第一話 第二話 第三話 第四話 |
「やっぱり俺たちの仕事は、宮中の警護だよなあ」 「ああ、なんだか我が家に帰ってきた気分だ」 ド・ゼッサールの耳に、部下の隊員たちの言葉が入ってくる。 隊長が屯所に現れたことに、まだ気づいていない者たちの会話だ。 鈍い、というより、周囲への注意が足りないのであろう。こんなことでは、イザという時に困る......。 そう思って、ド・ゼッサールは、やや硬い口調で声をかけた。 「おまえたち、気を緩めるなよ」 「あ! 隊長!」 慌ててカチンと硬直する隊員たち。 ......これでは逆効果だ。 ド・ゼッサールは、そのいかめしい髭面になるべく温和な笑顔を浮かべて、やさしい態度を作ってみせた。 「......まあ、おまえたちの気持ちは、わしにもわかるがな」 言って彼は、ここしばらくの騒動を回想する。 ......アンリエッタ女王の女官の一人、ルイズ・フランソワーズが行方不明となったのは、女王のガリア来訪に備えて、トリステインの王宮内も慌ただしい時期であった。 ルイズ・フランソワーズは、ただの女官ではない。女王陛下のお気に入りであると同時に、国家の機密にも関わる人物。したがって、ド・ゼッサールは最初、内密に捜査を命じられたのだが......。 一週間ほど経って、王宮に水精霊騎士隊の面々――ルイズの学友でもある者たち――が集まる頃になっても、有力な手がかりは何もナシ。結局、手すきの警邏の貴族たちを駆使して、大がかりな捜索が行われることとなった。その過程で、魔法衛士隊の隊員たちも、王宮を離れて、かなり遠くまで行かされたのである。 「ならばなおさら、気を引き締めて、我らが王宮をしっかり守るべきではないのか? ......たとえ女王陛下が御不在であろうと」 クギを刺すように、彼は一言つけ加えた。 そう。 今、この王宮内に、アンリエッタ女王はいないのだ。ガリアの首都、リュティスの郊外に位置したヴェルサルテイル宮殿まで出かけている。ガリアの女王即位を祝って、園遊会が開かれており、それに出席しているのであった。 無事に見つかったルイズ・フランソワーズも、アンリエッタ女王と一緒である。女王の警護には、銃士隊のアニエスや水精霊騎士隊がついており、ド・ゼッサールの魔法衛士隊は、こうして留守を守る形となっていた。 「......我らは我らの職務を全うする。それが一番、大切なことだ」 半ば独り言のようにつぶやくド・ゼッサール。 王宮警護から街の治安維持まで、魔法衛士の仕事は多岐に渡っているが、近衛というものは本来、王を守るべきものである。だが、今回の配置でもわかるように、アンリエッタ女王は、先任の近衛隊である魔法衛士隊ではなく、後発の銃士隊や水精霊騎士隊を重用するきらいがあった。 魔法衛士隊の中には、これを面白く思わない者たちもいる......。その空気を、ド・ゼッサールは感じ取っていた。 部下たちの気持ちもわからんではないが、彼自身には、妬みやそねみといった気持ちはほとんどない。隊長が他の近衛隊を妬んだりしては部下に示しがつかない、と承知していた。 そもそも。 女王陛下がアニエスばかり取り立てるのは、女王となったばかりの頃、裏切りなど色々あって、魔法を使う人間を信用できなくなったからである。そして水精霊騎士隊は、女王と同世代の学生メイジ。宮中の大人たちの腹黒さに辟易すれば、彼らを頼りたくなるのも無理はない......。 こうした事情を、どれほど部下たちが理解しているのか、ド・ゼッサールにはわからない。ただ、上手く説いて聞かせることもまた、隊長の仕事であろうとは思う。 そんな思索をしながら、ド・ゼッサールは、屯所の中を見回して......。 「......おや?」 彼の視線が、一点に静止する。 部屋の隅の椅子に座り、一人、暗く落ち込んだ表情の者がいたのである。 浮かれ気分も良くないが、これはこれで問題であろう。 ド・ゼッサールは、そちらへ歩み寄りながら、男に声をかけた。 「どうした、マントノン?」 アシル・マントノンは、二十歳を少し過ぎたばかりの、若い『水』メイジである。 彼が魔法衛士隊の一員となったのは、隊が一つに統合した後。つまり、ド・ゼッサールから見れば、まだまだよちよち歩きのヒヨッコであった。 切れ長の目に、鋭く尖った鼻、そしてほっそりとした頬。美青年ともいえる顔立ちだが、今のマントノンは、それを台無しにするような空気を纏っていた。 「......いえ、何でもありません」 「何でもない......という顔ではないだろう。心配事があっては、仕事にも差し障りがあるやもしれん。難しく考えずに、わしに相談してみろ」 隊長に言われて、思いつめた顔を見せるマントノン。 顔を上げて、憂いを帯びた瞳で周囲を見渡す。 同僚たちの注意が自分たちには向けられていないことを確認して――つまり多少の内緒話は大丈夫と判断して――、しばしの沈黙の後。 「実は......」 彼は、低いトーンで語り始めた。 ######################## マントノンには、同い年の恋人がいる。 名前はリゼット・アンペール。 トリステインの郊外で貧乏貴族の家に生まれたが、宗教都市ロマリアに留学して、そこで彼女は神学を専門に勉強。トリステインに戻ってからは、とある貴族の屋敷で、住み込みの家庭教師をしていた。 そんな彼女が、少し前、屋敷を出ることになった。 といっても、別にクビになったわけではない。住み込みから通いに変わっただけである。 「......彼女は最近、兄を亡くして、トリステイン郊外にある屋敷を相続しましてね。そちらに引っ越したんです。......ほら、若い女性なので、住み込みでは何かと不便でしょう?」 そう語るマントノンの表情を見れば、本当の理由は一目瞭然。 住み込みが不便なのは、ただ若い女性だからではなく、マントノンという恋人がいるからだ。 雇い主の屋敷で暮らしていては、恋人を部屋に呼ぶのは躊躇するだろうし、外で逢い引きするにしても、帰宅時間やら何やら色々と気にしなければならないのだろう。 「......マントノン。わしの方から『話してみろ』と言った手前、ちょっと言いにくいのだが......わしに色恋沙汰の相談をするというのは......その......」 何事にも向き不向きというものがある。自分は他人に恋愛指南をするような人間ではない、というのがド・ゼッサールの自己認識であった。 「いや、そうじゃないんです。......まあ、聞いてください」 ひとこと断りを入れてから、マントノンは話を続ける。 「リゼットが言うには......最近、身の回りでおかしなことが起きる。もしかすると、屋敷に幽霊が取り憑いていて、そこに住む者を殺そうとしているんじゃないか、って」 階段を降りている途中で、突然、背中を押されるような感覚があって、下まで転げ落ちたり。 庭を歩いていたら、誰もいないはずのテラスから鉢植えが落ちてきて、頭に当たりそうになったり。 「ただの偶然だと私は思うのですが......ほら、階段でつまずくくらい誰にでもありますし、テラスの不安定なところに鉢植えなんて置いてたら、それが落ちても不思議じゃないですし」 そう言って肩をすくめるマントノンに、ド・ゼッサールは難しい顔で問いかける。 「......たしかに、それだけで幽霊だというのは、話が飛躍し過ぎだな。それよりは、誰かが魔法でミス・アンペールを殺そうとしている......と考えた方が自然ではないかね?」 階段の一件は、後ろから『エア・ハンマー』か何かを食らったのだろう。鉢植えも、誰かが『レビテーション』で彼女の頭上まで運び、そこから落としたのだろう。 そうド・ゼッサールは考えたのだが、マントノンは首を横に振り、 「いいえ。リゼットの屋敷に、彼女以外のメイジは住んでいません。住み込みの召使いたちは、当然のように、平民ばかりです」 メイジが身分を偽っている可能性など、マントノンは考慮していないらしい。 隊長としてド・ゼッサールは、部下の浅慮を嘆かわしく思った。 とはいえ、今は相談を聞いてやっているのだから、この場で直接それを指摘して、若い隊員を落ち込ませるのは愚策。ド・ゼッサールは、少し話の矛先を変えてみる。 「住み込みの召使いたち......とな? 最初の説明では......ミス・アンペールは貧乏貴族だと言ってなかったか?」 「ええ。リゼットは、あまり裕福ではありません。本来なら、何人も召使いを住まわせる余裕などないのですが......。屋敷と一緒に召使いも、お兄さんから譲り受けたのです。何年も先の分まで、お金の手続きも済んでいるそうで」 「ふむ。では聞こう。彼女の兄上は、何をしていた人なのかね?」 貴族が一代で財を成す、というのであれば。 何か大きな手柄をあげたのだろう、と推測できる。それこそ、平民から出世したアニエスやサイトのように。 その場合、当然ド・ゼッサールの耳にも入ってくるはずだが、彼の記憶の中に『アンペール』という名前はない。 「さあ......? リゼットにも、詳しい仕事の内容は話してなかったみたいです。なにしろトリステインではなく、ロマリアに勤めていた人なので......」 「ロマリアに?」 「はい。リゼットのお兄さんも、リゼットと同じく、宗教都市ロマリアに留学して......」 留学までは同じだが、そこで兄妹は、進路を別にした。兄はトリステインには戻らず、そのままロマリアに帰化して、そこで職を得たのだという。 「まあ、トリステインにも別荘を持ってたくらいですから。かなり実入りの良い仕事だったのでしょうね。リゼットの推測では......