あの冬の輝き3




翌日、顔中湿布やテープだらけになった俺に、まず、紺野さんが驚いた。元々武闘派の彼は、
「誰にやられたんだ!?」と、まるで自分の事みたいに、カンカンに怒っていたけど、もっと凄か
ったのは永原さんだった。

「……犯人が分かったら、かならず君に跪かせてやる」

 見たこともないくらいに恐ろしい顔だった。無表情に近いのだけど、目はとぎすまされたような
鋭さがある。犯人に出会ったら、殺してしまうんじゃないだろうか……そんな怖さがあった。

 永原さんほどの人であれば、様々な業界の人間を動かせる。犯人を突き止めるのは時間の
問題だろう。

 普段はクールな永原さんだけど、その内に秘められた激情を俺は見たような気がした。

 この人も、俺のためにそんな一面をみせてくれた……そう思うと、怪我をするのも、悪くないな
と一瞬だけ思った。もちろん、痛いのは嫌なので一瞬だけのことだけど。

「永原さん」

「ん?」

「今日、俺はその人と戦いたいと思います」

 俺のその言葉に、永原さんは目を見張った。

「しかし……それじゃあ」

「危険なのは承知です。だけど、このまま引き下がるわけにはいかない……この顔の代償は、
俺自身の手で払わせます」

「洋樹……」

 こればかりは、いくら永原さんの好意でも、受けとるわけにはいかなかった。

 これから、舞台の上で生きていく上で、俺にも意地がある。そう、今だって俺の舞台なんだ。

 舞台は常に一人、本番に誰かが助けてくれるわけじゃない。

 俺の思いを察してくれたのか、永原さんはそれ以上何も言わなかった。

 いつものように、俺は朝食を作って、永原さんの着替えの準備をして、朝食を作っている間に
洗っておいた洗濯物を干してから、紺野さんが待機する車の助手席に乗り込む。

 稽古場に着いてから、スタッフのみんなや、役者のみんなにも随分と心配して貰った。

「誰にやられたんだ!?」と、やっぱり聞かれたけど、俺は笑ってはぐらかした。

 楽屋の掃除、昼食の段取りをすませ、着替えの用意をしてから、俺は来嶋や永原先生に挨
拶をして劇団KONへ向かう。

 心配そうな永原さんと来嶋の顔に、少し後ろ髪を引かれる思いだったけどさ。

 稽古場を後にして、俺は有楽町駅めざし走る。まだ身体のあっちこっちがひりひりしたり、ズ
キズキしたりしていた。

 電車の中でも、相変わらず俺を奇異な者を見る目でみている人々がいる。俺は、そんなひと
たちの目や行動をじっと観察していた。

 目があったとたん、逃げるように目をそらしたり、恥ずかしそうに俯いたり、ぶしつけにこっち
を見る奴もいた。同じものをみているのに、みんなそれぞれ見方が異なる……俺は忘れないだ
ろう。自分がこんな顔になった時の周囲の反応。今、この目で見たことはきっと演技に生かせ
るはずだ。そして、この惨めな思いも、俺は決して忘れやしない。

 駅を降りて、改札口を出た時だった。

「やぁ!ぐっとあふたぬーん!浅羽君」

 バンと背中を叩かれて、俺は思わずひっと声を上げた。そ、その部分は蹴られたトコなんで
すけど。

 いつものようにあっかるい声で声を掛けたのは工藤さんだった。

「こ、こんちは……工藤さん」

「あんれ?ど、ど、どーしたの!?その顔!酷い!酷すぎるじゃないか!誰にやられたの!?
酔っぱらい!?通り魔!?ヤクザ!?」

「い……いえ、闇討ちで……よく分かりませんでした」

「闇討ち!?ど、どこでそんな怖い目に遭ったの!?」

「え……その、丸ヒガシ公園で……」

 まくしたてられて、俺は思わず正直に答えてしまった。でも、場所を答えたところで、警察じゃ
ないし犯人の特定はできないであろう。

「あの公園か!危ないなぁ、あの辺変質者とか多いから。女の子にも注意をよびかけとかなき
ゃ」

「ところで、工藤さん。今日はどうして山手線に?自宅はKONの近くだと聞いていましたけど」

「ん?ああ、ちょっと墓参りに行っていたの。僕の弟の」

「弟?」

 工藤さん、弟がいたんだ。

 でもその弟の墓参りって……

 いつも明るい工藤さんの笑みに翳りを見たような気がした。

 けれどもすぐに気を取り直したように、テンション高い声を上げる。

「墓の前で、ずーっと愚痴っていたの。また今さんに殴られた、また今さんに怒鳴られた、、ま
た今さんに駄目だし食らったって……そーしたら!君!遅刻ぎりぎりですよ!冗談じゃない!
こうして話している場合じゃないぞ!急げ!浅羽君!」

