティア宮にいらっしゃいます」 「レティア宮?」 「このセジェスタ宮の離宮です。街の北外れにありますから、馬を駆ればすぐの場所ですわ」 「私は宮殿から出ることを禁じられている」 ソレルは微笑んで首を振る。 「陛下は貴方の御身に危険が及ぶのを案じておられるだけ。そちらの近侍の方はお強いのでしょう?」 「……ああ」 ソレルは何を微笑んでいるのだろう。なにか解らない感覚が背筋を撫でるのを、ゼクスは感じている。 「レティア宮は静寂の宮殿。住む者も従者もおりません。陛下は今、ただお一人であの宮殿にいらっしゃいますわ」 ソレルの笑みが、また深くなった。 「あの女は何者なのですか」 市街の道を、馬首を並べたオットーが問いかける。 「あれではまるで、こちらを煽っているような口ぶりでしたよ」 「 ゼクスは前を向いたまま、淡々と答えた。 「彼女はいつもああいう話し方をする人だ。気にしなくていい」 「ですが……」 オットーは窺うようにゼクスを見た。 「あの女の言葉にあえて乗るなら、これは絶好の好機ではありませんか? 皇帝が本当に一人ならば、捕らえて……」 「オットー」 強い声で遮っていた。 「私は正当な戦いで捕虜になったのだ。そんな遣り方は相手だけではなく、自分自身をも貶める。道理に背いたことはしたくない」 「卑怯、ですか」 「そうだ」 オットーは片頬で納得がいかないという顔をした。 「ですが、我々には正面からザインと戦うという選択肢はもう選べません。悔しいですが、元々戦力差があった上に、今は兵士の多くが戦死し、砦も兵器庫も全てザインに押さえられています。なにより陛下がこのセジェスタに捕らえられていては、我々に打てる手立ては限られたものしかないのです」 ならば…… 言いかけて、ゼクスは口をつぐんだ。そこまでしてザインに反旗を翻すことはないのではないのか? そう言ってしまうことは臣民の信頼を裏切り、王としての責務を放棄するのと同じことだ。このオットーの強いまなざしを踏みにじることだ。 ゼクスは眉間の痛みを感じて眼を閉じた。 「もう、少し……時間をくれ。考えたい」 そういえば、何故彼に会いに行くのだろう。ソレルに勧められるままに彼の許へ馬を走らせて、この胸の矛盾をうち明けられるはずもないのに、何をしようというのだろう。 こんなことで悩むなど、王であった時には考えられないことだった。亡くなった父の跡を継いで幼いうちに即位してから、民を第一に自国の繁栄と平和を思い、その為に無我夢中で政 を行い、領土を狙う他国と戦ってきた。エレミアの命運と共に生きることが自分の道であり、それだけが絶対だった。それは生涯変わらない決意のはずだった。 馬上に吹く風に甘い草花の香が運ばれてくる。ゼクスは眼を開けた。道の正面に塀に囲まれた、眼に柔らかな緑の森が姿を見せていた。離宮というより広大な庭園のようだ。市街の外には荒涼とした荒れ地が広がるこの地では、緑は権力者の象徴とも言える。 ソレルは無人の宮殿と言っていたが、門の前にはやはり衛兵が立っていた。初めは誰であろうと通すことはできないと門前払いを受けたのだが、名を告げると一転して判断しかねるという顔になった彼らは、難しい顔をしたままゼクスだけを通してくれた。やはりゼクスの、というよりゼクスに対する彼の、態度の評判を耳にしているのだろう。ただし、馬と従者は入れられないという、条件がついていた。 当然、護衛として共をさせろと訴えるオットーに、彼らは門番の顔に戻り、冷たくあしらった。 「この宮殿には、陛下がおられる時は誰も入ることは許されない。