春来2

 




 そう、去年の今頃だった。

 部活を辞めて以来、受験勉強に専念することにした俺に、その男は突如立ちはだかったのだ。

「全国演劇大会の映像を見たよ」、と。

 俺は仁王立ちで立ちはだかるこの人間を、最初は変質者かと思った。

 無視して、彼を追い越そうとすると、彼はその行く手を妨げて。

「凄かったよ、君が演じていたエドン侯爵は」

 エドン侯爵……ああ、そうだ。

 全国演劇大会で俺が演じた役。

 主人公はマドレアという、一国の王女なのだけど、俺が演じる侯爵はその王女と恋に落ちる青年
役。

 この役がしっくりくるまで、俺とマドレア役の水端さんは夜遅くまで稽古を続けたんだ。

 エドンはやがて政治犯に仕立て上げられる。一度は恋人と逃避行し、つかの間、幸せな日々を送る
が、隠れ家が見つかり囚われの身となった。王女を連れ去った罪が問われ、彼は火あぶりの刑にさ
れる。

 エドンは最後に恋人の名前を叫びながら、死んでいく。

 ただひたすら純粋に王女を愛した青年。

 どんな脅しにも、どんな誘惑にも屈することなく、誇り高く生きた青年。

 俺はマドレア役の水端さんがほのかな好意を抱いていたから、純粋な恋心をリアルに演じることが
できたし、恋から愛に変わる瞬間は、なんとも演じ甲斐のある瞬間でもあった。

 そんな演劇部のことを思い出した俺は、はっと我に返る。

 何をやっているんだ、俺は。

 今は演劇のことを思い出してはいけないのに。

「僕は、静麻優斗。映画監督をやっている」

「……!」

 聞いたことがある。日本人で世界の三大映画祭の賞を総なめにした若き天才。

 彼が監督する映画に出演した俳優たちは、一流の階段を約束されるとまで言われている。

 あの永原映も、彼の監督作品に何度か出演していた。

 この人が……あの映画監督だというのか。

 息をのむ俺に、彼は大きな目でじっとこちらを見つめながら言った。

「僕の映画に出て欲しい」

 驚きのあまり最初、幻聴を聞いたのかと思った。

 ある日有名監督に見初められてスカウトされる……など、夢にも思わなかった幸運。

 自分がこの監督の映画に?

 永原映もこの監督の映画には何度か出演している。

 憧れてやまなかったかの俳優も指揮した監督に見初められるなど。

 しかし、そのときの自分はもう医師を目指すと心に誓ったばかりで、目の前の幸運も障害物にしか
見えなかった。

「すいません。俺はもう演劇部は辞めています。役者になるつもりもありませんし」

 苦しげな声しかでなかった。

 演じたい。

 そんな渇望がもう喉まで出かかっている。

 それを抑えて、偽りの気持ちを声に出しているのだ。

 静麻の大きな目が、さらに大きく見開かれた。

「本当に、君は役者にならないつもりなのか!?」

「すいませんが、失礼します」

 振り切るように足早に去ろうとする俺の手首を、その人は強く掴んだ。

 振り返ると、鋭い目がこちらを射抜いていた。

「それは、君の本音なのか?」

 優しい声だ。

 決して咎めるような口調ではないが、俺の偽りの思いを打ち砕くには十分の破壊力があった。

「俺は……医者にならなきゃいけないんです」

 うまい言葉が見つからない。

 いつもなら、さらっとかわすような言葉を返せるのに、彼の鋭い目の輝きは、偽ることを許してはくれ
なかった。

「君は本当にそれでいいのか?」

「……!」

 だめだ!

 この人と一緒にいたら、また夢を見てしまう。

 演じることの楽しさを思い出してしまう。

 いや、既に思い出してしまった。

 全国演劇大会を優勝した時のあの瞬間。

 そして、あの舞台に立った時のこと。

 眩しいスポットライトの下、最高の演技ができたあの時のことを。

 もっと、演じたい。

 全身でもっと色々なことが表現できるはずだ。

 自分はまだまだ演じきれていないのに。

「本当に君は」

「……うるさい」

 あの言いようのない快感を思い出してしまったら、自分は。

「君……」

「うるさい、うるせえんだよ!!」

 その時、俺はかっと目を見開いた。

 殺意に近い、眼差しだったかもしれない。

 いや、俺はあの時、本当に目の前の人物を消したいと思った。

 消してやろう、そんな思いを込めて、

 腹の底から声を出した。

「あんたに……あんたに俺の何が分かるんだ!!」

 俺は捕まれていた手を思い切り振り払って、再び走り出した。

 今度現れたら、殺す。

 絶対に殺してやる。

 俺は本気でそう考えていた。

 あの時の俺は、本当に医者を目指していた。

 目指さないといけないと思ったから。



「今の君の声は、演劇をやりたくてたまらない……と言っているようにしか聞こえないよ」

 

 

 力なく言ったその人の言葉を背中越しに聞いて、俺は泣きたいのをこらえ走っていた。 

 そうだ。

 俺は演劇をやりたい。

 医者なんか、本当はなりたくない。

 けれども。

 けれども!!



