7.
温かい布団は気持ちがいいものだ。蓮子は再認識する。
寝返りを打ち、お日様の匂いを嗅いで恍惚に打ち震える。幸福の瞬間。このままずっと眠っていられたらどんなに幸せかと、誰もが夢見る幻想をその胸に抱きながら、蓮子はむにゃむにゃと起き上がった。
「むにゅぅ……」
「蓮子ぉ……おっぱいやわらかぁい……」
枕を同じくして、メリーが隣で眠っていた。こういうとき、蓮子はどういう顔をすればいいのか解らなかった。笑えばいいのか。泣けばいいのか。もう泣きたい。
「あぁ……夢じゃなかった……」
着せられている服は、普段着ではない猫パジャマである。誰の趣味だろう。メリーも同じ寝巻きのようだが、色違いなのが作為を感じる。
一連の行為を思い出すごとに、瞳に涙が溜まっていく。股間に手をやるのが怖い。あんなに長く異物を突っ込まれていたのだから、痛みに悶えてもおかしくないはずなのに、お尻の穴が若干ひりひりする程度で、女性器の方はむず痒さこそ覚えるけれど、苦痛といったものは全く感じなかった。
慣れてしまうことが怖い。未知に対する好奇心は、転じて抗いがたい恐怖にもなる。
「はわわぁ……ふにゃあ……」
蓮子が、その恐怖を打破するために選んだものは。
「メリーの……メリーのばかぁ!」
ばちん、と両手をメリーの寝顔に叩き付けた。
「びにゃあぁっ!?」
突然の衝撃に無理やり覚醒させられたメリーは、わんわん言いながら顔をぺしゃぺしゃ叩いてくる蓮子に驚いている様子だった。初めは瞳に涙が溜まっている程度だったものが、次第に鳴き声は大きくなり、ずっと我慢していた感情が一気に噴き出して、どうにも止められなくなってしまったのだ。
「ばかぁ、ひぐっ、うえぇん、めりーのばかぁ……」
「う、え? あぁ、うん、ごめん、ごめんね? いや本当、悪気はなかったんだけど」
困惑しながらも、メリーの身体を弱々しく叩き続ける蓮子を慰める。子どもが駄々をこねるように、辛かったんだと、怖かったんだと訴える仕草をしっかと受け止める。
「ぐずっ……悪気がなかったら、何をしてもいいと思ってんの……? ふえぇん……」
「よしよし、もう蓮子のお尻に触手突っ込んだりしないからね」
「当たり前よ……! あれが、どんだけ痛かっ……痛くはなかったけど……!」
支離滅裂で、まとまりのない怒声を浴びせかけながら、蓮子はメリーに優しく抱きとめられる。髪の毛を撫でられ、膨らみのある胸に頭を引き寄せられる。ごめんね、と静かに謝るメリーの声を聞いて、ばか、と掠れた呪詛を吐いた。
そうして、ぐずる蓮子を宥めていると、不意に扉がノックされる。はーい、とメリーが気の抜けた返事を扉の向こうに返すと、「失礼します」と前置きをして一人の女性が会釈と共に顔を出す。
「お二方とも、お目覚めのようですね」
瀟洒な台詞を滑らせて、十六夜咲夜は涼しげな笑みで佇んでいる。鼻水を啜りながら泣きじゃくっていた蓮子も、流石にいつまでも涙に暮れてはいられないと目を擦る。
終わったのだ。全て、この宴は。
「十六夜、咲夜さん……でしたか」
「はい。先日は、うちの小悪魔がご迷惑をお掛けしました」
丁重に頭を下げる。彼女が誰かに謝罪する、という行為が何故か貴重な光景のように思えて、蓮子は不意に胸を締め付けられる思いがした。
咲夜がゆっくりと顔を上げるのと同時、その手に握っていたリードを引っ張ると、扉の向こうから首輪に繋がれた赤い司書が姿を現す。
「というわけで、一連の事件に関係する下手人をお連れしました」
「い、痛いですよ咲夜さん……まあこういうプレイも悪くはありませんが……」
全く懲りている様子のない、圧倒的な小悪魔の存在。彼女を黙らせるためには、どの程度のピストン運動と精液が必要になるのだろう。身体に流れているのは血液ではなく愛液なのだろうか。疑問は尽きない。
