5.


 月明かりに照らされて、淡白な廊下も少しは輝きに満ちて見える。
 満天の星に下弦の月。魔法使いが腰掛けていそうな月にも雲は掛からず、蓮子の瞳に映る月は、此処が何処なのかも明確に照らし出していた。
「……なるほど、ね」
 日本――ではあるらしい。
 だが、それ以上は読めない。意識の表層に浮かんではいるのだが、それが解読できる程度の形に整ってくれない。モザイクか曇りガラスに隔てられているような感覚である。残念ながら、こちら側からテコ入れすることも出来そうにない。
 一方、星が教える時刻は正確そのもので、柱時計が淡々と刻む一秒の針の音も、星の時刻とほぼ完全に一致していた。能力そのものが衰えたわけではないと知り、蓮子はほっと胸を撫で下ろす。
 縁側に座布団を運んできて、ぼんやりと夜空を見上げること三十分。気だるい疲労感はあるものの、それが眠気に繋がっているわけでもない。薄い襦袢でも風邪をひく心配がないくらいには暖かく、温泉の熱が身体から抜け落ちても、夜風を涼しいと思える程度には穏やかな気持ちでいられた。
 吐き出した息も白くは染まらず、廊下についた手はかじかむこともない。
「ふー……しかし、やってくれたわね……」
 胸の先端と下腹部が生地に擦れるたび、全身が痺れるような錯覚を抱く。膣の中にはまだ阿求の指の感触が残っていて、乳房にもメリーの手が張り付いているようだ。
 のぼせて倒れていたのはほんの十分くらいで、意識が覚醒した時には体調は元に戻っていた。心配げに顔を近付けていたメリーを押しのけて、口直しのつもりで温泉に入り、身体が温まったらすぐに離脱した。着替えているときにおっぱいを触ろうと試みるメリーには手刀を喰らわせた。
 布団に入る瞬間も油断ならず、隙あらば掛け布団越しに夜這いを仕掛けるメリーに当て身を喰らわせ、昏倒と熟睡の境界を一撃で超越せしめた。
 かくて自由を手にした蓮子だったが、眠りに落ちる気分には程遠く、こうして普段通り空を見上げているのである。
「はぁ……妊娠しなきゃいいけど……」
 襦袢の上から下腹部に触れ、何日か前に犯された女陰を労わる。生理周期を考慮した結果、可能性は薄いと見ている蓮子であったが、完全に無いと断言できない以上どうしても不安は消えてくれない。苦虫を噛み潰したような顔をして、思い出したくもない男たちの顔を思い浮かべる。そのたびに、きゅっと膣が締まる。
「……あなたは不安じゃないの、メリー」
 背中に這い寄る気配を察し、振り向きざまにメリーを牽制する。まさか存在を悟られるとは思ってもいなかったのか、メリーは驚き目を丸くしていた。やがて、諦観じみた溜息を吐いて苦笑する。
「残念だけど、今はえっちなことする気分じゃないわよ。ただ、蓮子と話したいと思っただけ」
「本当かしら」
「本当よ。残念ながら」
 部屋から新たに座布団を引きずり出して、蓮子の隣に勢いよく座る。ふたりで月と星を見上げるのは、倶楽部活動の一環と呼んで差し支えない。蓮子が星から時刻を読んで呟く様子を、メリーが横から眺めて茶々を入れるのが常だった。その習慣は、別の世界に迷い込んでも変わらない。空に星と月があれば、たとえ能力が通じなくても彼女たちは空を見上げるだろう。
「……十二時二五分、三八秒。三九、四〇、――」
「此処に来て、随分と経った気がするわね。覚めない夢を見ているみたい」
「個人的には、さっさと用事を済ませて家に帰りたいわ。世界そのものは嫌いじゃないし、阿求のことももっと知りたいし、追究したい気持ちもあるけど……流石に、これ以上犯されたくはないし」
「無理やり、ていうのもたまにはいいじゃない」
「全然よくない……」
 呑気に言うメリーに、ぐったりと肩を落とす。そんな蓮子の肩をぽんぽんと叩き、メリーは親切に友人を慰める。
「蓮子も、ちょっと気持ちよかったでしょ?」
「全ッ然」
「嘘つき。泣きながらびくびく震えてたの、知ってるんだから」
「私が気持ちよくなかったって言ってるんだから気持ちよくなかったの。それでおしまい。すけべなメリーはさっさと寝る」
「ドスケベな蓮子はまだ起きてるの?」
「誰がドスケベだ」
 指を差すのも、差した指を相手の頬に突き刺すのも、礼儀知らずだと言い聞かせるために蓮子はメリーの額を指で弾く。骨と爪が衝突する、硬く鈍い音が身体の内側に響き渡る。
「痛い……」
「私も痛いわよ。犯されたときだって、ずっと痛かったんだから。それを気持ちいいだなんて錯覚するわけないじゃない。身体は反応しても心は反応しないの。そういうものなの」
「身体は犯されても心はあの人のものなの?」
「どっかのえろ本に書いてあるような台詞はともかく、いつまでもメリーの幸せ家族計画に付き合ってる余裕はないのよ。いい加減、この旅を終わらせるわ。……ほんのちょっと、名残惜しい気もするけどね。潔く、立つ鳥跡を濁さず、よ」
 手のひらに拳を打ち付けて、瞳に青い炎を灯す。
 早ければ明日にでも、例の紅魔館へと調査に向かう予定である。メリーの病気の進行具合も判然としない以上、行動を起こすのは早い方が良い。蓮子に感染しているのか否か、しているのなら感染条件は何か、そのあたりは明らかにされていないが、今のところメリーほど深刻ではない。阿求やメリーにはドスケベ扱いされているが、本人が頑なに否定しているため一応えろくはないという判断がなされている。
 決戦は近い。
 無論、武力を用いて解決するのは秘封倶楽部の本分ではない。知恵と発想を巡らせて、あるいは言葉巧みに騙くらかし、敵の一歩先を読んで華麗に出し抜くのが秘封倶楽部部長宇佐見蓮子の真骨頂である。
「行くのね。蓮子」
「行くわ。別にえろえろな事態に陥ることを望んでいるわけではなくてね」
「……えっ、ならないと思ってるんだ」
「ならないわよ。そんなこと、私がさせない」
「無理だと思うけど……私もいるし……」
「このお屋敷って、確か座敷牢があったわよね……」
「蓮子、目が笑っていないわ」
