クリスマスイヴ前日の街は、普段より1.5倍ほど混み合っていた。 どこもかしこも緑と赤とジングルベルでやかましい雑踏を、俺は店の飾り付けの前で立ち止まりがちな人の隙間をぬって歩いていた。 家を出た時よりも頭上の雲は暗くたれ込めて、肌寒さが増しているような気がする。天気予報だと昼過ぎから雪が降り始めると言っていた。目的のCDを買ったら、寄り道しないでさっさと帰った方がよさそうだ。 吐く息を白くさせながら両手をポケットに突っ込み、大股で人混みを掻き分けながら目当てのレコード店に入ると、店内の暖房が強ばった頬をやんわりと迎えた。 ほっと息をつきながら新譜の棚を眼で探す。その時、俺はその場で固まった。 新譜が積まれた平台の前で、三沢と、同じくらいの歳の女が親しげに笑っていた。 長い綺麗な黒髪に白い肌。笑い方も控えめで上品で、ほっそりとした美人だった。 そこまで確認してしまってから、俺はようやく2人から眼を離し店を出た。 確かに美人だった。本物のお嬢様だと一目見てすぐに分かった。 だけど今日はまだクリスマスじゃない。どうしてこんなところに2人でいるんだ。どうして俺に見せつけるんだ。 いつか別れるかもしれない恋人なんかじゃなく、結婚やその先まで決まっている婚約者だなんて、どうして 俺は闇雲に歩いた。どこをどう歩いたのもかも分からない。気がつくと見慣れたアパートの前にきていた。 彼の部屋がある3階をちょっと見上げ、俺は足を引きずり踵を返した。 何故、こんなところにきたのだろう。抱いて欲しいとでも思ったのだろうか、外村に。 自分の浅ましさに身震いする。眼にとまった近くの公園に入り、ベンチに座り込んだ。歩き通しで身体が疲れていた。とてつもなく重いものが頭の上からのしかかってきているように、身体がベンチに押しつけられる。 冷たいものがひやりと首筋を撫で、俺はのろのろと顔を上げた。 灰色で覆い尽くされた空から、無数の雪が舞い落ちてきていた。 身体の上に積もる雪の音が止んだのは、携帯を折りたたんで数分後だった。 顔を上げると外村が俺に傘をさしかけていた。 「風邪引くぞ、こんなところにいたら」 自分で呼び出しておいて、俺は少しの間傘を差し出す外村をぼんやりと見上げていた。 「拓? どうした?」 尋ねられても、答えられることなどない。 「とにかく俺の部屋に行こうぜ。お前ずぶ濡れだぞ」 外村が俺の頭や肩の溶けかかった雪を払い落とす。俺は無言で首を振った。俺の僅かな表情の変化を見取ったのか、外村は何も言わず傘をたたむと俺の隣の雪をどけて腰を下ろした。 雪の降り積もる音だけが淡々と無数に続く。俺は俯いてその音を聞いていた。 不意に、外村の腕が俺の肩を抱き込んだ。引き寄せられて、抵抗する間もなくその胸に抱き留められる。 強い力だった。 「拓」 いつもの、落ち着いた低い声がした。 「泣きたい時くらい、泣いとけよ」 心の奥で何かが壊れた。不意に、思いもしない震えが身体の底から這い上がってきて、俺は為す術なく呻いた。押さえようとする意思をあっさり乗り越え、嗚咽が溢れ出す。 外村の胸に頭を預けたまま、泣いた。 身体を打ち付ける雪の音が遠ざかる。 情けないとか、みっともないとか、そんなことを思う隙間もないくらい、肩と頭を抱いてくれる外村の手は、温かかった。 * * * さっきまで止んでいた雪がまた降り出して、俺は窓の外に眼を遣った。 昨日から急に冷え込みが増して、今はまだ昼間だというのに上空に居座った雪雲がどんよりと外を暗くさせている。それでも、まだ本格的に積もるまではいかないから、ホワイトクリスマスを待ち望んでいる奴らは大喜びだろう。 ふと、昨日の、まるで自分を罰するように雪に打たれていた、彼の姿を思った。 「なあ、亨。お前昨日都ちゃんと会ってたか?」 ソファで雑誌を読んでいた亨が振り返る。 「ああ、都が買い物したいって言うから付き合ったけど。どうかしたか?」 「いーや。相変わらず仲いいねー、お前ら」 「まあね」 こういう返事を嫌味もなくさらっと返してくるのが三沢亨という男だ。俺は窓の外を眺めるのをやめて、ベッドに寝転がった。 「お前はどうなんだ?」 亨の声が頭の上から聞こえてくる。 「んー?」 「葛城とうまくやってるのか?」 「うまくも何も……俺達は別に何か関係がある訳じゃないぜ」 「けど、お前らよく会ってるんだろ?」 「会ってセックスしてるだけだけどな」 亨が顔をしかめるのが、見なくても分かる。 「蒼慈」 俺はくすりと笑った。 「そんな言い方するなよ。お前……それでいいのか?」 「別に。面倒なのは嫌いだし。あいつが手に入れば、それでいい」 「蒼慈」 寝転がった俺の視界に、亨の顔がぬっと現れた。今は真面目な優等生は、生真面目なお説教顔で俺を見下ろす。 「自分のことだろう。なんでもっと真剣にならないんだよ。そんなんじゃお前、葛城に誤解されるぞ。いいのかよ」 「変に意識されるよりはいい」 亨の睨み攻撃が止みそうになくて、俺は仕方なく起きあがった。 「あいつは今だって自分のことだけで手一杯なんだから、俺のことまで押しつけたらパニクって固まんだろ? だから今はこれでいーんだよ。逃げられちゃ元も子もない」 ま、いずれモノにするけどな。