00:50(+18) 霧雨邸
深夜に玄関をノックされるという非常識な事態が、魔理沙を襲っていた。
ノックはごく低い、丁寧なものだったが、いつまで経っても鳴り止む気配がない。布団を頭までかぶって無視しようと決め込んだ魔理沙だったが、相手のあまりのしつこさに、とうとう折れた。
「なんだってんだ、こんな時間に……」
寝ぼけ眼でベッドを這い出て、扉に向かう。
その向こうにいるのは、誰なのか――誰だっておかしくはない。魔理沙の知り合いには、時間を理由に遠慮するような淑女など、ほとんどいなかった。我ながら素晴らしい交友関係だと、彼女はしみじみ思う。
欠伸を噛み殺しながら扉を開けた魔理沙は、しかしそこに予想外の顔を見つけて、立ち尽くすこととなった。
そこにいたのは、まったく知らない顔の、小柄な少女。
だが……その服装には見覚えがある。紅魔館のメイド服。となれば、彼女はスカーレット家に仕えるメイドということになる。
「夜分遅くに、大変申し訳ございません」
魔理沙よりもまだ幼げな顔立ちの少女メイドは、慇懃な礼を見せた。
「我が主の客人、パチュリー様が、仕事を依頼したいと申しております。それも早急の」
「仕事?」
「はい、霧雨魔法店店主としての魔理沙様への依頼であるとか」
予想外の訪問者がもたらしたのは、予想外の言葉だった。さらに畳み掛けるように、メイドは手紙を差し出してくる。
「詳細はこれで熟知してください」
手紙の内容は簡潔なものだった。それをさらに要約すると以下の通り。
『今夜月へのロケットを飛ばす予定だけど永遠亭の連中が邪魔しに来たので追い払うのを手伝って報酬はずむから』
「まだ諦めてなかったのか、あいつら……」
手紙を読み終えた魔理沙は、げんなりした顔で戸口にもたれかかる。
いつぞやの晩夏。永い夜の異変が解決された後、レミリアの一派がロケット開発に燃えていたことを、魔理沙は知っている。なにしろ魔理沙自身が部品のひとつとして、危うくロケットに組み込まれるところだったのだ。
メイド長に拉致されかけて逃げ惑ったことは、今となってはいい思い出――になっているはずもなく、思い返したくもないトラウマと化している。
だから魔理沙としては、なんでそんな忌まわしい計画を護ってやらにゃならんのかと、一蹴したいところだった。だが、
「魔法店への依頼ときたか。考えたな、パチュリーのやつ」
個人的な助力の要求ならつっぱねてやっても問題ないが、仕事となれば話は別だ。客への対応は、この後の信用に大きく関わってくる。まあ、いまさら取り繕っても無駄という気がしないでもなかったが。
「しかし、対永遠亭の戦力に加われ、とな。つまりは傭兵になれってことだろ? うちはそういう店を目指しているわけじゃないんだがなあ」
複雑な心持ちとなるが、断る気など既になかった。
なによりも面白そうではないか、ロケットの打ち上げなんて。首を突っ込んでみる価値はありそうだ。
「オーケー。受けようじゃないか、その依頼。ただし、細かいところは向こうで直に詰めさせてもらうからな」
「ありがとうございます」
嬉しそうな顔になるメイドをそこへ残すと、魔理沙は寝室へと取って返し、急ぎ寝間着を脱ぎ捨てた。瞬く間に白黒のエプロンドレス姿へと変身、愛用の帽子を頭に乗せ、相棒たる箒を手にする。
玄関へ戻ると、この早業にメイドが目を丸くしていた。
戸締りする手間ももどかしく、魔理沙は箒にまたがって、メイドに自分の後部を示す。
「ほら」
「え?」
「乗れよ。事は一刻を争うんだろ? 到着前に作戦失敗じゃ、笑えないからな」
それでもためらうメイドを強引に引っ張りこむ。そして彼女が姿勢を安定させるなり、急速浮上。
「あの、魔理沙様……できれば、安全運転を心がけていただけると助かるのですが」
紅魔館のメイドで魔理沙の暴走ぶりを知らぬ者などいなかった。轢符「ヒットアンドラン」の犠牲になった者は、それこそ星の数ほどに。
魔理沙はおざなりにうなずく。
「そこそこに心得た。ところでお迎えのお嬢さん、名前はなんていうんだ?」
「私のことは……今夜はチェンバー4と、そうお呼びください」
「ちぇん……黒猫? 変わった名前だな」
言葉を交わしている間に、箒は月光と冷ややかな大気で満ちた夜空に至り、森を眼下としていた。遠く地平の上には、光の花が咲き乱れている。
「タリホー。あれか、ずいぶんと派手にやってるようじゃないか」
魔理沙のつぶやきはわずかに震えていた。早くも昂揚しつつある。
高度は十分。箒の穂先から星屑のような光の粒がこぼれ始める。増速。
「行くぜ、スーパークルーズ!」
「あの、ゆっくり……きゃああぁっ」
短い悲鳴と星屑をこぼしながら、箒は夜空を流星となって飛翔する。戦場、紅魔館上空へと向けて。
おぺれーしょん・かうんとだうん 2
00:57(+11)
混迷の空に星が流れる。
月光満ちる遥かな空より、弾幕の小太陽が照らす此方へと。
きらきら七色に瞬く乙女ちっくな尾を曳いて、箒星は戦場へと流れ来る。
☆
流星の接近を最初に察知したのは紅魔館の方面警戒担当であり、次がパチュリー、さらに美鈴と続く。
咲夜はそれどころではなかった。
半身の援護射撃を受けながら、妖夢が神速で踏み込んでくる。
必殺の一刀を、咲夜は急上昇でかわす。芸術的な月面宙返りを披露しつつ妖夢を飛び越し、敵の背中へとナイフの束を叩きつけた。
妖夢は急制動をかけ振り返る。身を翻しながらナイフの間隙をすり抜け、同時に左手に符を抜いていた。
「散るがいい」
不意に風向きが変わった。咲夜の肌を撫でる南からの風は、季節を間違えたかのような温もりを帯びていた。
そして、風の中には春色の花弁が無数に舞う。
妖夢が風に乗って駆ける。それはどこまでも疾い、季節外れの春一番。
奥義「西行春風斬」
確実にこちらの胴を薙ぐ間合い、鋭さだった。それを直感的に知った咲夜は考えるより早くカードを切っていた。
幻象「ルナクロック」
月光が凍りついたとき、白刃はほんの鼻先にまで迫っていた。咲夜の顎に冷や汗の一滴が伝う。
刃の向こうに見える剣士の澄み切った瞳へと、咲夜はささやく。
「あの春から比べて、ずいぶんと腕を上げたみたいじゃない」
動いている時間の中で聞かせてあげたら、彼女は喜ぶだろうか、それともからかうなと憤るだろうか。
想像して微笑んだのは一瞬。体の代わりにトランプカードを一枚残し、横っ飛びに敵進路を離れる。そして時間停止解除。
桜色の剣閃と共に、妖夢の秘太刀はカードを切り裂いていた。ハートの4が砕け散る。
咲夜、都合四度目の緊急回避だった。
戦場の中心を、二人は独占していた。
高速で駆け回る妖夢と、時間操作の能力でそれをいなす咲夜と。二人の実力は他に比べてあまりにも突出しており、一瞬の時間をさらに極限まで刻み合うような彼女らの戦闘は、他者が容易に介入できるものではなかった。
ために、戦場の只中にありながら、ほぼ完全な一対一という形が成立してしまっている。それはさながら、皆がゆったりとしたステップを踏んでいる中で、二人だけが曲を無視して激しい舞踏を披露しているかのような異様さだった。
咲夜としては、まったくもって好ましからぬ流れだ。今夜の彼女の役割はあくまで指揮官であって、決闘者などではない。タイマンに心血を注いでいる場合ではないのだ。