「ひぅん……!」
反射的に、蓮子はメリーの胸に顔を埋める。蓮子にとって、小悪魔はまだ触手の操り手なのだ。恐れを抱くのも無理はない。
「大丈夫よ、怖くない怖くない」
「うぅ……触手きらい……苦いのきらい……」
「えらい嫌われようですね……」
「ちょっと弄りすぎたみたいね」
悪気があるのかないのか、小悪魔とメリーは目配せをして微笑を浮かべる。呑気に振る舞う小悪魔のリードを引き、咲夜は犯人を床に這いつくばらせる。そこに一切の容赦もないのが、十六夜咲夜の真骨頂である。
「むぎゅっ」
「さて、如何致しましょう。乱交に関わった人間も全て、こちらで拘束しております。――報復の意志があるならば、ご自身で手を下されても一向に構いませんが」
「むきゅぅ……」
小悪魔が呻く。メリーは、腕の中で小さく震えている蓮子の髪を梳きながら、その耳元に小さく囁きかけた。
「うーん。どうしましょうか、蓮子」
「……ううぅ、あんたは、いつまで私を抱き締めてる気よ……もう、平気よ。怖くなんかないんだから。ふんだ」
言いながら、力無くメリーを押しのけ、みずからの意志で小悪魔を睨む。
想起される淫乱な行為の数々が蓮子を苛むけれど、淫らに堕することも、全てを忘れることも良しとしなかった蓮子だから、あえて立ち向かい忌まわしき記憶さえ肥料に変えていける。
「よし」
頬を張り、元々の宇佐見蓮子を取り戻す。
もう、猫のような喘ぎ声を出すことはない。
「ちなみに、メリーを含めた六人に掛けていた式は全て解かせておきました。特に、命令があっても半強制的に従わされることはありません」
「なるほど、ね。じゃあ、植えつけられた種の方は?」
「くぎゅ……それは、生理が来れば自然に流れていきますぅ……ついでにいうと、触手の精液は体内に吸収されますから、特に後始末の必要はないんですよぉ……」
やりたい放題! と発作的に叫ぶ小悪魔の口に爪先を突っ込む咲夜。瀟洒すぎる。懲りずに靴を舐める小悪魔は更にその上を行く。
「そういえば、メリーはもう熱ないの?」
「あ、うん。特に問題ないかな。あんまりえっちな気分でもないし」
「れろぉ……生理が近いのかもしれませんねぇ……」
「……メリー、お金なら工面するからね」
「え、うん。でも大丈夫じゃないかしら。根拠はないけど」
あれだけ膣内に射精されて、あっさり大丈夫だと言える図太い神経を見習うべきかどうか蓮子は悩んだが、いずれしてもろくなことにならない気がする。
床に這いつくばっている哀れな小悪魔を見下ろし、蓮子は嘆息混じりに判決を下す。
本当なら、もっと激しい怒りが湧いて来てもおかしくないのだけど。
「……本当は、二度と性行為が出来ないような身体にしたいところなんだけど」
「そ、それだけは……!」
小悪魔の顔が苦痛に歪む。本質が淫魔である以上、みずからを慰め他者を責め犯すことを本懐としている。ゆえに、それを封じられれば彼女は存在する意味を失い、この世界から消滅する。
「別に、可哀想だからじゃないわよ。それよりも、もっと良い手があると思っただけ。――十六夜咲夜さん」
確かめるように、異界の館を統轄するメイド長の名を呼ぶ。彼女は、小悪魔に舐めさせていた靴を一旦離し、面白い悪戯を思いついた少年のような、無邪気な眼差しをしている蓮子に向き直った。
「はい。何でしょう」
「……『教育』、お願いできますか。彼女と、乱交に関わった全員の」
教育、という単語に力を込めて、咲夜に提案する。
不意に、小悪魔がカーペットから跳ね起きた。きょろきょろと挙動不審に周囲を見渡し、最後に行き着いた咲夜の瞳は、底知れぬ青さの底に静かな炎を灯していた。
びくん、と小悪魔の身体が震える。これまで見せたことのない反応である。
