HONEY HONEY DAYS

1.

  ほおづえをついて歌番組を見ていると、ちょうど僕が見たかった歌手が歌い出したところで、声がかかった。
「歩さん、コーヒー飲む?」
「うん」と生返事で答える。彼女の1年ぶりの新曲が今夜初披露だと聞いて、昨日から楽しみにしていたのだ。
 キッチンからの声はまだ続く。
「砂糖は?」
「いつもと一緒でいい」
「クリープは?」
「適当でいい」
 話している間の歌詞が聞き取れなかった。僕は顔をしかめながら、テレビに集中しなおす。
 曲がサビに入ったところで、裕也がマグカップを二つ持ってテーブルに戻ってきた。目の前にカップを置かれても知らん顔でテレビを凝視していると、「なあなあ」と再び声がかけられた。
「歩さん、この人好きなの?」
「うん」
「なんか意外だなぁ。歩さんってこういう感じが好みなんだ?」
 容姿より歌が好きで聴いているのだが、もう答える気にもならない。
「なんかさー、最近の芸能人って、かわいいけどなんかみんな似たような顔してない? 個性がないっていうか、メイクの仕方が一緒だとああなるのかな。技術が進歩するのもいいけどさ、怖いよな。化粧落としたら別人になられてもさ……」
 忍耐が限界点を軽く突破する。僕はとうとう画面から眼を離して振り返り、彼を睨み付けた。
「うるさいよ! 聞こえねーだろっ!」
 目を丸くした裕也は、すぐに拗ねた表情に顔を切り替えた。
「なんだよー。最近歩さん、冷てー」
「冷たいとか、そんなの関係ないだろっ、人が真剣に曲聴いてるのに、なんで横からごちゃごちゃ口出しすんだよ!」
「だって歩さん、人の話聞いてくんねーし」
 これじゃせっかくのバラードが台無しだ。僕は耳を塞ぎたい気分でテレビに向き直った。せっかく綺麗な声で歌い上げていても、自分の頭がイライラしているから、全然気分が入っていけない。
 イライラしたまま曲が終わり、歌い終わって満足げな歌手の顔をアップに、番組がCMに入る。一人取り残されてしまった僕は、改めて不愉快の元凶を睨み付けた。僕の怒りをよそに、裕也はのほほんとコーヒーを飲んでいた。
「裕也」
「ん?」
「お前のせいで、全然聴けなかったじゃないかっ」
「そんな怒るなよ。いいじゃん、CD買ったら」
 まったく他人事のようなその物言いに、ぷち、と頭の中で我慢の糸が切れた。
「お前……」
 僕は握りこぶしでテーブルを、ダン、とついた。
「お前なんか、大嫌いだ!」



 昼時の学食は席を確保するのも一苦労だ。空腹の学生が殺到するさして広くもない食堂は、並の騒々しさではない。
 その騒がしさを押しのけるくらいの声で、森里が笑った。
 向かい合っていた僕は、思わず赤くなる。
「な、なんでそんなに笑うんだよぉ」
「だって、お前……」
「森里も、僕があの歌手好きだっていうの知ってるだろ? 1年ぶりの新曲だったんだぜ。なのに、思いっきり邪魔されて、怒るの当然だろ?」
「で、大っ嫌いってか?」
 まだ笑いながら、森里がうどんのどんぶりに箸を戻した。うどんとご飯がセットになった定食。なぜ炭水化物同士を一緒に食べたいと思うのか、そんな定食が出来たのか、僕にはナゾだ。
「それじゃあ、まるっきり結婚3年目の夫婦じゃねーか」
「夫婦……っ」
 僕は言葉を詰まらせる。森里は僕の内心に気づくはずもなく、おかしそうに笑った。
「あいつ、よっぽどお前に構ってほしいんだな。お前、好かれてるんだよ。よかったな」
「よ、よくないよ……」
 事情を知らない森里の無邪気な言葉は、いちいち僕の心臓を飛び跳ねさせる。別に後ろめたい訳ではないけれど、やっぱり森里には知られたくない。
 森里は、僕の特別な人だから。
「それにしてもお前、『大っ嫌い』って、幼稚園児のケンカじゃねぇんだから。お前らお似合いだな。男同士でなに仲良くやってんだか」
 あっけらかんと笑って、うどんをすする。
 僕は赤くなってうつむいた。やっぱり言うんじゃなかったと、後悔がぐるぐる巡る。今はもう恋愛感情はないけれど、森里に裕也のことで笑われるのはやっぱりショックだ。
 恥ずかしさに比例して、ムカムカと怒りが込み上げてくる。
 裕也のせいだ。
 あいつが、いつもいつもべたべた僕にまとわりついてくるから。
「お前、食べねーの?」
 森里に目の前のカツ丼を箸で指されるまで、僕はテーブルの下で怒りに震えて握りこぶしをにぎっていた。