なのに。今の彼女はまったく指揮官としての仕事をさせてもらえないでいる。
妖夢の攻めはそれほどに激しい。ろくに息もつかず咲夜の周囲を駆け続けている。それはもう呆れるくらい走る走る、それが仕事だと謂わんばかりに疾走する。走りながら鋭い太刀筋で咲夜を切り捨てんとしてくる。
それだけなら単調に過ぎ、切り返す手立てもあるのだが、困ったことに相手はアクセントとしてスペルカードを挟みこんでくる。出し惜しみすることなく、早くも三枚を消費していた。
これには咲夜も全力で応戦するしかなかった。先刻まで戦況の把握に役立てていた時間停止能力も、緊急回避に充てざるを得ない。
おかげで戦局に気を回せず、部下から指示を仰ぐ声が来ても、まともに応えてあげることすらできずにいた。
対して敵は、鈴仙が指揮に専念しているはずだ。このままでは遠からず、こちらの戦列は綻びを見せることとなるだろう。
これこそが妖夢の狙いだったのだと、咲夜は今更ながらに気付く。
そして妖夢の後ろにある、永遠亭の頭脳、八意永琳の存在をはっきりと感じた。あの薬師は妖夢という駒を、これ以上なく的確に用いていた。すなわち、咲夜に的を絞った刺客。
「ガードリーダー、こちら咲夜。当座の指揮を執って」
短い葛藤の末、咲夜は近衛中隊の隊長に指揮権をゆだねた。戦局の悪化を防ぐにはこれしかない。
歯がゆい思いに苛まれる咲夜の前で、妖夢が新たな符の発動を宣言する。
畜趣剣「無為無策の冥罰」
それを選んだのはこちらの現状を皮肉ってのことかしら――咲夜の苛立ちは募る。
☆
敵勢の動きがわずかに鈍ってきたのを、鈴仙の赤い瞳は見逃さなかった。
敵指揮官を妖夢が釘付けにしてくれた成果だ。ならば自分はこれに応えなければならない。
この機に、いったん間合いを取って態勢を完全に整えなおすか、強引に攻め込むか。ここで判断を誤るわけにはいかない。
「どうする……?」
鈴仙は自分に問いかける。
ここに師匠はいない。てゐもはぐれたままだ。自分ひとりで決めなければならない。
鈴仙は月を見上げる。
視界を月の光で満たし、そこに住んでいた頃を思い出す。仲間内でも抜きん出た実力を持ちながら、性格的に前へ出ることを拒んでいたこと。部下を率いる地位についても消極的な行動ばかり選び、腰抜けと後ろ指差されていたこと。
そして、最後の戦のこと。あのときのことは今も夢に見る。
ためらい、背を向けたことで、多くのものを失ってきた。もう、これ以上は失いたくない。
それに、時間を稼いでくれた妖夢に応えるにも。ここは進むのが最良だと彼女は信じた。
顎を引くと指先を月へ向け、朱色の弾を一発、撃った。
弾は頭上高くで炸裂、まばゆい光を散らす。全軍進メの信号弾。
「突撃、勇躍突進せよ! ここが勝機よ!」
ブレザーの袖を大きく振り下ろし、鈴仙は声を張り上げる。長い髪に故郷の光を映して、月の兎は脱兎の勢いで走り出した。
00:58(+10)
『門番中隊へ、こちらガードリーダー。敵一小隊を後逸、カバー願う!』
思いのほか早く、そのときは来た。敵の一部に前線を突破されたのだ。
ヘッドドレスを介した通信を耳にし、咲夜は表情を硬くする。
後衛に美鈴たちがいる限り、これで即、致命的な結果へとつながることはないだろう。けれど、堤に綻びが生じてしまったのは事実だ。そこから大規模な決壊が始まらないとは断言できない。
焦燥が顔に出てしまったらしい。押し寄せる弾幕の向こうで、妖夢が口を細い三日月の形にしていた。
「指揮官の動揺は兵を浮き足立たせる。逆もまた然り、ということね」
そして剣士は半身をそばに呼び寄せ、左手に白楼剣を抜いた。
「これでとどめさせてもらう。吾が魂魄のすべてを受けられるか」
魂魄「幽明求聞持聡明の法」
半身がまたも妖夢の姿をとった。その手には人間側と同じ、二本の差料。
計四刀を止めるには、何本のナイフが要るだろうか。自虐的なえくぼが咲夜の左頬に浮かぶ。
戦況を変える報が届いたのは、そのときだった。
『戦場の全ての友軍へ、こちらチェンバー4。南、高度四五〇より魔理沙さんが突入します! 総員、退避の用意を!』
はっと目を上げて、そこで初めて咲夜は、箒星が流れ来るのを見たのである。
一瞬とはいえ、視線を逸らしたことは敵への誘いとなった。二人の妖夢はこの隙を逃さず、楼観剣を地擦りに詰め寄ってきた。
流星が閃光を発したのはその瞬間だ。
二条の白光――ストリームレーザーが夜空を矩形に切り取った。
妖夢の反応は賞賛すべきものだと言えた。
自分へと向けられた殺気にすんでのところで気付き、咄嗟に白楼剣の刃をレーザーの射線へ置いたのだ。
人間側と変化した半身側と、どちらの妖夢も同じ反応を取っていた。だが迎えた結果は正反対のものであった。
人間側の妖夢の刃は、光の速さで迫ったレーザー光を見事に吸い、そして湖面へと向けて反射させた。光の落ちた地点に水蒸気の煙が立つ。
だが霊魂側の刃はランデブーに失敗した。タイミングか、はたまた運が悪かったのか――それは判然としないが、とにかくレーザー光は刃をかすめるようにして、刀の主を直撃したのだ。
半身は声なき悲鳴を上げ、そしてその体を陽炎のようにゆらめかせた。
半身の苦痛は人間側も共有する。身を灼かれる痛みに、たまらず呻き声が漏れた。
「くっ……」
半身の妖夢像が霧散し、もとの霊魂の形に戻る。その直後、レーザーの照射は止んだ。
妖夢は熱を帯びた白楼剣を抱え、数歩退いた。動きが明らかに鈍っている。
そのすぐそばを、
「まずは挨拶がわりだぜ」
星が、流れ落ちていった。
美鈴は直進してくる流星を見つめていた。
「まさか、あいつと共闘する日が来ようとはね」
これまで散々に、そして易々と門を抜かれてきた歴史を回顧すると、複雑な思いとならずにはいられない。
視線を下げる。正面からは、前線を貫いて敵の一個小隊が接近してくるところだった。
既に門番中隊は展開を終え、迎撃態勢に入っている。防御陣の中心に立ち、美鈴はゆるやかに身構えた。
「みんな、あちらにお客様がお見えよ。兎様ご一行。紅白や白黒みたいな化け物じゃない、普通のお譲ちゃんたちだろうから、ほどほどにね」
「はーい」
「ええと、なんだっけ……あ、アシャレット8、了解」
「故事に倣って裸にひん剥いて、いろいろサービスしちゃいますよぉ」
すぐ背後に本丸を守っている、正真正銘の背水の陣だというのに、彼女らに緊張の色はほとんどなかった。
かと言って油断しているわけでもない。場数を踏んできた自信がある、それだけのことなのだ。
主に魔理沙との戦いで鍛えられ、今では紅魔館随一のタフガイもとい使い手が集まる部署として、門番職は認識されつつある。
「あんたに感謝すべき、なのかしらねえ」
頭上を過ぎていった星に、美鈴は内心でため息。そして射程内に侵入した敵部隊へ向けて、開幕の弾幕を叩きつけた。
☆
「ストレガ、こちらチェンバー4。魔理沙さんと共に中庭へ着陸します」
『了解、着陸を許可するわ。誘導班、誘導開始』
案内役の通信を背中で聞きながら門を越えた魔理沙は、すぐさまその異様な物体に目を奪われた。
「あれがロケットってやつか……」
中庭の中央、それは月光を全身に浴びて、鈍い光沢を闇にこぼしている。
