うたかたの日々
細い糸のような金色の雲が綴れ織りをなして、空に美しい模様を描いている。 日中の暑さがまるで嘘の様に、夏の夕暮れは涼しい風を頬に運んできた。
世界地図に載っていない島といえど、帝国は広い。
三世は島内の大方を網羅したつもりだったが、今次元と歩いている草原にやってきたのは初めてだった。
「…ふーん。」 「どうされました?」
次元が首を少し傾げて三世に問うた。
「…いや、帝国の領内は全部行ったつもりだったんだけどな。ここに来たのは初めてだなあ、と思ってさ。」
次元がまた可笑しそうにくすりと笑う。
「…あのさ、俺、ずっと気になってたんだけど」 「はい?」
あからさまに不機嫌な三世の声音に、次元は目を丸くした。
「…お前さ、俺と会うと必ず笑うじゃん。なんで?」
一陣の風が草原を渡って、草むらをさわさわと揺らした。 次元は居住まいを正すと、真っ直ぐ三世に向き直って言った。
「…ご自分の持てるものを、持て余していらっしゃるように見えます。」
三世の胸が漣立った。しかし、続いた言葉に三世は耳を疑った。
「…それで、虚勢を張っておられるご様子がとても人間らしくて。つい嬉しくなって笑ってしまうんです。」 「きょ…!」
今まで自分にこんな正直な物言いをする人間が周囲にいなかっただけに、三世は激怒した。
「おい!お前!一体何様のつもりだ?!俺がいつどこで虚勢を張ったって言うんだよ!!」
顔を真っ赤にして殴りかからんばかりの勢いで怒っている三世を、次元は哀しげな瞳で見つめた。
「…あなたは、全てを手中にしているつもりでおられる。」 「ああ!その通りさ!俺を誰だと思ってる?!アルセーヌ・ルパン三世だぞ?!お前たちが今ようやく習得しようとしている事なんか、もう全部…」
三世の怒声を、次元の静かな声が遮った。
「…でも先ほど、ここには来たことがない、とご自分で仰いました。領内には全部行ったつもりだったけれど、と。」
三世の口元は、次の句を告げようとしたままで止まった。次元は横目で少し意地悪そうに三世を見ている。
「こ、ここに来たことがないのと、盗術を会得してるのとじゃ、レベルがちが…」 「どこであれ正確な地理を把握しているという事は、将来のお仕事に関わる重要なことだと思いますが。」
さらりと返された次元の言葉に、三世は何も言い返すことができなかった。 三世はぱくぱくとニ、三度口を動かし、次に固く引き結んでから、草むらの上にどかっと腰をおろした。 腕組みをして憤懣やる方ない、といった風で頭から湯気を立ち上らせる三世の傍らで、次元は何も言わず次の言葉を待っていた。 やがて三世は目を閉じて、ふーっと大きく息を吐き出すと、空に向かって大声で叫んだ。
「ああそうだよっ!俺は自分を持て余してるよ!!」
膝に顔を埋めて、三世はまるで駄々っ子のように周囲の草を片っ端から引きちぎっては投げ、引きちぎっては投げしている。 次元は、そっと隣に腰を下ろした。
「…今現役を張ってるのは親父。俺がいくら腕試しをさせてくれって頼んでも、お祖父さまは”まだ早い”。その一点張り。」
次元も無言で草を一本引き抜いて、口に銜えた。
「…俺はここから出てみたいんだ。広い世界を見てみたい。…そうさ、お前の言う通りさ。…時々バランスが取れなくなるんだ。会得したものとそうでないものの余りのギャップに。」
三世は伏せていた顔を上げた。
「…それがお前の言うように、”虚勢を張ってる”って見えるのかもしれねえな…」
次元は口にしていた草を手にしてしばし弄んでから、風にのせてそれを放った。
「…あなたがここから出てみたい、と思われる事に、俺はなんの手助けもできないけれど」
三世は顔を次元に向けた。次元は遠くを見たまま続けた。
「ここにいても、あなたが知らなかったことを知ることはできますよ。今日、この場所を初めて知ったのと同じ様に。」
次元は三世に顔を向けて笑った。その笑顔に、三世は胸が疼くのを感じた。 気がつけば、同年代の少年とこんな風に本音で語り合ったのは初めてだった。 そのことだけでも、三世は何か今まで知らなかった世界を覗けたような気がしてならなかった。 鼓動が早くなったのを気取られぬ様に、三世は一度次元から目を逸らし、再び見つめてから問うた。
「…あのさ、質問を元に戻すけど」 「はい。」 「お前に俺が虚勢を張ってるように見えるのはいいとして、それでなんでお前が嬉しくなるの?」 「…ああ!」
次元は朗らかに笑いながら答えた。
「だって三世といえば、冷徹な機械のような少年だ、ともっぱらの噂でしたよ。まるで今研究開発の途中の”コンピューター”みたいな少年だ、って。」 「…それで?」 「そう聞いていたのに、実際にお会いしてみたらちゃんと喜怒哀楽のある普通の人だったので、嬉しかったんです。」
三世は胡座をかいて頬杖をつき、げんなりして溜め息をついた。
「…って、お前そんな噂信じたのかよ…。それになんだよ、”普通の人”って。俺様天下のルパン三世だぞ?お前、存外口が悪いなあ…。」
こんな奴だと思わなかった、とぶつぶつ言っている三世に、次元が問いかけた。
「…今度は、俺の質問に答えてくれる?」
黒髪が、風に揺れる。 その瞳の、泉のように冴え冴えと澄んで吸い込まれそうな美しさに、三世は息を呑んだ。
「…どうして俺なんかに構うんですか?」 「え?…どうしてって…」
次元に”どうして”と聞かれたのはこれが二度目だ。一度目は、初めて会ったあの射撃場で―
「どうしてって…」 三世は、あの時と同じように口篭った。そんな三世を、次元はじっと見つめている。 やがて、遂にいたたまれなさに耐えきれなくなった三世は再び叫んだ。
「…ダチになりたかったんだよ!それだけだよ!悪いかよ!」
怒りではなく気恥ずかしさで顔を真っ赤にして、三世は勢い良く立ち上がった。 ああ、やっちまった―と、三世は思った。 もっと粋な科白をいろいろと準備していたのに。何のひねりも飾りもない告白になってしまった。
だが、次元の返答がない。背中を向けているので表情すら分からない。
拒絶されるのだろうか。 拒絶?ルパン三世を? そんな―
三世は慌てて振りかえった。急がなければ、次元がもうそこにいないような気がしたのだ。 しかし、次元はそこにいた。 嬉しそうな、そして何故か少し悲しそうにも見える笑顔で、夕日を背にして立っていた。 次元の右手が真っ直ぐに三世に差し出された。
「光栄です。よろしく、三世。」
ルパンはその手をじっと見つめ、決まり悪そうに頭を掻いてから、同じく手を差し出した。次元がその手を握ろうとすると、
「ちょーっと待った。」
と、三世が遮った。
「敬語。これからはやめろよな。あと、”三世”ってのも。」
今度は次元が頭を掻く番だった。暫く考え込んでから、自分に言い聞かせる様に大きく一つ頷くと、次元は三世の手を強く握った。
「オーケー。よろしく、ルパン。」
ルパンは満足げに満面の笑みを浮かべて、その手を握り返した。
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