ロマリアの宗教庁で働いてたんじゃないか、って」 「ロマリアの......宗教庁か......」 おうむ返しにつぶやくド・ゼッサール。 ......誰もが知るように、ロマリアは『聖なる国』。街には笑いと豊かさが溢れ、キラキラ光るお仕着せに身を包んだ神官たちが歩き、敬虔な信者たちが微笑みながら挨拶を交わし合う。宗教都市ロマリアは『光溢れた土地』であり、理想郷である......。 そう喧伝されているのだが、現実は違っていた。 かつて教皇ヴィットーリオに招待され、街を実際に目にしたアンリエッタ女王は「『理想郷』というより、まるで貧民窟の見本市のようですわ」と吐き捨てたという。 そんなロマリアに、神官の最高権威『宗教庁』が存在するのだ。表向きは、始祖ブリミルの予言や『虚無』について調べる機関であるが、裏では、かなりの非道も行われているらしい。たとえば、ダングルテールの虐殺をやらせたのもロマリア宗教庁だった......と、ド・ゼッサールは聞いている。 「......ですが隊長、まあロマリアのことはともかくとして......」 ド・ゼッサールがロマリアについて思いを巡らせている間にも、マントノンは話を進めていた。 「......問題はリゼットの屋敷ですよ。私も何度か訪れて、この目で調べてみたのですが、あやしいものなど出てきませんでした。でもリゼットは相変わらず怯えている様子で」 「すると何か。つまり自分以上の調査能力を持つ者を招いて、屋敷を調べてもらいたい......と? それで何か具体的に出てくればよし、出てこないにしても、ミス・アンペールに『大丈夫です』と保証して欲しい......と?」 「......あ。いや、そこまでは考えてませんでしたが......」 ド・ゼッサールの言葉に、若干しどろもどろになるマントノン。 腹芸のできる男ではない。本当に『そこまでは考えてなかった』のだろう。 「わかった。では......わしが調べてやろう」 アンリエッタ女王がガリアに滞在し、そこに各国首脳も集まっている今この時期ならば。 ちょっとした調査をするくらいのプライベートな時間は、彼にも作れるはずだ。 「まずは......当人から直接、話を聞く必要があるな。ミス・アンペールとやらに、会わせてもらおうか」 ######################## 夜。 マントノンがド・ゼッサールを連れてやってきたのは、王都トリスタニアの繁華街、チクトンネ街にある『銀の酒樽』亭だった。昔は名前とは裏腹の安酒場だったそうだが、今では、それなりの店構えになっている。 「ここは気のおけない店でして......。それに、美味しいんですよ、ここの料理は」 軽く説明しながら、マントノンは羽扉を押して中に入り、ド・ゼッサールも彼に続く。 「まあ! マントノンさま! いらっしゃい!」 マントノンは常連なのだろう。中年の女主人が、年不相応な愛らしい笑顔で、彼を歓迎する。 「......今日は二人ではなく、三人なんだけど......」 「はい、承っておりますよ! さきほどより、アンペールさまが中でお待ちです。いつもの席へどうぞ」 「......そうか。彼女、もう来てるのか。また待たせちゃったな......」 つぶやきながら、奥のテーブルへと向かうマントノン。 レディを待たせるというのは、あまり褒められた話ではないのだが、どうやら彼は常習犯らしい。わずかに眉をひそめながら、ド・ゼッサールは、マントノンが向かう先へと歩き出した。 目的のテーブルに座っていたのは......。 「やあ。待たせてごめん」 「いえ、今来たばかりですから。気にしないで」 思いやりに満ちた笑みを見せる、金髪の女性。 なるほど、これがマントノンの恋人か......。それが、彼女に対する、ド・ゼッサールの第一印象だった。 座っていてもわかるくらいの、小柄な女性。クリッとした大きめの碧眼とあわせて、顔立ちにも子供っぽさが残るが、おそらく、幼ないのは外見だけだ。精神的には、彼女の方がマントノンをリードしているのだろう。 着ているものは、飾り気のないベージュの服。地味で質素ではあるが、それでも趣味の良さを匂わせていた。 「はじめまして。リゼット・アンペールです。ド・ゼッサールさまのお噂は、いつもアシルよりうかがっております。なんでも、宮中随一の頭脳を誇る、すばらしい騎士さまだとか」 「......それは大げさな表現ですな。ふむ、他人に間違った情報を伝えるというのは、魔法衛士隊の隊員として失格。あとでよく叱っておきましょう」 リゼットの挨拶に、冗談で返すド・ゼッサール。 「ちょっと、隊長!」 慌てたように言うマントノンも、顔では笑っている。 そして。 男二人が座ったタイミングで、ちょうど料理が運ばれてきた。あらかじめリゼットが注文しておいたらしい。 「美味しいんですよ、ここの料理は」 さきほどのマントノンと全く同じことを言うリゼット。 こういうところは似た者同士か、とド・ゼッサールは内心で苦笑した。 顔には出さなかったつもりだが、リゼットには気づかれたのかもしれない。彼女は、小さくクスッと笑いながら補足する。 「......家で食べるより、ついつい以前の習慣で、こうしてアシルと一緒に外で食べてしまうことが多いのです。住み込みの召使いたち......特に料理担当の者には、ちょっと申しわけなく思うのですが......」 彼らの料理が下手だというわけではない......と、平民である召使いたちの体面を気にするリゼット。 貴族としては珍しい部類に入るが、これがリゼットという女性の性格なのだろう。もしかすると、ロマリアで専門に宗教を学んで来ただけあって、神の前では皆平等という意識が強いのか......。 ド・ゼッサールは、ふと考える。これを優しさと受け取る者もいれば、貴族らしからぬ、と顔をしかめる者もいるかもしれない。さすがに、それがリゼットの命を狙う動機になるとも思えないが......。 「隊長! まずは呑みましょう!」 陶器のグラスを手にしたマントノンが、ド・ゼッサールの思考を中断させた。 「うむ」 とりあえず頷くド・ゼッサール。 今日は、飲み食いしながら話を聞く......それが目的だ。酒が入った方が、舌も滑らかになるはず。 そう判断して。 ド・ゼッサールも、グラスのワインに口をつけた。 ######################## 「あの家は......もともとは、兄の別荘だったのです。トリステインに帰省する際に滞在するための」 酒も進み、腹もふくれてきたところで。 リゼットが、問題の屋敷について話し始めた。 「......ほら、私たちの親は、領地を持つような封建貴族ではなく、国からお給金をもらうだけの貧乏貴族でしたから。実家と呼べるようなものも、もう残っていなくて......それで兄は、別荘としてあの屋敷を用意したのです」 マントノンから聞いた話にも、リゼット自身が語る中にも、彼女の両親が今どうしているのか、という話は出てこなかった。 ド・ゼッサールは、その点、敢えて追求しようとは思っていない。すでに亡くなっているのだろう、ということは、これまで聞いた範囲で容易に想像できるからだ。 もちろん、後々、その辺りも詳しく尋ねる必要が出てくるかもしれないが......とりあえず今は、である。 「兄上はかなり裕福だったそうですが......ロマリアで領地をもらっていたのですかな?」 両親のことを尋ねるのも、兄について尋ねるのも、亡くなった家族のことを掘り返す、という意味では同じだ。だが、今は彼女の方から兄のことを話に出したわけだし、それに、屋敷について詳しく聞くためには、避けては通れぬ話題である。 「いいえ。そうではなかったようです。住んでいたのも、官舎のようなところだったみたいで......。なにしろ、私に遺された不動産は、トリステインの別荘......私が住み始めたあの屋敷だけでしたから」 リゼットは、空っぽになったグラスに両手を添えたまま、遠くを見るような目で、 「......兄が私に遺してくれた全て......そう思うと、あの屋敷を売り払う気にも、あそこから引っ越す気にもなれないんですよね。たとえ幽霊屋敷であっても」 最後のところで、クスッと笑う。そんなリゼットを見て、ド・ゼッサールは悟った。彼女は本心から『幽霊が出る』と思っているわけではないのだ、と。 きっと彼女は冗談めかして言ったのに、冗談を冗談とわからぬマントノンは、本気で受け取ってしまったのだろう。 とはいえ、彼女がそうした『冗談』を言ったのは......恐怖を紛らわせるためだ。誰かに殺されそうになった、と感じて、彼女が怖がっているのは、間違いのない事実である。 「......あの屋敷に何があるのか知りませんが......亡くなる少し前、兄も何かに怯えているようでした......」 顔を上げて。 まっすぐド・ゼッサールの目を見ながら、リゼットが告げた。 「兄上の死に、何か不審な状況でも?」 「いいえ、それはありません。たしかに、あまりにも突然の死でしたが......事故などではなく、病死でした。亡くなった後にロマリアの主治医から知らされたのですが......兄は心臓を病んでいたそうです。ロマリアでの仕事が大変で、体が弱っていたのでしょうね」 ド・ゼッサールの質問に、首を左右に振りながら答えるリゼット。 「では......何かを怖がったせいで、いっそう心臓に負担が......?」 「そうだと思います」 リゼットは、今度は首を縦に振り、 「兄と最後に会ったのは、兄が死ぬ一週間ほど前、トリステインに帰郷した時のことでした。ちょうど今の私と同じようにビクビクしていて......」 こうして喋っている彼女は、それほど『ビクビクして』いるようには見えなかった。そうした弱さを、表にハッキリと出したりしない女性なのだ。 あらかじめ事情を聞いていなければ、自分も騙されていたかもしれない、と思いつつ。ド・ゼッサールは、さらに尋ねる。 「怯えていたというのは......やはり、その屋敷に関して、ですかな?」 「いいえ。違うと思います」 それだけ言うと、彼女は口を閉ざしてしまった。 少しの間、思いつめたような表情で黙った後。 リゼットは、再び話し始める。 「......ただ......兄は言っていました。自分は知ってはならないことを知ってしまったのだ、と」 この時はじめて、リゼットは、心底怯えたような表情になっていた。 これこそが、最後に会った時に彼女の兄が見せた態度だったのではないか、とド・ゼッサールは思う。 「......兄は......。兄はポツリと、こうつぶやいたのです。『四つの四』......と」 (第二話へつづく) |