 他愛もないやり取りが、今は少しだけ卑猥な方向に傾いている。それも一興だと笑い飛ばすくらいの気概があれば良いのだけれど、一度犯された身の蓮子には、冗談を冗談として捉えられるだけの余裕はなかった。
 疑わしきは全て滅せよ。
 全ての淫行に鉄槌を。
「寝ましょう」
 決意も固まり、蓮子は座布団を担いで部屋に戻る。メリーもその後に続き、敷居に躓いたと見せかけて蓮子を押し倒そうとしたが逆に払い腰を喰らって敷き布団に投げ落とされた。「きゅぅ」と蛙が踏み潰されたような儚げな声が漏れ、淫乱な旅がまだ終わりではないことを蓮子に実感させた。
 藍色の空には、同じ形の月と星が輝いている。

 ――夢は、見なかった気がする。
 機嫌の悪いハトの鳴き声で、蓮子は爽やかに目が覚めた。恐る恐る瞳を開けても、そこに見慣れた友人の顔面はない。ひとまずは安堵するが、とすればメリーは大人しく布団の中で眠りこけているかといえば、そう思い通りには行かないのが人生の常である。
「……メリー?」
 彼女は酷く辛そうに顔を歪めて、うんうん唸りながら頻りに寝返りを打っている。落ち着け、と蓮子は自分の胸に手を当て、続けてメリーの額に手を置く。尋常ではない熱さだ。風邪をひいたのかはたまた別の病気をもらったのか、あるいは、阿求のいう淫乱性の病が進行しているのか。
 原因はどうあれ、メリーが苦しんでいるのは事実。すぐさま助けを呼ぼうと立ち上がりかけた蓮子だが、不意に、掠れたような声が聞こえた。
「……れん、こ?」
 振り返ると、うっすらとまぶたを開けたメリーが、胡乱な眼差しでこちらを見ていた。絞り出すように自分の名を呼ぶメリーに、平静を心掛けていた蓮子も咄嗟にしゃがみ込み、メリーの声がよく聞こえるようにと顔を近付けていた。
「メリー、具合はどうなの」
「蓮子……」
 切なく、吐息混じりに呟く声を、不謹慎にも色っぽいと感じる。だが、それも決して間違いではないと、蓮子は後に知ることとなる。
 もう一度、額の熱を確かめようとした蓮子の手に、メリーの手のひらが重なる。蓮子がメリーを安心させるべく、メリーの手を優しく握り返そうとした直後、蓮子の手が病人とは思えぬほどの力でぐいっと引き寄せられる。
「ちょ、ぉ――」
 身を乗り出していたこともあって、体勢を崩してメリーの枕元に手を付いたのが決定的だった。これではメリーを引き離せない。蓮子の両手が塞がれれば、後はもうメリーの独壇場である。
 お互いの唇がにわかに接近し、激突するか否かといった絶妙のタイミングで受け身を取った蓮子に対し、メリーは彼女の後頭部に手を回し、すぐさま蓮子と唇を重ね合わせた。
「ん――、――っ!」
 抵抗も虚しく、メリーの手も口も蓮子を捉えて離そうとしない。それどころか、メリーの舌は蓮子の唇を押し開けてその先にある舌と絡み合うべく這い寄っていた。
 吐息が近い。鼻から、たまに口から漏れる他者の息を間近に感じるのは、慣れていない人間にすれば奇妙な感覚だろう。唇を合わせるのも、手を繋いだり、頭を撫でたりするのとは比較にならないほど異質である。唇に限れば、肌というより粘膜と考えた方がしっくり来る。明らかに粘性のある口内ほど湿ってはおらず、けれども最も外気に近い粘膜。感度からすれば、性器となんら変わりはない。
「ん……はむ、んむぅ……」
 メリーは盛んに蓮子の唇を食み、唾液を滴らせて文字通り唾を付ける。唇を吸われ、挟まれ、食べられている感触を味わい、けれど成す術もなく蓮子は嵐が通り過ぎるのを待つ。
「蓮子、蓮子ぉ……」
 接吻と呼吸の合間に、友人の名を繰り返し、陶酔し切った瞳で唇を吸う。完全に発情している。問題は、蓮子がその相手役に抜擢されたことであり、友人であるが故にあまり無碍にも扱えないことだった。
 責め苦は続く。
 蓮子の唇を舐め、その奥にある舌をも巻き付かせようとメリーは侵攻する。だが蓮子は逃げる。奥歯に届きそうなくらい、舌が攣りそうなくらいめいっぱいに逸らして、他人の舌を受け付けまいと懸命に抵抗する。
「ちゅっ、ぬりゅ……」
 送り出された唾液が、メリーの唇から顎を伝って喉元に落ちる。今や、それがどちらの唾液なのか知る術もない。最早、唇から垂れる雫は愛液と化し、それを受け入れる唇も、それを分け入る舌も一種の性器であった。
「くちゅ……」
「んーっ!」
 ついに、メリーの舌が蓮子を捉える。逃げる蓮子に追うメリー、小さな鬼ごっこは瞬く間に終焉を迎え、不器用な絡み合いが此処に成立した。
 片方が嫌がって悶えていても、片方が積極的に責めていれば、唾液のせいもあって口の中は激しく濡れて感度は飛躍的に上昇する。普段は自分のものでしかない部分を、他人に踏み込まれて好き勝手に犯される違和感は筆舌に尽くし難い。ただ、それに慣れてしまえばこの感覚も決して悪くはないと思うようになる。
 水音が近い。吐息もまた唇を湿らせる。
 逃げ惑いながら、追いすがりながら歯を舐め、頬の裏の肉を突き、ここはどこだとぶつかりながらマーキングする。ここは一体誰の口の中なのか、そんなことさえよくわからなくなってきた頃、ようやく、一段落ついたらしいメリーが唇を離す。
 とろん、と瞳を潤ませ、恍惚とした笑みを蓮子に晒している。
 口の周りをべちょべちょにしているのは、メリーも蓮子も同じこと。すっかり舌が疲れてしまった蓮子は、何かを口走ることさえ億劫だったが、とりあえず目の前のメリーに一言だけ。
「い……息ができねーって言ってるでしょーが!」
 力任せに振りほどいた手のひらが手刀を形作ったと同時、閃光の速さでもってメリーの頭頂部に華麗なるチョップが打ち下ろされた。
 みしっ、とどちらかの骨が軋みを上げ、両者とも激痛に身悶えて布団の上を転げ回っていたのは言うまでもない。
 そしてその痛々しい光景を阿求に目撃され、しばらく声も掛けられずに放置されていたのは間違いなく阿求の趣味であった。

「病人を殴るなんて、蓮子さんは何を考えてるんですか」
「いや、それには深い理由が……」
「はぁ、素直に謝ることもできないんですか。見損ないましたよ」
