神の影    





 600年余りの歴史を持つ帝国ザインの王朝が変革の動乱に襲われたのは、9年前のことだ。彼は当時15だった。
 前王朝の王家とは、彼は遠い縁戚であったと聞いている。それは系譜を辿ればようやく判る血縁関係であり、当時王家には王太子を始めとして後継者争いが起こるほどの王子や王族男子がいたのだが、腐敗した王政の打倒を掲げて反旗を翻した彼は、その一族全てを残らず捕らえ処刑して、王位を戴き新たな王朝を創始した。古来、権力の争奪に血腥さはつきものとはいうが、彼の場合はその代償としての犠牲も徹底したものであり、自らも王家に連なる家系であった為、自分以外の親族も同様、残らず刀刃に伏したという。
 そこまでの孤独を強いてまで、何故彼が権力を求め人々の頂点に君臨することを望んだのか、ゼクスには判らない。人づてに聞く他国の話は想像の範疇でしか語られない心許ないものであるし、たとえ正確な事実を知ったところで、権力それ自体を欲したことのないゼクスには、到底理解出来ない心理のように思う。
 ただ、残虐な行為には、たとえどんな事情があっても賛同は出来ない。彼がまとめて処刑を命じた王族の中には、生後間もない女の乳児までいたという。
 そんな彼の帝国が西方領土を求めて侵略の手を伸ばしてきた時、ゼクスはためらわず敵対の意志を表明し宣戦を布告した。
 彼の浮かべる笑みは氷の微笑だと、見た者は言う。冷笑する眸の奥には刃が潜み、見る者を貫き凍り付かせるのだと。
 冷徹。無慈悲。温かな感情の欠落した人非人。他人の痛みを知らぬ男。そんな印象しか持ちようのない彼に完膚無きまでに敗北し、生きて囚われの身となったゼクスを、彼は友と呼ぶ。理解者が欲しいと、友を求めていると、その手をゼクスに差し伸べてくる。
 理解出来る訳がない。恐らく彼はゼクスと対極の存在なのだ。永遠に交わることのない存在なのだ。それなのに、何故彼はあんな微笑みを、まなざしを見せたのだろう。
 どこか哀しげにもみえたあの笑みとまなざしには、確かに温もりがあった。決して偽りのものではなかった。それがゼクスを迷いの思考へと誘い込み、退屈な日常の隙間に知らぬ間に想いを巡らせては、我に返って眉をしかめる。
 虜囚としてのゼクスの一日は、そんな風に日がな眉をしかめていなければならないほど、何事もない穏やかなものだった。
 ゼクスが囚監されたザインの王宮は、600年の歴史と繁栄を誇るに相応しい、豪奢で壮麗な宮殿だった。ゼクスのかつての国も東西の街道の中継地として栄えていたが、王宮の規模では負けを認めざるを得ない。しかもこのゼジェスタ宮は本来保養を目的に建造された離宮であり、前王朝の都で9年前の動乱で焼き払われたロジェ宮は、これをさらに上回る規模であったという。
 この広大な宮殿内にいる限りは身の安全と自由が保障されているとはいっても、迷路のような内部を案内なしで歩き回ることが出来ないゼクスにとっては、豪奢な宮殿も監獄と大差はなかった。その上、側には身の回りの世話をする者が数人、常に控えている。何度も暗殺を狙われたゼクスの身辺警護の為もあるのだろうが、同時にそれはゼクスの言動が常に監視されているということでもある。
 目に見えない糸でやんわりと縛られているような、中途半端な自由とも拘束とも呼べる日々を、為すこともなくやり過ごせるほどゼクスは平凡な人生を送ってきたのではなかった。一国の王という激務をこなしていたゼクスには、死ぬか生きるかのぎりぎりの戦場から唐突に広げられたこの白紙のような日常をもてあそぶのは、ただ苦痛でしかなかった。
 自分はこれからどうすべきか。失われた祖国への責務を放棄したまま虜囚に甘んずるのは、許されることなのか。自分自身を切り付けるような深刻な問いを己に突きつけ続けながら、一方で心が疲れて空白になった一瞬に、ふと彼のあの笑みがゼクスの思考を横取りしていたりする。まるで自責の時間から唯一逃れられる彼の訪問を、心待ちにしているかのように。
 そんな自分が嫌だった。




 セジェスタ宮に連れてこられて1週間ほどたった夕刻、王宮に負けず広大な庭園を散策していていつものように眉をひそめたゼクスは、その時くすくすと笑う女の声を耳にし、我に返って声のした方に目を遣った。
 道から少し奥まったところにある、淡い色の蔓薔薇が絡んだ東屋あずまや の、その窓辺に肘を乗せて、黒髪の女がゼクスを見つめていた。
