冬のひだまり 2 そんないきさつで、母親の葬儀が一段落付いた冬、俺は本来の家である 別に実の父親と暮らすことを望んでいた訳でもなかったが、この際、怒鳴り声や剣呑な空気のないあの家以外の場所なら、どこでもよかったのだ。 だが、現実は甘くはなかった。 「お前の弟だ。今日から一緒に住むことになった。仲良くしろよ」 これが、俺を連れて家の扉を開けた親父の、第一声だった。 出迎えた俺と同じくらいの年頃の少年は、切れ長な眼をぽかんと見開いて、親父と俺を交互に見遣った。俺も事前に何も訊かされていなかったから驚いたが、考えてみれば親父に俺以外の子供がいても全然おかしくはない。むしろ、俺の実家と同じような家柄の息子なのだから、体裁を考えれば妻子がいない方が不自然だ。 「……仲良くしろって……どういうことですか」 俺を弟だと紹介したんだから、俺の兄になるのだろう。兄貴は一瞬の衝撃から立ち直ると、親父を見据え、低い声を発した。その剣呑な気配に、俺は内心後退った。 「まさか、俺の他にも子供作ってたってことですか、父さん」 親父はそのただならぬ雰囲気の息子に対して、実ににこやかに答えた。 「まあ、意図して出来た訳でもないが、そういうことだ」 その時俺は、兄貴が、ぶちっ、とキレる音を確かに聞いた。 「ふざけるな!」 耳の鼓膜がびりびりと鳴って、俺は肩を竦めた。 「あんた一体何様だ! 一体遊びで何人振り回せば気が済むんだよ! みんなあんたのおもちゃじゃないんだ。あんたのせいで、どんだけの人間が迷惑こうむってるか、少しでも考えたことがあるのか!!」 「陽海……そんなに興奮すると、血圧が上がるぞ」 「俺は高血圧のじじいじゃねぇっ!」 怒鳴り散らす兄貴と、笑ってそれを受け流す親父を茫然と眺めながら、俺はごくごくささやかな、平和な家庭で静かに暮らす、という願いが見事に粉々に砕けていく音を聞いていた。 とにかく、その当時はまだ親父も息子達に気を遣って家にいる時間が今より長かったから、その日以来、兄貴の怒鳴り声は家の中にしょっちゅう鳴り響いていた。親父はのれんに腕押しとかいうことわざ通りの人間で、兄貴はその態度に余計怒りを煽られてもう取り付くしまもないくらい、顔を合わせるたびに怒り狂っていた。 幸い、兄貴の怒りが直接俺に降りかかることはなかったが、電流が身体の周りにぴりついているかのような兄貴の側に落ち着いていられる訳もなく、引っ越し翌日、俺は早々に庭に避難することにした。 当然ながら、金持ちの家の庭は広い。外に出てもまだ聞こえる罵声から遠ざかるように枯れた木立を抜け、庭の奥へ進む。こんなに俺が静かな暮らしを求めているのに、育った家も本当の家も怒鳴り声が耐えないなんて、ツイてないとかそういうレベルの話じゃない。 実は俺は呪われているんだろうか。そう考えながら突き当たったのは、当時の身長で胸ほどの高さの生け垣だった。今頃紅葉なのか、つやつやした葉っぱが鮮やかな赤に染まっていた。 ここから向こうが隣の家なんだろうか。妙な感じだった。道路に面した他の敷地の端は塀で囲って防犯装置なんかも置いてあるのに、ここだけがこんな低い生け垣で仕切ってあるだけだ。 俺が首をひねっていると、不意に頭の上から声がした。 「君、誰?」 「は?」 慌てて振り仰ぐと、生け垣の向こうのそんなに背丈の高くない常緑樹の梢から、茶色の靴と白い靴下が覗いていた。 生け垣に沿って近づいていくと、足から半ズボンが見え、その膝に分厚い本を広げた少年の顔が見えた。 一瞬女の子かな、と見間違うような顔と華奢な身体つきだった。澄んだ柔らかな眸が俺を見つめ、さらさらの栗色の髪が木漏れ陽を浴びて濡れたように輝いていた。 ちょっと、見とれてしまった。 少年はぱたんと本を閉じると、本を抱えたまま木の幹を器用に降りて、生け垣越しに俺の前に立った。 「もしかして、昨日来たっていう陽海の弟?」 「え? まあ、そうだけど」 「全然似てないけど、やっぱりどっか似てるね」 「……なんだ、それ」 少年の眸の中で光が踊っていた。 「ねえ、名前は? 僕は聡一郎。あ、名字は須賀だよ」 「お隣りさんか」 「うん」 「俺は、光。昨日から鳴滝光になった」 「光……か。