「いや、その、……ごめんなさい」
 どこか釈然としない思いを抱えながら、しゅんと肩を落として頭を下げる。
 意気消沈する蓮子を睥睨する阿求は、実のところメリーが蓮子に無理やりキスした瞬間から一部始終を目の当たりにしているのだが、それをいちいち口にしないのが稗田阿求という人間である。
「私じゃなくて、ちゃんとメリーさんに謝ってください。まだ痛がってるんですから」
 阿求が見下ろした先には、たまに頭のてっぺんを擦ってはうんうん唸っているメリーが布団に入っていた。蓮子がメリーの撃退に成功した後、見計らったように阿求が朝の挨拶と共に来訪し、メリーの変調が明るみに晒されることとなった。
「メリー、ごめんね……私も、咄嗟のことで手加減ができなくて……」
「うーんうーん」
「でも、いきなりキスしてくるメリーも悪いと思うのよね……」
「うーん」
「蓮子さんの唇は気持ちよかったですか」
「うん」
「あんた起きてるでしょ」
 再び、メリーは間延びした呻き声を上げながら寝返りを打ち始めた。その背中を鋭く人差し指で刺しておいて、蓮子は腕を組んで思案に暮れる阿求に向き直る。
「阿求は、どう思う?」
「蓮子さんの唇は柔らかいと思いますけど」
「それじゃねえ」
 言葉遣いも粗野になる。慣れませんねえ、と阿求は肩を竦め、蓮子が突いたところと同じ場所に阿求もまた指を突き、寝たふりをしているメリーをびくっとさせる。
「冗談は抜きにして、メリーさんの病状は確実に悪化していると考えるべきでしょう。今朝の熱がどのくらいだったのか判然としませんが、キスをして具合が良くなったというのは、アルコール中毒の患者がお酒を飲むと一時的に症状が緩和される、という特徴とほぼ一致します」
「一定時間えろいことをしないままだと、今朝みたいに発熱するってわけね……厄介極まりないわ。ていうか」
 蓮子は、重大な事実に思い至る。昨日、温泉にて女三人くんずほぐれつしていたのが午後九時過ぎ。現在、朝の七時半。あれからまだ半日と経っていない。
「……時間制限、厳しいと思うんだけど」
「今までも、一日と置かずに誰かと絡み合っていた気がしますが」
 それは言わない約束である。まして、現状は発熱する段階にまで達している。普段通りの体調が維持できる時間も、これから徐々に少なくなってくる。
 最早、一刻の猶予もない。
「阿求」
「えぇ、わかっていますよ」
 外見に似合わない落ち着きよう、何かを企んだ含みのある笑み、敵であったらと想像すると本当に恐ろしい。阿求は、人差し指を額の中心に添え、すっと瞳を閉じる。
「行きましょう。全ての発症の地、紅魔館へ」
 水平に、空気を裂くような勢いで指差した方角には、今はまだ目に見えずとも、空の青、水の清澄を塗りつぶす、紅い館がそびえ立っている――はずである。

 何はなくとも腹が減っては戦もできぬ、朝食を滞りなく頂き、比較的暇を持て余しているお手伝いさんに見送られて、稗田阿求御一行様はピクニックに向かう気軽さで稗田邸を後にした。
 先日、聞き込みをした時のように見えざる護衛が付いているという話なので、万が一の事態に陥っても問題はない、らしい。安堵しようにも、目に見えないものを信じることは難しい。ましてや依存などもってのほかだ。頼れるものは己のみ、という頑なな信念を振りかざして戦うのも悪くはないが、なるべくなら頼れるものには頼っておきたい。今まで活動していた世界と勝手が違うならなおのこと。
 だからこそ、阿求の言葉しか信じるものがない状況は、蓮子にはあまり好ましいものとは思えなかった。
「本当に、護衛が付いてるんでしょうね……化け物が現れた時、やっぱりいませんでしたーてへりなんてのは洒落にならないわよ……」
「あらかわいい」
「かわいくないし」
「ま、そういうことにしておきますか」
「腹立つわね……」
 蓮子の先を行く阿求は、くすくすと笑いながら歩を進める。その足取りに迷いはなく、紅魔館に何度か足を運んだという話に嘘はないようだった。
 メリーは蓮子と手を繋ぎ、たまに手のひらを撫でたりまさぐったりして蓮子に軽く睨まれていた。蓮子が手を離そうとすると涙目になって立ち止まってしまうため、蓮子も下手に振り解けないのだった。
 彼女の体調を考え、稗田邸に待機してもらう案も当初は挙がったのだが、その案はメリーの激しい拒絶を受けて呆気なく頓挫した。「ふたりでひとつの秘封倶楽部でしょ!」と声を大にして叫ぶメリーのことを蓮子はちょっと怖いと思った。
 道行く人は誰もみな阿求に挨拶をし、後ろに続く見慣れないふたりにも丁寧に会釈をする。稗田の威光は集落全体に及び、たとえ阿求がどんだけ小さくて可愛くてもそんなことは関係ないのだろう。実際、外見からは想像も付かないほど癖のある性格をしているのだし。
「ここから、例の紅魔館までどのくらいかかるの?」
「そうですねえ。ざっと、一刻はかかりましょうか」
「げぇっ」
「蛙でも踏みましたか」
「まだ冬眠してるんじゃないの……」
 良い運動になりますよ、と気休め程度に蓮子を鼓舞する。身体を動かすのは好きな方だが、それにも限度はある。あちらの世界ほど整備されていない道を、二時間である。途中、休憩は挟むだろうが、軋みを上げるであろう足の裏を思うと気が滅入る。
 蓮子の落胆を反映して、メリーがきゅっと強く手を握る。振り返ると、心配そうにこちらを見詰める友人の困り顔がある。同性ながら、放っておけない可愛さであると思う。誰もが見惚れる美貌を持ちながら、それを得と思わないメリーの性格は、こうして反転して初めてその本領を発揮する。
 たとえその本性が肉欲であれ、精を欲するひとは美しい。
 輝けるものが瞳のぎらつきであっても、相手はその闇に容易く吸い込まれてしまう。
「知らないひとにほいほい付いて行ったらだめだからね」
「ばかにしないでよ。そこまで軽くはないわ」
「あなたの一連の行動から軽くない要素を見出す方が難しいんだけど」
「基本、初見でしゃぶりついてますからね」