「え!?で、でもまだ三〇分までありますよ?時間まで」

「それは、あくまで新米授業のタイム。僕たちはもっと早くから集まらなきゃいけないの。 ほら、
急いで!」

「いや……俺は急がなくてもいいんだけどな」

 身体も痛いし……走るの勘弁して欲しい、と思ったけど、仕方なく俺は工藤さんに続いた。 

 しかし、ラッキーだったことに、駅を出た後タクシーに便乗させてもらうことになる。

「劇団KONまで」

 と運転手に言ってから、工藤さんは長い溜息をついた。

 ミラー越し、運転手はちらちらとそんな工藤さんを見ていた。

 無理もないよな。

 横から見ても、この人やっぱり綺麗な顔しているからな。

 美少女に見紛うとは言うのは簡単だけど、やっぱり男の凛々しさもそこにはあって。

 対する俺はお岩さん……運転手さん、俺の方もちらちらと見るには見るけど、どっちかという
と不審げなそれだ。

「さっきの話なんだけどさ」

 不意に工藤さんが口を開いた。

「さっきの話って……弟さんのお墓参りのことですか」

「うん。その弟ってのがさ、母親が違う弟でね。しかも二号さんの子供って奴だったんだ」

 俺は言葉にならなかった。

 何だか想像も付かない世界にいたんだな。工藤さんって。

 俺の父親はああ見えてカタブツだったからなぁ。

 医者だったら看護婦の愛人とかいそうな感じがするけど。

 そういったことは全くなかったもんな。 

「でもあいつは僕にとって兄弟であって、親友であって……本当に大事な弟だったの。それは
今も変わらない」

「……」

「君を見ているとさ、どうも死んだ弟といるみたいに思えてさ。顔も全然違うし、性格だって違う
のに。変だよねぇ」

 工藤さんは弟がどうして死んだのかは決して話さなかった。

 ただ、工藤さんが弟と最後に会ったのは18歳の時だったらしい。

 同じぐらいの年代だからだろうか。

 確かに工藤さんは俺のことを弟みたいに接してくれる。

 考えてみたらKONには、俺と同じぐらいの年代の人がいない。

 いるとしたら大見麻弥ぐらいだけど、彼女は女だから、工藤さんの弟には成り得ない。

 本当に弟のことが好きだったんだろうな、この人。

 多分兄弟という感覚以上に。

 ああ……この人も色々あるんだ。と俺は思った。

 色んな苦しみを乗り越えて来たから、それがあんな凄い演技の糧にもなっているのか。

 そうだ。

 辛いのは俺だけじゃない。

 誰もが苦しさや辛さを乗り越えていくんだ。

「……って、何か俺、恥ずかしいことペラペラしゃべっちゃったなぁ」

 照れくさそうに笑う工藤さんが、何か可愛く思えた。

 本当に女だったら惚れていたかも。

 いや、男と分かっていてもちょっとよろめいている俺がいる。

 顔の綺麗さは来嶋も綺麗だけど、こっちの方が中性的っていうか。

 そりゃ、来嶋は来嶋で魅力的な顔だけど……って、何、俺?

 何工藤さんと来嶋を比べているの!?

 べ、べつに来嶋なんてどうでもいいじゃん!!

 どうしてあいつの顔が真っ先に思いつくんだ、俺!?……おいおい、何、急に顔が熱くなって
いるんだ、自分!?

 そんな俺を見て工藤さん、目を丸くした。

「何で君まで顔を赤くするの?」

 ほどなくして、タクシーはKONにたどり着いた。もとから、歩いてもせいぜい15分の場所にあ
るのだ。もし渋滞していたら、タクシーの方がもっと時間が掛かっただろう。

 劇団KONのエントランスにおいて、小見山さんに出会った。彼は俺の顔を見て酷く驚愕して
いた。無理もないことだろう。

 俺は工藤さんと別れて、更衣室に入った。ジャケットを脱いで、Tシャツとジーンズ姿になる。

 少し煙草を吸おうかと思い、一端表に出て、喫煙所へ向かう。劇団KONの中では、俺は二
十歳で通っていた。

 途中、楽屋の前を通りながら、俺は役者同士の会話を聞いた。

「うーん、今さんもな、正直今ひとつだと思ってんだよ」

「小見山君も頑張ってはいるんだけどねぇ。役柄と持ち味が生かせてないんだよなぁ」

「いやいや無理もないよ。だって小見山君は工藤君のことを」

「何言っての。梶ちゃん。小見山ちゃんが工藤ちゃんに、惚れてんだか、腫れてんだか知らな
いけど、信長が鬼刃に飲まれていたら駄目なの。惚れた弱みだっつっても言い訳にしかならな
いよ」

「やっぱり工藤君の圧倒的な存在感と冴え渡った演技を前にすると、どうしてもその存在感が
薄くなるっていうか……まぁ主役じゃないし、いいんだけどねぇ」

 ドア越しに聞こえてくる声。

 役者になる以上、否応なくつきまとう容赦のない評価。

 一人一人の期待や不安が、この肩にのしかかってくるのだ。

 しかし、それに屈してしまったら、役者として敗者の烙印を押される。

 俺は、負けるわけにはいかない。

 喫煙所には自動販売機もあって、そこで大見麻弥がイスに座って清涼飲料水を飲んでいると
こに出くわす……こーゆーとき、あんまり会いたくない女だよな。

 彼女は俺の顔を見た瞬間、大爆笑しやがった。

「きゃははは、何それー!酷い!超ブサイク!」

「てめー、絞め殺すぞ」

「だって、ホントのことじゃないのー。まったく何たるザマよ。顔も守れないようじゃ、俳優失格じ
ゃないの」

 麻弥嬢、きわどいミニスカートで足を組んで、顎を反らす。何とも高飛車な態度。足をくんだ瞬
間、チェックのパンツ見えたけど、教えてやらないことにする。

 俺は煙草を一本とって、煙を深く吸い込んだ。

 まぁ、下手に同情なんかされるよりも、麻弥みたいな言葉の方が気分的には有り難い気もす
る。ムカツクけどな。

「それにしても、見違えるくらいブ男になったわよねー。お岩かフランケンシュタインか、どっち
かの役しかできないわよ。それじゃあ」

「フ!」

 俺は吸い込んだ煙草の煙を、思い切り麻弥に向かった吹きかけてやった。

「げほ、げほ!何すんのよ!馬鹿!」

「ちったー、優しい言葉くらいかけやがれ。この性格ブス」

「うるさいわねー!あたしは性格がブスな分、顔が超可愛いの!天は二物もあたえやしないの
よ!」

「俺には二物も三物もくれたぞ。顔も良し、頭よし、性格よし」

「今は一物だけね。顔駄目だし、性格だってねじ曲がっているじゃない」

「性格は、おめーの影響だ。フ!」

「げほ!だーかーら!煙ふっかけないでよ!誰の影響ですって!?あんたは、元からそーゆ
ー性格じゃないの!」

 俺と大見麻弥は、はっきり言って相性悪い。

 普通に話していても、その内けんか腰になる。しかし、傍から見ていると、それが仲良く見え
るらしく、同じ劇団内の人からも「二人はつき合っているのか?」と聞かれたことがあった。