「教育、ですか」
「えぇ。どんな形でも構いません、二度とこんな事件を起こさないよう、教育してあげてください」
漠然とした、刑にしては生ぬるいとさえ感じられる罰かもしれない。
だが、咲夜は蓮子の意図を察したようで、口の端を歪めて微笑みの形を作る。
「……ふふ」
底冷えのする笑い声だった。蓮子も、メリーも、そして教育を受ける身分の小悪魔も、あれはとても良くないものだと一瞬で理解した。
「あまり、ものを教えられる立場ではありませんが。――了承しました。うちの門番にも手伝ってもらうことに致しましょう」
「ひぃぃ……!」
「ありがとうございます」
肩の荷が下りたとばかりに、ぐったりと項垂れる蓮子。その背中を擦るメリーの手付きは、確かに身体を求める仕草ではなく、純粋に友人を労わるものであった。
おろおろする小悪魔のリードを引き寄せ、咲夜は事務的に報告する。
「お二方のご洋服は、そちらに準備しております。あれから一日ほど経ちましたので、匂いも汚れも着る分には支障のない状態です。帰還される場合は私を呼んで頂ければ、正門までご案内致しますわ」
カーペットに爪を立てて抵抗する小悪魔を引きずりながら、ごゆっくり、と咲夜は扉の外に消えて行った。最後、扉が閉まる前に「後生ですー!」という断末魔の叫び声が聞こえたけれど、蓮子もメリーも聞こえなかったことにした。
再び、静寂が訪れる。身じろぎしただけでもシーツの擦れる音が響き、さんざん眠ったはずの蓮子を更なる眠気が襲う。
「……疲れたぁ……」
ふかふかのベッドに倒れ、蓮子はむにゃむにゃとシーツに顔を押し付ける。髪が乱れても気にも留めず、揺さぶられても煙たげに払いのける。
「蓮子ー。いい加減、帰らなきゃでしょ」
「ぐー……」
「もう……」
溜息を吐きながら、メリーも無理に起こしはしない。蓮子が誰よりも疲れているのだということは、身近にいたメリーが一番よく知っている。だから、どうしても無理強いはできなかった。
やがて、本当に寝息を立て始めた蓮子の傍らに寄り添い、その頬を人差し指でなぞる。そのすべすべしたほっぺたに何を書くか悩んで、結局、曖昧な渦を描くに留めた。
それから三時間が経ち、蓮子が飛び起きた頃には太陽も頂点に上り詰めていた。
慌てて咲夜を呼び、帰り支度を始めようとしたがお腹が空いて力が出ない。見計らったように差し出されたクッキーを噛み締めながら、ふたりは駆け足で正門に辿り着いた。
「あ、やっと来ましたか」
いつから待っていたのか、阿求は美鈴との雑談に花を咲かせていた。美鈴も、もうお昼だというのに「おはよー」と皮肉とも冗談とも取れる挨拶をしてくれた。
クッキーが阿求の唇に挟まれ、乾いた音を立てて割れる。
「ごめんなさい、蓮子の遅刻癖が最後の最後に大復活で……」
「メリーが起こしてくれないからでしょうが!」
「私はあんたのお母さんじゃないわよ!」
「平和ですねえ」
「ほんとだねえ」
いつも通りの、幾度となく繰り広げられた秘封倶楽部のやり取りが、ここに来て本来の形を取り戻す。その見るからに平和な光景に、普段の彼女たちを知らない阿求たちものほほんと頬を緩ませる。
「では、そろそろお暇しましょうか」
「うん。美鈴さんも、お世話になりました。主に、メリーが」
「いいってことよー。私も久しぶりに盛り上がれたし。キスうまいんだもん、メリー」
「やだ、美鈴さんたら……」
赤らんだ頬に手を当て、やんやんと身をくねらせるメリー。羞恥に染まる態度が貴重に見えるあたり、メリーの業の深さが窺える。
別れの挨拶を交わし、投げキスを送られたメリーに悪寒が走ったところで、蓮子は極めて重要なある事項について思い至った。
言うべきか否か、妖精たちが遊んでいる湖上の幻想的な帰り道を行く。