 メリーがむくれたところで、緩みかけた速度を元に戻す。舗装された道は間もなく終わりを迎え、細い川を跨ぐ豪奢な橋を越えれば、人々が踏んだ足跡で出来た土の道が待ち受けている。
 幸い、天気には恵まれていた。里から出ればすれ違う住民もほとんどおらず、気だるげに空を飛ぶトンビや、どこに行くかも判然としないカラスを見るばかりだ。農作地からも遠ざかり、一歩道を外れれば確実に迷うであろう緑が広がっている。美しいと思う一方、ほぼ手つかずに残っている自然が奇妙にも見える。
「うちの田舎も緑しかなかったけど、ここも見事に緑一色ね……惚れ惚れするより先に、原初の恐怖を感じるわ」
「野生の動物は臆病ですから、滅多に突っ込んでは来ませんよ。妖怪も、基本昼間は活動しませんし」
「そこよ」
 蓮子は指を鳴らし、意気揚々と前を行く阿求を振り向かせる。
 この世界の謎を解き明かすために、まず知っておかなければならないこと。時折、阿求が漏らしはするけれど深くは説明しない部分。暗部というには軽々しく発言し、聞かれなければ語ろうともしない些事。当たり前の事象。
「妖怪。それについて、なるべく詳しく」
 立ち止まると、勢いを殺し切れなかったメリーが蓮子の背中に激突する。
 阿求も蓮子の言葉に足を止め、体を翻し、どうしたものかと言いたげに頬を掻く。
「……あんまり、追究しない方が良いと思いますけど」
「だめよ。命に係わることだもの、妥協していられないわ」
 知らず、握られた手に力が入る。呼応して、メリーの握力も少し強まる。
 仕方がありませんねえ、と阿求は溜息を吐いた。
「歩きながら話しましょうか。時間はたっぷりありますから」
「この期に及んで、嘘や誤魔化しは無しよ」
「同じお風呂の中に入った仲じゃないですか。何を隠すことがありましょう」
「……入ったというか、入れられたというか」
「蓮子の中、あったかい……」
「あんたは入れてないでしょ」
 景色はほぼ変わらず、時折、羽の生えた子どものようなものが木陰に見え隠れする。阿求が気にしていないから、蓮子も害は無いものとして見て見ぬ振りを決めこんでいたが。
「厳密には妖怪ではないのですが、今ちらっと見えたのが妖精です」
「妖精……なのね。コスプレじゃなくて」
「こすぷれというのはよくわかりませんが、立派に空も飛べるし個体によっては弾幕を展開するものもいます。……あぁ、ここでいう弾幕は自己アピールの一種だと考えて頂ければ。表現方法のひとつですね」
「まあうんピンと来ないけど」
 ですよねえ、と半ば予測していたように阿求は言う。暗に想像力が無いと言われているようだが、実際に見てみないとわからないのだから仕方ない。
「ほら、あそこに黒い影のようなものが浮いているでしょう」
「あ、ほんとだ……あれ何、ボウフラの集合体?」
「まあそんなようなものです。ボウフラ妖怪ですね」
「へえ……そんなのもいるんだ」
 その黒い球体は、ざわざわと音を立てながら何処かに消えていく。途中、鳴き声のようなものを上げていた気もするが、それが言語なのか悲鳴なのかは区別がつかなかった。
 妖怪に関しての一般的な知識は蓮子も持っているが、具体的にどういう生態をしているのか、生活様式は、食事は、人間との関係は、といった検証を行う段階には至っていない。そも、心霊現象は目の当たりにしても、はっきりとした妖怪に出会ったことがないのだから、検証のしようがないのだ。
 その点において、此処は楽園である。研究の対象がわんさか存在しているのは、きっと毎日が楽しくて仕方ないだろうと蓮子は妄想する。実際、生活してみれば気苦労も絶えないのだろうが。
「……蓮子、蓮子」
「ん、何よメリー」
 メリーがずっと繋いでいた手を離して、くいくいっと蓮子の袖を引く。何事かと後ろを振り返ると、そこにはスカートをぎゅっと押さえて瞳に涙を溜めているメリーのいじましい姿があった。
 その時、蓮子に悪寒が走る。
「……ほしい」
「ほし……しいたけ」
「ほししいたけは要らないかな……」
 小洒落たボケも通用しない。試しに触れてみたメリーの額は、今朝と同じように火傷しそうなほど熱かった。
「阿求ー! 阿求ー!」
「はいはい、お呼びですか」
「メリーが発情した!」
「いつものことですね」
 受け流された。間違いでないのが辛いところである。
「そうだけどそうじゃないのよ! 熱が出たのよ、発火よ発火!」
「慌てないでください。どれどれ……うわっ、こんなに酷い熱だったんですか。今に息絶えますよ」
「死なない……けど、蓮子にキスしてもらえなかったら、死ぬかも」
「だ、そうです」
「え、なんで私」
「いやいや」
「いやいやいや」
 お互いに譲り合う蓮子と阿求であったが、メリーの要求が蓮子であるため、下手に長引くとメリーが限界に達してしまうかもしれない。ここは友人を助けるためと息を呑み、蓮子は腹を括ってメリーの肩に手を置いた。
「ぁ……」
「色っぽい声出すな!」
「ひゅーひゅー」
「外野うるさい!」
 見詰め合う秘封倶楽部。年頃の女性ふたりが向かい合って何をするかと思えば、症状の緩和と称した乳繰り合いである。これでは少子化を防げるはずもない。厚労省も嘆きの声を上げるに違いない。
 雰囲気たっぷりにメリーが瞳を閉じようとするのが鬱陶しいので、蓮子は勢いよくメリーを引き寄せて唇を奪う。若干、蓮子も顔を近付けていたため、前歯が衝突して痛みが走った。メリーが呻いたのもそのせい。
「ん、……」
 けれど、そんな痛みはどこ吹く風で、メリーは蓮子の唇の感触を味わっているようだった。今朝のように忙しなく唇を吸ったり、舌を差し込んだりということはなく、ただ重なった唇を感じているだけ。蓮子はというと、経験不足であるがゆえにどうしたらいいのか完全に行く先を見失っていた。
「おお、お熱いですこと。年寄りには居辛い空気ですねえ」
 けほけほとわざとらしい咳払いが響く中、口唇の接触は続く。肩に置いた手も、メリーの頭に回せばいいのか、背中を抱いてやればいいのか、はたまた乳房かお尻か局部に当てていいものか。じっと唇に意識を割いているのも精神的に辛いものがある。
