「拓」 二人きりになると、外村は俺を下の名前で呼ぶ。 「まだ服着るのは早い」 気怠さをなんとか押し退けて起きあがったところへ声がかかり、俺は顔をしかめた。 「まだ足りないって言うのかよ」 外村はベッドに肘をついて半分だけ上肢を起こし、ニヤニヤと俺を見遣っている。モデルのスカウトに声をかけられるほどの端正な顔立ちだが、そうやって笑うと俺には嫌悪感しか与えない。 「お前ばっかいい思いしといて、ヤリ逃げはないだろ」 「誰がヤリ逃げだよ。やったのはそっちだろっ」 外村の腕が伸びてくる。俺の憤慨を溶かすように、やんわりと。 「でもお前が誘ったんだぜ?」 耳許に触れる声。起きあがった外村の胸が背に触れる。せっかく離れた温もりがまた戻ってくる。 「誘ってねぇよ」 語気が薄れる。 「散々やっただろう。もういいじゃねぇか」 「俺はまだ満足してない」 身体の奥に吹き込むような、吐息をはらんだ甘い声。耳朶から全身に官能的な痺れが突っ切る。 どうしてだろう、この男に逆らえないのは。 外村は抵抗できないように俺の両手をやんわりと戒めながら、耳朶を甘噛みし舌を這わせた。 「っあ……」 身体がぴくりと跳ね、思わず声が零れる。 「やめろよ、もう……いや…だ………っ」 「身体はまだ足りないって、言ってるぜ、拓」 「ちが……あっ……くっ」 外村は俺の片手を掴んだまま、片手を胸に這わせてきた。俺が敏感なことを知っていて、ゆっくりと執拗に胸の突起を弄ぶ。 抵抗が、あっけなく溶かされていく。さっきまであれだけ狂わされたというのに、疲れているはずの身体は嫌気が差すほど正直だ。 外村の手が顎に触れた。上向かされて眼が合う。いつもふざけたことしか言わない、斜に構えた双眸が、今はずっと柔らかく見えた。何故だろう。錯覚だろうか。 唇が重なる。俺は眼を閉じる。互いに貪るように絡ませ合いながら、俺の中にいつもの幻影が湧き起こる。 流されそうになって、首を振った。 外村は唇を離し、そのまま無言で俺をベッドにうずくまらせ、腰を上げさせる。 「う…あっ……ああっ!」 外村が入ってくる。すっかり潤んで馴れてしまっている身体は、その熱と圧迫感にただ歓喜する。 「拓……」 熱い息が耳と頬に触れる。ぞくりとするほど、甘い声。俺の身体は一気に張り詰める。必死で首を振った。違う、違う…… 外村は俺の身体を抱き締めながら、腰を動かし始めた。 「……外…村……そとむ…ら……」 破裂しそうな熱が身体中を駆け回る。俺は何度も外村の名を呼んだ。そうしないと、他の名前を呼んでしまいそうだった。 苦しさに胸がつまる。自分は一体何をしているのか。そんな嘲りさえ押し流して、求めた快楽に俺は溺れていく。焼けるような苦しさに、もがきながら。 「はぁ…ああ……ああっ!」 昇りつめた熱が弾ける。深く入り込む外村を感じながら、俺はベッドに倒れ込んだ。 外村蒼慈 とただの友達ではあり得ない関係に陥ったのは、半年ほど前からだった。 その日、部活の終わりにコートのモップがけをしようとして、俺は疲れ混じりにモップを杖が代わりに、コートの端で三沢達がふざけているのを眺めていた。 外村が同じようにモップを持って側に立ったのは分かっていたが、それでも構わずにぼんやりしていた。 「なあ、葛城」 「んー?」 外村は世間話でもするように、いつものトーンで言った。 「お前、男に興味ある?」 一瞬思考が止まった。 「……は?」 俺は外村を振り返った。外村は本当に何でもない話をしているような顔で俺を見ていた。 「いや、だから、男に興味があるか? って」 外村が本気で訊いているのか、それともギャグのつもりなのか、俺には判断がつかなかった。 「……んなもん、ある訳ねーだろ。何言ってんだ、お前」 混乱しながら答えた。 「そっか。そりゃよかった。俺もだ」 こいつは一体何が言いたいんだろう? 疑問と警戒が点滅する俺の顔を外村は斜に構えたいつもの眼で見遣り、続けてこう言った。 「じゃあ、俺と寝てみる気、ない?」 