 最初は全く気にならなかった。
 出逢った頃、僕は精神的にも随分弱っていたし、だから裕也の気遣いや手の感触やかけてくれる言葉が、いちいちとても嬉しかった。
 でもそれが1年も続くといい加減鬱陶しく思えてくるのは、やっぱり馴れ、なんだろうか?
 バイト先の友達に誘われて、バイトが終わった後、数人でカラオケに行った。いつもなら、遅くなる時は裕也に電話を入れるのだが、わざとそれをしないで歌いまくった。
 よく考えたら、講義とバイト以外のほとんどの時間は、裕也とずっと一緒にいるのだ。イライラする訳だ。
 結局、盛り上がって時間延長でさらに歌って、アパートに帰る頃には日付が変わっていた。
 さすがに怒っているだろうと思いながら玄関のドアを開けると、部屋には電気が点いていなかった。
「あれ?」
 思わず声がもれた。予想もしていない光景だった。心配顔の裕也が飛び出してくるかと思ったのに。
「裕也?」
 暗闇に呼んでみたが、返事はない。手探りでスイッチを点けると、眼に痛いほど白い蛍光灯に照らされたワンルームの部屋には誰もいなかった。
 僕はとりあえずドアの鍵をかけ、部屋に上がった。ぐるりと部屋を見回す。隅に転がったクッションも、片方裏返しのスリッパも、テーブルの上に広げっぱなしの雑誌も、今朝部屋を出た時のままの状態だった。
「どこ、行ったんだろ……」
 今日はバイトも6時で終わりだし、どこかへ行く予定も聞いてない。何かあったとしたって、こんな真夜中まで出歩くのなら、裕也ならいつもは必ず携帯に連絡を入れてくる。
 携帯は鳴らなかった。ポケットから取り出してみる。やっぱり着信履歴は残っていない。
 僕は壁際のクッションを拾い上げ、それを抱えてずるずると座り込んだ。
 部屋が随分広く見えた。空気が冷たくて、しんとしていて、ひどくよそよそしかった。まるで、見知らぬ場所のようだ。
 昔の、底冷えのするような感覚が蘇ってきて、僕はがかすかに身震いした。こんな風に部屋をただ眺めていたことが、何度あっただろう。訪ねてきてくれた森里が帰った後、いつも、こんなに部屋が広かっただろうかと、ぼんやり動けずにいた。
 ああ。出ていったのかな。
 一番最悪の事態をまず思い浮かべる。それ以上悪い事態にはなりようがないことを思っていれば、下手な期待をしてこれ以上落胆することもない。僕がロクに彼の相手もしないで冷たい態度ばかり取っていたから、嫌気がさして出ていったんだ。
 僕が怒ったから。
 そのくらいで……昨日彼に怒鳴ったことを思い出し、不意にムカムカと怒りが込み上げる。
 たったあれくらいで、なんだよ。いつものことじゃないか。そんなことを間に受けて出ていくなんて、ひどい報復じゃないか。
「別に、裕也なんかいなくたって……」
 口に出して呟いてみた。がらんとした部屋に思ったより大きく呟きが聞こえて、消えた。
 クッションを抱える腕に力を込める。その上に顔を伏せた。
 裕也なんか、最初からいなければよかった。初めから一人なら、こんな独りの部屋に怯えることなんかなかったのに。部屋の広さに虚しくて寂しいと、ただそう感じただけのはずだったのに。
「裕也の、バカ野郎」
 声がもれないよう、クッションに顔を押しつけ、呟く。
 どうしてこんなに僕を不安にさせるんだ。側にいさせてくれって、あの時言ったじゃないか。僕がずっと笑ってられるようにしてくれるって。
 ずしんと冷たいものが胃に詰まっているように、身体が重い。吐き気がする。目眩がする錯覚に、きつく眼を閉じ、身体を縮こまらせた。
 静まりかえった室内に、低く地鳴りのような冷蔵庫のモーター音が鳴り始める。
 嘘つき。嘘つき野郎。
 そう繰り返すことすら彼への甘えなのだと、嫌になるほど分かり切っていても、不安に押しつぶされそうな僕にはそれを止めることが出来なかった。



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