神の影 1
かつて大陸の全てを征し、地上における神の影と呼ばれた覇者がいた。 乾いた大地を吹き上げる風に乗って、怒号が聞こえる。 馬の嘶き。絶叫。戦場を駆る男達の、猛々しい気迫の声。大地を揺るがす地響きとなり、それは前線を見下ろす丘陵に立つトレーズの耳に、心地よく響く。 生きている、という現実の証明。戦場に立つたび、常とは確かに異なるこの高揚を、トレーズはそう位置づける。 「陛下」 背後に控えるゼヴィアスの声にトレーズは頷いた。馬上に吹き抜ける風が彼の青紫のマントを翻す。遙かに望む淡い天空は、眩しい陽光に満ち雲一つない。彼の亜麻色の髪が光を受けて黄金に輝き、豪奢な甲冑は射すような光を返した。 それは、彼が双眸に浮かべた微笑のようだった。 トレーズは通る声で、戦場に号令した。 「全軍に進軍を命ずる。速やかにエレミア軍を殲滅 せよ」 戦場を揺るがす、新たな雄叫びが上がった。 伝説の古王になぞらえ、雷帝の再来と呼ばれるエレミアの王は、まだ齢 二十歳を数えないという。だが、戦場におけるその力量は歴代の王を遙かに凌ぎ、彼が王位に就いてから、エレミアはその領土を倍増させ、諸国に名を馳せるようになった。若き王のその治世も、民の信頼を得る公明正大なものと支持され、臣民の忠誠は厚いという。 しかし、そのまっすぐさ故に、彼はトレーズに勝つことが出来ない。 展開する布陣の左右から突然現れた伏兵に挟撃され、隊列を崩したエレミア軍は浮き足だった。そこへ正面に陣を敷いたトレーズ自身の率いる本隊が、陣形を立て直す隙を与えず気に攻勢をかけたのだ。 それでも、これまでの相手ならば一気に総崩れになるところを、エレミア軍は深手を負いながらも、逆にトレーズの本隊を飲み込む捨て身の陣で猛攻撃を仕掛けてきた。 「陛下、お退き下さい。危のうございます!」 ゼヴィアスの嗄れた声が聞こえたが、進撃の勢いのままにトレーズは構わず敵陣に斬り込んだ。遠くから聞くだけだった荒々しい猛りが今は間近につんざき、低く高く地に轟く。それがトレーズを一層高揚させ、楽しいような気分にさせてくれる。生きていることを実感させてくれる。 巧みなさばきで剣を振り下ろし、馬の手綱を引き、敵の刃を受け止めかわす。翳す刃が光を受けてぎらりと光を弾く。人馬が巻き起こす猛りの波動が、乾いた風に生々しい熱を乗せ、眠らせていたトレーズの鼓動を呼び覚ます。 その姿は、敵味方を問わず、戦場に命を賭す者達を畏怖を憶えさせる。 一時は互角の戦況に引き戻したエレミア軍も トレーズの本隊が反撃を迎え撃ったことで、どうにか持ちこたえていた隊列を各個に切り崩されると、敗退一色に状況を転じ、戦意を喪失した者達が追撃を受けながら次々と戦場から落ち延びていく。 トレーズの周囲からも敵は姿を消し、後には既に息絶えたか身動きの出来ない者が地に伏しているだけに変わっていた。 「ご報告申し上げます」 紅のマントを身にまとった近衛兵の一人が、走らせてきた馬を下り、トレーズの馬前に膝を折った。 「エレミア王、他数名の将を捕縛いたしました」 「そうか」 案外早い収束だったな、とトレーズは思う。雷帝が相手ならば、もう少し楽しませてくれるかと思ったのだが。 「敵軍およそ6万は隊列を乱しながら撤退を続けております。もはや戦闘は続行不能と思われますが、追撃はいかがいたしましょうか」 トレーズは彼らの逃げ去った方角を眼を細めて眺め遣った。そこには彼らの、そして今この瞬間からはトレーズの手中に落ちた国がある。 「いや。抵抗出来ぬ者に刃を向ける必要はない。国王は捕らえられ、エレミアは滅びる。……兵に勝利の宣言を」 「は」 物憂げな声に、近衛兵はきびきびと頭を下げ踵を返す。その背にトレーズは声をかけた。 「エレミア王は、ご無事か?」 振り返った近衛兵の顔は、戸惑いの表情を浮かべていた。 「は……、陛下のご指示通り、傷を負わせてはおりませぬが」 「エレミア王とその臣下の者を、賓客として丁重にもてなすように。王宮に戻った後、私が直接お相手する」 近衛兵は納得しかねるのか、怪訝な表情のまま頭を下げた。 「承知致しました」 強い風が頬に吹きつけ、僅かに地を覆う草の緑が千切れそうになびく。乾いた風に混じる生々しい血の臭いに、トレーズはまなざしを遠く馳せた。 空は淡くどこまでも晴れ渡り、荒涼とした殺戮の宴の後をさらしている。 この殺伐とした色のない世界を、かの王の眸はどのように映しているのだろうか。 