 長く癖のある黒髪に黒衣の女は、じきに暮れようとする薄闇に溶け込みそうにみえた。
「陛下の御心を掻き乱して止まない貴方が、そんな苦瓜を食んだようなお顔で何をお悩みかしら?」
 笑みを含んで見つめる眸はオリーブに似た暗緑色で、その美しさは並のものではなかったが、なによりゼクスを驚かせたのは、この王宮で彼以外にゼクスにそんな気さくな言葉をかける者がいたことだった。虜囚でありながら客人扱いという中途半端な立場のゼクスは、宮廷人からは不躾なほどの好奇の視線を浴びせられ、従者らからはまるではれ物に触るような扱いを受けていたのだ。
「君は?」
 年齢はゼクスより少し上だろうか。
「しがないただの占い師ですわ、ゼクス・マーキス様」
 彼女は頬杖をつきながら、にっこりと微笑んだ。
「名はソレルと申します。何かお悩みなら、占って差し上げましょうか?」
 占いという言葉を聞き、ゼクスは僅かに表情を強ばらせた。
「私は、占いなど……信じない」
「それは残念ですわ。貴方も陛下と同じことをおっしゃるのね」
 気分を害した風もない笑顔の彼女の言葉に、ゼクスは瞬いた。
  「彼も? では何故君は王宮にいることが出来るんだ?」
 トレーズが占いを嫌うなら伝え聞く彼の人柄を考えても、占術師が王宮内を堂々と歩けるとは思えない。暗がりで、ソレルはふっと表情を深くさせた。
「それは陛下が複雑な方で……そしてお淋しい方だからです」
「淋しい……?」
 笑みに誘われるままに、ゼクスは彼女へ歩みを進める。僅かな距離はすぐに埋まり、ゼクスは彼女と東屋の窓越しに向かい合った。蔓薔薇が甘く香り、肘をついて見上げる彼女と重なり合う。
「貴方はご存じでしょう?」
 ゆっくりとソレルが言う。
「貴方は凍てついた陛下の微笑みを、溶かすことが出来た方なのだから」
 ゼクスは戸惑いながら首を振った。
「私には、彼が判らない」
「陛下を知りたいとお思いですの?」
 ソレルの腕がゆっくりと上がり、ゼクスの腕に触れた。そのひんやりと感触にはっとして僅かに身を退く。くすり、とソレルが笑う。
「一つ、手がかりを申し上げましょう。陛下が御心を虚ろにされその微笑みを凍り付かせてしまわれたのは、今から9年前のことです。占術の言葉で申し上げるなら、それはその時陛下の許に大きな不幸の星   凶星が降りたから。陛下が御心をお預けになった存在が失われてしまい、陛下はその後、新たな御心を作ろうとはなさらなかった」
 ソレルはゼクスの反応を求めるように微笑んだまなざしを向ける。ゼクスはきっぱりと言った。
「だから先王朝の王族をことごとく惨殺しても、心が痛まなかったというのか?」
「そう。それはちょうど古びた王家が滅んだ時……哀しいお話でしょう?」
「同情はするが、同意は出来ない」
 ゼクスは堅い視線を返した。
「それは権勢を握る者である以前に、人として、してはならないことだ」
「ゼクス様」
 ソレルが歌うように言った。
「陛下は、初めから人ではありません」
「人でない?」
 唐突な言葉に目を瞠る。彼女は艶やかに笑みを浮かべた。
「陛下は、人の遠く及ばぬ神の化身   天上の神の威光が地上に降りた『神の影』なのですよ」
「……それは彼の軍功を例えた言葉に過ぎないだろう。第一、神の御名を語るとは不敬ではないか」
 ソレルは少女のように、くすくすと笑った。
「潔癖な方なのですね、貴方はやはり」
 笑みをたたえた眸でゼクスを見上げ、立ち上がる。
「陛下の御心を動かすに相応しい方   
 オリーブの眸がずっと近くなる。
「貴方がお知りのようなら、今一つ教えて差し上げましょう。占術とは未来を映す鏡。選び行く道によって、鏡に映る未来は常に姿を変えていくのです。そして運命とは、貴方が選ぶ道筋のこと……」
 ソレルの視線が、ふっと動いた。夕陽の翳りを受けて暗く輝いていた眸から蠱惑的な妖しさが消え、ふわりとした少女の笑みがのぼる。彼女はゼクスの肩越しに会釈した。
「しばらく見ないと思っていたら、ゼクスのところにきていたのか」
 青紫のマントを夕陽の影に染めて、振り向いたそこに彼がいた。亜麻色の髪と頬に太陽の最後の光が煌めいている。鼻梁の通った、端正な顔立ち。涼しげな深い瑠璃色の眸。久しぶりに見た顔だ。3日ほど、会っていない。
「あら   
 ソレルは東屋の入り口を回って、ゼクスの隣に歩み寄ってきていた。
「久しく参上しておりませんでしたのに、ソレルを憶えておいで下さって光栄ですわ、陛下。でも、ゼクス様とお話したのは今日が初めてですのよ。ご心配は要りません」