 彼女を見てて面白いと思うときはあるけど、絶対彼女にはしたくねー女だ。

 麻弥は飲んだ缶を不機嫌露わに、くずかごに投げ捨てて、喫煙所から立ち去っていった。

 俺は二本目の煙草に手をつけようと、箱から煙草を取り出そうとした時。

「いい度胸だな。昨日、あれほど忠告してやったのによ」

「麻弥ちゃんといちゃつきやがって!昨日足りなかった分まで、殴ってやろうか」

「お前らが昨日の……?」

 俺は言いながらも眉をひそめた。

 二人とも劇団のスタッフだ。一人は大道具で、一人は照明だったか。

 俺を殴る気満々な二人だけど、こんな白昼堂々とするんだったら、何故昨日は闇討ちだった
のか。

 闇討ちというのは不意打ちの効果もあるけど、何より顔を知られないために、暗い中を襲う
のだ。

 この二人は元々暴力的な面があって、傷害事件を何度か起こしているという噂を聞いてい
た。あんまり顔を知られる、知られないことなどは、気にしないタイプに思える。それに、多分一
人は大見麻弥に好意を持っていて、俺と彼女が言い合っていた様子を見て、感情的になって
いるのだろう。

 あの時の闇討ちの犯人は三人だった。後一人、顔を知られたくない人間が、犯行に加わって
いた……見当をつけていた犯人像が、俺の中ではっきりしてきた。

「おい、何とか言ったらどうだ!?」

 恫喝する男を無視して、俺は煙草に火をつける。

「すましてんじゃねーぞ!こら」

 大柄な大道具係の男が、俺の胸倉を掴んだ。麻弥に好意を持っている彼は、既に理性が保
てない状態なのであろう。

「手、離してくれない?」

 くわえていた煙草を離してから、俺は言った。

「このまんま、締め上げてもいいんだぞ。え?こら!」

 胸倉を掴んでいない方の左手が、俺の首を捕らえる。首にかかる圧迫感。このままじゃ本当
に絞め殺されるかもしれない。

 俺は手に持っていた煙草を、胸倉を掴んでいる手の甲に押しつけてやった。

 男は悲鳴を上げて、はじかれたように、俺から手を離す。

 情けない。

 俺はあんたらに、何度蹴られたって悲鳴は上げなかったけどな。ついでに脛を蹴って、今さん
直伝の蹴り上げを鳩尾に食らわせる。自分でもビックリするほどうまく決まって、相手は腹を抱
えて倒れた。

 もう一人の男の方を、冷ややかに睨み付ける。

「や、やんのか、てめぇ!」

 もう一人の照明がファイティングポーズをとっているけど、へっぴり腰だ。大柄なお友達となら
強気でも、一対一では自信がないのであろう。所詮は小者ってわけだ。

 その時だった。

「あ!浅羽君。今さんが君に話があるって……お!?、何、喧嘩?」

「く、工藤さん!助けてください!」

 そう言ったのは、照明係の男の方だ。俺は一瞬、コイツの神経を疑った。

「ん?助けてって、君たち二人がかりでやっといて、助けてはないでしょ」

 倒れている大道具の方を交互に見ながら、工藤さんもあきれかえった声で言った。

「で、でもコイツ、煙草の火を押しつけるような汚い真似して」

「二対一は汚くないの?」

「う……それは」

「とにかく、そこの倒れている人、さっさとどっかに片づけておいてよ」

 喧嘩が日常茶飯事なのか、人が倒れている光景を見ても、狼狽えていない工藤さんは、かな
り肝が据わっている。さすが今さんの一番弟子だけのことはあった。

 自分一人大柄な友人を抱えられるわけがなく、おろおろしている照明係の男を放っておい
て、俺は促されるまま、工藤さんについてゆく。

「それにしても、すごいねー。あの大男、君が倒しちゃったの?」

「いや、運が良かったんですよ。向こうが油断していたし。ところで、用事って何ですか?」

「もちろんその怪我のことだよ。ここの近くで起きたことだったら、みんなにも注意を呼びかけな
きゃいけないし、詳しいこと聞きたいって」

「い、いや……で、でも」

「とにかく!この劇団KON全体の問題なんだからね!」

 強い口調で言われてしまい、俺は言い返す言葉が見つからなかった。連れてこられたのは、
劇団の事務所で、沢山の資料や、書類が積み上げられたデスクが並んでいる。その中でもひ
ときわ大きいデスクに、今さんは足を投げ出し、椅子に寄りかかっているという、格好をしてい
た。

 今さんは、俺の顔を見るなりにやっと笑って。

「派手にやられたな」

 と、言った。

「派手にやられました」

 素直に答える俺に、今さんはデスクに投げ出していた足をおろして、腕を膝の上にのせる格
好で、こちらの顔をのぞき込む。

「顔を集中的に狙われてんな。さっそく誰かに恨まれたか」

「そうみたいです」

「俳優ってのは、因果な職業だからな。しかし、こういった問題ってのは、放っておくと劇団の結
束に乱れを来すことがある。貴様にも色々詳しい事情は聞いておかなきゃならん」

 それはそうだろう。

 この近くで通り魔めいた事件が起こったとなれば、劇団員を狙った通り魔という説が浮かぶ
のも無理はない。そうなると女の子は危ないし、男である俺ですら、こんなボロにされるのだか
ら、用心しなければならないと思うのは当然のことだ。