開けた空間には二十人近くのメイドたちがいて、真剣な顔でそれぞれの仕事に取り組んでいた。ぴりぴりと張り詰めた空気の只中に魔理沙は降り立つ。
背後でチェンバー4が疲れきった風に大きく息をついた。魔理沙の家からこっち、非常識な高速飛行に付き合わされたのが、よほどこたえたらしい。
「ふう……それじゃあ、私は原隊に戻りますので」
「ああ、ご苦労さん。私もすぐに行く」
空へと戻る彼女に、魔理沙は振り返りもせずなおざりに手を振ってやった。そして、のしかかってくるような金属塊を見上げながら、発射塔へと近づいていく。
それにしても、本当に完成させているとは。驚きと呆れの入り混じった複雑な表情でいると、
「月往還船、ディープパープル2号よ」
いつの間にかパチュリーが隣に並んでいた。
歩みを止めぬまま、魔理沙は彼女の横顔に尋ねる。
「名前もずいぶんとアレだが、『2号』ってのは?」
「以前、あなたを推進力に組み込もうとしたのが、1号」
その言葉にトラウマがよみがえってきて、魔理沙は背筋にぞっとするものを覚えた。
ふと、疑念が胸によぎる。もしかしてこのロケットにはまだ推進力が搭載されていないのではないか。パチュリーは再び魔理沙を用いんと、仕事と称して誘い出したのではないか。あの手紙は罠だったのではないのか。
「安心して、今回はちゃんと自前の推進機関を用意したから。一級閃光型魔力ロケットエンジン・改、その理論推力は実に250msを誇るわ。紅白大結界だろうとなんだろうと、ずんどこぶち抜くわよ」
パチュリーは魔理沙の胸の内を読んだかのように、淡々と説明した。
「“ms”って?」
「1msでマスタースパーク一発分相当の爆発力よ。あるいは魔理沙一人分。MariSa――ね?」
「ね?じゃない! 私を単位に使うな、恥ずかしい」
「とにかく、スキマ妖怪の協力もあったし、必要なパーツは全て備えているわ。ちゃんとアームストロング砲も船首に取り付けてあるのよ」
「紫が一枚噛んでたのか。胡散臭さが倍増だな」
苦い笑みを、魔理沙は口の端に刻む。
発射基の前で足を止めると、二人は視線を交わした。
「ともあれ――傭兵推参、だ。ビス止めの心臓を見せてやるぜ」
「期待してるわ。いつも私たちを脅かしてきたその暴虐ぶり、今夜ばかりは大目に見てあげる」
「私はいつも紳士的だぜ。ところで、先に仕事の内容を確認しておこうか。後で揉めたくないしな」
「あなたの仕事は、ロケットが発射され、安全高度に達するまでのあと約十分間、これを死守すること」
手に持った計画要綱の書類をめくりつつ、パチュリーは淡々と語る。
「敵を殲滅……いえ、撃退すらする必要はなし。無事にロケットを打ち上げられれば、それで私たちの勝ちよ。報酬は先に手紙で伝えた通り。戦いぶり如何で、他に手当ても考えるわ」
「その報酬のことなんだがな。グリモワール半ダースもいいが、他に欲しいものがある」
「なに?」
魔理沙はにやりとし、箒の柄先で天上に浮かぶ銀盤を指した。
「月への往復チケット。――安眠してたのを叩き起こされたんだ、月の夢くらい見せてくれたっていいだろう?」
「ダメよ」
即答だった。
「もうペイロード限界なの。搭乗員を削るわけにはいかないし、これ以上は本の一冊も積み込む余裕はないわ」
「どうしてもダメなのか。体重の軽さには自信があるんだけどな」
「これが成功したら、また次の計画を立ち上げる予定よ。別の機会になら考えてあげる」
「ちぇっ……でも、まあいいさ。このルナティックな夜に二度寝する手はない。さっきの条件で受けるぜ、パチュリー」
「そう言ってくれると思っていたわ、魔理沙」
パチュリーの顔に初めて笑みが浮かぶ。
「そうと決まれば、あなたに渡すものがふたつあるの」
彼女が手で合図すると、どこからか小悪魔が駆け寄ってきた。
メイド姿の小悪魔を見て、魔理沙は訝るように眉を寄せ、だがすぐに開いた。ここまでの往路で案内役のメイドに話を聞かされていたのだ。
「ああ、例の、離れた相手と話せるヘッドドレスか。前に香霖から聞いた、無線とかいう道具みたいなやつだろ」
「そう。あなたにも着けてもらうから」
パチュリーは小悪魔から未使用のヘッドドレスを受け取ると、魔理沙へ差し出した。
魔理沙はちょっと考える素振りを見せてから、帽子を脱いで小悪魔に渡す。
「こいつは寂しがりなんでな。目を離さないでくれよ」
そして代わりにヘッドドレスを装着。白黒のエプロンドレスとの組み合わせは、さほどの違和感もない。少なくとも、人民服とのコーディネートを強制された美鈴よりは。
これでひとつ。パチュリーの言う、もうひとつの「渡すもの」とやらまでは、見当がつかない。
「コールサインよ」
しごく真面目な顔で、パチュリーは言った。
「候補はふたつあるんだけど。ブラックフライとブラックハート――どっちがいいかしら?」
「どっちもいらん!」
きっぱり言い捨てると、魔理沙は箒にまたがり、逃げるようにその場を飛び出した。それこそロケットのような勢いで戦場へと上昇していく。
それを小悪魔は苦笑気味に見送り、パチュリーは、
「……イカルガってのもありかしら、白黒だけに」
静かにつぶやいていた。
行く手には無数の敵味方がひしめき合っている。チェンバー4から聞いた話によれば、彼我の戦力は総計で五百近くにも上るという。今は多少減っているだろうが、それでもついぞ経験したことがない規模の大空戦だ。
「大した集客力だぜ。レミリアたちにも幹事の才能があるのかもな」
急上昇しながら魔理沙は懐からミニ八卦炉を取り出している。
炉を掴んだ手でイリュージョンレーザーを照射。魔法の光線は歪曲しつつ炉の中に吸い込まれ、炉内で反射を繰り返しながら急速に熱量を増していく。
順調な加圧を掌で確認し、狙いを定める――敵が密集していて、味方のいない方角へ。そして対反動姿勢、炉内に満ちた爆発的な魔力を解放。
「霧雨魔理沙、エンゲージ!」
交戦宣言と同時、マスタースパークの光芒が戦場を貫いた。
☆
戦闘が始まって八分。
撃墜された者の数は、両軍の総計で五十名に達しつつあった。
だが、戦場直下の湖面に、被撃墜者の影は意外と少ない。意識のないまま沈んでしまったのかとも思えるが、よくよく目を凝らせばそうではないことが知れる。
水面には大妖精を中心とした妖精たちの姿があった。彼女らは気絶した被撃墜者を近くの陸地にまで運んでいるのだった。墜落後、水面にうつ伏せとなって溺死の危機に瀕しているような者がいれば、優先的に仰向けの姿勢へ直してあげたりもしている。どう見ても救護活動です。
それは、もともとは紅魔館の救護班の仕事だった。だがたった二人しか用意されていなかった救護班では、想像以上のペースで生産される墜落者に対応しきれないでいた。
そこへ湖の妖精たちを引き連れた大妖精が現れ、自発的に助力を申し出たのである。
「こんなこと、見過ごすわけにはいきません。私たちにも手伝わせてください」
救護班のメイドたちが困惑を見せると、大妖精はさらに言った。
「ここは私たちの湖です。私たちに断りなくこんな争いを起こした上、大勢の無用な犠牲者を作るなんて、認めるつもりはありません」
語調はあくまで穏やかだったが、言外の迫力が、そこにはあった。