 彼は薄く苦笑した。
「君はいつでも先回りをし過ぎる」
 言いながらまなざしがゼクスに向けられる。何かが溶けるように、笑みが開いていく。穏やかに。
「何かソレルに吹き込まれたかね? ゼクス」
「……いえ」
 ソレルに思考を掻き回されたままで、軽い動揺が体内を巡っていた。何故か彼をまっすぐに見つめ返すことが出来ずに、ゼクスは目を伏せる。
「食欲がないと聞いたが……少し、顔色が悪いな。どこか悪くしているのか?」
 歩み寄った彼の掌が頬に伸ばされる。触れた瞬間に、はっとして身を退いた。指先にかかっていた髪が細く宙を舞った。
「いえ……なにもありません」
 再び苦笑を洩らし、彼はそれ以上触れようとはしなかった。素振りだけなのかもしれないが、彼はゼクスが何度触れられることを拒んでも、気分を害したような様子は見せない。
 傍らからソレルが口を挟んだ。
「陛下。退屈は身体に毒なのですよ。こんな息の詰まるようなところにゼクス様をお一人で閉じこめておかれては、食欲をなくされるのも当然ですわ」
 ちらり、とソレルに視線が向けられる。彼に仕える者なら、どんな屈強な兵士でも身を竦ませるようないつもの凍った視線だったが、ソレルは一向に気にした風もなく邪気のない笑みを浮かべて二人を見遣っている。
 要らぬ不興がソレルに及ばないようにと、ゼクスは口を開いた。
「私はこの身をエレミアの民の安全と引き換えの人質と思っております。自由など望んではおりません。どうか陛下の御心のままに」
 彼は黙ってゼクスを見つめた。どのくらい見つめられていたのか、まなざしがやがてふわりと和み、薄日のような笑みが浮かんだ。
「随分……残酷なことを言ってくれる」
 その微笑んだ表情がひどく哀しげに見えて、ゼクスは息を詰めた。
 残酷   .
 彼の口から語られた言葉は、動揺を覚えるほどに重くのしかかってきた。
 確かに彼はゼクスを友として迎えたいと言った。だがそれは彼の一方的な言い分だ。ゼクスはそれは出来ないとはっきり否定したのだ。彼との関係は、勝者である支配者と敗者である虜囚以外の何物でもなく、そうでなければ割り切って向き合うことなど出来ない。ゼクスは、彼に膝を屈した亡国の王なのだ。
「私は………」
 貴方の期待には応えられない。そう言おうとしてためらった沈黙を遮られた。
「いいのだよ」
 瑠璃色の眸は、既にいつもの穏やかさに返っていた。
「確かに君の周囲には、いささか配慮が欠けていた。近い内の改善を約束しよう。ただ宮殿の外へでるのは、もうしばらく辛抱してほしい。まだ、君の身の安全は保証しかねるのだよ」
「そのようなご配慮は……」
「君が気にすることではないよ」
 ふ、と微笑みが身体の芯を掴んでいこうとする。そんな絡みつくような視線から後退ろうとする前に、彼は普段のまなざしに変えて優しくいざなった。
「さあ、暗くなってしまう前に戻ろう。今宵は久しぶりに君との夕食が楽しめる」
 謎も迷いも封じ込められてしまうような声音だった。
「まあ、お羨ましい。今までたくさんの淑女が待ち望んでおりましたのに、陛下からのお誘いを頂けたのはゼクス様が初めてですわよ」
 傍らのソレルが、そう言って笑った。




 数日後の朝、一人だけに減らされた身の回りの世話係が挨拶に現れた。その姿を見たゼクスは、思わず立ち上がっていた。
「オットー!?」
「陛下……よく、ご無事で……」
 青年はそれ以上言葉にならない様子で、駆け寄ったゼクスの前に膝を折った。
「オットー、どうしてお前がここに……」
 差し出した手を両手で包み込みながら、オットーは込み上げてくるものを必死で押さえるようにして、ゼクスを見上げた。
「ザイン皇帝の指示で……」
 眼の縁がうっすらと赤くなっていた。
「陛下と共に捕虜になった後、この国に仕えるか、帝国の領土の外へ出るかの選択を問われていたのですが、私は陛下が生きておられるのなら陛下の許にお仕えしたいと何度も嘆願していたのです。それが皇帝の耳に届いたようで、昨日陛下付きの近侍を直々に拝命致しました」
「彼が……」
 ゼクスの周囲を改善すると言った、その言葉を実行したのだろう。だが、まさかかつてのゼクスの側近を近侍に付けるとは。
「本当にご無事で……安堵致しました、陛下……」
「ああ、お前も……私の力が至らぬばかりに、辛い思いをさせてしまった。今更何を言っても仕方ないが、本当に済まない……」