 熱気に中てられて、気が狂いそうだ。
「はむぅ……」
 すると、蓮子の苦悩を悟ってか、メリーが自主的に蓮子の首に手を回す。引き寄せるのでも絞めるのでもない、ただ「離さないで」と暗に訴えかける淡い拘束。首筋を這う細い指先に神経が撫でられる錯覚を得、蓮子もまた、メリーの背中を抱く方向を選んだ。メリーは肩の上から、蓮子は腋の下から、お互いを抱き締めて、決して離れないよう、途中で唇を離さないよう懸命に繋がっている。と。
「……ぷはぁっ!」
「やぁん」
 泥沼に嵌まったことを自覚した蓮子は、メリーの束縛が甘いことを逆手に取って一気に唇を引き離す。名残惜しげに蓮子を見詰めるメリーには悪いと思いながら、首筋に掛けられていた腕も半ば強引に解く。メリーも初めは抵抗していたが、蓮子が本当に面倒くさそうな顔をしているのを悟って渋々蓮子の解放に応じた。
「……はあぁ……」
 膝に手を付き、息も絶え絶えに俯く秘封倶楽部代表。慣れないキスに気力を消耗したのか、それとも快楽という名の地獄の釜を開かんとして未知なる興奮と恐怖に打ち震えているのか、いずれにしてもしばらく使いものになりそうもない。
 そんな疲労困憊した蓮子に、阿求は心からの労いの言葉を掛ける。
「友人との接吻に、思わぬ背徳感を覚えた瞬間……ですか」
「違うわ!」
「えっ……」
「メリーも『違うの?』って顔すんな!」
 四面楚歌とはこのことか。頭が痛い。
 湿った唇をぺろりと舐めるメリーは、多少頬を赤らめてはいたが、発熱して苦しんでいるという様子ではなかった。ひとまず峠は越えたようだ。
 しかし、二時間も経っていないのにこの体たらく。急がなければ、主犯と対峙している最中に性欲の波動に呑み込まれるかもしれない。
「阿求。急ぐわよ」
「はいはい」
 含み笑いが癪に障るが、阿求の先導がないと先に進めない。早く行けと急かす蓮子に相変わらずの微苦笑を浮かべ、阿求は気持ち早足で歩き始めた。
 メリーは再び、蓮子の手を強く握り締めている。一度、その手に頬擦りして蓮子に手の甲を抓られて以降は、下手な行為に及ぶこともなく発情することもなかった。
 たまに、嘘か真か妖怪の知識を蓮子に吹き込む阿求だったが、蓮子も途中からは話半分で聞くようになっていた。大抵の場合、話を面白おかしく膨らませようとする傾向があるらしく、鵜呑みにすると痛いしっぺ返しを喰らうことになる気がする。
 しばらくすると、さして変わらない景色、疲労の蓄積も重なってか、自然と口数も少なくなってきた。林の陰に水辺が垣間見え、それが湖であることを理解する。目的地は、湖の側にある紅い屋敷。通称、紅魔館。
 踏み出す足にも、知らずと力が込められる。
「間もなく、ですかね」
「やっと、か……長い道程だったなぁ……」
「飛べる方々は空を飛んで目的地に向かいますからね。それに比べて、徒歩が遅いのは仕方ありませんよ」
「飛べるんだ……」
「飛べます。いろんな意味で」
「いやん」
 何故かメリーが照れた。そっとしておこう。
 目的地が近いとなれば、逸る気持ちを押さえるのは難しい。平静を心掛ける蓮子ではあったが、メリーに合わせていた歩幅が少し広くなっていた。
 その際、握られた手のひらに抵抗があって、不意に後ろを振り返る。
「……ごめん、蓮子」
 またか、と口には出さずに蓮子が呟くと、うん、またなんだ、とメリーも声は発さずに囁いた。
「おねがい、蓮子の……ちょうだい」
「さぁ! 早いとこ事件の犯人を追い詰めるわよ!」
 蓮子は逃げた。
「蓮子さん、据え膳食わぬは男の恥と言いまして……」
「男じゃねえし! いいから早く行くわよ!」
「蓮子ー蓮子ー」
「ほら、メリーさんも欲しがっていることですし」
「稗田阿求の正体は宇佐見蓮子である、という説」
「お断りします」
 丁重に断られた。残念である。
 あくまでも手を離さないメリーを引きずるようにして、蓮子はがすがすと地面を蹴って紅魔館に突進する。メリーは涙を溜めながら抵抗するが、蓮子の猛進を食い止めることはついぞ出来なかった。
 いよいよ紅魔館も近くなり、屋敷を取り囲む頑強な塀と、格子状でありながら蟻一匹たりとも通す気配さえ感じされない屈強な門が、来訪者たちの前に粛然と立ちはだかっている。
 そして。
「……おぉ、何やらそれっぽい人が」
 如何にも中華風の女性が、門の前に立っている。
「門番の方ですね。紅美鈴さんと仰います」
「既に調べは付いているわけね……」
 腕組みをしたまま、門に寄りかかって瞑想に耽っている赤髪の門番を見、蓮子は意気軒高に鼻息を荒くする。呼応してメリーの握力も増すが、これは単に我慢の限界に近付いているためだろう。
 敵地攻略における最初の難関を迎え、いやがうえにも緊張感が高まる。紅美鈴は微動だにしない。まさに、相手の存在を察してもなお余裕を崩さない強者の佇まい――
「もしもし、美鈴さん」
 緊迫感を殺ぐ気楽な言葉遣いで、阿求は呑気に声を掛ける。だめだ、殺される、と咄嗟に阿求の口を空いた手で塞ぐ蓮子であった。が。
「ぐー」
 寝ていた。
「……寝てんの?」
「そういう方ですから」
 そういう認識らしい。
「起きろー!」
 しかし蓮子は雰囲気が根底から覆されたことの腹立たしさで、よせばいいのに蓮子は美鈴の肩をがくがく揺さぶった。メリーの手はいつの間にか離されていて、蓮子は特に気に留めることもなかった。
「むにゃにゃ……んぁ、はっ! ね、寝てませんよ!」
「またベタな台詞を……」
「そういう方ですから」
「ふあぁ……あー、なんだ。阿求かぁ」
 起きて損した、と聞こえるように言う。あまり隠蔽する気もないらしい。
 ふわわと欠伸の残滓を拭いながら、訪問者の人数を適当に数える。その最後、メリーに行き着いたあたりで何やら首を傾げたりもしていた。
「少々、美鈴さんのお話を窺いたいと思いまして」
「え、別に何も悪いことはしてないわよ。たぶん」