気圧されたメイドたちはパチュリーに許可を求め、そしてこれを迎え入れたのだった。
それからの妖精たちの活躍は目覚ましいものだった。湖面に力なく浮かぶ人影を次々と、ピストン輸送の勢いで湖岸へ運んでいった。決して手馴れた仕事ではなかったろうが、そこは数の力で補っている。
妖精たちには紅魔館のメイドも永遠亭の兎もなかった。浮かんでいる人影があれば、区別することなく救いの手を差し伸べる。
紅魔館の救護班もそれを咎めることはしなかった。実のところ彼女らも、出来る範囲でという条件付きではあったが、陣営問わず助け上げるようにと指示されていたのだ。
弾幕で満ちた空の下、小さな影が懸命に飛び回るそこは、もうひとつの戦場だった。明確な敵や飛び交う弾こそなかったけれど、彼女らは確かに戦っていたのである。
天から悲鳴が降ってきて、新たな犠牲者がぼちゃりと水柱を上げた。妖精たちは透明な羽を震わせて、そちらへ飛んでいく。
ところで、救助された者は最寄りの岸に引き上げられるのだが、その内の何割かは紅魔館の建つ島に運ばれていた。やはり、どちらの陣営に所属するかは無関係に。
草地の上、ぐったりとなったびしょ濡れの少女たちが並べられている光景は、どことなく魚市場を思わせる。みな憔悴しきった顔で、わずかに身じろぎする程度の動きしか見せない。
ところが、その内のひとりが、むくりと身を起こしたではないか。
撃ち落されたばかりにしては奇妙に活力で満ちた瞳を持つ彼女は、因幡てゐであった。
てゐはゆっくりと、だが危なげのない動きで立ち上がる。淡い色のワンピースはすっかり濡れそぼち、肌も普段以上に色を失っていたが、どこにも被弾した形跡はない。
すぐそばにそびえる紅魔館の威容を見上げ、彼女は幼い外見に似合わぬ老獪な智慧者の光を、瞳によぎらせる。
「まずは上陸成功、と」
永遠亭を発つ直前、てゐは永琳から密かに声を掛けられていた。
「名目上、ウドンゲの副官に据えはしたけど。あなたはあなたの裁量で動けばいいわ」
具体的なことは何も告げられなかったのだが、てゐは自分なりに解釈していた。それはつまり、「やっちゃえ」ということなんだと。
より具体的な言葉にすれば、“単独での破壊工作”だ。
この作戦の目的はあくまでロケット打ち上げの阻止だ。紅魔館の軍勢を蹴散らすことではない。直接戦闘とは、目的達成の一手段に過ぎないのだ。
正面から敵の防衛線を突破できるのならば、それでも良かった。だが接敵してすぐ、それが困難であるとてゐは判断した。敵戦力は予想通り強大なものだったから。ならば搦め手、裏口から目的地を目指すしかない。
敵の奇襲によって鈴仙たちと分断され、孤立しながらも、彼女は焦ることなく活路を求めた。
そこで彼女が目をつけたのは、湖面で粛々と行われている救護活動だった。
それは倫理的に咎められるべき策だったかもしれない。しかし普通に低空から侵入しようとしても阻害されるのは明白だった。てゐは意を決する。
被弾を装い、彼女は自ら湖に身を投げたのだ。紅魔館がある島へと運ばれる、そんな位置を狙って。
事は想像していた以上に上手く進んだ。着水して一分も経たない内に妖精たちが飛んできて、てゐの運搬を開始してくれた。
そしてとうとう、彼女は無傷で敵地への到達を果たしたというわけなのである。
代償として体は濡れねずみ、健康に気を遣う身としては、あまり好ましくない状態となってしまったが、
「ま、ワニ伝いで海を渡ろうとしたときに比べれば、楽なものだったわね」
てゐは不敵にうそぶくのだった。歴戦の詐欺師の風格とでもいうべきものが、その一見したところ無邪気な笑みの奥に潜んでいる。
さて、問題はここからだ。一口に破壊工作といっても、多種多様である。この状況で最も効果的、かつ実行可能な工作は何か。
せっかく敵の本丸を目前としているのだから、直接目標を叩ければいいのだが、単身ではちょっと難しい。目標のある中庭へ侵入するには外壁を越えなければならず、それには門衛たちの目をどうにかごまかさなければならない。
紅魔館の外壁の陰で、てゐは正門の方角を見やり、しばし思索にふける。
そこへ不意に、背後で声が上がった。
『ガーデナー10、こちらガーデナーリーダー。無事なの? 返事をなさい』
てゐは泡を食って、飛び上がるように振り返った。
ところが、そこには誰もいなかった。脱力した少女たちがただ横たわるばかりだ。
なのに、やはり近くから力強い声が聞こえてくるのである。
『……だめみたいね。――指揮官、こちらガーデナーリーダー、第三小隊が全滅しました。指示を……』
ぶつっ、という奇怪な音を最後に残して、声は唐突に途絶えた。
静寂が戻り、だがなおもしばらくの間、てゐは身動きせずにいた。いまの怪現象の正体を突き止めぬまま動くのは危険だと判断したのだ。
「まさか、うわごとじゃないわよね……?」
すぐそばに転がる敵メイドの体を、彼女は疑わしげに見つめる。
詐欺師の条件のひとつ、それは目の前の事象を鵜呑みにしないことである。慎重に、彼女は調査を開始する。
☆
背中越しに、かくまったミスティアの震えが伝わってくる。
ルーミアは友人をかばうべく両腕を大きく広げ、にじり寄ってくる幽姫を敢然と睨みつけた。
「ミスティアは食べさせない。彼女を食べてもいいのは私だけよ」
ブラウスの右袖口から一枚のスペルカードが滑り出てきて、彼女の指の間に収まる。
ミスティアがスカートの裾を弱々しく引っ張ってきた。
「ルーミア、無理よ、逃げて……」
「だいじょーぶ。私たちのペアは無敵なんだから。――唄って、ミスティア。あなたの歌があれば、私は誰とだって戦えるよ」
肩越しに親友へと笑いかけ、そして宵闇の妖怪はカードを高々と掲げた。
「ディマーケイション!」
カードが闇に溶けてゆく。
ルーミアの掲げた手を中心として、夜闇をも凌ぐ漆黒が急速に広がってゆき、月光を覆い隠した。世界が黒一色に染まっていく。
そこへ忽然と、不吉な色に輝く弾が出現した。弾は群れをなして、暗黒の空に境界を刻むべく走る。
眼前へと迫る弾幕に亡霊の姫は目を細め、手の扇を広げた。
「ふふ……ならば私は、生死の境を見せてあげましょうか」
「幽々子、からかうのも大概にね」
神社の一角に生まれた不自然な暗黒空間へ向かって、紫が声をかける。
暗闇の向こうからは戦闘の喧騒に混ざって、夜雀のか細い歌声やら悲鳴やらが返ってくるばかりだった。それを彩るかのように、プリズムリバー三姉妹が激しい曲を奏でている。こう騒々しくては、どんな声も闇の中の少女たちには届きそうにない。
だから霊夢は無駄に怒鳴ったりせず、恨めしげにぼやくばかりだった。
「うー、うるさい……どいつもこいつも、天罰下るわよ」
普段の彼女ならば、いっそ自らが神罰代理執行人として妖怪退治を始めそうなところだったが、今夜はそんな元気もないらしい。いよいよ冷たさを増してきた北風に抗うべく、彼女は布団を頭からかぶり、さらに橙を捕まえて湯たんぽ代わりに抱きしめていた。
「うう……猫って無駄にあったかいわよね」
「痛い痛い、霊夢、ちょっと乱暴すぎ」
胴に回された腕の力強さに橙が抗議するが、霊夢は聞く耳持たず、猫耳に頬ずりさえ始める始末だった。ああ、ほら、隣で藍様が目を三角にしてますよ?