 演劇部を辞める羽目に陥ったその日、俺は両親に文句を言うべく、足早に家に戻った。

 いくら俺を受験に専念させたいからといって、あまりにも横暴なやり方だ。

 他に方法はなかったのか!?

 そう問いただしてやりたかった。

 けれども、家の前に辿り着いた時、そこには救急車が停車していた。

 俺は訝しげに思いながら家に入ると、思いがけない光景があった。

「ああ、洋樹君帰ってきたのか」

 俺の存在に気付き、声を掛けたのは父さんの所で働く医者だ。

 名前……忘れたけど。

 それよりも、信じられない光景に俺は息をのむ。

 ストレッチャーで運ばれる父の姿があったのだ。

 苦しげになんども呼吸しているその姿に、俺は声がでなくなった。

「過労による心不全の可能性が高い。ここでこんなことを君に言うのは酷かもしれないが、覚悟だけ
はしておいて欲しい」

「……」

 それって、父さんが死ぬ確率が高いってことか?

 何でそんな急に?

 確かに父さん、ここの所オペが続いて、あまり寝ていないって聞いていたけど。

 そんなのいつものことだし。

 毎日がそんなカンジだったから、家にいないことも多い人だった。

 俺は父親と過ごした時間が数えるほどしかない。

 医者の子供の宿命だ、と誰かが言っていた。

 俺もそんなものだと思っていたし。

 その時、父親は苦しそうに息をしながらも、こちらに手を伸ばした。

 俺ははっとして、歩み寄る。

『洋樹……頼む。病院を』

 最後までは言わなかった。

 だけど、あんな縋るような父親の目を見たのは初めてだった。

 俺が知っている父親の顔は穏やかな笑顔と、寝顔ぐらいで。

 そう。

 演劇に夢中になっている俺のことも、母さんはともかく、父さんは温かく見守ってくれていたんだ。

 今までずっと好きなことをさせてくれたこの人に、親孝行の一つもしないなんて。

 俺はその手を握って頷いた。

「……わかったよ」

 俺の言葉に、父親は安堵したのか、少し表情が柔らかくなった。

 その時、本当に死にそうな親を前にして。

 イヤだなんて言えるワケがなかった。

 それに今まで何も求めて来なかった父親が、俺のことを。

 そう思うと、もう演劇をやるのは最後にしなければならない。

 あの時、俺は初めてあの父親の子供だという実感が湧いたような気がしたのだ。

 そうなんだ。

 今まで俺は父と母の子供であるという実感が持てなかった。

 よくテレビで子供を抱き上げる親の映像が流れるのだけど、俺にはそうしてもらった記憶がなかった
し。どっちかというとお手伝いの鈴木さんに抱き上げてもらうコトが多かったような。

 ……親って何なんだろうな。

 そんな疑問が湧かない時がなかったワケじゃない。

  切羽詰まった状況だというのに、俺はその時、あの人が初めて父親に思えたのだ。

 俺を必要としてくれる世界がある。

 そう思い、医者を目指すことに決めたのだ。

 父親はそれから、徐々に体力を回復し、退院したけれども予断は許せない状況にあるという。

 

医者にならなきゃいけない。


 あの頃は、そう自分に言い聞かせていた。

 呪文のように、何度も何度も。

 テレビで劇場のことが取材に取り上げられているのを見ると、すぐに消したり。

 駅前に貼ってあるポスターも極力見ないようにしたり。

 県内随一の進学塾に通うようになり、上級クラスの中でも一位、二位を争う成績もとった。やれば出
来る子だからね、俺。

 演劇を忘れるために、必死扱いて勉強した。

 親の思惑通り、と言われたらそれまでだ。

 だけど、父さんを安心させたかったから。



「浅羽君」

 ある日、俺は同じ部活の水端さんに呼び止められた。

 放課後。

 丁度、昇降口で上履きから靴に履き替えていた時のことだ。

「水端さん……」

 彼女はとても暗い顔をして、俯いていた。

 どうしたんだろう?

