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今晩は湿度が高いみたいだ。頭上に、うっすらと霞のかかった月が見える。カノンは大気の流れにけぶるそれの輪郭を眼で追った。今宵は満月みたいだ。
そのまま、何を思う訳も無く、ただぶらぶらと足を港に向けていた。
閑散とした倉庫群の間を進む。倉庫群と積み込み用のクレーンの陰影がうすらぼんやりした闇に浮かび上がっていた。近隣には停泊している船も特にない。
人が失踪する町で禁止されていることは、夜道を出歩かない、一人で歩かない、人気の無いところに行かない。その全てをカノンは侵していた。
そうすれば、不吉の根源に対峙できる、そう知っていたからだ。
ラダマンティスは狩り場とはかけ離れたコンテナ群の間を歩きながら、予感と対峙していた。どうやら、敵を察知する能力はラダマンティスの方が高いようだった。深夜のコンテナ埠頭など、誰も寄り付かないところだ。たまに夜釣りを襲うこともあるが、最近はめっきり人が寄り付かない。
鉄錆と塩の匂いの入り交じった生暖かい風が流れていた。
次第に、誰かの足音が近づいて来る。
ラダマンティスはここで逃げるべきが一瞬迷った。だが、好奇心と闘争への欲求が足を踏みとどまらせた。
そしてカノンは目の前の街灯に、人影を見た。
それは、埠頭の先に見える灯台の明かりにカノンが一瞬目をやって、そして視線を前に戻した時だった。湿った潮風が一瞬海から吹く。
街灯の下に、殆ど気配を持たない男が半裸で立っていた。
いきなりそこにいたことにカノンは一瞬驚いた。男の成りからして、たちんぼか何かかと思った。ここは、そう言うことが好きな男が集まる場所なのかと。
街灯の光に照らし出された長髪の男に、ラダマンティスは固唾を飲んだ。独特の輝きを持つ翠色の眼が印象的だった。翡翠にも見えて、透き通っている。
本来なら、ラダマンティスは犠牲者になる存在に対して、声を掛けることは無かった。ただ、無言でしとめるだけだった。だが、この時だけ何故そう言う気になったのか判らない。
何か言わなければ失礼に値すると、ラダマンティスは漠然と思っていた。
『…良い夜だな』
どこかで聞いたことがあるような今まで聞いたことの無いような声で、街灯の下の男は言った。
『…ああ』
とカノンは相づちを打つ。街灯に照らし出されたラダマンティスの半裸の裸体に一瞬見とれた。
まるで成獣したての牝豹を思わせる、無駄な筋肉の無い締まった裸体だった。肩などの輪郭が光を帯びて光っているのが幻想的でかつ官能的で、カノンは無意識に舌舐めずりをした。しかし、やや俯いているのか顔は陰に隠れて見えなかった。
成りと体格で、カノンはすっかり不謹慎な勘違いをしてしまった。金額交渉に入ろうかと考えたとき、カノンは男が裸足であることに気がついた。
気付くと同時に、熱い風がカノンの左頬と首筋を霞めた。間もなく、カノンの首から生暖かいものが滑り落ち、彼はたちまち愚かな考えを払拭した。
風を避けたのは咄嗟だった。意識よりも身体が危険を察知したからだ。それは一瞬だったが、カノンの眼には時が止まって見えた。腕を突き出した男の顔が間近ではっきりと見えたのだ。
金色に輝く髪に金色の鋭い眼。屈強そうに見えて若干線が細く見えるバランス。口から禍々しく覗く牙。それは既に、人のものではなかった。
一瞬の邂逅に、カノンは自然と胸が高鳴った。これが全ての不吉の根源。それは、不吉の象徴でありながらあまりにも美しかった。
その生き物は、寸でで躱されたのが信じられないのか眼を見開いていた。普通の人間ならば、この出会い頭の一撃で頸動脈を裂かれている。殆どがそれで自分に何が起こったか判らないまま死んでいった。
そして、カノンの手は反射的に突き出したラダマンティスの腕を捕らえていた。捕らえられた手の爪は、人とは思えない長さと鋭さを持っていた。カノンはこの人の姿をした化け物の手を離さないつもりでいたが、ラダマンティスは懐怯まず薄皮一枚を裂いただけのカノンの首筋に食い付こうとした。
それを避けるためにカノンは咄嗟にこの化け物を振り払った。ラダマンティスもまた、振り払われた衝撃を受け流しながら、積み込み用クレーンの高架に飛び乗った。
ラダマンティスもまた数奇な気配をこの獲物から感じていた。こいつこそが先日から常に予感していた不吉の元凶。予測した通り、これはただ者ではなかった。だが相手に不足はない。闘争本能がそうさせるのか、ラダマンティスは無意識に舌舐めずりをした。
それは余りも出来すぎた、不自然な出会いだった。本来ならば彼らはこんなうらぶれた港で出会ったりはしなかっただろう。
本能で彼らは敵同士だと直感していた。古代からそうしてきたように、敵なら戦わなければ。
だが、不幸にもラダマンティスはまだ完全に巨頭として覚醒していなかった。好奇心で接近したが、敵は思ったよりも強大だ。まともにぶつかれば、確実に敗北を決する。
『…為損じた』
獣の瞳を輝かせ、ラダマンティスは言った。カノンが次の手に出ようとした時、それは素早く飛び退った。『…チッ』舌打ったのは意外にも飛び退ったラダマンティスのほうだった。
好奇心に抗えず、未熟な身体で宿敵と対峙してしまったことを悔しく思っていた。この身体がもう少し完成していたならば丸腰の奴を叩きのめせただろう。しかし、丸腰を叩くのはラダマンティスの好むところではない。
ラダマンティスの本能は逃走を指揮し、ラダマンティスとてこれ以上それに逆らう訳に行かなかった。逃げるが勝ちとも言う。
ただし、生来の性格がそうさせるのか、捨て台詞は忘れなかった。
『…次会う時は貴様の死だ。覚悟しておれ』
『待て!』カノンは当たり前の言葉を叫んだが、当たり前にラダマンティスは闇に消えて気配を消した。
後を追おうと思ったが、暗闇に擬態し、全ての気配を消してしまうと、もうどこにいるのかさえ判らなくなった。ラダマンティスは未成熟な分、冥闘士としての気配は完全に消すことが出来た。それがラダマンティスの持つ唯一の勝算だった。一度気配を消して闇に紛れると、聖闘士にそれを追うことは出来なくなるのだ。
不吉な町のもの淋しい埠頭に取り残されたカノンの耳に、空々しい船の汽笛が遠く聞こえた。
出会ったのは一瞬だった。だが、その印象は強烈だった。カノンは冥闘士に成る前段階の、あの禍々しいマンイーターの虜になっていたのだ。
ただ、余りに未成熟なので、どの冥闘士なのかの目星は付かなかった。言動と気迫から察するに中堅幹部だ。
カノンの命は取り損ねたが、それは確実にカノンの心を捕らえていた。その意味ではラダマンティスの“狩り”は成功だった。だが、心を捕らえられたカノンによる新たな“狩り”が始まろうとしていた。
この時点で力関係が明確だったりする。