「隊長! 昨日は、どうもありがとうございました!」 翌日。 王宮の廊下でアシル・マントノンとすれ違った際に、ド・ゼッサールは声をかけられた。 「いやいや、わしの方こそ。......楽しませてもらったよ、昨夜は。たしかにあの店は、料理も酒も旨かったな」 「......でしょう?」 マントノンの表情は、昨日屯所の片隅で座り込んでいた時より、はるかに明るくなっていた。一人では解決できない問題にド・ゼッサールを巻き込んだことで、少しは気持ちもラクになったらしい。 彼はド・ゼッサールに近寄り、耳元でヒソヒソと、 「......隊長は、リゼットのお兄さんが怪しいと思うのですか......?」 「いや、別にそういうわけではない。まあ、あれは話の流れで、たまたま話題が偏っただけだ」 マントノンにあわせて、一応、小声で応えるド・ゼッサール。近くに他の隊員がいるわけでもなく、そんなに声をひそめる必要もないと思うのだが。 「......兄上と言えば......。兄上も何かを恐れていた、という話だったな」 「そうみたいですね」 昨夜の会話を振り返るド・ゼッサールに、マントノンは、ごくアッサリと、何も考えていないような言葉を返す。 ド・ゼッサールは、軽く眉を寄せて、 「初耳だったのか? その話」 「いえ、そうじゃありませんが......。私がその話を聞いたのは、まだお兄さんが亡くなる前でして。当時は、まさかこんなことになるとは思ってもみませんでしたし......。あ、『四つの四』とかいう、具体的な発言に関しては、たしかに初耳でしたね」 マントノンは、ド・ゼッサールから少し離れ、壁にもたれかかりながら言う。こうして喋っている間に、いつのまにか、声のトーンも音量も、普通になっていた。 「......もしかして、ロマリア絡みなんでしょうか......」 ふと、つぶやくマントノン。昨日は『まあロマリアのことはともかくとして』と言っていた彼も、ようやく、その点に思い至ったらしい。 ド・ゼッサールは、最初からそちらにキナ臭いものを感じていたので、苦笑しながら、一言。 「......かもしれんな」 「となると、宗教に関する話......新教徒関係ですかね?」 新教徒も始祖ブリミルを奉っているが、教義の解釈が違う、ただそれだけで目の敵にされてしまうのだ。 現在のロマリア教皇は、貧しい平民を助ける政策などを行っているために、旧来の貴族から『新教徒教皇』などと揶揄される人物。それでも、教皇自身は相変わらず新教徒を蔑視しており、かつてアンリエッタ女王の前で「新教徒などと名乗る異端どもは、ただ自分が大きな分け前に預かりたい、レコン・キスタと変わらぬ連中ではありませんか」と吐き捨てたという。 「......うーん......」 新教徒の村を焼き払った事件――ダングルテールの虐殺――のような、昔の話を引き合いに出すまでもなく。 ロマリアが異端に対して特に厳しいというのは、ハルケギニアでは常識である。たとえばアンリエッタ女王のロマリア訪問の際、呼ばれて後から合流した水精霊騎士隊の一行は、些細な誤解から異端扱いされ、街中で聖堂騎士隊と一戦くり広げることになったという。 だからマントノンが真っ先に、新教徒に対する弾圧関連ではないか、と思い浮かべたのも無理はないのだが......。 「......その程度ならばよいが......もしかすると......」 「......?」 キョトンとした顔のマントノンを見て。 やはり彼の手には余るようだ、藪をつついて蛇を出すことになったら大変、自分が調査するしかあるまい、と思うド・ゼッサールであった。 ######################## その日。ブルドンネ街の彼のオフィスに、一人の男がフラリと現れた時。ヴェイユ氏は、内心で小躍りして喜んだ。彼の直感が、これは上客に違いない、と告げたからだ。 トリスタニアで貴族や裕福な商家相手の不動産業を営んでいるとはいえ、ヴェイユ氏が扱うのは、爵位がついたいわゆる『領地』ではない。裕福な商人や官職貴族でも買える、ただの『土地』であった。 しばらく前に、国でも三本の指に入る大貴族の娘が、噂に名高い平民の近衛騎士を連れて、店に来たこともあったのだが......。紹介する物件という物件に、彼女は文句を並べ立て、結局、取引は成功しなかった。 あれでケチがついたのか、最近、どうも仕事の雲行きが怪しい。そろそろ名士を客に持って、店の名を上げなければ、事業の拡大どころの話ではない。 「わしはド・ゼッサールというものだが......」 ごつい体にいかめしい髭面の男が名乗るのを聞いて。 ヴェイユ氏は、内心の喜びを思わず顔に出しそうになった。彼は、その名を知っていたからだ。 王宮の魔法衛士隊を束ねる、近衛の隊長である。いつぞやの公爵令嬢にはとても及ばないが、それでも一応は名士である。このような名士を客に持った、ということになれば......。 とらぬ狸の何とやらになってはいけない、と思いつつも。 ヴェイユ氏は、ついつい考えてしまう。 ......そもそも、男一人で来ている客、というのが好ポイントだ。女性が一緒の場合、たとえ男性は了承しても、女性の方が口やかましく文句ばかりつけたりするからだ。貴族のワガママ令嬢は、もう懲り懲りだ......。 それに、こんなに朝早くから来ているのだから、冷やかしなどではなく、本気で家か土地を買いに来たのだろう。官職を名乗らなかったのも、私人として来ているということ、つまり、役人の捜査などではないということだ......。 こんなふうに頭の中で想像が飛躍しているヴェイユ氏に対して、ド・ゼッサールは、申しわけなさそうに尋ねる。 「......トリスタニアの郊外にある、ミス・アンペールの屋敷について、ちと尋ねたい。おぬしの店が長年、あの屋敷の管理をしていた......と聞いたのだが?」 ヴェイユ氏の期待は、アッサリ裏切られた。 ド・ゼッサールの訪問は、調査目的だったのだ......。 内心の興奮が一気に冷めてしまう、ヴェイユ氏であった。 ######################## 「休日の早朝から、わざわざ足を運んでみたが......」 ヴェイユ氏のオフィスを出て、ブルドンネ街の通りを歩きながら。 ド・ゼッサールは、一人、つぶやいていた。 「......たいした話は聞けなかったな」 今でこそリゼットの『住居』となった屋敷であるが、元々は『別荘』である。あるじが不在の期間も長く、その間、不動産屋のヴェイユ氏が管理を任されていた。ならばヴェイユ氏の方が、リゼットよりも屋敷に詳しい部分もあるかもしれない......。そう思って色々と質問してみたのだが、結局、リゼットの話を裏付けるのみにとどまった。 ド・ゼッサールは、まだ人通りの少ない街中を行きながら、不動産屋で聞いた話を頭の中で反芻する。 ......ヴェイユ氏の口からは、屋敷そのものに仕掛けがあるような話は、まったく出てこなかった。最近リゼットの身の周りで起きたことに関しても、ヴェイユ氏には初耳だったようで、ド・ゼッサールが『幽霊屋敷』という言葉を口にした時には、 「そんな......めっそうもない! ド・ゼッサールさま、いくら冗談とはいえ、言って良いことと悪いことがございます! わたくしが扱った屋敷に、よからぬ噂を立てるのは、ご遠慮願います!」 と、体を震わせたくらいである。 もちろん、ド・ゼッサール自身は、幽霊説など信じていない。本当にリゼットが命を狙われているのだとしたら、生きた犯人がいるはずである。マントノンから話を聞いて一番に思い浮かべたように、むしろ怪しいのは、住み込みの召使いたち。別荘時代からの召使いである以上、彼らに関しては、リゼットよりもヴェイユ氏の方が古くから知っているわけで、それとなく水を向けてみたところ、 「......召使い......ですか? ええ、三人とも、立派な者たちですよ」 相好を崩して、ウンウンと頷きながら言うヴェイユ氏。 「ミスタ・アンペールの別荘だった頃は、彼らが主人に代わって、しっかり留守を守っていたのですから......。名目上は私が管理人でしたが、召使いたちのおかげで、私は特に何をする必要もなく......。ええ、ラクをさせてもらいましたよ」 召使いたちは三人とも、リゼットの兄が別荘として屋敷を購入した際に雇われた者たち。生粋のトリステイン人であり、身元も保証されている、とヴェイユ氏は言っていた。 ならば、嫌疑の対象からは外していいのだろうか。