 吉田部長と喧嘩したのだろうか。

「浅羽君、今日も塾なの?」

「ああ、そうだけど。……水端さん、部活は?」

「私?……うん……部活か……もう辞めちゃおうかなぁって思ってる」

 寂しそうに笑う彼女の言葉に、俺は目を見張った。

 何、言っての?

 別に俺と違って辞める必要なんかないだろ。

 何があったのか分からないけど、そんなの。

 言葉に出したかったけど、今の俺にはそれすら口に出せなかった。

 自分が彼女を責めると、また演劇をやりたいという気持ちが溢れそうだったから。

「どうして?」

 俺は彼女を問いただしたい気持ちを抑えて、優しく尋ねた。

「詰まらないから、かな」

「…………え?」

 彼女は、俺と同じで演劇が好きで演劇部に入った人だ。

 中学の時も演劇部だったという。

 誰かにスカウトされて入ったのとは違う。

 よく俺とは、永原映のことや、織辺拓彦の話で盛り上がっていた。

 周りからは演劇馬鹿と言われるぐらい演劇が好きで。

 そんな彼女の口から部活がつまらないだなんて。

「浅羽君がいた時の方が、凄く楽しかったから」

「……」

 彼女の言葉に。

 俺はどくんと胸が高鳴った。

 そんなこと……何で言うんだよ?

 俺だって、楽しかったよ。

 演劇部のみんなと一丸となって、全国大会にも出て。

 水端さんの言葉が嬉しくない、と言ったら嘘になる。

 一緒に演じていて楽しい、同じ役者に言われるのは最高の褒め言葉だ。

 ましてや相手は学年で一番の美人だ。

 多くの男子が彼女に憧れていた。

 それに俺だって、吉田先輩の彼女じゃなきゃ……。

「浅羽君、笑わなくなったよね」

「……え」

「演劇やらなくなってから、笑わなくなった」

「……そうかな」

「うん。浅羽君、本当はまだ演劇やりたいんでしょ?」

────

 一番聞かれたくない問いかけだった。

 黙れ、と怒鳴りたかったけど。

 だけど、泣きそうな顔でこっちを見ている彼女に、そんな風には言えなかった。

 そうだよ。

 男子の誰もが憧れていた水端さん。

 俺だって、彼女に気がないといったら嘘だった。

 同じ演劇部として一緒に頑張ってきたし、それに唯一演劇の話で盛り上がることができる女の子だ
ったし。

 だけど、今の演劇を封印している俺には。

 かつて恋心を抱いていたその人物さえも、障害物でしかなく。

「……いいや、もう俺は演劇はやらない」

 かすれた声で、そう言うのが精一杯で。

「浅羽君」

「ごめん、俺、もう行かなきゃ」

 下駄箱に上履きを乱暴に放り込んでから、俺は逃げるように彼女に背中を向けた。

 校舎を出ると、 空は信じられないくらい綺麗な茜色だった。

 風は暖かく……もうすぐ春なのに。

 俺の心は反対に冬へ向かっているような気分だった。

 昇降口を出た先には体育館。

「……」

 今、稽古の真っ最中なのであろう。

 俺の足は無意識にそちらへ向かっていた。

 演劇部の稽古場は体育館の舞台の上。

 バスケ部やバレー部が練習している中で、練習をしている。

 俺はそっと体育館の中を覗いてみる。

 

「生か死か、それが疑問だ!!」


 バスケットボールやバレーボールが飛び交う中、聞こえるのは吉田の声。

 本当は俺が演じるはずだった役……ハムレット。

 吉田は陶然とした表情で天井に向かって手を挙げて、叫んでいた。

 俺は首を横に振る。

 何なんだ、そのハムレットは。

 俺だったらそんな張り上げるような声は上げない。

 もっと苦悩に満ちた、腹の中から絞り出すような声を漏らすだろう。

 腹を押さえながら、眉間に皺を寄せて。


「…………!」


 ハムレットを演じようとしている自分に、俺は驚いた。

 何をやっているんだ!?