「何を言うのです。誰よりお辛い思いをされているのは陛下ではありませんか。エレミアを滅ぼした皇帝の、囚われの身となっておられる陛下のご胸中は、察するに余りあります」
 そう言ってオットーは、まっすぐにゼクスを見つめながら、声を落とした。
「今しばらくの辛抱です、陛下。周囲の油断の隙を突いて、私が必ず陛下をこのセジェスタからお救い致します」
「オットー、それは駄目だ」
 ゼクスは首を振った。
「私は、エレミアの民の身代わりにここにいるのだ。私が逃げ出せば、エレミアに類が及ぶ」
「陛下のセジェスタ脱出と同時に、エレミアで生き残った仲間が決起する計画が進められています。陛下、エレミアはまだ滅んではおりません。我々の国を、陛下の御国をもう一度、ザインから取り戻すのです」
「決起を……」
 オットーが力強く頷く。
「そうです、陛下。皆が陛下のお帰りを心待ちにしています」
 私は彼に試されているのだろうか。
 王としての責務。故郷への、肉親や支えてくれた者達への思慕。懐かしさや痛みや苦しみが、渦巻く炎のように胸を襲う。
「しかし、ザインと争えば大きな犠牲が出る。民がそれを望むはずがない」
「陛下」
 声を抑えた、だが強い声音が耳を打った。
「我々の王は陛下ただお一人です。エレミア王であられる陛下が生きておられる以上、エレミアの民は誰一人としてザインの支配など認めてはおりません。我々は陛下が治められるエレミアの民であることに、誇りを持っているのです。それは今でも変わりありません」
 臣民がゼクスを支持し決起を求めているとすれば、王であるゼクスにそれを拒む選択などあり得ない。だが、ザインに再び反旗を翻す。それは彼がゼクスに向けた好意に対しても、裏切ることになりはしないか。
 彼の人となりは、ゼクスの中で未だに明確な輪郭を成してはいない。それでも、彼が差し伸べた手だけは、どんな場面でも純粋だったと言い切ることが出来るのだ。初めて逢った時から彼はゼクスに無防備だった。どんなに拒もうと、否定しようと、彼はそれを変えようとしなかった。ゼクスの側にかつての側近を置いたのも、その延長なのだろう。たとえ反乱の因子を近づけることになったとしても、ゼクスは決して裏切らない。そんな一方的で盲目的な信頼に基づいて。
「陛下……」
「少し、考えさせてくれないか」
 オットーから視線を逸らして、ゼクスは窓辺へと歩み寄った。鮮やかに咲き競う花々の上に、穏やかな陽が降り注いでいる。
 まるで束縛のような一方的な信頼など振り切ってしまえばいいものを、それが子供のような純粋さであるが故に、ゼクスには強いためらいがある。『神の影』などと謳われ、畏れられる彼ほどの人物が、そこまで無条件にゼクスに心を許しているのには、ゼクスを友人として認めているだけではない、何らかの理由があるはずだった。例えば、初めて逢った時に彼が呟いた、ゼクスではない誰かの名に関係する、何かが。
 ソレルが言った、9年前の凶星に関わる、何かが。
 不意に凶星という言葉に背筋を撫でられる思いがして、ゼクスは首を振った。
「私は……運命など信じない」
「何か、おっしゃいましたか?」
 不意の呟きを聞き留めて、オットーが問いかける。我に返って振り向いた。
「なんでもない。考え事をしていただけだ」
 そして、表情を改める。
「少し、時間をくれないか。勿論、一国の王としての責務を忘れたことはない。だが、戦いに敗れた私を敵国の王ではなく客人として迎えた、この国の皇帝への恩も、忘れる訳にはいかないのだ」
 例えば、運命として告げられた言葉に選ぶ道を左右されたとすれば、それこそが運命だと人は、占術師は呼ぶのだろうか。
 馬鹿げている。
 決まった未来など、あるはずがない。人の未来を定めるのはその人、ただ一人のみだ。それぞれが自らの望みを抱いて自らの意志で道を選び、そうして未来と呼ばれる現実は創り上げられていくものなのだから。
 オットーはどこまでもまっすぐな眸でゼクスを見つめて言った。
「エレミアの領土と民は陛下のものです。陛下がどんなご判断を下されようと、我々は喜んで従います」
 その純粋さを目の前にして、ゼクスは少し哀しい思いで頷きを返した。
 外の明るい陽差しを浴びたい。そんなことをぼんやりと思った。 




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