「先日、里の方々が何名かこちらにお邪魔したと思うんですが。そのときのことを、なるべく詳しくお願い致します」
「詳しく、って言われてもねえ……」
 攻める阿求。一方、受け手の美鈴は適当にはぐらかす。その態度だけでも、何か事情を知っていることは察せられる。が、それだけだ。
 帽子の上から頭を掻き、どうしたものかと首を回してぽきぽき鳴らす。さっきは身体を傾けていたから解り辛かったが、こうして真っすぐ立っているとかなりの長身であることが解る。肩幅も広く、かつ引き締まった身体をしているから佇んでいるだけでも十分に映える。太ももが凄い。なんか凄い。
 人知れず、自分とは対照的だなあと肩を落としていると、何でも無いことのように阿求は言う。
「あぁ、この方もれっきとした妖怪ですよ」
「へぇ、……えぇっ!?」
「どーもー」
 ひらひらと手を振る紅美鈴という名のむちむち妖怪。外見は、鍛え上げられた肉体を除けば普通の人間と大差ない。唯一、紅い髪が地毛なのかどうか怪しいところではあるが。
「こうなると、妖怪って何なのって話になるわね……」
「うちのお嬢様みたいに、羽でも生えてれば話は早いんだけどねー」
 にはは、と人懐っこい笑みを浮かべる。人当たりはいいが、それだけにゴリ押しするのは難しそうだ。
「でも、精巧なコスプレって線もあるし……」
「たまに出て来ますね、こすぷれって」
「うーん、だけどいきなり弾幕撃つのもねえ。物騒だし。空飛ぶくらいなら簡単に出来るけど、――――あっ」
 思い出した、と言いたげに手のひらをぽんと叩き、蓮子の後ろに隠れていたメリーをひょいと覗きこむ。
「思い出した! そういや、あなた――――」
 続きの台詞を紡ぐ前に、彼女の口はあえなく閉ざされた。それにはのっぴきならない理由があり、蓮子も阿求も漠然と予測していながら、美鈴が醸し出す呑気な空気にほだされ、危機感が欠落していたのだった。
 美鈴がメリーの正体を気取った瞬間には、メリーは既に一歩目を踏み出していた。蓮子の手を解いていたのもこのための伏線、一向にキスをしてくれない蓮子に業を煮やし、メリーが打った手はひとつ。
「んぅ、――っ!」
 二歩、三歩と大きく歩幅を稼ぎ、両手を広げて美鈴に飛びこみ、有無を言わさず唇を奪う。その勢いに屈し、唇を重ねたまま押し倒される美鈴。覆い被さるメリー。先程蓮子と行った接吻よりもずっと激しく、貪るように美鈴の唇を食べる。
 一部始終を見届けていた蓮子も阿求も、あまりの展開に呆気に取られ、美鈴を救い出そうと考える間もなかった。下手にメリーを引き剥がせば、今度はこっちが標的になる。誰も、好んで犯されたくはないのだ。
「うわぁ……」
「やっちゃいましたね。流石はメリーさんです」
「全然感心するところじゃないけど……美鈴さん、後頭部打ったんじゃないかしら」
「大丈夫じゃないですかね。唇が接触する瞬間、衝撃を予測してみずから後ろに飛んでいます。受け身は万全ですよ」
「そこまで見てたんなら、助けてあげなさいよ」
「やですよ。巻き込まれたらどうするんですか」
 本音である。蓮子もほぼ同意見なので、あえて口は出さなかった。
 限りなく地面に近い位置から、唇と舌の交わる音が響き渡る。凝視すべきか無視すべきか、頭が熱くなっていくのを感じながら蓮子は彼女たちの絡みを傍観する。
 と、マウントポジションを取り圧倒的優位に立っていたはずのメリーに、いつの間にやら異変が生じていたことを知る。
「こ、これは……!?」
 解説を求めるべく阿求に話を振ると、彼女もまた腕を組み驚愕に頬の端を引きつらせていた。不気味ではあるが、状況を察するに笑っているらしい。
「えぇ、形勢が逆転しつつあります。防戦一方だった美鈴さんが、今度は華麗な舌技でメリーさんの舌を着実に攻めている。激しい攻撃はその分相手の陣地に深く踏み込むことになりますから、かえって広範囲から攻撃を受けやすくなるというわけですね」
「真面目に説明しているとこ悪いんだけど、要するに美鈴さんもドスケベってこと?」
「端的に言えば」
 ぬちょぬちょと粘っこい音が足元から奏でられていると、足の先から何か卑猥なもので犯されているような錯覚を得る。やめろと言って中断する程度の性欲なら、元よりキスなど仕掛けていないだろうし、キスに応じてもいないだろう。
「ぷぁ、んふぅ……はぁ、やわらかぃ……」
「んゃ、くぅん……」
 メリーの頬に手を添え、引き寄せながら舌を差し込む美鈴。たまに口を離すと、ふたりの唇の間に銀色の橋が生まれ、倒されている側の美鈴に全てその雫が落ちる。美鈴はふたりの唾で口元を濡らし、対するメリーは、離れるたびにいちいち唇を舐めているから比較的きれいな状態だった。
 何度目か解らないせめぎ合いを経て、美鈴は徐々に身体を起こし、メリーの重圧を見事に跳ね返した。この勢いであればそのまま押し倒すことも出来ようが、赤髪の門番が望むものは支配ではなく共感であり、主導権は握ってもどちらかが一方的に受け手に回るのは好ましくない、と考えているようだ。
 瞳の色は恍惚に染まり、桃色空間はふたりを越えて蓮子と阿求をも包み込む。体勢が入れ替わってからは目を逸らしていた蓮子だが、耳はふたりの絡み合う音から離すことができなかった。阿求は無言で注視していた。
「はむ、ちゅっ……メリーのくちびる、とってもおいしいわぁ……もう、食べちゃいたいくらい」
「いやぁ……やめないで、もっと、もっとキスして……」
「うふ、そんなに欲しがって、いけない子ね……」
 吐息が触れ合う距離で見詰め合い、ふたりは更なる深みに没頭しようとする。が、ようやく取り残された観客がいることを悟り、美鈴の鎖骨に顔を埋めるメリーの頬にひとまず小さなキスを送る。
「続きは、もっとふかふかするところで、ね」
「はぁい……」
 完全に出来上がっているメリーを、美鈴は「よいしょ」とひとつ掛け声を放って一気に抱え上げる。俗にいうお姫様だっこにも気恥ずかしさを見せる様子すら無く、メリーはごろにゃんと美鈴の首筋に鼻を擦り寄せていた。