綺麗な響きだね」 聡一郎はそう言って、ふわりと微笑んだ。冬のひだまりのような、暖かくて柔らかくて眩しくて、少し儚げな微笑みだった。俺の中で既視感が過ぎる。それは最後に見た、母親のあの微笑みとよく似ていた。 「よろしく……」 光のような笑みにつられて、俺も笑みを浮かべる。胸の奥から、痛いような甘いような、何か温かなものが広がっていた。 思えばこの時、俺は恋に落ちていたのだろう。 丘の上の墓地は、やっぱり冬らしく乾いた切るような風が吹いていた。 寒さに首を竦めながら、3人並んで墓前に手を合わせた後、俺は父親に声をかけた。 「なあ、父さん」 「ん?」 気弱にも見える優しげなまなざしが振り返る。一緒に暮らしていた頃は、この眼が嫌いでロクに視線を合わせることもしなかった。 「俺が腹の中にいるって知ってて……どうして母さんと結婚したんだ?」 譲が俺と父親とをじっと見つめる。罵ったことはあっても、この疑問をぶつけたことは今までなかった。父親は少し意外そうな顔をして、それからふっと眼を細めた。 「香夜子はあの時誰か、頼れる人を必要としてたし……それに、人を愛するのに、条件や理由は必要ないんだよ」 俺は、一瞬ぽかんとして言葉を失った。 「あい…する……あの、母さんを?」 父親は、少し照れくさそうに言った。 「そうだよ」 不思議だった。どこかでその答えを予感していた自分がいたことがもっと不思議だった。父親は、俺を身ごもっていたことも、未だに他の男を想っていることも、体面ばかりを気にするその父親と家も、あの母親の全てを受け入れて、そして愛していた どこに惚れたのかは知らないが、そこまでした男に何故なんて疑問は、愚問なんだろう。 「父さんっ」 譲が父親に飛びついた。 「僕、父さんと母さんの子供で良かった」 「譲……」 振り向いて黒曜石の墓石を見遣る。別にそこに母親の魂が眠っているとは思わないが。 「……俺も、二人の子供でよかったと思うよ」 幸せの定義は色々だろうが、誰かを心から愛することと心から愛されるということは、誰もが望んでもなかなか得られるものではないはずだ。 その二つを得られた母親は、きっと幸せだったのだろう。 「光」 振り返ると、父親が優しく微笑んでいた。 「ありがとう」 「……あ、いや……」 気恥ずかしい空気を吹き払うように、風が頬を叩きながら枯れ葉を空へ巻き上げた。 「さっ……みーよっ!」 寝ぼけていた上に急いで家を出たもんだから、コートもマフラーもなしでの帰り道は極寒だった。冬の日暮れはあっと言う間で、もう辺りは暗い。自転車で風を切って走るのなんかまっぴらだから、のろのろ蛇行運転をしながらようやく家の前まで辿り着く。だが何故か素通りして隣家のドアの前に自転車を止めた。 無性に聡一郎の顔が見たかった。なんだかいろんな感情が胸の中で騒いでいて、聡一郎の顔を見れば、それが治まるような気がしていた。 だが、チャイムを鳴らしても、応答はなかった。 どこかに出かけているんだろうか。考えてみれば、光の都合に合わせて家にいるはずもない。 俺は諦めて自宅へ引き返した。今目撃されたら、肩を落としてとぼとぼ歩いていた、とか言われるんだろうなと思いながら、玄関前に自転車を止めてドアを開ける。 「あ、おかえりー」 エプロンをした聡一郎が居間から出てきて、俺はぎょっとなった。 「あ、れ? 聡?」 「うん。僕だよ」 一瞬混乱した頭に大声が直撃した。 「あーっ、帰ってきた。俺ちゃんと残しといたからな、ケーキ。どうだ、偉いだろう!」 暁が料理用のボールを抱えてばたばたと走ってくる。腕まくりした手や頬の所々が白い。どうやら、抱えているボールに入っているのは小麦粉か何かの粉らしい。 「暁君。やっぱりエプロンした方が良かったんじゃない?」 「へーき、へーき。どうせ洗えば元に戻るしさ」 「……何やってんの、お前ら」 「何って、見りゃ判るだろー。ケーキだよ、ケーキ。俺、こんなのしたことなくてさー。もう楽しくって」 聡一郎はくすくす笑いながら言った。 「暁君がね。光の分のケーキをずーっと眺めててすっごく食べたそうにしてたから、それならいっそ自分で作ったらどうかなっていうことになって」 台所の方から陽海の声が飛んでくる。 