誰もおらぬのに、誰がこのお方の身を脅かすというのだ」 「では何故、陛……ゼクス様が馬を降りなければならないのだ」 「陛下でさえも、馬でお乗り入れはされない。ここは清浄な地だ。神聖な廟に足を踏み入れるには、礼を尽くして頂かなければならない」 「廟……?」 衛兵の言葉に、ゼクスは首を傾げた。 そこは至上の楽園だった。 泉が湧き、色とりどりの花が咲き群れ、木々の梢が緑の木陰を作り、小鳥が可憐な歌を奏でる。 確かに人の気配はないが、細部にまで人の手が入れられた美しい庭園だった。この庭を保つ為にどれだけの労力が使われているのだろう。ふと思う。惜しげもなく水と労力を使い、この庭は彼一人が愛でる為に作られているのだ。 それにしても、この広大な庭のどこへ向かえばいいのだろう。ゼクスはとりあえず白い石畳の道を歩いた。長く続く道は幾重にも曲がりくねり、鬱蒼とした梢の隙間から洩れるまばらな緑の光のトンネルを抜けると、一面に咲き誇る花に埋もれて白い石造りの建物が現れた。 離宮というには小さすぎるドームの屋根を、ゼクスは訝しく思いながら歩み寄った。民家ほどの大きさの建物の壁一面に、草花の見事な装飾模様が彫り込まれていた。高度な技術によるものだ。セジェスタ宮のものにも劣らぬ、いや繊細さではそれ以上のものだろう。そこに、造らせた者の強いこだわりや想いのようなものが窺える気がした。 彼はここにいるのだろうか。開かれている透かし模様の扉の奥を何気なく覗き、ゼクスの足はそこで止まった。 天窓から光が差し込む白い部屋の中央で、彼は石造りの長い箱のようなものの前に膝をついていた。青紫のマントを床に流し、細かな細工の施された乳白色の石の蓋に手を触れた彼は、緩く俯いて静かに眼を閉じていた。 眼にした瞬間、見てはいけない光景だと悟った。あれは柩 だ。ここは廟所だったのだ。門番が言った通り、ここは誰も立ち入ってはならない場所だったのだ。 そう思いながらも、ゼクスは何故か彼から眼が離せなかった。彼は本当に静謐な表情をしていた。外のものを何も交えない素顔で、触れた手を通じて柩に語りかけているようだった。普段他人と関わる時の冷徹さからは思いもよらない穏やかさと切なさが混在する横顔に、眼を奪われたまま息が止まりそうになった。 ここにとどまるのは無礼だ。戻ろう 見つめ合ったまま、微かな風がふたりの間をゆるりとつないで流れていく。 彼が微笑んだ唇を開き、囁くような声を紡いだ。 「……ゼクスか」 その声を聞いた途端呪縛が弾け飛んで、ゼクスはようやく声を発した。 「申し訳ありません。覗き見るつもりはなかったのですが……こちらにいらっしゃると聞いて……」 「ソレルの仕業だな」 彼はばつの悪そうなゼクスの表情にくすりと笑って、呼んだ。 「こちらへ」 気を悪くしてはいないらしい。ゼクスはためらいがちに中へ足を踏み入れた。 「君から逢いにきてくれるとは、嬉しいね」 見つめてくる眸の艶に訳もなくうろたえ、眼を伏せる。 「いえ……ご無礼をお許し下さい」 「……頑なだな、相変わらず」 苦笑混じりの溜息がすぐ側で聞こえる。掌の温もりが髪から頬をかすめて、はっと顔を上げた。眼に飛び込んでくる彼の眸が間近で優しく微笑む。彼の目的はゼクスの顔を上げさせることだったらしく、掌はそのままゼクスを離れ降ろされていった。 「私が君を疎んじることはない。もう少し私と、そして君自身とを信じてほしい」 彼は何故、こんなことを言うのだろう。言葉に詰まったゼクスは再び視線を逸らさなければならなくなった。 