「こ、こら、くすぐったいじゃないの。後でちゃんと舐めさせてあげるから、今は我慢なさい」
「うぅん……けち……」
「ま、こういうわけですので。熱のあるお嬢さんのために休憩を取ることに致しますゆえ、引き継ぎはこれから来る方にお願いしますね」
 承知しました、と親指を立てる阿求。空いた口が塞がらない蓮子。美鈴しか見ていないメリー。「行きましょうか」とメリーに告げ、颯爽と門を開け放って紅魔館の敷地内に消える美鈴。
 彼女たちの姿が見えなくなって数秒、蓮子は自分の顎を叩き上げて無理やり口を閉ざした。加減を間違えてとても痛い。
「……行っちゃったんですけど」
「ひとまず、美鈴さんに預けておけば安心でしょう。メリーさんが虜にされる可能性も否定できませんが」
「うわぁ……誰も彼もえろいことしか頭にないのかしら……」
「そうでもありませんよ」
「そうなの――か、て、うわあぁっ!?」
 突然、背後から聞こえた柔らかい否定に、蓮子は驚いてその場から飛び退く。結果、正面にある壁に頭から激突し、苦痛と共にしゃがみ込み二重の意味で頭を抱える。
「いたたた……」
「蓮子さん落ち着いてください」
「わかってるわよ……なんか調子狂うのよね……」
 踏ん張って、拳を握って立ち上がり、闖入者に向かってなるべく神経を逆立てないように気を遣いながら誰何の声を挙げる。。
「ど、どちらさま!?」
「蓮子さん落ち着いてください」
「わたくし、この紅魔館のメイド長を務めております、十六夜咲夜と申します」
「……あ、どうも。宇佐見蓮子です」
 案外あっさりと自己紹介され、やっぱり調子が狂う蓮子であった。
 おかしいなーとしきりに首を傾げている蓮子を横目に、咲夜は先程の蓮子の呟きを律儀に拾う。
「先程の件ですが。あの門番は両刀な人種なので、紅魔館の住民が全て色情狂だと思われるのは、あまり好ましいことではありません」
「はぁ、両刀……」
「具体的に言いますと、男でも女でも、それ以外でもお構い無しの節操無しなのです」
「そ、それ以外……」
「具体的に言いますと」
「それ以上余分な情報を与えると蓮子さんが破裂するので、やめてあげてくださいね」
「あぁ、阿求」
 やはりこちらも知り合いなのか、蓮子と対するよりは親しげな口調になる。けれど、阿求がこれから行うのはれっきとした交渉であるため、彼女の表情はいつになく真剣である。
「お久しぶりです。咲夜さん」
「そうですわね。あまり長居もできないでしょうけど、入られるのならごゆっくり」
「いいんですか? 多少、紅魔館の立場が危うくなる点があるのでは?」
「いいんですよ。例の件に紅魔館当主の意志は一切介在しておりません。私を含め、ある一名を除いた紅魔館の全員は、主犯の引き渡しに応じることで身の潔白を証明する、という意見で一致しています」
「その是非は、私ひとりが判断できることではありませんが。最低でも、背中からぶすりと突き立てられることがないよう祈りますよ。痛いですし」
「あら、そこまで下品な接客をした覚えはありませんわ。私は優しいですし」
 短いながら、行間に含んだものを秘めたやり取りであった。慈悲深いというよりは硝子のような硬質の笑みをたたえ、エプロンドレス姿の間違いないメイドが立ちはだかる。額面通り案内に従うか、別の道を選ぶかの二択を迫られる。
 結局のところ、取れる手段はひとつしかないわけだが。
「だ、そうです。蓮子さん」
「え、ここで私に振るの?」
 阿求に任せきりだっただけに、いきなり意見を求められて戸惑う蓮子。普段、秘封倶楽部の代表としてメリーを引っ張ることに慣れているせいか、一度主導権を失うと途端に行動の指標を見失う。ゆえに、急に話しかけられると復帰するのに多少の時間を必要とする。
「……もう、こうなったら行くしかないでしょう。他に手はないんだから」
「蓮子さんなら、そう言うと思いました」
「見透かされてたみたいで腹立つわね……」
 感慨深げに頷く阿求の額をぺしりと叩いて、蓮子は咲夜の正面に立つ。銀色の、おおよそ現実離れした髪に気後れしながら、それでも瞳だけは逸らさないように。
「案内してください。全ての元凶のところへ」
「畏まりました」
 恭しく会釈をして十六夜咲夜は短いスカートを翻した。
 瞬間、絶対領域という不慣れな単語が脳裏をよぎったが、高まる緊張感の前にそれを口に出すことはなかった。
「絶対領域――ですね」
「言うし」
 はばからない女、その名を稗田阿求という。

 紅魔館の名の通り、外観も紅ければ内装も紅い。主の趣味か風水的な趣向なのか、窓が少なく内部に光を取り入れない構造をしている。そも、外から見た以上に部屋が多く、異様に広大である。廊下の果ては視界に収まらず、紅い絨毯はその最果てにまで長く伸びて留まるところを知らない。
 歩いても歩いても終わらず、ふかふかの絨毯を踏んでも足音ひとつ響かないせいか、前に進んでいる実感が乏しい。等間隔に灯るランプの光も、板チョコのような無機質極まりない扉も、初めのうちは驚愕に値するものだったけれど、三十分も同じ景色が続くと流石に飽きが来る。
「あの」
「何でしょう」
 十六夜咲夜は無駄口を叩かない。蓮子が質問すればきちんと答えるのだが、基本的には雑談も独り言も何も発しないまま歩を進めている。
「私たちは、本当に前に進んでいるんでしょうか……」
「哲学的ですね」
「茶化さないでください。終わりが見えないから不安になったんです」
「ふふ、ご安心を。外から来た方々が無事に辿り着けるよう、道を確保しながら進んでおりますわ」
 外、という表現にかすかな違和感を抱く。里、と言う方が適当なのに、わざわざ外から来たと表現する意図は何か。何とはなしに阿求を見れば、彼女はどこか不意を突かれたように顔を伏せた。
 紅魔館がどういった建物か、蓮子は詳しく知らない。ただ、この構造や雰囲気からするに、頻繁に人間が出入りできる建物ではないように感じられる。隔絶、拒絶、あるいは孤高であるがゆえの内外ということだろうか。