あるいは、それだけ昔から周到に用意された事件だというのか......。 「......まあ、いい......」 ふと足を止めて、考えるのも中断して。 ド・ゼッサールは、王都の空を見上げた。 ......屋敷そのものも、屋敷の召使いたちも。実際に自分の目で見てみれば、何か判明するかもしれない。事前の情報としては、もう十分だろう。今日の午後、ド・ゼッサールは、リゼットの屋敷を訪れる予定になっていた。 今。 彼の視線の先にある空は、澄みきった青空である。 太陽も、その軌道の頂点に達してはいない。 今日という日は、まだまだこれからなのだ。 ######################## トリスタニアの郊外。緑が溢れ、ちょっとした森のようになった辺りに、リゼットの屋敷は建っていた。 一昔前に流行ったタイプの、石造りの二階建て。玄関の前には扇状に広がる階段があり、重い樫の扉をくぐると、広々としたホールがあった。 「こちらでお待ち下さい」 初老の執事に案内され、入って左手の応接間へと進むド・ゼッサール。 大きめの窓から陽光が射し込む、明るい部屋だった。中央にはセコイアのテーブルが置かれ、机に色をあわせた皮のソファーが配置されている。 促されるままに座り、ド・ゼッサールは室内を見渡した。ただの応接間ではなく書斎も兼ねているようで、窓のない面の壁には、本棚がズラリと並んでいる。宗教関係の書物が多いのは、リゼットも死んだ兄も神学に造詣が深いからなのだろう。 「......今、奥さまと旦那さまを呼んでまいります」 すでにマントノンは来ているらしい。 執事がリゼットとマントノンを呼びに行き、ド・ゼッサール一人が部屋に残される。が、ちょうど入れ違いに、メイドがティーセットのトレイを運んできた。 ド・ゼッサールは、お茶受けのクッキーには手をつけず、カップのお茶を一口すすり、窓の外に目を向ける。庭の花壇では、ちょうど真っ赤な花が咲き誇っていた。 彼には花の名前はわからない。それに赤い花を見ると、つい職業柄『血のような』という言葉も頭に浮かんでしまう。そんな自分に苦笑しながら、彼は小さくつぶやく。 「......きれいな庭だな......」 「でしょう? 庭の手入れも、今はシルヴァンがやってくれているのですよ」 独り言のつもりだったので、返事があったことに驚いた。 部屋の隅に控えるメイドが返したわけではない。 いつのまにか、屋敷の主人......リゼット・アンペールが、二階から降りてきていたのだ。ド・ゼッサールは彼女の足音に気づかなかったのに、リゼットの方では、彼の漏らしたつぶやきが聞こえていたようだ。 「もったいないお言葉です。奥さま」 彼女の後ろに続く執事が、頭を下げる。してみると、シルヴァンというのが彼の名前なのだろう。 「お待たせしました。すぐにアシルも来ますから」 言いながら、リゼットが部屋に入ってきたちょうどその時。 「お待たせしましたあ」 応接間の外のホールに、マントノンの声が響いた。リゼットとほぼ同じセリフ、まるでこだまである。 そちらに注意を向ければ、バタバタと走るマントノンの足音は、確かに聞こえる。だが彼の後ろにもう一人いるにも関わらず、その女性が歩く音は、耳に入ってこなかった。 どうやら、ホールに敷かれている絨毯がかなり厚めで、それで足音を吸収しているようだ。 では、リゼットとシルヴァンが来るのがわからなかったのも、絨毯のせいだったのか......。 「せっかくド・ゼッサールさまが来てくださったのですから......全員で出迎えた方が良いだろう、と思いまして。ニネット......もう一人の召使いも、アシルに呼んできてもらったのです」 微笑みながら、説明するように言うリゼット。 ド・ゼッサールが何か考えこんでいるらしい、とまでは気づいたが、まさか思索の対象が絨毯だとは思わなかったのだろう。 だが、ここに召使いを三人とも揃えたということは......。 「......なるほど」 ただ一言だけ、ド・ゼッサールは口にする。 この訪問の目的をちゃんと彼女は理解しているのだな、と思いながら。 ######################## 「兄の代から屋敷に住み込みで働いてくれている、召使いたちです」 ド・ゼッサールの正面に腰を下ろし、リゼットは、召使いの紹介を始めた。 マントノンもリゼットの隣に座ったが、深々と背もたれに体を預けて、ただ彼女をボーッと眺めるだけ。この場の進行はリゼット任せ、ということらしい。 「まずは......執事のシルヴァン。来客の対応から庭仕事まで、一人で何でもこなしてくれる、万能執事なんですよ」 直立で控えていた初老の執事が、リゼットの紹介を受けて、軽く一礼する。 白いシャツに黒のスラックス、グレーのベストに白の手袋。いかにも執事といった服装を着こなし、すっかり白くなった髪をキチッと撫で付けていた。スーッと通った鼻筋と、細い目に薄い唇を持つ、面長な顔立ちの男である。 「男手がないと何かと不便ですから。生前の兄ならば自分でやっていたような力仕事も、ついついシルヴァンに頼んでしまって......」 隣の席でマントノンが「力仕事ならば僕に頼んで!」という顔をしたが、リゼットは軽い笑みを向けるだけで、何もマントノンには言わせなかった。 それから彼女は、メイドたちにチラッと目をやってから、 「ニネットは厨房のぬしで、料理の全てを取り仕切っています。お菓子作りも得意で......。ほら、このクッキーも彼女が焼いたんですよ。街の専門店なんかより、よっぽど美味しいでしょう?」 ド・ゼッサールは、勧められて、お茶受けのクッキーを口にした。 「......ほう......」 菓子の味などよくわからないので、とりあえず、そう言っておく。それでも感嘆の響きは表れていたようで、見れば、ニネットというメイドはニコッと喜んでいた。 年の頃は......はて、一体いくつくらいなのだろう? ふっくらした頬が特徴的であり、それは子供のようにも、逆におばさんのようにも見える。ただ、年齢はともかくとして、やや肉厚の唇にも、つぶらな瞳にも、よく笑顔が似合っていた。 「ミレーネには、私の身の回りの世話......着る服のことからお茶の給仕まで、色々とやってもらっています」 もう一人のメイドは、まだ十代の少女のように見えた。だが彼女も、リゼットの兄がこの屋敷を購入した時からの召使いである。昨日や今日雇われたばかりではないのだから、外見とは裏腹に、意外と年をくっているのかもしれない。 ハルケギニアでは珍しい黒髪が、白いカチューシャに映え、良いコントラストを成していた。メイドは二人とも、濃い茶色のワンピースに白いエプロンを組み合わせた、同じエプロンドレスを着ている。 「ミレーネ、あなた、もうド・ゼッサールさまと話はしたの?」 黙って首を横に振るミレーネ。 そういえば彼女と二人きりだったのだな、と思いつつ、ド・ゼッサールも否定する。 「いや、わしは室内や庭を見ていたので......」 というより、主人を待つ間に平民の召使いと話し込む貴族など、あまりいないだろう。召使いは普通、人としてカウントされないのだ。 このあたり、リゼットは少し変わったセンスをしている。ド・ゼッサールにしてみれば、メイドと一緒というより、自分一人だけという認識だった。 それに、ミレーネは無表情なだけでなく、存在感も薄い少女。その意味では、いかにもメイドに適した人物なのかもしれない。 「そうでしたね。ド・ゼッサールさま、お庭を褒めてくださってましたね」 言いながら、リゼットはフラリと立ち上がり、窓の方へと近づく。ただし、それ以上庭園に言及するのではなく、 「この部屋の調度品も......素敵でしょう? 兄の趣味なのです。屋敷の全てのものに、なるべく手を加えないようにしていますから......」 そこまで言った時だった。 バリンッ。 窓が割れる音に続いて、キャッ、というリゼットの悲鳴。 そして、彼女が床に倒れる音。 ド・ゼッサールも、慌てて椅子から立ち上がる。 「ミス・アンペール!」 「......大丈夫です。アシルが咄嗟に......かばってくれましたから」 日頃は頼りない風を見せていても、こういうところは、さすが恋人である。あの一瞬で、誰よりも早く彼女のところに駆け寄り、覆いかぶさるようにして、床に押し倒したのだ。 彼がカバーしなければ、割れた窓ガラスの破片で、彼女は傷を負っていたかもしれない。実際、マントノンの背中には少し刺さり、血も流れている。 「まあ、大変!」 「これくらい......たいしたことないよ。それより、君が無事でよかった」 やせ我慢をするマントノンに、リゼットが急いで『治癒(ヒーリング)』をかけていた。同時に彼女は、目でミレーネに指示。メイドは頷いて、薬を取りに、部屋を出る。 ......マントノンの背中は軽傷。彼女たちに任せればよい......。 一瞬でそう見てとって、ド・ゼッサールは、割れた窓へ。 外から何か叩き込まれたようだが......室内には、砕けたガラスが散らばっているだけ。石ころも弾丸も見当たらない。物理的に形のあるものではなく、おそらく無形の『風』を撃ち込まれたのだ。 窓の外に視線を向ければ、明るい陽射しの下。庭の生け垣に隠れるように、フードを目深にかぶった、黒いコートの人影。 「貴様かっ!?」 ガラスのなくなった大きな窓を出口として、ド・ゼッサールは庭へ飛び出した。行儀作法の上では褒められた話じゃないが、そんなことに構っていられる場合ではない。 「待てっ!」 庭の植え込みに沿って走る黒い影を、ド・ゼッサールが追う。 