「霊夢、そろそろ橙を返して……解放してやってくれ。さもないと、なんというか、こう……私の中で何かが弾けそうな予感がするんだが」
「まあまあ、落ち着きなさいな、藍。ほら、この芋焼酎でもぐいっといって」
「霊夢ももっと飲みなよ。寒いのは飲みが足らないからだって」
紫と萃香が混沌とした場にアルコールを注ぐ。火に油を注ぐような行為であると自覚していないのか、それとも知っていながらやっているのか。
「飲んでも飲んでも、冷えるものは冷えるのよねえ。橙、もっと体温上がらないの?」
「ひゃっ、ちょっと霊夢、どこ触って……ふあ」
「なんというか、こう、私の中で悪魔が目覚めつつある!」
などとぐだぐだ馬鹿をやっているところへ、ひときわ強い寒風が吹きつける。
風は少女たちの髪を乱しながら、屋根の端で人の形をとった。
西洋靴と高下駄が悪魔合体したかのような履物で屋根瓦を踏みしめるは、天狗の少女、幻想ブン屋――射命丸文だった。
ちょっと不気味な羽音が空に響き、一羽の烏が彼女の肩に降り立った。文はにっこりと笑う。
「どうも、こんばんは。良い月夜で」
「……ちょっと、紫。ここには何も来ないって、あんたさっき言ってなかった?」
「未来永劫来ることなし、とまでは言ってないわよ」
「あの、いいですか? 取材にご協力ください」
ペンとメモ帳を構える文に、霊夢は険のある眼を向けた。
「何しに来たのよ。あんたの好みそうなネタなら、ほら、あっちの空にあるわよ」
「ええ、もちろん知っていますよ」
霊夢の指差す先を確かめもせず、文はうなずく。
「ここは通り道だったので、ついでに寄らせていただきました。戦争というものを報道するには、当事者たちへの取材が欠かせないのはもちろんですが、近隣の第三者に意見を求めることも、より以上に大切なのです」
拳がペンを折らんばかりに握り締められる。胸を反らしたことで、首から提げているカメラのレンズが、きらりと光った。
「なんか、いつにも増して力が入ってるわね」
「それはもう。なんたって従軍記者、戦場カメラマンに憧れていた私ですから。目指せキャパ! ちょっとピンぼけしたくらいでめげちゃダメなんです!」
「素面のくせに酔っ払いよりわけの分からんことを……」
呆れ返る霊夢たちに、文はお構いなしに質問する。
「それでは。今夜の戦闘について、見解などを一言ずつお願いします」
「ん……あれってつまりは二つの家の私闘でしょ? 私には関係ないわよ」
「霊夢は永世中立巫女だものね。そういう私も、どちらが勝とうと興味ないわ。でもロケットが上がるところは見たいわねえ」
「私はなんというか、その、紫様に連れ出されてきただけなので」
「藍様に同じ。でも楽しいから結果オーライ」
「酒のアテに最適」
「――はい、ありがとうございます。世間の反応は冷ややか、ということで」
記帳の合間、文はカメラを戦場の方角へ向けて、何度かシャッターを切っていた。マグネシウムフラッシュなど焚いていたが、この距離で意味があるのやら。
「それでは次の質問。ロケットの打ち上げについてはいかがでしょうか。これは幻想郷の歴史においても特筆すべきことだと小生は思うのですが、果たして成算はあるのでしょうか?」
「一人称がおかしいわよ」
と霊夢はまず突っ込んでから、肩をすくめて見せた。
「ま、失敗するわね。永遠亭の妨害がなくたって、博麗大結界があるもの。あれに阻まれるのが末路よ」
「なるほど……ですが、果たして結界は期待通りの効果を見せるでしょうか? これはちょっと前のことなのですが、大気圏外からの隕石がこの幻想郷に落下しかけたという事件がありました。隕石は消滅時、既に結界の内側まで到達しています。これは如何に?」
「……あれ? また穴でも開いた?」
霊夢はまばたきしながら紫の方を向いた。紫は苦笑を返してくる。
「あなた、自分が管理する結界の状態くらい把握しておきなさいよ。ちゃらんぽらんね」
「紫に言われるなんて……」
二人のやりとりに、文は思案顔となった。ペンを手の上でくるりと回転させる。
「ふむん、そこらへんも現地で確認すべきですね。ご協力ありがとうございました。では……そろそろ戦場へ参ります。あそこでは無数の劇的な一瞬が私のことを待っているのです。それをあまねく世に伝えることが、私の仕事。我が誇り」
なにやら使命感らしきものを暑苦しいくらいに燃やしだす。
そんな彼女へ、萃香が杯を手渡した。
「それなら、景気づけに一杯」
「これはどうも」
文は中身を一息に干すと、杯を足元に叩きつけた。一同に背を向け、
「それでは、行ってまいります」
「気をつけてね」
「ご武運を」
どこから取り出したか、マヨヒガ一同が旭日旗を振る。
背中で悲壮な覚悟を語りつつ、天狗少女は戦火の空へと飛び去っていった。
「……なんなの、このノリは?」
首を傾げるは霊夢ばかりなり、だった。
その向こうでは、
「ムーンライトレイ!」
「くるくるーっと回避しちゃったりして」
なんかまだ戦っていた。
00:59(+9)
「全軍へ、こちら咲夜。再び指揮を執る。各隊、状況を報告せよ」
指揮官としてのメイド長の凛とした声が、戦場によみがえる。
先刻まで彼女にしつこく絡んでいた妖夢の姿は、既にない。魔理沙からの一撃で負傷したか、後方へ退いたらしかった。替わっていま咲夜のそばにいるのは、友軍の近衛中隊である。
かくして、偏執的辻斬り少女からめでたく解放された咲夜は、溜め込んでいた指揮官としての仕事を解消にかかろうとしていた。
一瞬の間を挟んで、あちこちから応える声が上がる。
『こちらグルームリーダー、戦力健在』
『こちらランドリーリーダー、敵攻勢強力。指示を請う』
『スカラリー中隊、残戦力十を切りました。どうしましょ』
『ガーデナー中隊は二個小隊を失いました。スカラリーとの再編成を提案します』
『こちら美鈴、門前まで進攻してきた敵は撃退しました。現状で防衛目標への危険はありません』
ほとんど同時に届けられた声の数々を、咲夜は易々と聞き分ける。これくらいできなければ紅魔館のメイド長は務まらない。
彼女はそれぞれに的確な指示を与えていった。それが済むと、エプロンのポケットから懐中時計を取り出す。
打ち上げまであと九分。
かすかな吐息が、文字盤を曇らせた。
「お嬢様との約束にはなんとか間に合わせなくちゃね。……もうひとりのお嬢様は、そろそろお目覚めかしら」
☆
地下へと至る長い階段の終着点に、レミリアは立っていた。
目の前には見るからに堅固な作りの鉄扉がある。
扉には、
「フランのお部屋」
と下手くそな字でつづられたプレートが貼り付けられていた。
扉の前で、レミリアはノブに手を伸ばすでもなく立ち尽くしている。おもむろに目を閉じ、体内時計を確認。
「九分前……まだちょっと早いかしら」
扉の向こうでは妹が眠っているはずだった。共に月へ赴く約束をしてあるため、そろそろ彼女を起こして連れ出さなければならない。
しかし、今更ながらレミリアは不安を覚えていた。
