冬のひだまり 1



 冬、という季節は、一体いつからいつまでなんだろう。
 目覚ましのけたたましい叫び声で、頭をぼさぼさにしてむくりと起き上がった俺は、カーテンに縋り付きながら窓の外を眺めて、ぼーっと思った。
 空は霞むような快晴。庭の芝生に金色の光が踊っている。
 眩しさに眼をしばたたせながら、頭をぽりぽり掻く。朝は苦手だ。低血圧なのだ、多分。
 いつもなら、目覚ましごときが1回や2回なったくらいじゃ絶対に起きないポリシーなのだが、今日はそういう訳にはいかない。
「……なんで休みの日に、わざわざ早起きしなけりゃならねーんだ……」
 独りでぶつくさ言いながら制服に着替えて、途中で一回、壁にぶつかりながら階下に降りると、居間の方から大声で言い争う声が響いてきた。朝っぱらからいつものごとく、兄と弟が口喧嘩を繰り広げているらしい。朝だろうが夜だろうが奴らは顔を付き合わせるたび、感心するほどテンションが上がる。
 洗面所で顔を洗い、寝癖を直して、ぱんぱんと顔をはたいた。眠そうな顔が鏡に映っている。いかにもやる気のない顔だ。まあ、めんどくさいことには違いない。
「……なんだかなぁ」
 溜息が出た。
 玄関で靴を履いていると、いつの間に移動したのか台所から暁が出てきて「あれぇ?」と裏返った声を上げた。
「兄貴、なにやってんの? こんな時間に。制服まで着ちゃって」
 こんな時間、とは言ってもごく一般家庭ではそろそろ昼時だ。
「ちょっと用事あってな」
 暁は大きな眼をくりっとさせて、それから悪戯を思いついた子供のように、にやりと凶悪に笑った。
「じゃあ、このケーキいらないんだね」
「は?」
 見れば、確かに手にケーキの箱を持っている。眠気が飛んだ。
「お前っ、それ昨日親父が送ってきたアンティークの!」
 正確に言えば、父、一臣かずおみ がアンティークという有名ケーキ屋に注文して宅配されてきたものだ。
 暁は   2ヶ月しか歳の違わない俺の弟は   幼児のように満面の笑みを浮かべた。
「そう。兄貴がいないんだったら、俺がその分食べよーっと」
「俺がいついらないって言った! 残しとけよ。絶対だぞ! 食べんなよ!!」
「そんなこと言ったってさー、目の前にあったら食べたくなるってのが、人情じゃん」
「てめぇ……食い物の恨み、先に教えといてやろーか」
「うわっ、目ぇ座ってる。こわー」
「何やってるんだ、お前ら。玄関で」
 居間から長身の男が顔を出す。俺も背は低くはないが、それよりさらに6センチ高い兄、陽海はるみ は、呆れたように不肖の弟達を見遣った。
「兄貴、暁見張っといてくれよ。俺の分のケーキまで食べるとか言いやがって、こいつ」
「だって、兄貴出かけるんだったら、どっかで食ってくりゃいいじゃんか」
 陽海は肩の位置にある暁の頭に、ゴンっと無言の拳骨を下した。
「いっ……てぇーっ」
「たかがケーキくらいで、争ってんじゃねぇ」
 俺と暁は同時に声をそろえて反論した。
「たかがケーキじゃねーよ!」
「……なにハモってんだよ。そんなこと言ってる間に、こう 、お前時間大丈夫なのか?」
「あ」
 腕時計を見ると12時を回っている。元々ぎりぎりまで寝ていたから時間の余裕などないのだ。
「やべっ。んじゃ、行ってくるわ。暁、食ったら殺すぞ」
 暁が最後までニヤニヤ笑っていたのが気になったが、俺はとにかく家を出た。
 地下鉄まで自転車を飛ばして電車に駆け込み、ようやくほっと息をつく。時々窓の外を流れていく灯りの筋や、ガラスに映る自分の顔を眺めながら、ふと思った。
 暁が来てから、あの家も随分にぎやかになったな、と。
 暁が来るまでは、家にケーキがあると、甘い物が好きじゃない兄貴の分まで俺が一人で平らげていた。勿論喧嘩にはならなかったし、俺は基本的にもめ事が嫌いだから、二人でいても家の中はいつも平穏、静かなものだった。
 俺が鳴滝家に来る前は、どうだったんだろう。兄貴は毎年この時期になると親父から贈られてくるケーキを、独りで食べていたんだろうか。
 たった独りきりで。



 そういえば、俺にもクリスマスなんて催しは今の家に越してくるまで無縁だった。
 そういうことを真っ先に思いつきそうな母親、というのが俺の育った家には不在だった。いや、いなかったとは言えないが、母親としての役目を完全に放棄した女がいた、というのが正確なところだ。
 毎日のようにヒステリーを起こす奔放な母親と、溺愛する娘を不幸にさせた俺の親父を憎むついでに、俺をゴミ扱いする祖父と、結婚相手の腹の中に別の男の子供がいると知っていて、婿養子に入った義理の父親と、二人の間に出来た、俺とはたね 違いの弟。
 家庭、家というのは、俺の中では戦場と同類だった。
 地下鉄を降りて待ち合わせた喫茶店のドアを開けると、相手は既にコーヒーを飲みながら待っていた。
「あ、来た来た。兄さん久しぶり」
 ちらりと腕時計に目を遣る。1時7分。少し遅れたようだ。
 ゆずる は立ち上がると、仔犬のような嬉しそうな顔で俺のところまで歩いてきた。俺と同じ母親似の明るい髪。明るい色の眼。身長は1年前よりまた伸びている。そっちの方は長身の父親に似て、そのうち俺を抜くかもしれない。
「悪ぃ、待たせたな」
 言って、その後ろから来る長身の男に、軽く頭を下げる。
「お久しぶりです、父さん」
 俺が弟と呼べる人間はこの1年でもう一人増えたが、俺が「父さん」と呼ぶ人間はこの世に独りしかいない。もう一人の呼称は「親父」で充分だからだ。
 義父は眼鏡の奥の少し気の弱そうな眸を和めて、俺に笑いかけた。
「そんな他人行儀な話し方は止めないか、光」
 柔らかな声と物腰。ある意味、この人がいたお陰で、あの家は戦争状態にあり続けていたのかもしれない。俺は曖昧に笑い返す。その反応をどう取ったのか知らないが、義父は「それじゃ、そろそろ母さんのところへ行こうか」と二人の息子の背を押した。