もしも緑衣であれば庭木の緑がカモフラージュになったかもしれないが、相手は黒衣。また、闇夜ならば紛れてしまったかもしれないが、さいわい真っ昼間である。殺気を感じさせない手だれのようだが、見失う心配はなかった。 ただし、逃亡者の脚は速い。なかなか距離を詰められず、ひたすら走るド・ゼッサール。そんな彼の背後から、マントノンの声が聞こえてきた。 「待て待て!」 どうやらマントノン、早くも回復して、追跡に参加しているらしい。 ド・ゼッサールに後ろを振り返る余裕はなかったが......。 「リゼット、君まで来る必要はないのに......」 「でも、これは私の問題ですから!」 「奥さま! 旦那さま! 危のうございます!」 話し声から判断するに、マントノンだけでなく、リゼットとシルヴァンも一緒のようだ。 ......四人がかりの追跡行か......。 目は前方の人影から離さぬまま。 ド・ゼッサールの口元に、小さな笑みが浮かんでいた。 ######################## 「もう逃げられないぞ! 観念せいっ!」 黒いコートの怪人物に向かって、ド・ゼッサールが叫ぶ。 襲撃犯は、屋敷の地理には疎かったのであろうか。逃げるうちに、庭の片隅に追いやられていたのだ。 もちろん、ド・ゼッサールとて、今日来たばかりの屋敷である。庭のどこに何があるのか、彼も把握しておらず、生垣はまるで迷路の壁であった。だから、うまく敵を追い込んだ、というわけではなく、偶然の結果である。 「......」 黒い影が、足を止める。 生垣の迷路は既に通り抜けていたが......。 逃亡者の行く手を遮るように、白い石造りの倉庫が、彼の前にデンと建っていた。後ろには当然、ド・ゼッサールたち追跡団。 「杖を捨てて、フードをとれ! そして、こちらに顔を見せるのだ!」 再び叫ぶ、ド・ゼッサール。 さきほどの襲撃は『風』魔法、ならばコートの男はメイジであろう、と彼は判断していた。だから十分に警戒し、一気に間合いを詰めることもしない。敵にあわせて、その場に足を止めていた。 もちろん、すでに彼自身の杖は腰から抜いており、いつでも呪文が詠唱できる体勢となっている。 「......はあ、はあ......。ようやく追いつきました......」 「ですから、旦那さま。そのようなお体で、無理をなさっては......」 ここでマントノンたち三人も、ド・ゼッサールに並んだ。 三人を見ようともせず、視線も杖も黒い怪人物に向けたまま、ド・ゼッサールは小さく尋ねる。 「......あの倉は......何ですかな?」 「今は空っぽです。兄の私物をしまっていた倉庫ですが......亡くなる少し前に、どこかに移したみたいで......」 やはり小さな声で、リゼットが応えた。彼女の言葉に疑問を感じて、ド・ゼッサールは、わずかに眉をひそめる。 「......みたい、とは?」 ド・ゼッサールは、別にリゼットに顔を向けたわけではない。それでも、そちらに注意を割いたのが、一瞬の油断になったのかもしれない。 彼の警告を無視して、黒い人影が、再び動き出した! 「ええいっ!」 ド・ゼッサールが魔法を放つが、一歩、間に合わない。 敵は倉庫に飛び込んで......。 ガチャリ。 中から、鍵をかけてしまった。 「......ちっ......!」 慌てて駆け寄るド・ゼッサール。『アンロック』の呪文を唱えたが、解錠する音はしない。魔法対策が施された鍵なのだ。 「シルヴァン!」 「はい、奥さま!」 名前を呼ばれただけで、屋敷に戻る方向へ駆け出す執事シルヴァン。鍵を取りに行くのだろう。 「......なんで? なんで空っぽの倉庫が......こんな厳重に......?」 「空っぽの倉庫だからこそ、扉の鍵は開いていたのだ」 マントノンの問いかけに対する返事としては、あまり適切ではないな......。 自分でもそう思いながら、ド・ゼッサールは、リゼットに水を向ける。 「......兄上の私物を貯蔵......と言っておられましたな?」 「はい。金目のものではありませんでしたが......。でも、お金には代えられないものですからこそ、絶対に盗まれたくなかったようで。それで鍵も強固にしていたんです」 「......なるほど......」 「ほら、一年か二年くらい前に、貴族の屋敷を専門に狙うメイジの盗賊が、トリステインの城下町を騒がせていた......そんな時期がありましたでしょう? あの頃、兄も倉の鍵を強化したと言っておりました」 リゼットが言う『メイジの盗賊』とは、『土くれ』のフーケのことだろう。最終的には、ルイズ・フランソワーズや騎士になる前のサイト・ヒラガなどの活躍により、フーケも捕縛されたわけだが......。 フーケは神出鬼没の大怪盗であった。街の治安維持に関わる魔法衛士の面々も、おおいに振り回されたものだ。 苦い気持ちを顔に表さないようにしつつ、フーケのやりくちを思い出して、ド・ゼッサールは『錬金』を唱えてみる。鍵のかかった扉や壁も『錬金』で粘土や砂に変え、中に潜り込む......それがフーケの手口だった。 だが......。 「......なるほど。たしかに強力な『固定化』の魔法がかけられていますな」 頷くように首を振りながら、つぶやくド・ゼッサール。 フーケの『錬金』に通じるかどうかはともかく、『風』メイジのド・ゼッサールが唱える『錬金』に対しては、十分な守りとなっていた。 まあ、駄目で元々である。頭を切り替えて、彼は再びリゼットに問いかける。 「倉の中身は、兄上が亡くなる少し前に移動したみたいだ、と言っておられましたな。......『みたい』とは、どういう意味です?」 そう。 そもそも、この質問をしたことが隙となって、怪人物が倉庫に逃げ込むキッカケとなったのだ。しかも、それで有耶無耶になっていたが、この質問の返事は、まだもらっていなかった。 「どうやら、いくつか紛失しているものがあるようなのです。特に、ずっとつけていたはずの日記の一部が、どこにも見当たらなくて......」 「......でも、もう犯人は袋の鼠ですね」 リゼットの言葉に被せるように、マントノンが快活な声を上げた。 ......別に二人の会話を邪魔したわけではない。マントノンは、このやりとりを聞いていなかったのだ。 一応、調査のつもりであろうか。ド・ゼッサールとリゼットが扉の前に張りついている間に、マントノンは一人で、石造りの倉庫の周囲をグルリと見てまわっていたようだ。 「扉は、ここだけ。反対側の壁に、上の方に小窓がありますが......太い鉄格子もはまってますし、第一あんな小さな窓からでは、誰も出られるわけありません」 「......小窓、とな?」 ド・ゼッサールが聞き返した時。 「お待たせしました!」 ジャラジャラと鍵の束を手に、執事のシルヴァンが戻ってきた。 ならば、とりあえず話は後回しである。 「......ええっと......この鍵ですかな? あれ......?」 三人が見守る中。 シルヴァンは困惑しながらも、それらしき鍵を次々に試していき......。 カチリ。 四つ目が正解だった。 ド・ゼッサールは扉を開き、敢えてワンテンポ置いてから、バッと中に飛び込む。 敵は迎撃の態勢を整えているだろうから、先に向こうに撃たせようと思ったのである。だが撃ってこないというのであれば、待っていても仕方がない。 ならば先制攻撃だ。目視すると同時に放てるよう、『エア・カッター』の呪文を唱えてから、突入したのだが......。 「......!?」 杖を構えた姿勢のまま、彼は固まってしまった。 静かな時間が流れ......。 「どうしました、隊長......?」 戦闘の音どころか話し声すらしないため、不思議に思ったのか。マントノンが恐る恐るといった様子で、入り口から中を覗く。 だが、そのマントノンも、驚きの声と共に硬直した。 「ややっ!? これは......一体......!?」 外観と同じく、中も白い倉庫だった。 かつては色々なものが、乱雑に置かれていたのだろう。窓からの陽光で日焼けした場所と、していない場所が出来てしまい、床の一部がまだら模様になっていた。 だが、リゼットが言ったように、今は空っぽだ。 何もない。 物も......そして人も。 「......どこへ消えたのだ......?」 ポツリとつぶやく、ド・ゼッサール。 そう。 黒いコートの怪人物は、確かにここへ逃げ込んだはずなのに......。 煙のように、消えてしまったのである。 (第三話へつづく) |