凍ったこの眸に、彩りを与えてくれるだろうか。 トレーズは微かに微笑んだ。 「陛下」 いつになく荒立てた足取りで近づいてくるゼヴィアスに、トレーズは足を止めずちらりと視線を送る。 「捕虜と対面なさるなど、お止め下され。相手は陛下に恨みを持つ敗国の王なのですぞ。王位を戴く者のなさることではありませぬ」 トレーズは憤るその表情を斜に見遣りながら、口を開いた。 「私の見えぬところで何を動いている? ゼヴィアス」 老臣の片頬にぴくりと緊張の波が走る。トレーズは冷ややかな視線を正面に戻した。 「エレミア王を賓客として迎えよと、私は命じたはずだが。耳に届かなかったか?」 「存じております、陛下。しかし、これは陛下の御身を守る為にございます」 トレーズがエレミア王を無傷で捕らえるよう指示した裏で、ゼヴィアスがそれを妨害するような工作を行ったという報告が上がっていた。そして王が捕虜となった後には、王が王宮に護送されるまでにも、その身辺に二度の暗殺未遂が起きている。 「国も軍も武器すら取り上げられた無力な青年が、私を害することが出来るとでも?」 トレーズは僅かに語気を荒げる。身を包む気配に電磁のようなぴりぴりとしたものが走り、ゼヴィアスはそれ以上追随する足を止めた。 「陛下……!」 その声に悲痛ともとれる響きが込められているのを、トレーズは冷淡なまなざしで切り捨てる。 「私の意志を定めるのは私のみだ。長年仕えてきたお前がそれを知らぬはずがあるまい。それとも、それすら忘れたか?」 客間の扉が重々しく開かれる。 追ってこようとしないゼヴィアスから目前の室内に意識を向け変え、トレーズは明るい光に満ちた大理石造りの客間に足を踏み入れた。 瞬間、言葉が出なかった。 遠い日に幾重にも封じた淡い想い出の輪郭が、今、息を飲むほどの勢いで呼び戻され、吸い寄せられるように目の前の彼に重なった。 庭からの光を浴び、彼は静かに輝いていた。純白を基調に黄金と銀、それに彼の眸を模したような淡青が配された甲冑と衣。そしてプラチナの髪が長く、腰を覆うほどの長さで薄絹のように衣の上を流れている。 彼だ、と思った。彼だ。彼以外に誰がいようか。それともこれは、彼は幻、か? 茫然と立ち尽くすトレーズを、彼は訝しんだようだった。無言で立ち上がり、トレーズに歩を進める。控えていた近衛兵が緊張し、前に出ようとする。その動きに、ようやく声を発した。 「控えろ」 「しかし陛下……」 「しばらく私とエレミア王だけに。お前達は外で待て」 二人の近衛兵は、一層緊張した表情でトレーズを仰いだ。 「陛下の御身に万一のことがあっては……」 彼らを見もせず、トレーズは進言を却下する。 「そのような心配は必要ない」 近衛兵らは否応なく命令に従い、扉が閉ざされると他の者の気配は途絶えた。 「……貴方は、臣下を威圧するのですね」 彼が初めて言葉を発する。耳に心地よい声音と、いかにも彼らしい言葉に、トレーズは笑みを洩らした。その途端、彼は気色ばんだ。 「敵国の王を捕らえて生き恥をさらさせるだけでは足りず、貴公はあざけろうというのか!」 「……いや」 トレーズはこれが現実であること確かめるように、ゆっくりと足を踏み出す。 「君の眸に、私はそのように映るのか?」 警戒の気配を漲らせる彼に、衣の裾が触れ合うほどに歩み寄り、トレーズは間近でその眸を見つめた。 「だとしたなら、それは哀しいことだ……」 どこまでも激しさを失わない、息を飲むほどに美しい淡青の双眸。その刃が胸を貫く。 「私は汚れてしまったのか? だから君には、私が判らないのか?」 「なにを……」 その張りつめた頬に指先を触れる。刹那に、微かな感触を残して、彼が身を退く。その眼が見開き、非難の声が形良い唇から上がる。 「なにをする!」 「君は少しも変わっていない……美しく成長してなお、その潔癖なほどのまっすぐさも、清冽さも、眸の激しさも………」 「私は、貴公と会った憶えなどない!」 間近に見る彼の眸は混乱していた。何を訳の分からないことをと、眸が語っている。偽りではなく。 トレーズは眉を寄せた。 「では……私は夢を見ているのか?」 幻は、こんなにも近く存在するというのに。再び掌を彼の頬に伸ばす。彼は見つめるトレーズの表情に縛られてか、ぴくりと震えはしたものの逃れることはしなかった。 その存在を、温もりを確かめるように掌が頬を包み、髪に触れていく。 