 だけど。

「今さん」

「さっきから物言いいたそうだな」

 流石今さん、俺の表情で、心情を察してくれたらしい。

 顔はにやっとした感じだけど、目は真剣に俺のことを見ている。

 俺は一つ息をついて、表情をひときわ引き締めた。

「俺に、信長を演じさせてくれませんか?」

「あ、浅羽君。その話は、事件のことを話してから」

 言いかける工藤さんに、今さんが手の平を見せる。彼の言葉を制止したのだ。

「俺も大体、犯人の見当はついたからいい。浅羽。昨日みたいな、ちんたらした信長だったら、
たたき出すぞ」

「分かっています」

 俺は深く頷いた。

 工藤さんはそんな今さんと俺を交互に見て、目をまん丸くする。

「何?犯人分かったの?誰、誰!?」

「おめーはうるさい」

「だって、僕だって犯人知りたいですよ!」

「うるさい!」

 ぎゃーぎゃー騒ぐ工藤さんの脛を、今さんはカツンと蹴る。さっき、このやり方で、俺はあの大
男を倒せたんだよな。感謝しないと。

 涙目を浮かべて脛を押さえる工藤さんが、ちょっと可哀相だったけどね。

 今さんは、俺の方を見る。

 今度はデスクに肘を着いて、悠然と、まるで王が臣下の本心を見極めるかのような仕草であ
った。

 この人、やっぱり俳優だ。

 こちらを見据える目は胸を突かれるくらいに迫力があって、格好良すぎる。

 舞台に立たないのが凄く惜しいぐらいに。

「いい目をしてんな」

「……」

「殴られて、一皮剥けたみたいじゃないか。その意気込みを忘れるな。舞台の上で生きる人間
は、それぐらいの覚悟がなきゃあな」

「はい!」

 今さんの言うとおりだ。俺はこの気持ちを生涯忘れず、舞台に挑んでいこう。

 もう、迷いも不安も俺は抱かない。

 そんな弱さを、表に出すような演技だけはしない。

 俺は舞台の上で輝く存在にならなければならないのだから。

 その時、今さんは何故か声を立てて笑い出した。

 訝る俺に、今さんはさも愉快そうに言うのであった。

「にしても、浅羽。貴様は思った以上に恐ろしいガキだな」



 稽古場にはスタッフや役者たちが集まっていた。

 今さんが俺を連れて舞台に入ったのを見て、その場にいた全員がざわつく。

 俺の顔を見て驚いたのと、それと新米研修生である俺がここに来たこと自体が驚きだったの
もあるだろう。

「お前ら、昨日は五幕の二場まで一通りやったが、まず全体的に演技がなってない!気合い、
緊張感がまるっきり伝わって来ない!迫力もないし、魅力もない。俺から言わせりゃ最悪な舞
台だ!!」

 そこで、今さん、小道具に使う木刀をなぎ払う。

 いつもは竹刀を愛用しているのだけど、今日は、刀により近いものを手にしているせいか、一
際迫力がある。まるで武士そのものだ。その場にいる人間を瞬時に切り裂くような殺気すら感
じる。

 この人は熱い。まるで灼熱の炎のように。

 人の心に切り込んでくるような演技をする、と永原先生は言っていたけど、まさに今さんの声
や仕草は、その場にいる全員を叩き切っていた。

 俺は目を閉じた。

 未だに永原さんを馬鹿にしたような、あの言動は俺の中では許せない。

 だけど、俺はこの今泰介という人物が嫌いにはなれなかった。

 むしろ、惹かれていた。

 永原さんよりも先に、この人に出会っていたら、俺は自分の意志で劇団KONの門を叩いてい
ただろう。

 俺は ―――――

「そこでだ!今回は、こいつに信長を演じて貰う」

 今さんの木刀が、俺の方へ向けられる。

 その場にいたスタッフや役者たちは、ざわめく。特に俳優陣たちは騒然とした。

 その内の一人が、今さんに歩み出て申し立てる。

「待ってください!こいつは……いえ、彼はまだ研修生じゃないですか!演技の基礎や、発声
だって、まだ完璧じゃないような人間に、舞台へ昇らせるなんて」

「ほぉ?お前は発声や演技が、完璧だったのか」

  今さんの睨みをきかせた問いかけに。

 彼はひっと口を引きつらせる。

「ち、違います!そうじゃありません!ただ、基礎もままならない新米を舞台に出すのは、酷な
ことだと言いたかったんです」

「その心配なら及ばん。一通りこいつの授業を見てきたが、基礎は既にできあがっている。ま
だまだ半人前だけどな」

「待ってください!だったら、この俺に信長をさせてください」

 声を上げて歩み出る俳優。俺より少し上の年代だろうか。目がらんらんと光っていて、野心丸
出しだ。隙あらば、今より良い役を狙っているのであろう。

 しかし、意欲ある若者の申し出を、今さんは容赦なく切り捨てる。

「自惚れんなよ、コラ」

 巻き舌も掛かった、けんか腰。

 意欲ある若者は、今さんに木刀の切っ先をのど元に突きつけられて、顔面を蒼白にする。

「半人前なのは、貴様らも同じなんだよ!とにかく、今からこいつに信長を演じさせる。それを
見て、一人一人感想を言え!いいな!」

 今さんの、その一喝でざわめきも、水を打ったように静かになった。

 俺は、工藤さんと共に舞台へ昇る。

 顔中、テープと湿布の信長……ちょっと情けないんだけどね。しかし、その情けなさを感じさ
せない演技をすることに意義がある、というものだ。

「おい、信長。こいつを小道具に使え」

 舞台に向かって今さんが、木刀を投げてきた。

 それを受け取った瞬間、昨日蹴られていた腕の痛みが走った。それは、先程今さんが軽々
振り回している木刀なのに、ずっしり重さを感るものであった。

 しかし、そんなことは表に出さず、俺はを縦に振ってみる。小道具の扱い方は授業でも習って
いる。それに小さい頃から、見よう見まねでやっていたことが功を奏し、本格的に学んでから
も、さしたる抵抗なく演技に入り込めることは、刀意外でも多くあった。