「……申し訳ありません」 「謝ることなどないと言っているだろう」 「は……」 彼は溜息混じりに笑みを洩らした。 「君を困らせるつもりはないのだがね。これではまるで私が苛めているようだ」 困っているのは事実だと思いながら、ゼクスは俯く。 「そのようなことは……」 「全く、私の周囲は人の言うことを聞かない者ばかりで困る。臣下は私の命に背いて君を亡き者にしようと企て、ソレルは君をこんな場所に連れ出し、君は彼女の言葉に乗せられて街を出歩いている」 前髪を指に絡め取られながら覗き込まれて、ゼクスは顔を跳ね上げた。 「申し訳ありません」 「ここへ来るまで、何事もなかったのか?」 「は……何も……」 「では次からは充分に注意を払った上で、人通りの多い道を選ぶといい。城壁の外や、人の気配のないような場所には近づかないことだ」 それが宮殿の外への外出許可だとは咄嗟に気づかず、きょとんとしたゼクスの表情を見遣って、彼は楽しげに笑い、ゼクスを外へ誘った。さりげなく背に触れた掌に一瞬ぴくりとしたものの、彼がそうすることはごく自然な動作に思え、その温もりから逃げようとは思わなかった。 ほの明るい廟の中から扉を抜けると、眩しいほどの陽の光を浴びて白く色の飛んだ花々が一面咲きこぼれている。微風に漂う甘い香りを吸い込みながら、陽差しに眼が慣れるのを待ち、ゼクスは自然に思ったことを口にした。 「美しい庭園ですね」 彼は眼を細め、静かな笑みを浮かべた。 「この廟所は、私の為に造ったのだよ」 「貴方の? では、あの柩には……」 彼は物憂げに首を振った。 「この花々も緑も泉も、そして廟も、これだけの贅を尽くして手向けたのだと、私自身を慰める為のものなのだ。……何もしてやれずに、死なせてしまったからね」 何気なく穏やかに語る声に、深い想いが滲んでいた。 「ご家族の……御廟所なのですか?」 「いや」 彼が振り向く。 「ただ一人の大切な人だ……この命を引き替えにしても護りたいと思っていた」 凪いだ湖のような眸がゼクスを見つめる。深い悲しみを経て、それを深く秘めた青の結晶の眸だった。まなざしに射抜かれ、ゼクスは再び息苦しさが巡ってくるのを覚えた。胸元を押さえたくなる思いをどうにか遣り過ごす。何故こんなに苦しいのだろう。喘ぎそうになりながら、頭の隅で思う。何故、彼はこんなに苦しくさせるのだろう。 「私は……」 浮かされたように言いかけた頬に影が差し、唇に、ふ、と吐息が触れた。彼の端正な顔が間近に寄せられ、眸の青がその奥さえ覗けそうな位置にある。そう気づいた時には、唇が彼の唇にふさがれていた。 一瞬何が起こったのか判らず、熱い感触を唇に受け止めたゼクスは、刹那に背に回されていた彼の腕の中から、弾かれたように抜け出した。 「な……何をなさるのです!」 唇を拭いながら身構えるゼクスを、彼は真摯なまなざしで見つめた。 「君の他の何者も、君の代わりになることは出来ない。そして君もまた、他の何者の代わりとなることも出来ない。君はこの世にただひとつの存在だ。……たとえ、君が誰であろうと」 彼は何を言っているのだろう。何故彼は、そんな苦しげな眼をしているのだろう。ゼクスには、何故彼がそんな謎掛けのような言葉を口にするのか判らない。 彼の指先が、ゼクスの頬にかかる髪に伸ばされる。 私はなにを、言おうとしていたのだろう。 瑠璃色の眸に封じられ、ゼクスは再び動けなくなる。 「あなたは……なにを……」 腕がそっとゼクスを包んだ。 「君がここにあることを……私が望むのは、それだけだ………」 耳許をかすめる苦しげな囁きを、ゼクスはどうすることも出来ずに受け止めていた。 |