「私は、君を失い狂ってしまったのか? ミリアルド」 耳をくすぐるような、声にもならない囁きの催眠に、彼はただ懸命に首を振る。 「……違う、私はエレミアの王、ゼクス・マーキスだ」 トレーズは緩く眼を伏せた。 「それでも君は……君の存在は、ただ一つのものだ………」 「一体……なにを……」 「誰も、君に成り代わることは出来ない。たとえ君が、誰であろうと……私だけが君を見つけ出せる……そうだろう……?」 茫然とただ言葉を受け止めていた彼は、唐突にはっと意識を戻した。唇が触れ合うほど間近にあったトレーズを押しのけ、彼は半ば悲鳴に近い声を発した。 「や…やめてくれ……!」 逃れる彼に、一瞬苦しげな表情を浮かべたトレーズは、一言「そうか」と呟いた後、ふっと笑みを浮かべ、彼を見つめ直した。 「ならばゼクス・マーキス殿。貴公を我が賓客としてもてなそう。この王宮に貴公の身が在る限り、貴公に危険が迫らぬことを明言する」 「何の……為に?」 肩であえぐようにして彼が問う。トレーズは優雅に視線を逸らし、眩しい光の満ちる窓辺へと歩み寄る。 「退屈をしのぐ為……と言えば、貴公の怒りを買うだろうが」 案の定、眉を吊り上げた彼を振り返り、くすり、と笑う。 「貴公と友として迎えたい」 「友……?」 この言葉に、混乱から抜け出した淡青の眸が見る間に険しさを増した。鋭く突き刺す光を帯びて、まっすぐにトレーズを射る。 「敗国の王を友になど……それほど貴公は、勝利の傲慢に酔いしれたいのか」 トレーズはゆっくりと首を振る。 「君はそれほど卑屈な男ではないだろう?」 そして、柔らかなまなざしの手を差し伸べる。 「かつて戦場にある者を震え上がらせたという古代の英雄、雷帝に例えられるエレミアの王ならば、私の乾きを癒すことが出来るのではないか……そう思ったのだよ。私は、私の理解者を欲している。真実の友が得たいのだ」 「私は、貴公の期待には応えられない」 彼はきっぱりと言った。 「膝を屈する相手を、友と呼ぶことなど出来ない。それに……貴公が本当に求めておられるのは、貴公が先程口にした名の者ではないのか? 私は……」 その言葉を遮る。 「君は君だ。誰も君に成り代わることなど出来はしない」 トレーズは同じ言葉を繰り返し、彼に再び歩み寄った。 「時間をかけてもらって構わない。私は急がない。たとえ、君が永遠に私を憎むとしても、私はそれで構わないのだよ。求めているのは君との語らいだ」 「そんな理由で、国と臣下を引き替えにしてまで私を捕らえたのか」 貴石のように輝くプラチナの髪をそっと指先に絡めると、彼は逸らしていた視線を機敏に戻した。激しいその眸を前に、囁くように告げる。 「捕らえた君の部下は、皆無事だ。国におられる王族方も、その身柄の安全は保証している」 先代の王は既に亡いが、彼には母親と年の近い妹がいる。戦場で決定的な敗北を悟った時、配下の将と王族の命を保証するというトレーズ側の交換条件に、彼はわらにもすがる思いで応じ、囚われの身となったのだろう。古来、攻め込まれた国の王族ほど、悲惨な末路を辿るものはない。ましてそれが女性ならば、言葉を逸するほどのあらゆる陵辱が待ち受けている。 うっすらと青ざめた彼の唇が、微かに震えた。 「捕らえられた者のその後は、どうされるおつもりか」 果たせなかった責任の重大さ。護るべき者達への思慕。それが彼を狂おしいまでの不安におとしいれ、凛と冴える眸を容易く揺るがせる。 トレーズはその心根に眼を細めながら、震える彼を包むように髪を撫でた。 「私に従う者は見合う官位を与え、拒む者は我が領土の外で解放する。王族の方々には王宮から出ていただいた後、それぞれに安全な住まいを用意するつもりだ。安心してくれていい」 彼はきつく、眉を寄せた。 「どうか……お願い致します」 責任を放棄することへの自責と、改めて認める敗北の屈辱に焼かれながら。その真摯さは恐らく、彼の生きる姿勢そのものなのだろう。トレーズは胸に込み上げてくるものを感じている。 言葉で表すなら、それを口にするならきっと彼は憤慨するだろう、喜びという感情を、トレーズは目前の彼を抱き締める代わりに、深く己の内に抱き締める。 「そんな他人行儀な言葉は必要ない。君がどう思おうとも、私にとって君は大切な友人なのだよ」 彼だ、と思う。この感触は、彼そのものだと。たとえ彼が否定しようとも、私にとってそれは紛れもない真実だ。 トレーズは笑みを深くした。 |