 それとも。
「……この、素敵なお屋敷に住んでいる、素敵なご主人に」
 ポケットをまさぐっても、いつかのクッキーはもう出てこない。
 蓮子の呟きを受けて、咲夜も、阿求の足も止まる。脈絡のない台詞だった。しかし意味のある言葉だ。
 答えなら、この世界に来てから既に抱き締めていた。
「メリーは一度、このお屋敷に――」
「はい、そこまで」
 致命的な台詞を紡ぎかけた唇に、なめらかな指が待ったを掛ける。その人差し指は咲夜のものだが、少し前を歩いていたはずなのに、どうして吐息の熱さえ解る距離まで接近しているのか。彼女の、貼り付かせたような笑みに背筋が凍る。
 真実はおそらく、目と鼻の先にある。紅美鈴は、キスの最中にメリーの名前を呼んだ。その直前にも、以前会ったことがあるかのような態度を取っていた。
「続きはいずれ、夢の中で」
 氷の微笑が、唇の方向に少しだけ割れて、咲夜は蓮子に背を向けた。
 ――夢。どうやら、その言葉が鍵であるらしい。
 今はまだ、時が満ちていない。メリーもいない。秘封倶楽部の本懐を遂げるためには、足りないものが多すぎる。
 だから今は、メリーを救うために最善の努力をしなければならない。
 そう、固く決意して再び歩き出すと、いきなり咲夜の背中に顔面から激突する。むぎゃ、と気の抜けた呻き声も意に介さず、咲夜は淡々と決められた台詞を告げる。
「着きました」
「――あ、あれ?」
 鼻を押さえながら、周囲をきょろきょろと窺う。代わり映えのしない景色の中に、輪を掛けて巨大な扉が待ち構えていた。咲夜の言葉を信じれば、ここが目的地のようだが。もしかして、咲夜が足を止めたのも、蓮子の呟きがどうこうではなく、目的地に着いたから自動的に止まったということか。
「……ここ?」
「ここです」
 扉に取りつけてある金メッキの輪っかで、多少力を込めて強くノックをする。内からは何の反応もないが、咲夜は一仕事終えたとばかりにひとつ息を漏らした。
「それでは、私はこれで」
「あ、ちょっと――!」
 踵を返し、詳しい説明もないまま何処かに去ろうとする咲夜を呼びとめて、蓮子は硬直した。
「――あ、あれ?」
 いないのだ。
 声を掛けた瞬間には視界に捉えていたはずの銀色が、次の瞬間には姿を消していた。振り向いても振り仰いでも、十六夜咲夜は何処にもいない。阿求を見れば、さも当然であるかのように肩を竦めて扉を指差した。
 置いてきぼりにも程がある。
「え、何、どうなってるの?」
「まあ、そうなるのも仕方ありません。詳しい説明は端折りますが、咲夜さんにはそういう特殊な能力がある、ということです」
「へぇ……」
 ふと、まぶたの上から己の眼球に触れる。空を視る目。異界を覗く瞳。それぞれ、異なるものを読み、暴く力を秘めている。現も夢も、そのような能力には事欠かない。
「かくいう私も、彼女ほどではないにしろ、特殊な能力を持っているわけですが」
「類稀なる性欲の持ち主とか?」
「それは蓮子さんの専売特許でしょう」
「何を言っているのか理解できないな」
 ドスケベのくせに、と小声で囁く阿求に対メリー用頭頂部チョップをお見舞いして、ノックを鳴らされたまま放置プレイに処されている扉の前に立つ。
「いよいよ……ですね」
「うん、まあそうなんだけど……」
「歯切れが悪いですね。旅立ちの頃の情熱はどうしたんですか」
 ぷんすか怒る阿求には悪いが、蓮子にはあまり興奮できない理由があった。
「ていうか、盛り上がりも何も、えろいことしてたらいつの間にか犯人のところに案内されてたみたいな展開なんだけど……」
「……」
 無言。
「さぁ、いよいよですね……!」
 仕切り直した。
 蓮子の身長の倍はあろうかという巨大な扉は、押しても引いても開きそうにない。だが、蓮子はゆっくりと力を込めて扉を押す。阿求にも手伝うよう促すが、頭を押さえて恨みがましい視線を送るほかは主立った行動を起こさない。阿求の頭は、メリーのそれよりも幾分か柔らかいらしい。
 扉に肩を寄せ、体重を掛けて押し開く。抵抗は確かにあるものの、力を入れれば入れた分だけ扉は開いてくれた。蝶番の軋む音が耳障りで、それも開き切れば雑音も消える。薄暗い廊下よりも更に彩光が弱い空間に足を踏み入れ、埃っぽい空気に咳がこぼれた。
「けほっ……全く、掃除くらいちゃんとしなさいよ……」
 扉から手を離し、ふたりは主犯の待ち受ける部屋に侵入する。程無くして、扉の閉まる物々しい音が響く。鍵が掛けられた気配はない。瞳を凝らせば、この部屋が相当に広い空間であることが知れる。ランプもそこかしこに灯ってはいるが、ここから全容を把握するのは困難を極める。
 視界に映るのは、不規則に並べられた書架と、膨大な書物の群れ。整理されているもの、欠けているもの、床に積まれ、顧みられることのない本の山、おおよそ考え得る限りの本の末路が此処にはあった。
 最も適当な呼称は、図書館である。
 それ以外にあるとすれば、趣味が高じて本を収集したが、結局収拾が付かなくなってしまった愚か者の部屋、とでも言うべきか。
 だが、この部屋が本来の役割を果たすべき時は今ではない。
「――お待ちしておりました」
 真正面、天高くそびえる書架の上。振り仰げども天井までは視界が及ばず、四方八方から照明を浴びた女性の存在が際立って見える。
 門番の紅を、より濃く染め上げたような髪。ブラウスと黒いベストを身に纏い、ロングスカートはくるぶしを隠さない程度に。漆黒の羽は、その一対を背中から、もう一対を頭から生やしている。
 腰に手を当て、眼下に忍び寄る人間たちを睥睨する。
 風のない部屋で、彼女の髪がわずかになびいた。

 

 






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2010年3月14日 藤村流


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