「......どこへ消えたのだ......?」 せいぜいが数メイル四方の、たいして広くもない倉庫である。何も置かれていないため、隠れる場所なんてあるはずがない。 入り口の扉の他には、上の方に小窓が一つあるだけ。普通の家屋より天井が高いとはいえ、見上げるまでもなく天井は視界に入る。天井に張りついていたのを見落とす、なんてこともない。 それなのに......。 この倉庫に逃げ込んだ男は、今、どこにもいないのだ。 「......隊長が......やっつけたのですか......?」 アシル・マントノンが、倉庫に足を踏み入れながら、ド・ゼッサールに尋ねる。 「そんなわけないだろう。わしに......そこまでの力はない」 ボソッと返すド・ゼッサール。 いくら彼でも、争いの音すら立てずに一瞬で敵を倒し、なんの痕跡も残さずに死体まで消してしまうというのは、さすがに無理である。 強力な炎の使い手であれば、相手を焼き尽くすことも可能かもしれないが......。ド・ゼッサールは『風』のメイジ。それに、たとえ『焼き尽くす』にしても、『なんの痕跡も残さずに』というのは不可能であろう。 「じゃあ奴が......自分で消えたというのですか? それこそ......まるで幽霊のように......?」 「幽霊などではない。おぬしも見たであろう。あれは......はっきりとした意志と力を持つ人間であったぞ......」 言いながら、ド・ゼッサールは、心に何か引っかかるものを感じた。自分自身の言葉が、妙に気になったのだ。 なぜ今、『実在の人間である』という意味で、『はっきりとした意志と力を持つ』などという表現を使ったのか? まず。黒いコートの怪人物は幽霊などではない、と思ったのは、そいつが魔法を使ったから。状況から考えて、応接間に『風』魔法を叩き込んだのは奴だ、と思ったから。 つまりド・ゼッサールは、あれを『風』のメイジだと判断したのだ。ドットやラインなどではなく、もしも『風』のスクウェアメイジであるならば......。 「......『風』は偏在する......一つ一つが意志と力を持っている......」 魔法学の教科書に書かれている一節。『風』系統を得意とするメイジであれば、学生の頃に誰もが読んでいるであろう一節。 ド・ゼッサールは今、それを口に出していた。 これが頭の奥底に刷り込まれていたからこそ、さきほどのような表現になったに違いない。 そう。無意識のうちに、彼は気づいていたのだ。あれは幽霊でも生きた人間でもなく、『偏在』だったのかもしれない、と。 それぞれが普通の人間のように意志と力を持つとはいえ、しょせん『偏在』は分身である。『偏在』ならば、煙のように消えてしまっても不思議ではない。実際、戦いの場においても、魔法一発くらっただけでボゴンと消滅する『偏在』を見て、その相手が呆気に取られる、なんて光景もしばしば見られるのだ......。 「おや? こんなところに......」 マントノンの漏らしたつぶやき。それが、考えこんでいたド・ゼッサールを、フッと現実に引き戻した。 見れば、マントノンは『フライ』で宙に浮いている。ド・ゼッサールの傍らで茫然と立ちすくむのではなく、意外とアクティブに、倉庫内部の調査を始めていたらしい。幽霊だ、なんて馬鹿げたことを言ってはいても、マントノンとて、栄えある魔法衛士隊の一員なのだ。 「......何を見つけたのです?」 今度は女性の声。 振り返ると、いつのまにかリゼット・アンペールも、倉庫に入ってきていた。主人を守る従者のように、執事のシルヴァンが、彼女のすぐ後ろに控えている。 「うん。何か......こすったような跡があるんだ、ここに」 若いマントノンは今、小さな窓を調べているところだった。ド・ゼッサールも魔法で浮き上がり、彼のもとへと近寄った。 採光用の窓......。いや、空気がこもるのを防ぐ意味だけの、換気のための穴、といったほうが適切かもしれない。その程度の小窓である。 数本の太い鉄格子が埋め込まれており、手を通す程度の隙間はあるが、大人の腕ならば二の腕の途中くらいでズッポリとはまりこんでしまうだろう。たとえ鉄格子を全部はずしたところで、人がくぐり抜けるのは無理である。 それら鉄格子のうち二本に、確かに何かを擦り付けたような痕跡が残っていた。 「......ふむ......」 真新しい跡だ。周りには埃が積もっているので、ハッキリとしている。 何かが......この二本の間を通ったのだ。 「隊長。どうやら奴は、ここから脱出したようですね」 マントノンが意見を述べる。 二人とも同じ鉄格子に顔を近づけて注目していたので、自然と二人は顔を寄せ合う形になっていた。 「......そうだな......」 とりあえず、賛同の意を示すド・ゼッサール。 注意深く観察しながら、自分にしか聞こえぬ程度の小声でつぶやく。 「これは......木屑か? では、道具を使った小細工なのか? 魔法を使ったわけではなく......?」 こんな跡が残っているということは......『偏在』ではなかったのか。『偏在』が『消えた』のであれば、こんな跡が残るはずもない。だが、ここをくぐるというのも、それはそれで......。 「でも、変ですよね。こんな狭いところから、どうやって......?」 すぐ近くにあるマントノンの顔には、困惑の表情が浮かんでいた。 「......体を小さくする魔法......なんて、ありませんよね?」 ######################## 「ご苦労さまでした。とりあえず、こちらで一息ついてください」 ひととおり倉庫を調べた後。 ド・ゼッサールは、今度は食堂へと案内された。応接間は窓が壊されてしまったので、その代用である。 玄関ホールに入って右側、つまり応接間のちょうど反対に位置していた。二十人は座れる食堂だが、現在ここにいるのは、ド・ゼッサールとマントノンとリゼットの三人のみ......いや、それともう一人、あいかわらず存在感の希薄なミレーネというメイド、全部で四人。 ニネットは厨房へ戻り、早くも夕食の仕込みに取りかかっているらしい。また、シルヴァンは窓の修理のために、応接間へ行っていた。ちゃんとした修理は後日、専門の業者を呼んでやってもらうことになるが、とりあえずの応急措置は、執事の仕事なのだ。 「結局、それっぽい手がかりは何もありませんでしたね。......最初に私が見つけた小窓の痕跡以外は」 テーブルに用意されていたティーで喉を湿らせながら、マントノンがつぶやいた。 少し遅めの、午後のティータイム。お茶受けはクッキーからシフォンケーキに変わっていたが、これもメイドのニネットが焼いたものなのだろう。 「......うむ」 同じくティーカップに手を伸ばしながら、ド・ゼッサールは、部下の言葉に頷いてみせた。 ......あの後。二人は、かなりの時間をかけて倉庫を調べてみたのだ。 秘密の抜け穴でもあるのではないかと、床をトントン叩きながら探ってみたり。魔法の仕掛けでもあるのではないかと、ディティクトマジックで検査してみたり。 もしかすると部分的に『固定化』の弱い部分があるかもしれない、とまで考えて、壁という壁に『錬金』も試してみたが、粘土や砂に変えて脱出口を作ることは不可能と判明。また、小窓の鉄格子を外すことも、物理的にも魔法的にも無理であった。 「......奴がどうやって脱出したにせよ......あまり手間のかかることはしてないはずなのだがな......」 考えをまとめる意味で、言葉として口に出すド・ゼッサール。 怪人物が中に逃げ込んだ直後、マントノンが倉庫の周りをグルリとまわっていたわけであり、また、扉のすぐ外には、ド・ゼッサール自身とリゼットがいたわけである。だから、たとえば壁に穴をあけて逃げる、なんて派手なマネをしたら、誰かが気づいたはずなのだ。 「......でも、アシルが窓のところで何かの跡を見つけたのでしょう? ということは、そこから逃げ出した......ということではないのですか?」 「まあ......今のところは、そういうことにしておきましょうか。これ以上は考えても無駄のようですからな」 リゼットの言葉に、ド・ゼッサールは苦笑しながら返した。ある意味、問題解決を先送りにしただけなのだが、それでもリゼットは、少しホッとしたような声で、 「ちょっと安心しましたわ。それで説明がつくのでしたら、おばけや物の怪のたぐいではない、ということですから」 「おいおいリゼット......。幽霊屋敷の次は、幽霊倉庫かい? あの倉庫に幽霊が取り憑いていて、一人で入った者を死の世界ヴァルハラへと連れ去ってしまう......とでも思ったのかい?」 冗談めかして言うマントノンに、リゼットは、クスリと笑いながら返す。 「あら。だって、あの倉庫は『者』を食べたことはないけれど、『物』を食べてしまったことはあったのですから」 「......?」 マントノンは彼女の言葉の意味がわからず怪訝な顔をする。一瞬ド・ゼッサールも同じ思いだったが、すぐに彼は理解した。 「......なるほど。そういえば、兄上の日記の一部がなくなっている、と言っておられましたな」 「ええ。まるで倉庫に食べられちゃったみたいに」 倉庫にしまってあったはずの、兄の日記......。全部紛失しているのであれば、たまたま見つけにくい場所に移してしまったのだ、とも考えられるだろう。 だが、あくまでも『日記の一部』なのである。どこか秘密の場所に隠したのか、あるいは、処分したのか......。そう考えて、リゼットは、何となく怪しいと感じているのだ。 「では、探してみますかな」 言って立ち上がるド・ゼッサール。 えっ、という顔を見せるマントノンに、彼は敢えて尋ねてみる。 「わしたちが今日ここに来たのは、なんのためだ?」 「......それは......屋敷そのものを調べるため......」 「そうだ。何か怪しい点はないか、どうせ屋敷を調べて回るのだから......そのついで、ということだ」 ######################## 「ここが......兄の寝室だったところです」 屋敷探索の第一歩として、リゼットが二人を連れてきたのは、二階の廊下の突き当たりにある部屋だった。 二階には六つの部屋があるが、そもそも、リゼットと召使いのみが住んでいる屋敷である。正直、六つも部屋は必要ない。 「......だから、兄が寝室として使っていたこの部屋と、書庫として使っていた隣は、兄が亡くなった時のまま、手つかずにしてあるのです」 扉を開けながら、説明するリゼット。 ド・ゼッサールは、わずかに眉をひそめて聞き返す。 「......書庫? 