そう言うと、亨はようやく呆れた顔でソファに戻った。 「俺には分からないな、そういうの」 「お前は直情型だからな。欲しいと思ったら、ダダこねる子供と一緒だ」 その直情型の性格で、中学時代は俺とつるんでかなり荒れた学校生活を送っていたのだ。こいつが学校一の問題児だったなんて、亨を白馬の王子様みたいに思っている拓が聞いたら、さぞ絶句するだろうが。 亨がムスッとする。 「悪かったな。俺はお前みたいにひねくれてないだけだ」 大人びた顔を台無しにして拗ねるその表情に笑いながら、俺はベッドを下りた。 「コーヒー淹れるけど飲むか?」 「飲む」 キッチンに立ってヤカンを火にかけながら、ふと思う。俺が今みたいなひねくれた人間になったのは、亨とつるんで実家を追い出されるほど遊び回っていたそもそもの原因は、そこでふくれている亨なのだ。 亨が俺の親友でなければ、それほどに近しい存在でなければ、俺は何も悩むことなくその婚約者を自分のものにしようとしただろうから。 だから拓が亨を見るその姿に、もしかしたら俺は自分の姿を重ねたのかもしれない。離れたところから見つめ続けるしかないその想いの痛みが伝わるから、俺は拓に惹かれたのかもしれない。 勿論、それだけで彼を手に入れたいと思ったのではないが。 触れたその感触を思い出して、不意に身体が疼いた。ここしばらく抱いていない。昨日は結局何もしないからと言い含めてここまで連れ帰り、シャワーと着替えだけさせて帰しただけだった。 ヤカンがしゅんしゅんと鳴って我に返る。火を止めてコーヒー豆の缶を開け、そこで中身が切れていたことに気付いた。 当然、 「これ、コーヒーか?」 差し出したカップを覗き込んで、亨は眉間を寄せた。お茶の家元だけあって、飲み物にはうるさいのだ。 俺はとぼけて答える。 「いや。どーみてもココアだろ」 「コーヒーは?」 「豆が切れた」 「またかよ。で、なんでお前ん家にココアがあるんだ?」 「拓専用。俺は飲まない」 「だよな……ておい、これお湯に溶かしただろ」 「悪かったか?」 「これじゃ、自販機のココアじゃないかよ。ミルクはどうしたんだ」 「昨日、拓が飲んだ」 「なくなったら買っとけよー」 「文句言うなら飲まなくていいぞ」 「そんなこと言ったって、他に何もないんだろ」 ぶつぶつ文句を言いながらも、俺の前の緑茶には目もくれずに、苦々しげにカップに口をつける。飲み物にはうるさいくせに、家で散々飲んでいるからと言って、亨は抹茶に限らず日本茶全般を絶対に口にしない。本当は今でも、家業を継がされることに納得していないのかもしれない。 嫌々ココアを飲みながら、唐突に亨が言った。 「あれ? じゃあ昨日、葛城来てたのか」 「ああ」 「昨日都とお前ん家行こうかって話してたんだけど、やっぱり来なくてよかったな」 「別に何もしてねーよ、昨日は」 2人で押しかけられたら、拓があれ以上どうなっていたか分かったものではないが。 「何もしないって、お前が?」 「人をレイプ魔みたいに言うなよ」 溜息をついた。 「泣いてる奴に襲いかかるほど節操なしじゃねーよ、俺は」 亨がじっと無言で促す。俺は続けた。 「あいつもあいつで色々あんだよ。あいつも片思いだからな」 「そうか……大変だな、お前も葛城も」 その片思いの相手が誰なのか、亨は知らない。 「別に俺は大変じゃねーよ。充分目的は達成されてる訳だし」 「そうなのか?」 「身体だけの関係でも、一番あいつに近いポジション確保出来るんなら、あいつが泣きたい時に側にいてやれる。それで充分、元は取れてる」 亨は一呼吸分、黙った。 「……お前、本気で葛城のこと、好きなんだな」 ストレートな言葉に一瞬きょとんとする。そんなに俺は純愛を演じているのだろうか? 一瞬考えて、結局にやりと笑ってみせた。 「そ。俺、本気で愛しちゃってるの」 でなければ、きっと、こんな茶番はやってられない。 俺の発言に亨が笑う。 「けど、葛城の好きな相手って、どんな奴なんだろうな」 何を言い出すかと思えば。いきなりの言葉に俺はどきっとした。 「葛城みたいな奴に好かれるんだから、いい奴なんだろうな。お前見てても思うけどさ、それだけ一途に想われたら、想われた方もきっと幸せだよ」 亨の鈍さには、つくづく拓も俺も救われている、と思う。俺は少し脱力しながら笑った。 「……まあ、そうだな」 こんな奴だから、拓はこいつが好きなんだろう。俺がこいつの親友を辞められなかったように。 亨が訊く。 「明日は葛城と過ごすのか?」 「さあ。お前らみたいにクリスマスだイヴだって騒ぐつもりもないけど。……あいつは独りにしとくと、またくだらないことうだうだ考えてそうだからな」 誰をどんな風に好きになろうと、何の罪もないし、誰も罰を与えられない。自分自身が勝手に悩むだけだ。 あいつもそれを悟れば、少しは楽になれるのに。 外の雪が一段を激しく降りしきっている。明日には積もるかもしれない。そうしたら拓を迎えに行こうか。せっかくのクリスマスの雪を、痛みの記憶にしないように。 降り積もる雪のように、俺が新しく塗り替えてやればいい。 そしていつか、あいつの想いを全部俺で埋めてやる。 何も知らない恋敵を見遣り、俺は挑戦的に笑ってみせた。 FIN. |