今度こそ、思考が止まった。 「………な、?」 「なに、って、言葉通りの意味。英語に直すとベッドイン」 端的な言葉で、その意味するところがようやく飲み込める。だが飲み込めたところで混乱はますます大きくなるだけだ。 「なん…で……」 「お前とそういう関係になってみたいから」 「だって、お前、さっき男に興味ないって……」 「ああ。別に恋愛目的じゃないし。お前が嫌ならこの話はこれっきりにするけど。どうする?」 外村は笑うでも真面目な顔をするでもなく、淡々と、というか飄々と言った。 俺はただただ困惑して呆けたように外村を見つめ返していた。外村の真意がさっぱり分からなかった。 その時、不意に三沢達の笑い声が聞こえてきた。さっきからずっとふざけて笑っていたのだろうが、耳に入らなかったのだ。 俺はつられてそっちに眼を向けた。 三沢はバスケットボールを抱えて笑っていた。笑うとえくぼが出来て、年齢以上に大人びた顔が本当に無邪気に、楽しそうに見える。 どくん、と心臓が鳴った。 「葛城」 呼ばれて振り返る。外村がまっすぐに俺を見つめていた。 「どうする?」 モップを強く握り締め過ぎて、指先が冷たい。 痺れた頭で、俺は言った。 「……お前の好きに、しろよ」 声がかすれた。 外村は言った。 「そりゃ、女は何もしねーでも腐るほど寄ってくっけど。女相手だと孕ませたら面倒だろ。男は腹ポコになる心配もねーし、恋愛感情絡まねーから、別れ際で揉めることもねーし。ウザくねーから、楽」 それじゃ俺は体の良い性欲処理機じゃないかと思ったが、よく考えればそれはお互い様なことだったから黙っておいた。 それに外村は、俺に一度も関係を強要したり、俺が嫌がることを強いたりはしなかった。まあもしそんなことをしたら、俺は暴力に負けるか弱い女でもないから、逆に痛い目をみるのは外村の方になるのだが。 だから俺と外村は、お互いの性欲を満たす為だけの、ある意味居心地のいい、身体だけでつながったドライな関係だった。 普段はそれまでと同じように、同じ部活でクラスも同じ、仲のいい同級生の一人という関係を続けながら、二人きりになると飢えた男と女のようにお互いの身体を貪り合う。 外村の言う『ベッドイン』は、独り暮らしをしている外村のアパートで大抵するから、部屋がどんな雰囲気で、どんな服を持っているだとか、そんなことは知っていたが、彼の家族構成や、どんな事情で実家からそう遠くもないところに独り暮らしをしているのかということは知らなかった。 女に懲りて男と寝るようになったらしいから、その辺の過去の事情も色々ありそうだが、外村の女遍歴も勿論知らない。外村も俺の個人的なことは、話していないからほとんど何も知らないはずだ。 以前は何気なくお互いのことを喋り合っていたような気もするが、こういう関係になってから外村とはあまり話さなくなっていた。外村のことをこれ以上知らない方がいいと、どこかで思っているのかもしれない。 この関係を、今以上生々しいものにしない為に。 外村が何を思って俺を選んだのか、俺は知らない。 俺が何を思って外村に抱かれているか、外村もたぶん、知らない。 それでいい。 初めて三沢亨を見たのは、高校に入学したて頃の体育館だった。一番最初の体育の授業で、三沢と外村が勝手にバスケットボールで遊んでいたのを見た時だ。 2人でじゃれるようにボールを取り合い、シュートする。ただそれだけの光景だった。 三沢が外村の手をかいくぐって床を蹴り、リングにボールをのせる。足が床を蹴った瞬間、ふわっと身体が浮き上がる。まるで重力が消えてしまっているかのように軽やかに、伸びやかに。 スローモーションのように見えた。 ぽかんと口を開けて2人のじゃれ合いを見ていた俺は、他の奴から飛んできたパスをモロに頭で受ける羽目になった。 2人が同じクラスなのは知っていたが、同じ中学でもなく面識もない彼らを見る対象として見たのは、それが初めてだった。 