下の応接間......書斎を兼ねた部屋にも、結構な数の蔵書があったようですが......?」 「あれは、ほんの一部なんですよ。兄は、子供のように好奇心旺盛な人でしたから。野に咲く花々のことから、夜空を彩る星々の動きまで......。良く言えば、雑学に興味がある、とか、その知識は多岐に渡る、とか......」 在りし日を思い出しているのだろう。彼女の顔には、昔を懐かしむような笑顔が浮かぶ。それをフッと消してから、ド・ゼッサールの方へ振り向き、 「......先に寝室ではなく、書庫の方を見ますか?」 「いや。ここからにしましょう」 もう足を踏み入れているのだ。わざわざ変えることもない。それに、端の部屋から調べる方が、わかりやすくてよい。 そう思いながら、ド・ゼッサールは、室内を見回した。 壁紙も敷物もブラウン系統の色で統一された、落ち着いた趣きの部屋である。寝室なので中央には当然ベッドがあるが、それ以外に、箪笥や机、棚などの調度品もあった。 棚に詰まっている書物は、どうやら日記らしい。ならばこれが、元々は例の倉庫にしまわれていた、というやつなのだろう。 それぞれ、いつからいつまでの記載なのか、月、週、曜日で背表紙に記されている。ただし、それらの期間が全部つながることはなかった。つまり、いくつか抜け落ちている本があるということだ。 「ずぼらなところと几帳面なところ、兄には両方ありましたが......。日記に関しては、子供の頃からずっと続けていたはずなのです」 ド・ゼッサールの視線に気づいたらしく、あらためてリゼットが説明する。 「兄の性格では、もしも書けない日ができたら、そのままスパッとそこで止めてしまいそうなものなのに......」 「......なるほど......」 口ひげをひねりながら、ド・ゼッサールはつぶやいた。 ......ならばやはり、欠落している部分は、『書かれなかった』のではなく、『書かれたけれどなくなった』というわけだ。では、それは一体、今どこに......? そもそも、これらの日記は、なぜ倉庫からここへ移されたのであろうか。死ぬ少し前に移動させたということは、自らの死期を悟っていたということか......。 「うわあ。まるで迷路だ」 能天気な声が聞こえてきて、ド・ゼッサールは思考を中断し、顔をしかめながら振り向いた。 声を上げたのは、マントノン。彼は室内を調べるのではなく、窓からボーッと外を眺めていたらしい。 「何を遊んでおるのだ、マントノン」 「いや、遊んでるわけではなくて......えーっと......ほら、さっきの追跡行、その経路の再確認をしてたんですよ」 とってつけたような理由を述べながら、マントノンは庭を指さす。 そちらに視線を向けて、ド・ゼッサールは思った。なるほど『迷路』だ、と。 ......この部屋から庭を見ると、主に視界に入ってくるのは、整然とした生垣。さきほど黒いコートの怪人物を追って、走り回った辺りである。あの時も『まるで迷路のよう』と感じたものだが、こうして上から眺めれば、よけいに『迷路』に思えてくる。 「......あれ......?」 「今度は何だ、マントノン?」 「隊長。あそこは......どこから入るんでしょうね?」 庭の一点を指し示しながら、首を傾げるマントノン。 生垣で作られた『迷路』の一部が、単なる袋小路ではなく、閉じられた空間になっている......つまり通路の両端が塞がっているように見えたのだ。 「確かに変......いや、違うな。よく見ろ」 一瞬同意しかけたが、ド・ゼッサールは、途中で否定した。 よく見たら、影だったのだ。 離れたところにある高い木の影が伸びて、重なり、生垣の一部に見えていただけ。実際には、そこは閉じていたわけではなく、ちゃんと道は開いていた。 だが。 これがド・ゼッサールに、新たな見方を示唆したのだった。 「......ん? 待てよ......これは......」 生垣と、木々の影と。 全部つなげてみたら、文字に似ている部分がある。 偶然かもしれないが......。 「ミス・アンペール」 ド・ゼッサールは振り向いて、ふと尋ねる。 「たしか......庭仕事は執事がやっている、と言っていましたな?」 「ええ。今はシルヴァンがやってくれてます。兄は全部、自分でやっていたようですが」 「......ほう。では庭の植え込みの配置は、亡くなられた兄上が......?」 「そのはずです。兄が遺してくれたものは、なるべく、そのままにしておきたいので......。よけいな手は加えずに兄がやっていたのを踏襲するよう、シルヴァンには頼んであります」 ならば、リゼットの兄も同じ景色を見ていたわけだ。生垣と影とが、文字にも見える図形を描き出す、そのさまを......。 もちろん、見る場所が異なれば、見え方も変わってくる。この部屋からの見え具合で、たまたま、そう見えたというだけかもしれない。 それに。 太陽の位置なんて時間によって異なるのだから、影の出来方も、それ次第で......。 「今は......だいたい四時くらいか」 「そうですけど......それが何か?」 質問したつもりではなかったが、リゼットから返答が来る。 ......『四時』という時刻が、『四』という数字が、ド・ゼッサールに、一つの言葉を思い出させていた。リゼットの兄がつぶやいたという『四つの四』という言葉を......。 同時に、彼の頭脳に一つの閃きが走った。 突拍子もない思いつきかもしれないが......。 頭の片隅に眠る知識をフル回転させる。 ......太陽の位置は、時刻が決まればそれだけで定まる、というものではない。日付が異なれば、その位置も微妙に変わってくるのだ......。 リゼットの兄も当然、それくらい知っていたはず。『野に咲く花々のことから、夜空を彩る星々の動きまで』広く関心を持っていた、というのだから。 では。 もしも今日が......フェオの月、ティワズの週、マンの曜日だったら......。 つまり、四番目の月の、四番目の週の、四番目の曜日の、四番目の時刻だったら......。 生垣と木々の影の交差は、どういう見え方になるのだろう? 「......四の月、四の週、四の曜日、四の時刻......それで『四つの四』か......」 「え? 何か言いましたか?」 さきほどよりも小声だったので、今度はリゼットにも聞き取れなかったらしい。 「いや、何でもない。それより......本を一冊お借りしたい」 リゼットの話によれば、隣の部屋には、雑多な書物があるはずだった。その中に......。 「天文学の本......つまり天体の動きに関する本は、ありますかな?」 「天体ということは......星座に関する本ですか。はい、あると思いますけど......」 「......星や月というより、むしろ太陽の動きについて書かれた本を見せていただきたい」 何を突然言い出したのだろう、という顔をしているのは、マントノン一人。 ド・ゼッサールの表情から、リゼットにはわかっていたらしい。これは大事な話なのだ、と。 「わかりました。とってこさせましょう」 リゼットが目で合図すると、メイドのミレーネが無言で頷き、部屋から出ていった。 ド・ゼッサールは、ちょっと驚いてしまう。彼は今の今まで、メイドがこの部屋まで一緒に来ていたことに、気づいていなかったのだ。 ######################## それから少しの後。 五人は庭へ出てきていた。ド・ゼッサールを先頭に、マントノンとリゼット、ひっそりと影のように付き従うメイドのミレーネ、応接間の応急修理を終えて合流した執事シルヴァンの五人である。 ド・ゼッサールは、一枚の羊皮紙を手にしていた。彼自身がスケッチした、あの部屋から見える生垣の絵である。夕方の陽射しが作り出す陰影も描き込まれているが、それは、今日実際に目にした陰影ではない。ミレーネが書庫から持ってきた本に書かれていた記述から、『四つの四』時の太陽の位置を割り出し、想像で書き加えた影である。 元々が突拍子もない思いつきな上に、あくまでも計算上の想像図、というのが少し心配だったのだが......。 いざスケッチに加えてみると、間違いないという自信がわいてきた。スケッチの一部に、ハルケギニアで『四』を示す文字が浮かび上がったからだ。 「この辺りですな」 今。 目の前の生垣と羊皮紙とを見比べながら、マントノンが足を止める。 ここが『四』の文字を成す辺り。特に、彼が視線を向けている地点が、その文字の中心である。 「......もしも兄上が何かを隠されたのであれば......それはここであろう。掘ってみても、よろしいかな?」 リゼットが無言で頷くのを見て、 「では」 ド・ゼッサールは、『風』を刃にして、土を抉り始めた。 「何も隊長が自ら掘らずとも......。それに、こんなことに魔法を使わずとも......」 マントノンが、チラッと執事に目を向ける。シャベルか何かを使わせて、平民の彼に掘らせればよい、という意味だ。 「いや、これは、わしが推理した結果だからな。わしが自分でやらんと......」 「......わかりました。そこまで言うのでしたら、私も手伝いましょう」 自分でやる、とド・ゼッサールが言っているのに、助力を申し出るマントノン。隊長が一人でせっせと穴を掘っているのに、部下が横でボーッと突っ立っているわけにいかないのだ。 そして、貴族二人が働くというのであれば、執事シルヴァンも。 「微力ながら、私もお手伝いさせていただきます。......道具を取ってまいります」 「......