「思ったんだけど、阿求」
「はい」
「あの、阿求のお父さんのことなんだけど」
「私にお父様なんていませんよ?」
「あ、いや」
「いませんよ?」
満面の笑みで念押しされる。これ以上の追求は地雷を踏むと判断し、蓮子は口ごもりながら阿求から目を逸らした。
メリーは蓮子にキスを求めることもなく、時折自分が行った所業を想起しては羞恥に頬を染めていた。その初々しい反応を見て、久しぶりに蓮子の嗜虐心が鎌首をもたげたが、ここ最近のメリーに弄られていた己の心情を思い返し、あまり突っ込むのはよそうと心に誓った。
でも。
「ねえ、初対面の男のひとを咥え込んで気持ちよかった?」
「……だから、それは気の迷いだったんだってば」
「ふうん。なのに、あんなに腰振ったりやらしく笑ってたりしたんだ。ふうん」
「腹立つわね……そういう蓮子だって、お尻に射精されてどんな気持ちだったの」
「ぐっ……それはメリーが悪いんじゃない! どんな気持ちだったかなんて知るか!」
「自分が突っ込まれたらすぐそれだ。蓮子はこれだから困る」
「なんだとぉー!」
メリーのおっぱいを鷲掴みにしようと襲いかかり、病み上がりのメリーに首筋を撫でられて腰を抜かす蓮子の反応は、誰の目から見ても可愛らしい女の子のそれであった。だからこそ気丈であろうと彼女は雄々しく立ち振る舞うのだけど、如何せん今は状況が悪かった。
「本当、蓮子さんは可愛いですね」
「うるさいわ!」
メリーに助け起こされ、スカートに付着した草を払って、ずんずんと大股開きで前に進む。微笑ましい帰路であった。行きはよいよい帰りはこわい、誰のための標語かといえば、それはきっと秘封倶楽部のために掲げられるべき言葉であったのだろう。
喜びと恥ずかしさと、ほんの少しの安堵を抱いて、遥かなる蒼天の下を歩く。
稗田邸に帰り着き、簡単に食事をしたあと、蓮子とメリーは早々と発つことにした。
長居をするべきではないと、ずっと前から解っていた。それでも長々と留まってしまったのは、居心地が良かったからでもあり、自分たちのこと、自分たちがいた世界のことを、深く追究されなかったからでもある。
何はともあれ、短い出会いには少しだけ間延びした別れの言葉を。
「短い間だったけど、助かったわ。ご飯も美味しかったし、えろいことされてた記憶がいちばん強いのはどうかと思うけど……」
「なんで私を見るのよ」
メリーは憤慨する。が、紛れもない事実なので否定はしなかった。
「こちらこそ、楽しかったです。いろんな意味で」
「そうでしょうよ。でも、たまには紅魔館に顔を出してあげてね」
「言っている意味がよく解りませんが、頭の片隅には置いておきます」
苦虫を噛み潰したような顔で、それでも阿求は含みのある台詞を返した。
「結局、感染の話はどうなったのかしら。感染性は弱いみたいだけど」
「実際のところ、直接植えつけられていなければ特に問題はないようです。それこそ、植えつけられた人間と性交でもしていなければ」
阿求の結論を聞き、蓮子は事件の過程を思い浮かべた。時折、ぴくりと眉毛が動く。
「……何名か、心当たりがある気がするんだけど。大丈夫かしら」
「大丈夫じゃないですか。残党はこれからびしばし取り締まっていく予定なので、不埒な輩も次第に減少すると思いますよ。楽観的かもしれませんがね」
「いつの日も、世に助平の種は尽きまじってことね」
「うまいことを言ったつもりか」
メリーはちょろんと舌を出す。まだ少し、気分が高揚しているのかもしれない。
積もる話はあるけれど、時間は有限ではない。期を逸すれば帰れないという可能性も考慮して、ふたりは動かなければならないのだ。
「じゃ、また会えたら」
「また会いましょうね」