 俺は工藤さんの方を見る。

 工藤さんは既に、鬼刃を演じ、俺に跪いていた。

 鬼刃は斉藤家の姫君、帰蝶の護衛である一方、信長を狙う暗殺者でもあった。今、まさにそ
の信長の命を狙おうとしているシーンだ。

 梅の花が咲く雪の日、運良く二人きりになった今は絶好のチャンスであった。

 鬼刃は、密かに刀に手を掛けつつも、信長に跪いている。

 俺は木刀を床に起き、舞台の上にあぐらを掻いて、片方の膝は立てて座る。信長はまだ、う
つけ者と呼ばれていた少年だった。

「のう、鬼刃。雪と梅というものは、まことに似合うと思わぬか?白き景色の中、紅の花がよう
映えておるわ」

 不思議と見たこともないのに、そんな光景が目に浮かぶ。真っ白な雪景色に、咲き誇る紅
梅。

 どんなに過酷な気候がそこにあっても、鮮やかに咲くことを辞めない花を、どこかいとおしく思
う……俺が信長なら、そんな風に梅を愛でていたことだろう。

「鬼刃も、よう見てみよ」

 空恐ろしいほどに、穏やかな声を信長は鬼刃に向ける。それは逆らうことを許さぬ威圧が込
められている。 

 促されるままに、窓の方を見る鬼刃。

 その雪景色、梅の花を目にして彼はしばらく惚けたように、動かなくなった。

 鬼刃のそんな横顔は、同じ年齢の少年達にと比較して、際立って精悍でありながらも、美女さ
ながらの麗しさも兼ね備えている。

 普段は底抜けに明るい工藤さんからは、想像も付かない演技。

 今、全身で体当たりしてくるその気迫に、俺は負けるわけにはいかなかった。

「あの紅の花びらよりも色鮮やかな紅が、この世にあるかのう?」

 問いかける信長の声音。

 まるで試すような。


 アノ紅ノ花ビラヨリモ色鮮ヤカナ紅


 その言葉に、息を飲んでこちらを見る鬼刃に、俺はクスリと笑った。

 相手が刀に手を掛ける前に、俺は木刀を手に持ち、鞘から引き抜くかのように、刀を横に薙
ぐ。

 鬼刃は、がたがたと震えだし、刀に手を掛けたくてもかけられなかった。

 そのまま切られることを覚悟して、目を閉じる。

「貴様がこの尾張に来た意味、このウツケが察することが出来ぬと思うたか?」

「……!」

 びくりと鬼刃の肩が震え、彼は思わず顔を上げる。

 俺は、工藤さんを追いつめている手応えを感じていた。俺の演じる信長の威圧に、鬼刃は逆
らえず、刀を持つこともできずにいる。

 木刀の切っ先を鬼刃ののど元に突きつける。俺はその時、自分でも凄絶なくらい、恐ろしい
笑みを浮かべていることを確信していた。

 実の父に鬼と呼ばれた鬼刃。

 しかし、その鬼を跪かせるさらなる鬼が、この世には存在した。

 闇雲に信長に斬りかかろうとする鬼刃。

 恐れも憧憬も振り払い、ただ無我夢中で刀を引き抜き飛びかかろうとする。

 工藤さんは、本当に俺に斬りかかろうとしていた。

 だけど、俺はその行動を予期して、刀を木刀で受け止める。真剣だったら木刀は折れている
所だろうが、これは本物そっくりに制作された舞台用の小道具。

 刀同士の押し合い。鬼刃は、必死になって信長にくってかかる。しかし信長はそんな鬼刃を
近づくで押し返す。

 突き飛ばされ、尻餅を付く形となった鬼刃に、信長は背を向ける。

 斬る隙ができたというのに、鬼刃は動けなかった。

 俺は屋敷から庭へ出て、梅の木の枝を切り落とす。手に落ちた梅の枝を、鬼刃に手渡す。

「しかし、今の貴様では、とうてい梅以上の紅を咲かすのは無理なこと。儂の血が欲しくば、い
つでもくれてやるぞ?ただし、儂を斬ることができたらの話だがな」

 何処までも自信に溢れた信長の口調。

 これが俺の演じる信長だ。信長には迷いがない。炎のように熱く、まっすぐ天下を見つめてい
る、それが織田信長という武将だ。

  ここで舞台は暗転する。俺が演じる信長はここで終わりだ。

 だけど……物足りない。全身がまだ信長を演じたがっている。今の心情は、まるで火をつけ
られて燃えたぎった状態だった。

 身体が熱い。

 もっと演じたい。俺はこの役を。

 もっと、もっと……

 その時、俺は一条の活路を見たような気がした。

 ここは舞台の上。

 そこから続く遙かに長い道のり。

 だけど、それははっきりと俺を輝く方向へ導いている。

 求めていた世界……俺が生きるための世界がここにはある。

 もう、俺は演技に迷ったりはしない。どんな舞台であろうと自分のある力を信じ、全身全霊掛
けて演じてみせる。

 暗転から明るくなって、工藤さんが起きあがった。

 さっきの精悍な顔が一変して、可愛らしい顔に戻る。

 彼は、片目を閉じて俺に向かって一言言った。

「超最高☆」



 今頃になって、体中のあちらこちらが痛みを訴え始めた。演じている間は全く気づかなかった
けど。痛みすら気にならないくらい、演技に没頭していたのだ。

 体中は痛いけど、何とも爽快な気分。

 俺と工藤さんの演技を見ていたスタッフや役者の中からは、いくつか拍手が出てきた。

 中には目を輝かせて、こっちを見ている女優さんなんかもいて、俺は何だか照れくさくなった。

 しかし、拍手をしていない人間も中にはいる。

 自分こそが信長を演じたい人や、今信長を演じている小見山さんを応援している役者やスタ
ッフは、大いに詰まらなそうだった。

「さて、感想だが。久野、お前はどう思った?」

 猿顔が特徴の彼は、誰の文句もなく秀吉役に収まっていた。彼は立ち上がって、きっぱりと
答えた。

「技術の点では、未熟な部分がありますが、それを感じさせない迫力がありました」

「じゃあ、赤井。お前は?」

「久野君と同意見ですね。浅羽君からは、俺たちも見習わなきゃ行けない部分があると思いま
した」

 そんな冷静な感想もあれば。

「じゃあ、木村。貴様はどうだ?」

「未熟ですよ!刀の使い方がなってない!俺ならもっと上手く使いこなせます」

「お前はどうだ?多田」

「木村よりは俺の方が出来るね」 

「何だと、貴様!?」

 俺の演技の感想を今さんは聞いているのに、自分のアピールをする人間も何人かいた。 ま
ぁ、それくらいの意欲がないと、良い役は捕まらないのかもな、実際。

 今さんは苦笑して、今度はスタッフの方を見る。

「そこのお前はどう思った?」

 さっき俺に因縁をつけた照明係の男に、今さんは問いかける。彼は逃げるように目をそらし
て、ぶっきらぼうに言った。

「俺は!こんな奴の演技よりも、小見山さんの方が好きです!」

「じゃあ、お前はどうだ?」

 尋ねたのは小道具係の青年だ。役者も兼ねているその青年はにこやかに言った。

「演劇に携わっている僕なんかは、どうしても刀の所作まで目にいってしまいますが、普通のお
客さんはそんなものよりも、役者の気迫の方が目に映ります。どちらが、客にとって喜ばしい役
者かといえば……一目瞭然ですよね」