フランドールを外へ連れ出せば、上で繰り広げられている大空戦をいやでも目に入れることとなる。そのとき、果たして彼女はどんな反応をするか。
おそらくは興奮して戦闘に加わろうとするだろう。そして敵味方構わずに暴れちぎるだろう。挙句、ロケットにまで被害を及ぼすかもしれない。
能力を使うまでもなく、そんな運命がレミリアには見えていたのだった。
破局を回避するには、姉たる自分が上手く手綱を捌かなければならないのだが――できるだろうか。あの無邪気なじゃじゃ馬の主導権を握りきれるだろうか。……いまいち自信がない。
こうして打ち上げの直前まで彼女を寝かせているのも、そうした懸念があったからこそなのだ。
レミリアは考える。
このままロケット搭乗可能ぎりぎりまで時間を潰すのはどうか。それからフランを起こし、寝ぼけている間に迅速にロケットへ連れて行く。暴れる暇を与えず、空の彼方へ拉致するのだ。
うん、これでいこう。
魔王らしからぬ後ろ向きな決心をすると、レミリアは時を待つべく階段の石壁にもたれかかった。
次の瞬間、鉄扉の表面から真紅の刃が生えた。
その切っ先はレミリアの鼻先をかすめるようにして止まった。ぎょっとなる彼女の目の前で、紅蓮に燃え盛る刃は扉を易々と切り裂いてしまう。
崩れ落ちる扉の残骸を踏み越えて、現れたのは小さな肩に大剣を担いだ少女。
「フラン……起きていたの?」
「あ、おはよう、お姉様。なんだか上がうるさいから、目が覚めちゃったわ」
フランドールはレーヴァテインを元の魔杖の形に戻し、大きく背伸びをした。
レミリアは引きつった笑みを浮かべる。
「そう……。まだ時間があるけど、もうちょっと寝てたら?」
「こんなにうるさくっちゃ眠れないわ」
地下深くにあって地上の喧騒を知覚できるのは、吸血鬼の能力故だ。レミリアは自分も持っているその力を、このときばかりは恨んだ。
「何が起きてるの、お姉様? ロケットの打ち上げ準備ってこんなにうるさいものなの?」
「そ、そうよ、あれは準備の音。準備なんて見ても面白くないわ。だから、ええと……そう、出発前にお茶でもしましょうか、ここで」
足止めの言い訳を懸命に考えるレミリアへ、フランドールは愉快そうな眼差しを向ける。まるで姉の思考を見透かしているかのように。
「お姉様には退屈でも、私には面白いわよ、きっと。だから行こう、お姉様」
「あ、ちょっと、フラン……」
フランドールにいきなり手を引っ張られ、レミリアはつんのめる。
それに構わずフランドールは七色の翼を広げ、飛翔を開始した。地上へ、無限の解放へと向けて。
01:00(+8)
弾幕にまぎれて頭上を飛び過ぎようとする敵イナバを見つけ、コールサイン:チェンバー4は急上昇した。
「通すものですかっ」
ハイレートクライムから背後につき、すかさず得意とするクナイ弾を立て続けに投げつける。
着弾の寸前、敵はすっと体を右へ倒し、弾道から外れた。そのまま右方向へ大きくカーブを描く。
それを追おうとして、チェンバー4は愕然となった。標的が逃げた先からは、新たな敵が三人も、こちらへ向かってくる。
誘いこまれた――そう気付いたときには遅い。視界を埋め尽くすほどの量の弾を、敵は放っていた。
直撃を予感して目を閉じた直後、体に強い衝撃が走った。
だが……痛みはない。むしろやわらかく、温かなものに包まれるような感触。
目を開くとそこには、金色の髪を月光に濡らす魔女の笑顔があった。
「あんな手にかかるなんて、まだまだだな」
「ま……りさ、さん?」
そこでやっとチェンバー4は、自分が魔理沙に抱きかかえられる形でいることに気付いた。二人を乗せて魔法の箒が高速で飛翔、敵弾を遠く置き去りにしてしまっている。
「しっかり掴まってな。そうれ、捻り込みだ!」
世界が急激に傾く。遠心力に箒から投げ出されそうになり、チェンバー4は懸命に魔理沙の服を掴んだ。
魔理沙はさっき振り切った敵の一群めがけ転進する。
慌てふためく敵の懐に飛び込み、血も涙もないノンディレクショナル。放射状にレーザーを放ち、兎たちをまとめて薙ぎ払った。
「こちら魔理沙、スコアにプラス三だ。ちゃんとカウントしてくれてるんだろうな?」
『こちらストレガ、あなたの撃墜数はこれで十一よ。大したペースね。息切れしない?』
「スペルカードはありったけ持ってきたからな。魔力が続く限りはやってやるさ」
『そう。なら、さっさと第8エリア方面のフォローをお願い。少し寄り道が過ぎるわよ』
「へいへい。『人生アドリブ』が私のモットーなんだがなあ」
魔理沙がパチュリーと交わす通信を、チェンバー4は半ば呆然と聞いていた。箒が減速していくのをぼんやりと体感する。
かなり速度が落ちたところで、魔理沙から降りるように指示された。
「聞いてたろ? こちとら、別のデート相手を待たせてるんでな。待ち合わせ場所に急行しなくちゃいけないんだ」
魔理沙の体温が離れていく。チェンバー4は再び冷たい夜空に降り立った。
「また危なくなったら呼んでみな。先約が片付いてたら逢瀬の続きをするよ。じゃあな」
魔理沙はウィンクを残し、矢の速さで飛び去っていく。
それをしばし見送ってから、チェンバー4も新たな敵を求め、飛行を始めた。
☆
魔理沙の乱入のおかげで、永遠亭の攻勢は目に見えて鈍っていた。
戦場を暴れまわる流星に、指揮官の鈴仙はつい苦しさを顔に出してしまう。
「散開! みんな、散開して! まとまっていたら、いい的よ」
叫びに叫び続けて、その声はすっかりかすれてしまっていた。月の兎同士なら、こんな苦労をしなくてもいいのに――そんな恨み節のひとつも唱えたくなる。
「散開、散開ですよ、みんな!」
鈴仙のそばには、同じく声を張り上げる一匹のイナバ。てゐの代わりに臨時の副官として選ばれた者だった。選考理由はたまたま鈴仙の近くにいたこと、そして大きな声の持ち主だったこと、この二点。適当なものだった。
「紅魔館め、あんなジョーカーを持ってたなんて」
一時は紅魔館門前まで到達した部隊もあったのに、今はじりじりと押し戻されつつあった。せっかく得た勝機がまた遠ざかろうとしていることに、鈴仙は歯噛みを繰り返す。
「でも、奇術師を相手取るなら、これくらいのイカサマは覚悟しておくべきだったのだろうけど」
「ジョーカーを隠していたのはこちらも同じですしね。向こうが同じ手を使わないだろうなんてのは、虫がいい考えだったです」
臨時副官のイナバがしたり顔でうなずいた。近くにいる鈴仙に対しても、やっぱり大きな声である。
そして、そんな二人のそばには妖夢もいた。
「済みません、助太刀としての務めも果たせず、このようなざまを……」
さきほど魔理沙から受けたダメージが、まだ回復しきっていないらしい。楼観剣を持った手はだらりと力なく垂れ、呼吸も苦しげだ。
心底申し訳なさそうな顔をする剣士に、鈴仙は慌ててかぶりを振って見せた。
「とんでもない。もう十分なほどの働きを見せてもらいましたよ。正直、あなたが来てくれていなかったら、ここまで持ちこたえられたかも怪しいんですから」