 封じたはずの演劇なのに。

 俺は自分自身の手を見つめる。

 これはいつかメスを持つための手になるのだろう。

 演劇をするための手じゃない。

 頭では分かっているのに、体はまるで水分を求めるかのように、演じることを要求する。

 ハムレット、オセロー、ロミオとジュリエット。

 ああ……何でもいい。

 どんな役でもかまわない。

 俺は全身を使って、何かを演じたい。

 ここが舞台じゃなくても、声を上げて。

 どんなに勉強をしても。

 どんなにいい成績をとって親や担任に褒められても。

 心の中は常に空虚だった。


「君は本当にそれでいいのか?」


 静麻優斗の出会いは、無理矢理封じていた演劇への情熱が目覚めた時でもあった。

 それでも自分はまだ心に偽りを抱き、受験勉強を続けていた。

 封印が限界に達したのは、永原映の舞台を見た時であった。


 受験生の春。


 その舞台公演が東京であることを知ったのは、たまたまTVで見たからだ。

 気付いたらネットで、チケットを予約している自分が居た。

 最後に。

 そう、最後に思い出として永原映の舞台を見よう。

 俺は堅く心に決めて、舞台を見に行ったのだ。

 幼い頃、初めて見たモンテクリスト伯の再演。

「私を暗く寒い地獄へ陥れた、あの三人……必ず、必ず、この恨みはらしてくれる!!」

 闇を引き裂くかのような、叫び。

 まるで修羅のような鬼気迫るその表情。

 怨念でもなく、憎悪でもない。

そんな、おどろおどろしい表現とは異なる……少なくとも、今そこにいる厳窟王ことモンテクリスト伯

 暗闇の中でも希望を失わない、力強い目の輝きがあった。

 敵を焼き尽くさんばかりの、灼熱の光を、見たような気がした。


 怖い……とてつもなく怖い。


 全身が目に見えない無数の針で貫かれたような───

 身体の細部にまで、衝撃を感じた。

 仇敵と定めた三人をしっかり見据え、モンテクリスト伯は、もう一度叫ぶ。




「復讐だ!!」





 あの頃見た時よりも、さらに凄味を増した演技に、俺は慄然とした。

 復讐に燃えるその青年の眼差しには、灼熱のような熱さがあった。絶望の闇の中、復讐という希望
を見いだした鬼。それは恐ろしくおあり、切なくもある。誰もが魅了する美がそこにはあった。

 

「……っ!」


 俺は息を飲む。

 一瞬。

 舞台に出て客席に向かって叫ぶ永原映と目が合ったような気がして。

 俺を見ているなんてあり得ない。

 だけどあの強い眼差しは、初めて見る目じゃない


「君は本当にそれでいいのか?」


 あの監督の目だ。

 そしてあの監督の問いかけ。


 ちがう。

 

 この言葉は彼だけの問いかけではない。

 あの舞台も自分に問いかけているのだ。

 本当にそれでいいのか?、と。

 お前はそこに居てもいいのか?

 あの舞台が問いかけてくる。

 そして俺自身も、俺に問いかけているのだ。

 本当に演劇を辞められるのか。

 忘れられるのか?



 永原映のモンテクリスト伯の再演は。

 決別どころか、ますます俺を演劇の道へ駆り立てるものでしかなかった。

 目から涙があふれた。

 全身が熱い。

 熱すぎて涙が止まらなかった。

 声にはならない叫び。

 だけど、今カーテンコールの拍手の中、俺は腹の底から叫びたかった。

 やっぱり、俺は演劇をやりたい!!

  俺の体は演じることを求めている。

 どんなに忘れようとしても、体が求めて止まないのだ。

 医者になって、沢山の患者を助ける。

 それは素晴らしい職業だ。

 だけど、自分がそんな医者になるビジョンはどうしても生まれてこなかった。

 自分がやりたいのは、全身で演じること。

 演じて、人々を楽しませることだ。

     

 俺は、俺は役者になりたい!!


 心は騙せても、体は騙せない。

 封印は完全に解かれた。

 医者への志は完全に消えてしまっていた。




 今、俺は母校の前で、映画監督の静麻優斗と再会した。

 俺の演劇への情熱を揺さぶった人物の一人。

「きっと戻ってくると思っていたんだ」

 静麻優斗は、穏やかな声で俺に告げた。

「すいません……あの時は本当に失礼なことを」

 殺意に近い目で、俺はこの人のことを見ていた。

 本当なら合わす顔がないくらいだ。

 だけど、静麻監督は首を横に振り、俺の肩をぽんぽん叩いた。

「気にしなくていいよ。俺には君の本当の気持ちがよく分かっていたからね。気長に待っているつもり
でいた」

「静麻監督」

「改めて君に頼みたい。俺の映画に出てくれないか?」

「……」

 あの時の。

 役者をやりたいと切望した時の涙が、また蘇ったみたいだった。

 頬から止めどなく、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 はい、喜んでとすぐに返事をしたいのに、声にならなかった。

 今は涙を流しながら、頷くことしかできなかった。

 映画に出られる夢のような話。

 だけど、それ以上に今、役者として、生きている喜びを改めて俺は実感していた。




つづく    


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春来3

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