 くすりと笑う小道具の青年に、照明係の男は目を剥く。そして、もう一人同じ心境の人物がい
ることを俺は知っている。

 ぎゅっと拳を握りしめ、俺の方を睨み付けているその男。憎しみすら感じるその眼差しを見
て、俺は「ああ、やっぱりこの人が、闇討ちの犯人だったのか」と思った。

 この人と、大道具の男と照明担当の男。そういえば、三人よく一緒にいる光景をみたような気
がした。 

 そんな犯人に、俺は敢えて笑顔を向ける。

「俺は、信長を今演じている小見山さんの意見も聞いてみたいです」

 俺の言葉に今さんは頷いて、小見山さんを促す。

 本来信長役であるその青年は、これ以上になく目を見張って、俺の方を見ていた。

 年の頃は二十代前半か。細面で、少し瞼がふくらんだような一重、顎には薄いひげが生えて
いる。俳優を目指しているだけに、それなりの魅力を感じる人だと俺は思う。

 信長を演じていた時だって、格好良かった。工藤さんの存在感が大きな分、アドリブを効かせ
るなど工夫をし、自分をアピールしていた演技には心底感心させられたけど。

 残念なことだった。

 今の信長は、怯えているのか、石像のように動かない。

 なかなか答えずにいる小見山さんに、俺はゆっくりとした口調でもう一度問いかける。

「俺の演技、どうでした?小見山さん。自分でも刀裁きはなってないことは、十分承知していま
す。あなたには、それ以外の意見があったら、是非言って欲しいんです」

 俺は出来るだけ穏やかに問いかけた……だけど、目はまっすぐ小見山を射抜く。

 目を反らさせやしない。

 その目の奥に隠された本音を俺は知りたい。

「小見山さんは、特に意見がないようですね」

 少し落胆したように俺が言って見せると、小見山さんの拳が震えた。歯の奥を噛みしめるよう
な表情。

 今さんもやれやれと溜息をつく。

「おい、小見山。何か意見くらい言ったらどうだ?文句がないんだったら、信長役はこいつにさ
せるぞ」

「 ―――― 」

 俺はその時小見山さんの顔が真っ青になる瞬間をみた。

 笑い混じりに今さんは言うが、その言葉は、多分小見山さんにとって最も言われたくなかった
言葉だったんじゃないだろうか。

 そして、その言葉を言われたくなかったが為に、小見山さんは俺を……

「……るのですか?」

「ん?、何て言った?小見山」

 今さんが尋ね返す。

 小見山さんの目がその時、俺の方へ向けられる。怨じるような視線……ああ、それが本音だ
ったわけかと俺は思った。

「そんな顔で、舞台に出せるのですか?そんな、醜い顔で……」

 声が引きつっている、信じがたい現実を見たかのような驚愕が声となって現れている。

 演技だったら、さぞ素晴らしかったことだろう。

 今さんが首を傾げ、親指で俺の方を指さす。

「この顔が醜いと思うのか?小見山」

「だって、そうじゃないですか!そんな傷だらけの……見るに耐えられないような顔なんかで、
舞台に出られるわけがない……俳優として、大問題じゃないですか!?」

 ええ、小見山さんの言うとおりです。

 俳優にとって、顔の傷はこれ以上にないマイナスですよ。

 しかし、今さんは肩を竦めて。

「ま、そうだろうな。しかしまぁ、公演当日には、腫れも引いているだろうし、傷口もメイクで誤魔
化せる」

「……!」

 小見山は信じたくないのか、首を横に振っていた。

 そんな彼の姿を、今さんは冷ややかに見つめる。そして彼に歩み寄り、その肩に手を掛け
る。

 驚いて顔を上げた小見山さんを、彼はいきなり殴りたおした。

 道場で鍛えられていただけに、そのパンチがいかに強烈だったか分からない。しかし、本気
だったら、多分小見山さんの歯は折れていたことであろう。

 誰もが息を飲む光景だ。

 何故、小見山さんが殴られなくてはならないのか?

 俺以外、その場にいた全員が思ったことだと思う。

 頬を押さえ、起きあがろうとする小見山さんに、今さんはさらに蹴りを入れた。

 腹に蹴りが入る音が、こうもはっきり聞こえるとは。

 口から唾液を漏らし、腹を抱えて苦悶する小見山に、思わず顔を背ける俳優もいた。

 さらに今さんは、小見山さんの前にかがみ込むと、その髪をぐっと掴んで、顔を自分の方へ
向けさせた。

「よう、小見山。お前分かるか?お前は負けたんだ。お前がこれだけ、浅羽を傷つけてやった
にも関わらずだ」

 自分がやった訳じゃないと訴えたかったのか、それとも、自分はそんな新人には負けやしな
いと言いたかったのか、あるいは目の前の現実を振り払いたかったのか。小見山さんは張り
子のように首を横に振るばかりだった。

「小見山君が浅羽君を?」

「うそ、どうして!?」 

 周囲が再びざわつく。にわか信じがたいと思っている女優さんや俳優さん。そして、小見山さ
んを応援していたのであろう、役者さんやスタッフ達は、は明らかに落胆の色が隠せない様子
だった。

「浅羽が闇討ちにあったと聞いてな……おれも最初は通り魔か、劇団の嫌がらせの為に、団員
を狙った犯行かと思っていたよ。だけどな、実際コイツの顔の傷と、腕の傷を見たときにな、ピ
ンと来たんだ。もしかしたら、コイツに舞台に出られたら困る人間が、仕掛けたことなのかもし
れない、とな」