 俺が家庭の異分子だ、ということに気づいたのは、譲が生まれて少し経った頃だったろうか。
 普通、生まれてきた時に家庭に父親と母親がそろっていたら、それが自分の両親だと子供はごく当然のように認識するだろう。だが、俺の場合はそれがなかなか上手くいかなかった。何故なら、母親が俺が生まれたその時から子守歌代わりにこう言い聞かせて育てたからだ。
「貴方は一臣さんの子なのよ」
 眼許が似ている。癖が一緒。爪の形が同じ。そんなたわごとを乳児に囁く母親というのは、やっぱり普通ではないだろう。
 俺の実家は、旧華族だか士族だかのそれなりに体面を気にする家柄で、俺の母親はその一人娘としてひたすら甘やかされて育った。
 それが、大学時代にこともあろうに鳴滝一臣に出会い、あっという間に恋に落ちた。告白された鳴滝一臣の方は、遊びでなら付き合うが、それ以上の関係になるつもりはない、ときっぱり断言した、にも関わらず、娘はそれでも構わないと男にどっぷりのめり込み、そして俺が出来た。
 慌てたのが娘の父親、俺の祖父で、はなから責任など取るつもりのない鳴滝一臣から無理矢理娘を引き離し、体裁を取り繕う為に腹に子供がいる娘に強引に婿を取らせた。別の男の子供が腹にいるのに結婚させる舅も尋常じゃないと思うが、それを知っていてわざわざ婿に入った婿も異常だと思う。
 何故俺がそんなことまで知っているかというと、訊きもしないのに母親がぺらぺら喋ったからだ。しかも繰り返し。
 その話の意味が理解出来るようになった頃には、俺は家に居着かなくなった。弟が生まれて、見事にばらばらだった家族にそれでも血のつながりが出来た時、俺には余所で出来たお荷物、くらいのレッテルしかないこと気づいたのだ。
 祖父や母親が父親に辛く当たるのも、母親が突然ヒステリックになるのも、祖父が俺を毛嫌いするのも、俺が異分子だからだ。
 切実に家を出たいと思っていた。嫌うのも嫌われるのも気力がいる。そんなことに力を注ぐなんて馬鹿げている。大体、異分子であろうとなかろうと、それは俺が望んで選択したことじゃない。そうでなくても、あんなイカれた家にいたくない。
 だが、当時の俺はまだ自立なんて到底出来もしない年齢で、出来ることと言ったら汚い繁華街で、その辺の奴らとつるんでゲーセンに入り浸ったり、ごみごみした人混みを眺めて路上で夜を明かすくらいだった。



 結局何の病気だったのか訊かなかったから知らないままだが、元々病弱だった母親がとうとう入院して、あと数日の命だと宣告された時   相変わらず家出同然で遊び回っていた俺は、探偵まで動員して連れ戻されたのだが   家族一同を枕元に集めた前で、死にかけた母親は泣きじゃくる譲の手を握りながら祖父にこんなことを言った。
「お父様……光を、もう一臣さんのところに戻してあげて」
 俺はその時絶句した。驚いたというより、何を言っているのか咄嗟に飲み込めずに、面食らった。
「光は、一臣さんの子供なのよ。この……沢崎の家にいてはいけないの」
 これを言ったのが、やつれ果てた死にかけの母親じゃなかったら、掴みかかって2、3発見舞っていただろう。 俺には滅多にないことだったが、一瞬で頭に血が駆け上って、身体が震えて眼が眩んだ。こいつはこの期に及んでまだ何を言っているんだろう。沢崎の家の子じゃない? だったら、俺が生まれてから今までは何だったんだ? 何の為に、こんな思いをして、こんな最悪の家庭で暮らしてきたんだ。全部あんたのワガママで終わるのか。そんな一言で済むことなのか。戻すとか戻さないとか、俺はそんな物扱いで済む存在なのか。
 よほど凄い形相をしていたはずなのだが、その時母親は俺を見て、見たこともないほど優しく微笑んで言った。
「ごめんなさいね、光。あんまり一臣さんのことが好きだったから、貴方をずっと手放せなかったの。貴方があんまり一臣さんに似ていて……あんまり可愛かったから」
 限界だった。身体中が沸騰して中から破裂しそうだった。俺は病室を飛び出した。譲や父親の声がしたが、振り返らなかった。だから後がどうなったのかは知らない。
 廊下と階段を駆け下り、入り口でのんびりと開きかけた自動ドアを、ぶつかりそうになりながら両手で押し開け、心臓が爆発するんじゃないかと思うほど闇雲に全力疾走した。涙と嗚咽で息が詰まって、苦しくて、結局歩道の端っこに倒れるようにしゃがみ込んだ。悔しいんだか悲しいんだか怒りなんだか、訳の分からない感情が突き上げてきて、涙が出てきて仕方なかった。
 後で我に返った時に、全然知らない道だということに気づいて、家まで帰るのに苦労したほどだ。
 母親は、その次の日亡くなった。





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