「ですが……不甲斐ない」
刀の柄を握る手が小刻みに震えている。
妖夢が背負っているものの重さは、鈴仙にも少しは分かるつもりだった。だが今は彼女を気遣ってばかりもいられない。永琳が算出したロケットの推定発射時刻まで、もういくばくもないはずだった。
このまま、ちまちまと消耗戦を続けているわけにはいかない。なんとしても敵の防衛線を抜かなければ。さもなくば、あと数分でこちらの敗北が自動的に決定してしまうのだ。
鈴仙は臨時副官を向いた。
「声の届く範囲でいい、戦力を集めて。正門までの最短距離に、それをぶつける。指揮は私が直接採るわ」
敵の厚い防壁を突破するには、それしかない。
臨時副官が目を丸くし、異を唱える。
「でも、密集すると魔理沙の大量破壊魔法に狙われるです。だから散開させたんじゃないですか」
「そこは――」
鈴仙は妖夢を振り返り、
「……頼めますか?」
「無論です」
剣士はまだ消耗から立ち直りきっていない顔で、だがきっぱりとうなずいた。
「今夜の私の指揮官はあなただ。命令とあらば、私は星だって斬るでしょう」
「ただこちらへ近づけないようにしてくれれば、それでいいんです。無理をする必要はありませんから。それに……これは命令なんかじゃなくて、お願いです」
鈴仙が笑いかけると、妖夢はちょっと呆けたような顔になり、それから目を細めた。
「……では、私からもお願いを。あなたも無理をしないで」
ふたりはかすかな笑みをこぼす。
それが今夜、互いに交わすことのできた最後の言葉と表情だった。
01:01(+7)
敵勢に新たな動きが生じたのを、咲夜は即座に認める。
指揮官である鈴仙の周りに、戦力が結集しつつある。おそらく最後の突破を試みるのだろう。
「玉砕覚悟、か。いいわ、華々しく散ってもらおうじゃない」
口の端を鋭く吊り上げ、咲夜は味方に指示を飛ばす。自身と近衛中隊を中核とした重厚な防壁を、瞬く間に構築していく。
彼女は魔理沙にも声を掛けたのだが、
『こちら魔理沙、妖夢に鞘当て食らった――おおっ、このみょん侍、やろうってのか? いいだろう。決闘だ、デュエルオブトップだ!』
なんだか楽しげな返声を最後に、一方的に通信を切られてしまった。
「まったく、野放図な魔女ね……パチュリー様も、どうせならアリスあたりを呼んでくだされば良かったのに」
咲夜はぼやく。
しかし、手元に集まった戦力だけでも十分に押し返せる見込みだ。魔理沙のことはすぐに忘れ、意識を敵へ戻す。
そんな時、頭のヘッドドレスが新たな通信をもたらしたのである。
『西より新たな敵増援を確認! その数……四〇!』
その甲高い声に、咲夜はわずかに眉を持ち上げた。
「なんですって? こちら咲夜、今の通信は誰? 西岸方面監視担当なの?」
問いかけるが、返ってくるのは早口で要領を得ない言葉ばかりだった。
『敵です、新手です。うわ、北の、あれ、もしかしてあれも?』
「ちょっと、落ち着きなさい。敵の増援なの? それも西と北、二部隊いるということ?」
『うわ、まずい……逃げてー、みんな逃げてー』
ぶつん、と耳障りな雑音を残し、通信は唐突に途絶えた。咲夜は何度か瞬きし、それから西へと視線を飛ばした。
彼女の視力が許す範囲内では、なんの異変も確認できない。北の空も同様。
誰か目の良い者はいないか、そばにいる近衛中隊へ声を掛けようとするが、大きな鬨がそれを遮った。敵が突撃を開始したのだ。
舌打ちしたくなる衝動をこらえ、ヘッドドレスの通信対象を無制限に設定、指示を飛ばす。
「手の空いている誰か、誰でもいいから、今の情報の裏を取って。美鈴、あなたは手勢の何人かをこっちへ回しなさい。手が足りなくなるかもしれない」
その判断が正しいかどうか、見極めるにはあまりに時間が足りなかった。敵が怒涛のごとく押し寄せてくる。
永遠亭勢は凄まじい気迫を帯びて突進した。
先頭に立つは鈴仙。飛翔しながら、右の人差し指から狙いも定めずに弾を乱射している。
発射音に、声を重ねる。
「前へ! なんとしても貫け!」
元より十人並みの強さの喉しか持っていない。会敵直後から叫び続けて、その声はもはや枯れつつある。
実際に味方を鼓舞しているのは、後から続く臨時副官イナバの大音声だった。
「怯んではいけないのです。全員、鈴仙さんに続くのです!」
これに紅魔館の咲夜は、またも空間操作を用いて、彼我の間合いを一気に縮めてしまった。やはり鈴仙の狂気の瞳を恐れたのである。
いきなり鼻先まで接近してきたメイド勢に、しかし二度目ともなればイナバたちも前回ほどの混乱に陥らない。すぐさま苛烈な弾幕が応酬される。
錐のような陣形で強硬に突き抜けようとする鈴仙の部隊に、咲夜は正面を固守しつつ、予備戦力を左右に伸ばし、敵の包囲を試みる。濃密な弾幕に挟まれて、イナバたちは悲鳴を上げた。
だが鈴仙も強引に切り返す。味方の勢力が薄くなった箇所へ向けて、狂気の瞳を発動させたのだ。
健在だった味方を数人巻き込みながらも、赤熱の狂気が敵の片翼へと深く浸透していった。鈴仙の視線に射抜かれたメイドたちは、たちまちに平衡感覚を失い、しかもそれを自覚できないという状態に陥ってしまった。
狂気の嵐がメイドたちの間を席捲する。敵を敵と、味方を味方と正常に判別できないまま、彼女たちは弾を撃ち続けてしまった。
誤射が連続で発生し、しかし彼女らはそれをまっとうな戦果と信じて疑わない。メイドたちは自らの手で自軍の戦力を削っていく。
「やってくれたわね」
味方を襲う狂気の渦に、咲夜は顔をしかめる。
彼女自身は狂気の視線を免れていたが――いや、どうだろう。自覚できていないだけで、実は自分も狂わされてしまっているのかもしれない。狂人が自分をそうだと認識できないように。
かぶりを振って、妄想を追い払う。いずれにせよ、こうなってはやるべきことなどひとつだった。鈴仙を討つ。狂気を払拭するには、それしかない。
しかしこうも敵味方の弾幕が密では、例え時間を止めても接近するのは至難だった。どうにかナイフを届かせようと、咲夜はそれに腐心する。ナイフをダース単位で投げつけ、空間操作でその軌道をいじり、鈴仙を包囲する形に導こうとする。
そんな神経を細らせるような作業の最中、またヘッドドレスが声を発した。
『敵少数、正門を突破! ロケットに肉薄!』
さすがにこの一報には、咲夜も慄然となった。とっさに返事を考えることもできず、反射的に館の中庭の方へと眼を向けるしかなかった。
そしてこの動揺が、敵に最後の好機を与えることとなる。
正面へ視線を戻した咲夜が見たのは、こちらに必殺の指先を向ける鈴仙の姿。
白熱の狙撃弾が咲夜を襲い、その右肩を撃ち抜いた。
「当たった!?」
自身の生んだ成果に、鈴仙は自分で驚愕していた。
激しい弾幕戦の最中に、なぜ咲夜が大きな隙を見せたのか、それは分からない。とにかく鈴仙は、その隙に乗じて狙撃を決意した。なんらかの誘い、罠だという可能性も脳裏によぎったが、指を止めようとはしなかった。揺るぎなく、ひたすらに前進すること、それが今の彼女の行動指針だったためだ。