「……」

「あまりにも、執拗に顔を狙いすぎていた……顔の傷だけじゃない。顔を庇っていたのであろ
う、腕の痣を見た時にな。激しい感情を見たような気がした……嫉妬と憎しみ。浅羽にそういう
感情を抱きそうな人間、浅羽に舞台に出られたら困る人間。今の段階では1人しか思いつかな
かった」

 少し皮肉っぽい笑みを浮かべ、俺の方を見た。

「今さんが……そこまで、察してくれているとは思いませんでした」

 俺の言葉に今さんは自嘲気味に笑う。

「ここの団員たちの性質はな、一応把握しているつもりだった。こいつはこんな時、どうするの
か?そんな予測をして、キャストも決めていたからな……小見山の心情も、分かっていたつもり
だった。俺の目が新人に向けられて、募る焦燥感と悔しさ。そんなお前の気持ちが手に取るよ
うに分かったよ。俺にもそんな時期があったからな。だけどそれをバネに、小見山、お前がもっ
といい信長を演じてくれたらと思っていた」

「……!」

「それが闇打ちに走ることになっちまうとはな」 

 愕然と、小見山さんは今さんを見つめる。そんな風に思ってくれていたなど、考えもしなかった
のであろう。元々、今さんを誰よりも慕っていただけに、その言葉は痛烈意外何者でもない。

 可哀想な人だと思った。

 この人は結局今さんを慕っていても、完全に信じてはいなかったのだ。

「本当に残念だよ。小見山君」

 そう言ったのは工藤さんだった。

 悲しそうなその眼差しから逃げるように目をそらし、小見山さんは掠れた声を漏らす。

「あなたは……そいつのことしか見ていなかったじゃないですか」

「僕は君のことをちゃんと見ていたよ。君が僕を見ていなかっただけだ」

「俺は見ていた!あんたに出会った時からずっと、ずっと見てきたんだ!!」

 小見山さんは目を見開いて、堪りかねたかのように声を上げた。

 俺はその目を見てはっと思い出す。


 いい気になりやがって!あの人に気に入られているからって!!


 あの小見山さんの言葉。

 彼の言う「あの人」が、俺はてっきり今さんのことかと思っていたけれども、そうじゃなかったの
かもしれない。

 小見山さんは工藤さんのことを。

 工藤さんは男だし、それが恋愛感情なのかどうかは俺にも分からないけど。

 だけど劇団の先輩に対する尊敬の念以上の感情が、小見山さんからは感じられた。

 工藤さんはそんな小見山さんのことを、やはり悲しそうな目で見て言った。

「でも君は肝心な時に目を反らしていた。僕が真剣に君を見ていても、君はそれに答えてくれな
かった」

 小見山さんは固く目を閉じ、首を横にふった。

 工藤さんは今でもちゃんと見ているのに。

 彼の気持ちが分からないわけじゃない。

 俺だって最初は、憧れてやまなかった人なのに……いや、憧れていたからこそ、怖くて永原さ
んの目をまっすぐに見ることができなかった。

 でも、ずっと逃げていたら駄目だったんだ。

 「……俺も永原のことは笑えなくなった」

 今さんは引っ張っていた髪の毛を離した。

 落胆しきったその声に、糸が切れた操り人形のように崩れる小見山さん。

 今さんにとっても、今回は指導者として、一種の挫折を味わっていたのかもしれない。

 自分の教え方は正しいと信じて疑っていなかった彼にとっては。

  しかし、すぐに気を取り直したように今さんは、顔を引き締めた。

 足下には、声を上げて泣き崩れている小見山さんの姿がある。

 今さんは、そんな教え子を叱咤するかのように言った。

「小見山、浅羽を闇討ちにした時点でお前は既に負けていたんだよ。そんなことをしないと勝て
ない、と思ったお前の弱さが最大の敗因だ」




 この顔の傷の代償……それは今の俺自身ができる信長を精一杯演じることだった。ただでさ
え、俺の存在に怯えていたのであろう、小見山さんに、全力の演技をぶつけてやる。

 確かに技術はまだまだだと自分でも思う。だけど、俺が彼にとって脅かす存在なのだとすれ
ば、必ず俺にはあって、小見山さんにはないものがあるはずだと思った。

 それをみせつけることで、きっと彼は打ちのめされるだろうとも思ったのである。

 警察に訴えることも出来ただろうし、永原さんに任せておけば、多分小見山さんは不本意な
がらにも、俺に土下座をしていたかもしれない。

 だけど、それは俺のプライドが許さなかった。

 そう、俺がやられたらには、俺自身の手でやり返さないといけない。

 小見山さんと勝負したい、と思ったのだ。

 俺が言いたかったことは、全て今さんが言ってくれた。俺が言わず、今さんの口から言われ
たことは、小見山さんにとって辛いかもしれないけれど、救いだったのかもしれなかった。