「えぇ、またいつか」
また、それがいつになるかは誰も知らない。
ただ、去りゆく秘封倶楽部の背中が消えるまで見送った阿求が、踵を返して屋敷に戻ろうとしたとき、慌ただしく駆けて戻って来る足音を聞いた。
「……ごめん、どうやって帰るんだっけ……」
「蓮子が相変わらず考えなしの無鉄砲で……」
「メリーだって何も聞かなかったじゃない!」
「あんなに自信満々な顔してたら、誰だって知ってるんだなって思うでしょ!」
家の前で盛大な口喧嘩を始める秘封倶楽部に、蓮子は苦笑した。
物語の終わりは、必ずしもきれいには締まらないものである。
途方に暮れた蓮子たちが救いを求めた阿求の話では、この世界で初めてみずからの存在を自覚した場所、そしてこの世界にどうやって来たのか、それを模倣するのが現時点で最も安全な方法だという。
だが、初めて見る森の中で目を覚ました以上、その場所を事細かに覚えているはずもない。困惑する蓮子を前に、しかしメリーは自信満々に言ってのける。
「覚えてるわよ。私は」
むしろ忘れている方がどうかしていると、蓮子を焚きつけるほどの余裕を見せた。
挑発に乗るべきかどうか悩んだが、メリーの力強い眼に惹かれて、ほいほいと人里の外まで歩いてきたわけである。
「こっちよ」
メリーに言われるがまま、蓮子は後に続く。本当に、道順を記憶しているかは怪しいところだが、確かに見覚えのある景色ではある。森は一日で姿を変え、目印を付けてさえも日が開くと見分けが付かなくなるものだ。だがメリーは、迷うことなく森の中に足を踏み込んで、わずか五分で目印のハンカチを発見した。括りつけたハンカチは全部で三枚。ここから先は、蓮子が記録した手帳からも道順を読み取れる。
「でも、どうして」
「……正直、頭が痛くてしょうがないんだけど。仕方ないわよね、結界の綻びを見ないと、帰るに帰れないんだから」
「あ」
ぽん、と手を叩く。怒涛の展開に押し流され、メリーの能力を失念していた。彼女は本来、見えざるもの、内と外とを隔てるものを視る能力を持つ。明確な形として目に見えなくとも、その嫌な感覚はメリーの袖を引く。
「……ここ、かな?」
枯れた枝を踏み潰し、ハンカチを回収しながら、腐葉土で滑る足を堪えて目的地らしき場所に辿り着く。
記憶にある限りでは、ここに来てから雨は降っていない。だからといって、土の上に寝転ぶのはご勘弁願いたいところであった。贅沢は言っていられない状況だとしても、その程度の慎みは胸に抱いておきたいのだ。
「蓮子」
「わ……わかってるわよ。寝ればいいんでしょ、寝れば」
「一応、蓮子には覆いかぶさるけど……変なことしないでよね」
「誰がするか」
言いながらメリーの胸を下から触ると、蓮子を越える力で拳骨を振るってきた。これなら安心である、頭は痛いが。
「うぅ、ん……メリーがものすごく重い……」
「いちいち口に出さなくてもいいから。わかってるから」
「ホルスタインとグレートピレニーズのハーフですか」
「人間です」
この状態のまま眠れと言われても、紅魔館で飽きるほど惰眠を貪っていたふたりのこと、目を瞑っても羊を数えても、熟睡などできようはずがない。
瞳を閉じ、唸りながら眠りに落ちる努力を続ける蓮子。対照的に、小さな呼吸を繰り返しながら、微動だにしないメリー。蓮子に必要なものはおそらく帰りたいと願う意志で、メリーにとっては夢から覚めるという意識だった。あちらとこちらを隔てる結界を、どうすれば越えられるのか。ヒントはあちこちに散らばっているのに、メリーは無自覚で、蓮子は無力だった。
ならば、ふたりで。
「……すぅ……」
「ん……ぅ……」
越えられないものを越えるのならば、その時は。
秘封倶楽部として、また夢の橋を渡るとしよう。