「おい、暁! なんだよこの床は。粉だらけじゃねぇか!」 「え、マジ?」 暁が台所に引き返す。そういえば、暁の歩いた足跡が床に点々と白く残っている。 「あれー? 俺、こんなにした憶えないんだけどなぁ」 「お前しか小麦粉触ってねぇだろう。今すぐ片付けろ」 「えー? いいじゃねーか、どうせまた汚れるんだし」 「馬鹿! 汚れが広がるだろうがっ」 台所の会話を聞いて、聡一郎が笑う。 「おもしろいね、あの二人」 俺は玄関の段差で少し目線が上になった聡一郎の首筋に、そっと手を伸ばした。 「……光?」 「やっぱ俺、聡が好きだ」 聡一郎は、今日俺が出かけた理由を知っているから、俺の髪に手を触れ、「おかえり」ともう一度囁いた。 そのまま首筋を引き寄せ、唇を重ねる。 甘く、柔らかな感触。聡一郎との口吻けはいつも俺を目眩に誘う。 華奢な身体を抱き締めてその温もりを感じると、俺の中で騒いでいたものがようやくすぅっと軽くなって消えていくのが判った。 深く吐息する。 この人の、ひだまりのような温もりの笑顔を守っていきたい。すべてを包み込むように愛した、あの父親のように。無邪気に一人の人を愛し続けたあの母親のように。 そう、強く思った。 「光の髪、夜の空気の匂いがする」 聡一郎が無邪気に呟く。 「聡は生クリームの匂いがする」 見つめ合い、二人で笑い合って、それから聡一郎は俺の手を引いた。 「早く上がって。今日はクリスマスパーティなんだよ。光も手伝ってね」 「あ、そうか。今日クリスマスか」 「違うよ、まだクリスマス・イヴ」 台所からは、まだにぎやかな言い争いが続いている。 ああ、そうか。 ふと気が付いた。 ここは全然静かじゃないし、口喧嘩が絶えない兄弟はいるし、父親は滅多に顔を見せないし、母親はいないけど。 いつでもここに帰りたいと思う。おかえりと言ってくれる人がいる、この場所に。 もう、とっくに見つけていたんだな。これが、クリスマスプレゼントだろうか。 聡一郎の背中を見ながら、俺はすごく暖かな気持ちになった。 電話のコールがなって男が受話器を取ると、そこから艶やかなバリトンの声が響いてきた。 『メリークリスマス』 男は苦笑して、側の椅子に腰を下ろした。 「相変わらずクリスマスの挨拶だけは、忘れないな」 『お前だって、いつも必ず自分で電話を取ってくれるじゃないか』 「聡子が取ったら変質者だと思うだろう?」 『言ってくれるよ』 受話器の向こうの声は、楽しげに笑った。 『奥さんは元気にしてるかい?』 「ああ、今日も仕事で遅いんだ」 『そうか』 吐息のような声が耳をくすぐる。艶めいた甘い声。男は眼を細める。 「君のところの息子達は? 元気にしているかい?」 『さっき電話を入れたら、聡一郎君と一緒にパーティーをするそうだ。一番下の息子がはしゃいでいたよ』 「ああ、だからこっちに来たがらなかったんだな、聡一郎は」 『聡一郎君はますます昔のお前に似てきたな。息子達といるところを見ていると、昔のお前と私のことを思い出す』 ワイングラスの水面が揺れるように、鼓動が少し乱れた。 「もう、昔のことだろう?」 『じゃあ、何故毎年お前は、俺からの電話を取ってくれるんだ?』 言葉が出ない。男は眉を寄せた。 「……僕を問いつめてどうしたいんだ、一臣」 『……いや』 吐息のような低い囁き。 『からかってみたくなっただけだよ』 男は軽く溜息をついた。 「タチの悪い性格だな、相変わらず」 『生まれつきなものでね』 楽しげな声が途切れて、沈黙が流れる。男は耳を澄ませた。この受話器の向こうにいる男を、男と共有しているこの時間を感じ取りたいというように。だがそんなことしているうちに、現実がすっと男の脳裏に戻ってくる。 「……それじゃ、もう切るよ」 結局いつも電話を切るのは、自分からだ。 『ああ』 名残惜しさが胸をかすめる。 「じゃあ、またな」 『おやすみ、圭一』 甘く、懐かしい声が耳を満たす。男は眼を閉じた。 「おやすみ……一臣」 通話が切れる。 男はしばらくそうして動かずにいた後、受話器を元に戻した。 ご感想などありましたら、ぽちっとしてくださると嬉しいです→ |