結果は是と出た。最後の瞬間に敵が動いたため、狙った頭部こそ外したものの、痛撃を与えたことに違いはない。
鈴仙はすかさず怒鳴る。
「敵指揮官に火線を集中!」
「あのメイド長を狙うです!」
枯れた声を、臨時副官がフォローしてくれた。
咲夜へと注がれる味方の弾幕を援護とし、鈴仙は敵への接近を図る。高火力の狙撃弾を放った指先は熱く、しばらく次弾の発射に耐えない。機を逃すことなくとどめを刺すには、白兵戦に持ち込むしかなかった。
向こうもその企図を見抜いたのだろう。左の指の間にナイフの刃先を光らせ、凄まじい笑みで迎えてくれた。
涸れた喉で、鈴仙は吼える。敵もこれに応える。
「地獄へ送り返してやる、銀の狂犬!」
「今夜が故郷の見納めよ、月の狂気!」
☆
長く伸びた兎耳の根元、黒髪を白いヘッドドレスが飾っている。
因幡てゐが、メイド用の頭飾りを着けて、したたかな笑みを浮かべていた。
そう、彼女はヘッドドレスの通信機能を暴いてしまったのだった。そして、気絶しているメイドから鹵獲し、自らの頭に装着しているのである。
思えば疑問ではあったのよね――てゐは考える。こちらに対して、紅魔館は不自然なくらいに有機的な連携をこなしていた。あれだけの数が、末端まで淀みなく、統一された意思の下に動いていた。
指揮官の統率力に格差があったためか? 確かにそれもあるだろう。だが、それだけではない。秘密は、このヘッドドレスにあったのだ。
「ふざけたもの使ってくれるじゃないの」
こちとら直に声でやり取りするか、信号弾や伝令を走らせるなどの涙ぐましい労力を要しているというのに。月の兎同士なら耳で交信できるらしいけれど、肝心の月の兎が鈴仙ひとりのみでは無意味だし。
しかし、タネが割れてしまえば、それを逆手に取ることだってできる。
いまや紅魔館自慢の通信システムは、詐術の道具と成り果てたのだ。
てゐは愉快そうに、陽気な拍子を口ずさむ。
「タラッタラッタラッタ、可愛いダンスー……みんな、私の掌の上で踊るがいいよ」
既にヘッドドレスを介して、何度か偽情報をばらまいている。紅魔館の連中は面白いくらいの困惑を見せてくれた。通信網が敵に利用されるなど、想像もしていなかったらしい。
てゐは頭上、ひときわ激しい戦闘が行われている空域を見上げる。
「鈴仙、これがてゐ様からのせめてもの手向けだよ。いまさら合流なんて無理だろうしね……心細いかもしれないけど、しっかりやりなよ、指揮官殿」
ひとりごち、それから彼女はいきなり、ばっと身を伏せた。
やや離れた岸に、湖から妖精がひとり、上がってきたのだ。その空色の髪と青いワンピース姿にはどことなく見覚えがあったが、はっきり思い出す前に、妖精は正門の方へと消えていった。
紅魔館の正門は、今のところ平静を保っている。さっき、永遠亭の戦力が門を越えたという通信が流れたが、もちろんそれはてゐの偽情報だ。
「さて、そろそろ門を越える方策のほうも考えなきゃね」
それにはやはり、敵を内部から撹乱するのが早道だろう。てゐは身を起こすと、ヘッドドレスの通信機能を起動させ、再び自慢の舌を働かせはじめた。
☆
戦場に怪情報が流布される。
『湖の妖精たちが武装蜂起、門番部隊と衝突しています!』
『レミリアお嬢様が紅茶を所望! 今夜はダージリンにO型Rhマイナスの気分だそうです!』
『南より博麗霊夢が襲来! 賽銭を要求しています!』
『投資信託、今がチャンス! 運用は可愛い兎さんにおまかせ!』
『紅美鈴!』
さすがに咲夜も何かがおかしいと感じていた。だが、考え、対応する余裕がない。
鈴仙の猛攻が、彼女を捕えていた。二人は白兵距離で、徒手での格闘を交えた一騎討ちの状態にあった。
胴薙ぎの左回し蹴りが咲夜を襲う。右腕が肩から動かない咲夜は、右膝を高く持ち上げて、これを受けた。想像以上の衝撃に、体の軸がぶれる。
よろめいたところへ鈴仙が小弾を連射。咲夜はこれをまともに浴びながらも、左のナイフを投げつけていた。
鈴仙は右手にスペルカードを手にし、そこへナイフの刃先を受け止めた。
そして宣言。幻視調律。
「狂えっ」
月の兎の赤眼が、咲夜の双眸をまっすぐ貫いた。
勝った。
敵の瞳が赤く染まっていくのを確かめ、鈴仙は勝利を信じた。それは狂気の色。狂気が、咲夜を侵食していく。
――いや、違う?
鈴仙は愕然となった。
あれは狂気の赤ではない。もっと別の何かが発露した、それを示す「紅」だ。
悟ったときには手遅れだった。咲夜の真紅の眼光に、鈴仙は逆に射すくめられていた。
メイド長の手に新たなナイフがほとばしった。空間が歪み、切っ先が瞬時に迫ってくる。
「ソウルスカルプチュア」
それは魂までをも解体する、無慈悲な紅い旋光。
到底かわせないと悟り、鈴仙は敢えて踏み込んだ。自ら刃の嵐に身を投じた。
ひたすらに前へ。それが、最後の作戦なのだから。
紅い旋風に巻き込まれ、全身を切り裂かれながら、彼女は右の人差し指を構えた。指先はまだ熱かったが、構わない、これで最後だ焼け付いてしまえ。
「これでチェックよ!」
それはどちらの口から出た声だったのか。
銃声が轟き、もつれ合う形にあったふたりの体は弾かれたように分かれた。それぞれ眼下の湖へと落下していく。
01:02(+6)
世界が逆さまになった。
大きく身を反らした体勢で、鈴仙は落ちていく。
時間の流れは奇妙にゆっくりで、それだけに体が満足に動かなくなってしまったことがもどかしい。
遥かな上空では、弾幕の爆音に混ざって臨時副官の大声が響いていた。ちゃんと、進め進めと叫び続けてくれている。鈴仙は口元を緩めた。
上下逆さまに映る世界を、ぼんやりと見つめる。遠くの空に、何かの影があった。きらめく星たちを背に、それはこちらへと近付きつつあるように見えた。
「師匠……?」
鈴仙は目を見開いた。
来てくれたんだ。そんな喜びと共に、あと暫時持ちこたえられなかった自分への情けなさがこみ上げてくる。
師匠は私の働きぶりをどう思うだろう。よくやったわねと褒めてくれるだろうか。無様ねと冷笑するだろうか。きっと後者だろうな。
でもね、師匠。これでも私、精一杯やったんですよ。だから、ちょっとだけでも褒めてくれたら、うれし――
瞬間、背中に強烈な衝撃が走り。
鈴仙の意識は、急速に冷たい闇の底へと沈んでいった。
■作者からのメッセージ
まずは、一回目からえらく間を空けてしまったことを謝らなければなりません o rz
いや違うんです、ネオジオの「ブレイジングスター」も毎夜の「コンバット!」も、資料として必要だったんです。魔理沙のコールサイン、当初の候補は「ペプロス」で、パチュリーのそれは「チェックメイトクィーンツー」でした。疲れていたんだと思います。
次は、それほど間を空けずにいける、はずです。次回も読んでいただければ幸いです。
1
SS
3
4
Index
2005年12月1日 日間