 俺が言ったら、きっと小見山さんは敗北感しか心に残らなかったのではないだろうか。その状
態から、今さんは彼を救ったのだと思う。

 今泰介という人は、本当に魅力がある人だ。

 芝居に熱くて、育てている役者一人一人を愛し、そしていつでも全力でぶつかってくる。

 この人は俺にとって許し難い言動を吐いた。今でもそれは許し難い。

 それでも、俺は好きになっていた。

 今泰介という、一人の人間を。



 小見山さんはその後、劇団を辞めていった。

 もう一度出直したい、と今さんに一言告げて。そして照明係と大道具係だった男も、後を追う
ようにして辞めていった。彼らは小見山さんを随分と慕っていたそうである。

 俺の所為で、信長役が欠けてしまった……当初の予定が大幅に狂ってしまい、多大な迷惑
を掛けてしまったので、俺はスタッフや俳優さんたちに謝りに回った。

「気にするな」と言ってくれる人もいれば、「迷惑な奴だよな」と笑い飛ばす人もいたり。中には
自分こそが信長にと思っているのか、凄く感謝してくれる人もいたりした。

 そういや、信長役誰がするんだろう。

 俺は所詮、まだまだ新米だ。いきなり舞台出演なんて、そんなことにはなりやしない。 分か
っている……悔しいけどさ。

 だけどあの信長役、俺の中では演じ足りていなかった。

 もっともっと演じてみたい。

 まるで火をつけられたまんま、鎮火することなく、俺の中では炎が燃えさかる状態で。

 ああ、今さんに今一度、訴え出ようかと思う。

 あの信長を演じさせて欲しいと。

 それで断られたら、それでもいいじゃないか。今日からまた元の授業へ戻るだけのことだ…
…と思っていた矢先。

 いつも通り劇団KONを訪れた俺は、工藤さんに出迎えられた。しかも、やたらに息を切らせ
て、こっちに走り寄ってきたものだから、何事かと思っていた。

「浅羽君!待っていたよ!」

「はい?」

「さっそくこれから台詞合わせするからね!」

「え?何の?」

「決まっているでしょ!信長のだよ!」

「ああ、代読ですか。でも何で……そんなに慌てて」

 状況を理解する前に、俺は工藤さんに引っ張られていた。

 その際、大見麻弥とすれ違い、彼女に凄い目で睨まれて……俺は……まさか、と思った。

 稽古場にたどり着き、工藤さんが門一番、大きな声で言った。

「工藤潤、ただいま新たな信長役を連れてきました」

「……!?」

 俺は目を丸くして、工藤さんの顔を見る。彼はこっちを見てお得意のウインクを送る。

「おーしっ!これで役者はそろったな。じゃあ、始めるぞ!」

 今さんの威勢の良い声に、俺はただ、ただ呆気にとられていた。

 目だけじゃなく、口までぽっかり丸く開いた状態の俺に、今さんは木刀で肩を叩きながらニヤ
リと笑う。

「何埴輪みてーな面してんだ。やるって言ってんだよ」

「え?でも、授業は?」

「授業は拳法だけやってろ。あとは舞台稽古をかねて、俺がみっちりたたき込む!いいか、今
までとは比べ物にならないくらい、反吐が出るくらい厳しいからな。プロの舞台ってのは」

「俺が舞台に……」

「そうだよ。てめぇが小見山を引きずり落としたんだからな。責任はてめぇがきちっと持て!分
かったな!?」

 今さんは、木刀を俺に突きつけた。

 まっすぐ射抜いてくる眼差しは、殺気すら感じる。

 きっと少し前の俺だったら、臆していたかもしれない。だけど、今は違う。

 燃えたぎる熱さをぶつける舞台がそこにあるのだ。

 俺には迷いも、恐れもない。あるのは歓喜と高揚感。

 今さんは静かに問いかける。


「お前は舞台の上で死ねるか?」


 その瞬間、空気はまるで教会堂のように厳粛なものになった。

 誰一人、物音を立てず、真剣な眼差しで俺のことを見守ってくれている。

 儀式を思わせる光景。

 静謐なその空間に響いた今さんのその問いかけに、俺は涙が出そうになった。

 迷いなんかない。

 信長を演じたときに見た、一条の道筋は決して曲がることはないし、分かれることもあり得な
い。闇の中、光を導くかのように、ただ一条の道がそこにはあった。

 それが役者への道。

 俺はひたすら、その道を歩み続けることになるだろう。死ぬまでこの道を歩くことになる。

 だから……


「俺は舞台の上で死にます。なぜなら、舞台の上で生きる人間だからです」


 その日から、厳しいレッスンが始まった。まずは刀裁き、立ち振る舞い。時代の言葉遣いか
ら、台詞の一言、立ち振る舞いの細かい部分まで、注意されない時はなかった。

 だけど、今さんの一言一言を聞き、その通りにしていると気持ちが良いほど、すっきりした演
技ができる。今まで、いかに自分が無駄な動きをしていたのか、否応なく分かるのである。

 永原さんと来島は。

 俺が信長に抜擢されたと聞いて、大いに喜んでくれた。

「早く舞台へ上がってこい。そうすれば、永原先生との共演だって夢じゃなくなるぞ」

 来嶋のその言葉に、俺は胸一杯な気持ちになる。

 どれくらい遠い道のりかは分からない。

 それでも、いつかは永原さんと同じ舞台に。 

 幼い頃から抱き続けた夢が、現実になるかもしれない。

 夢に続く道を、俺は今歩んでいるのだから。

 これから、しばらくの間は、永原さんの付き人の仕事は出来なくなるので、働いて間もないく
せに、俺は長期休暇をとることになってしまう。

 貯金はは、七月から働いて今まで、こつこつ溜めてはいたので、二ヶ月の稽古の間は働かず
に食べていけるだけの額にはなっている。食事はKONの方でも差し入れが来るらしいし、切り
つめていけば、なんとかやっていけるだろう。

 その日、東京は例年より早い大雪に見舞われた。

 永原さんと来嶋の初回公演。

 俺は自分の舞台の練習で、見に行くことは出来なかった。

 それも、仕方のないことだと思う。

 役者には自分の時間など存在しない。

 来嶋は俺よりもだいぶ遅く帰宅した。帰って来るなり、ベッドに倒れ込んだので、俺はその上
から毛布を掛けてやった。

 彼は師である名優の代役として、舞台を成功させなければいけない使命がある。

 その重圧との戦いも彼にはあったはず。

 しかし、力尽きて眠っている来嶋の顔はどこか幸せそうで。

 きっと満足した演技ができたのだろう、と思った。

 今まで練習してきた永原さんや来嶋の姿を見ていたら分かる。

 あの二人も、何度も、何度も、練習を繰り返し、そうして磨かれていったのだ。

 来嶋の初公演は、東京の初雪でもあった。

 止むことのない、牡丹雪はやがて東京の町並みを白く変えてゆく。

 来嶋自身の俳優人生における舞台の幕開けに、ふさわしい光景だと俺は思った。

 翌日。

 晴れ渡った空の下、輝く銀世界のように。

 来嶋の舞台は、これからも輝かしいものに違いない。

 









 そして、いつか俺も、あの冬の輝きのように……

 



 




 

 

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あの頃の輝き

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