ふたりが再び目覚めた時には、期せずしてメリーのスカートがめくれ上がっていて、しかも上下に反転していたものだから、不幸にもシックスナインの格好を体現してしまっていた。
これに対し、メリーが烈火の如く怒り狂って暴れ回るという一悶着が生じるのだが、結果的に、彼女たちがメリーの部屋に帰り着いていたことに気付くのは、それから三十分が経過した後であった。
それから、一週間が過ぎた。
蓮子は、経過を聞くためにメリーの部屋に足を運んでいた。今は絶賛春期休暇期間中であるため、みずから出向かないと誰にも会えない仕組みなのである。電話で聞いてもいいのだが、嘘や強がりを言われると困る。実際に会い、目と目を合わして話をすれば、大抵のことは聞き出せると蓮子は自負している。
だが、いざというときの覚悟が決まっているかといえば、そんなことはなかった。
蓮子でさえ、妊娠の危険性を孕んでいるというのに。
「うぅ……私の場合、周期から外れてるからまだマシだけど……」
下腹部を押さえて、異世界に向けてひとしきり呪いを送る。もしメリーが悪阻を起こしていたらどうしよう、でも一週間だと早すぎるかな、と扉の前で思い悩んでいるうちに、重い扉の向こうから何やら切羽詰まった声が響いてきた。
耳を澄ませば、どうやら年若い男の声のようである。まさか、と蓮子は戦慄し、慌ててドアノブに手を掛けようとして、カウンターの一撃を喰らう。
「ぶめぎゃ」
「ご、ごめんなさい、すみませんすみません……!」
矢継ぎ早に謝罪を繰り返し、その男は逃げるように廊下を駆けて行った。いつかのように、壁に肩をぶつけ、鉄柵に腰を打ちつけ、消火器に足を引っ掛けて派手に転倒しながら、それでも振り向かずに前進しているのだから立派なものだ。
「……あぁ、そういうこと」
わかってしまった蓮子は、切れて出血したらしい唇を押さえながら、扉の向こう側を覗き込む。そこには、メリーが下半身を丸出しにして自慰に耽っていることもなく、何やら困惑した様子で所在なげに佇んでいるだけだった。
同情する。
メリーに、ではなく、先程の青年に。
「おはよう、メリー」
「あ、うん……おはよう蓮子」
今、蓮子を突き飛ばして去って行った青年は、先日メリーに犯された配達員の青年だろう。制服に見覚えがある。おそらく、荷物を届けに来たついでに、話だけでもしたいと思ったのだろうが、肝心のメリーはとっくに淫乱モードから離脱していた。となれば、その行為を念頭に置いてメリーと話している限り、致命的なズレが生じるのは否めない。
当人は、ただ淡い恋心を抱いてしまっただけなのだとしても。
「さっきの男の子、何だったの」
「あ、うん……私が変だった時、ちょっとあってね。だから、ごめんなさいって言ったのよ。あの時の私はどうかしてたから、もう忘れてください、て」
「それはまた、酷な話ね」
「でも、気の迷いだったから、それから始まっても上手くいかないと思うし……私も、あの子のことが特別好きなわけじゃなかったから」
「うわあ……」
もし、今メリーが喋ったことをそのまま彼に伝えたのだとしたら、彼の傷は一生ものになるに違いない。ただひとつ救いがあるとすれば、彼がまだ若く、この経験が後の大きな財産になるかもしれないということだが、むしろその若さが彼を絶望に陥れるかもしれない。
蓮子は腕組みをして、もう見えない彼の心境を思う。
そして、胸に手を抱いて狼狽しているメリーに、偽りのない感想を述べた。
「あんた、もう一回あの子に抱かれなさい」
なんでよ、とメリーが不思議そうに小首を傾げ、蓮子はにやにや笑いながら後ろ手に扉を閉めた。
6.← ○ →おまけ
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