それまでバスケットボールなんてまるで興味がなかった俺が、2人のいるバスケ部に入ったのは、そういういきさつだった。 外村の親はそこそこ大きな会社の重役で、三沢は俺には名前も覚えられない、なんとか流の茶道の家元という、2人ともたいそうな家の息子だったが、やることはその辺の悪ガキと大して変わらなかった。 それでも、何気ない仕草や言動の端に時々育ちの良さがちらりと見える2人は、やっぱり俺から1段高いところの人間だったし、両方とも成績優秀でスポーツ万能、細身の長身でルックスも良くて、女にキャーキャー騒がれても平然としている、そんな2人に俺はどこか憧れていた。 そして幼馴染みだという2人の関係を、外村の存在を、いつか羨ましいと思うようになっていた。 冬の夕暮れは早い。 俺達が通っている高校は大してクラブ活動に力を入れている訳でもなく、逆に遅くまで学校に居残ることは禁止されているのだが、それでも部活が終わって帰る頃には辺りは薄暗くなっていた。 身体を動かした後でも冬の外気には勝てず、みんなマフラーの中で首を竦めながら、ポケットに手を突っ込み自然と早足になる。 マック寄っていこうぜ、やっぱ牛丼だろ、金ないからおごってくれ、などと言い合いの後で飯塚が言った。 「あーあ、今年もクリスマスだよ」 「なんだよ、その『あーあ』って」 「飯塚、今年も独りで寂しくクリスマスか?」 「悪いか、お前はどーなんだよっ」 「この間、告られたぜ、俺」 「うそっ、マジで?!」 「この時期、女子もあぶれたくないから必死なんだよな。クリスマス用彼氏っての? お前も独り者から妥協で告られるかもよ」 「それ、誰でもいいっていうのもヤバくないか?」 「この際、俺は誰でもいいね」 「うわー、かなりキテるよこいつ」 「なあ、葛城は? お前彼女いねーの?」 仲間の話を聞かないようにしていた俺は、いきなり呼ばれてびくりとした。 「え、俺? 別にいねーけど」 「はぁ? お前、この前女バレの1年に告られたんだろ? あれどーしたんだよ」 「断った。タイプじゃねーし」 「女バレって誰? もしかして、鈴木? うそ、マジ? 葛城お前、高望み過ぎだろ、あれ断るの」 「断るんなら、なんで俺に回してくれねーんだよー」 後ろからビシバシ叩かれて、俺は首を竦める。 「いてーな、飯塚」 「じゃあお前、どんな女がタイプな訳? お嬢様系か? 聖柳女子とか?」 「聖柳女子っつったら、三沢の彼女の高校だよな、確か」 「彼女じゃねーよ。フィアンセだよ、フィアンセ」 「マジで? その歳で婚約者かよー。さっすが、すげーな三沢」 「見たことあっか? 超お嬢様って感じだぜ。なんかもう近寄りがたいっての? えーと名前なんだっけ。みやこちゃんって言うんだっけ?」 「そう。都」 三沢が苦笑して言う。「けど、中身は言うほどお嬢様じゃないぜ」 「なに言ってんだよ、あの顔だけで俺達は癒されんの」 「俺達ってダレだよ」 「いーよなー、どーやったら、フィアンセって作れる訳?」 「バカか。作るんじゃなくて、親が決めるんじゃねーかよ。お前んとこみたいなショボい家にゃ関係ない話だっつーの」 「はぁ。いーよなー。都ちゃんがフィアンセなら、俺三沢の家に生まれたかったなー」 「お前、都ちゃん見たことあんのかよ」 「つまり三沢は、その都ちゃんとクリスマスを過ごす訳だ。じゃあ俺達の中で独りモンって、まあ、外村は取っ替え引っ替えだろうし、飯塚と葛城と俺だけか?」 「え? 岡田、彼女は?」 「別れた」 「早っ」 俺は小さく溜息をつく。何も確認しなくてもいいことを、確かめなくてもいいだろう。三沢がクリスマスを女と過ごすことなんて。三沢に婚約者がいることなんて。 騒ぎ続ける仲間から視線を逸らし顔を上げると、藍色に染まり出した空に、寒々しい光を放つ月が見えた。光が尖って痛いように見えるのは、俺の見方が歪んでいるからだろうか。 ふと視線を感じて振り返る。 外村がじっと俺を見ていた。見透かされているような気がして、視線を外した。 |