そうか? ならば、おぬしたちは、この範囲内の別のところを掘ってみてくれ」 ド・ゼッサールは、手で『四』の字を形成する範囲を示してみせた。 「おそらく中心にあるはず......。そう考えて掘り始めてみたが、特に目印があるわけでもない。多少ズレているかもしれんのでな。......それからマントノン、時々ディティクトマジックで調べるのも忘れるなよ」 「ディティクトマジック......ですか?」 「ド・ゼッサールさまは......『固定化』がかけられている、とお考えなのですね?」 マントノンより先に、リゼットの方がド・ゼッサールの意図を理解していた。 「そうです、ミス・アンペール。......簡単に探知できるほど浅いところに埋められたとは思いませんが、ある程度掘り進めた後ならば、反応するやもしれません」 ######################## ディティクトマジックを使う、という作戦は成功だった。 人間が肩まではまり込むくらいの深さの穴を掘ったところで、魔法の反応があったのだ。ただし真下からではなく、斜め右から。 心配していたとおり、微妙に違う地点を掘っていたらしい。そこで修正して作業を続けた結果......。 「ついに見つけましたね!」 歓喜の声を上げるマントノン。彼が指さしているのは、ド・ゼッサールが掘り出した木箱である。 箱自体には『固定化』がかけられており、土の中でも腐らないようにされていたが、特に施錠はされていなかった。 「ここであけても......よろしいですかな?」 「はい。お願いします」 まだ日没までは時間がある。中身を確認するには十分、庭は明るかった。 パチンと音がして、掛け金が開く。ギーッと蓋をあければ......。 「......やはり......」 思わずつぶやくド・ゼッサール。 箱の中に収められていたのは、二階の部屋で見たのと同じタイプの書物が数冊。表紙を確認するまでもなく、紛失していた日記である。 一番上の一冊を手に取り、パラパラとページをめくり......。 「......これは!?」 ド・ゼッサールは、驚愕の叫びを上げてしまう。 そのページに書かれていた内容は......。 (第四話へつづく) |
「隊長! 何が書いてあるんですか!?」 「まあ、待て。わしが声に出して読んでやるから、そう顔を近づけるな」 マントノンが駆け寄ってきて日記を覗き込もうとするが、それを手で制して、ド・ゼッサールは、朗々と読み上げ始める。 「......『偉大なる始祖ブリミルが、その力を受け継がせたものたち......虚無の担い手。ある意味、始祖ブリミルの再来だという。なんとも恐れ多い話である』......」 始祖ブリミルは信仰の対象であるが、その神格化のほどは、並大抵のものではない。始祖の容姿を正確に象ることすら不敬とされており、神官の使う聖具には顔がないくらいであった。 その『再来』がこの世に現れるというのは、敬虔なブリミル教徒にとっては、確かに『なんとも恐れ多い話』なのだろう。 ふとド・ゼッサールは、ルイズ・フランソワーズやサイト・ヒラガの顔を思い出した。明言されてはいないが、あの二人が虚無に関わる者たちだということくらい、彼も承知していたからだ。 「......『ましてや、このたびは、一人だけではない。今、このハルケギニアに、未曾有の危機が迫っているのだ』......」 さきほどド・ゼッサールが驚きの声を上げたのは、この辺りである。つまり、ここまでは既に読んだ部分であるが、この先は聴き手と同じく、彼にも初めての話となる。 「......えーっと......なになに......『かつて驚異の自然の力が、我々に牙をむきそうになった時、四の四は復活しそうになった。でも揃わなかった。それは驚異であっても脅威ではなかったからだ。だが今回は違う。明確な危機となって、我らを滅ぼそうとしている。だからこそ......四の四が必要となったのだ』......。はて、四の四、とな?」 チラッと顔を上げるド・ゼッサール。視線の先で、リゼットも彼と同じ表情をしていた。 ここに記された『四の四』こそが......彼女の兄が恐れと共につぶやいた言葉、『四つの四』! いよいよ核心に迫るのだ、と思いつつ。 ド・ゼッサールは続きを読み上げる。 「......『四の秘宝、四の指輪、四の使い魔、四の担い手......四つの四が集いし時、我の虚無は目覚めん......。それが始祖ブリミルの御言葉であり......』」 そこまで読み進めた時。 ドンッ! ド・ゼッサールは、目の前のマントノンを思いっきり突き飛ばし、その反動で自分も大きく後ろに跳んでいた。 同時に、たった今まで二人がいた場所が、爆発したかのように大きく抉られる。 「え......?」 転んで地面に手をついたマントノンは、きょとんとした顔で彼の隊長に目を向ける。 だがド・ゼッサールは、部下のことなど見ていなかった。 彼の視線が向かう先は、少し離れた場所にある生垣。そこに半ば身を隠す黒い影......つまり、今あの強力な『エア・ハンマー』を放ってきた犯人。 白い倉庫の中で姿を消した、黒いコートの怪人物である! 「......なるほど......これ以上は読ませるわけにはいかん、ということだな......?」 聞くまでもない質問を口にして。 ド・ゼッサールは杖を構えた。 ######################## 「マントノン! おぬしは、そこで皆を守れ!」 叫んで駆け出すド・ゼッサール。 黒い怪人物に向かって走りながら、『ブレイド』の呪文を唱える。魔力の風が杖に纏わりつく。 シュッ! シュシュッ! 敵は『エア・カッター』を放ってきた。風の刃なので肉眼では捉えられないが、ド・ゼッサールは相手の杖の動きから軌道を予測し、あるいはかわし、あるいは杖で弾く。 「こんな単調な攻撃! なんと手ぬるい奴!」 思わず叫んで、彼は気づいた。 さきほどの襲撃の際も思ったように、敵は、ほとんど殺気を感じさせない。それに、放つ魔法の威力も凄まじい。だから相当の手だれだと判断したのだが......。 それにしては、攻撃が単調なのだ。いくらド・ゼッサールが有能とはいえ、見えない刃を全部回避するなんて、普通は出来やしない。 妙にアンバランスだ。実力はあるのに戦闘経験が皆無なメイジ......といった感じ。しかし、一切の戦闘を経ずにここまでレベルを上げる、なんてことも、普通は起こり得ない。 つまり。 普通ではないのだ、この敵は。 「......そうか、殺気を感じさせないのは......別の理由だったわけか......」 間合いを詰め、思い切って踏み込む。 敵が後ろへ逃げるよりも早く、彼は刃と化した杖を振るう。 「わしをなめるな! 人形ごときに負けはせん!」 ザンッ! 胴のところで両断された『敵』は、小さな人形となって転がった。 「......知っておるぞ。ただのガーゴイルではなく、『スキルニル』という、特殊な魔法人形なのであろう?」 誰にともなく、尋ねるド・ゼッサール。 血を吸った人物そっくりに化ける、古代のマジック・アイテム。それが『スキルニル』である。外見だけでなく、その能力も完全に模写するという。古代の王たちは戦争ごっこに用いたそうだが、最近は『ごっこ』などではなく、ガリア王継戦役においては、謀略や非公式な前哨戦で利用されたらしい......。 戦後のレポートに記されていたのを、ド・ゼッサールは、ちゃんと覚えていたのだ。 「いくらメイジ本人の力を模しているとはいえ......しかし経験も何も足りない人形では、わしの相手ではない!」 「......人形......って......どういうことです?」 とぼけた声を出すマントノンは、リゼットを守る意味で、彼女の前に立ちはだかるようにしている。 二人の方に歩み寄りながら、ド・ゼッサールは叫んだ。 「まだわからぬのか、マントノン! さきほどの襲撃犯......あの倉庫に逃げ込んだ男は、魔法人形だったのだよ」 あらかじめ、倉庫に入るくらいのタイミングで人形に戻るようにしておけばよい。小さな人形であれば、鉄格子のはまった小窓は脱出口として十分。外から『レビテーション』か何かで、浮かせてくぐらせればよいだけ......。 「外にいたわしらも、あの時点では、小さな人形のことなど想定していなかった。その隙に行われていたのだよ、そうした細工が」 あれが人形だったならば......もはや、すべて明白だ。 真犯人の動揺を誘うつもりで、謎解きをしてみせるド・ゼッサール。 これでマントノンにも、ようやくわかったらしい。 「では、鉄格子にあった擦ったような跡は......その時についたものなのですね?」 「そうだ。犯人は離れた場所から、見えないまま操作していたのだろうからな。しかも、あの狭さだ。多少の跡が残ってしまうのも、やむを得なかったのだろう」 「......なるほど......でも、そうなると、タイミングが全てだったわけですか。人形に戻るのが早すぎても遅すぎても、この細工は失敗したでしょうし......」 ド・ゼッサールたちに追われている途中で人形に戻るようでは失敗、あるいは、ド・ゼッサールたちが倉庫に踏み込んだ後で人形に戻るようでは失敗、ということだ。 「......それに、私たちが倉庫に入るまでの間に、犯人は急いで、小窓からサッと人形を抜かなきゃいけなかったんですね」 「うん。それは......少し違うと思うぞ、マントノン」 ド・ゼッサールは、ニヤリと笑いながら言う。こうやって話すことで、彼の頭の中では推理が組み上がり、整理されつつあった。 「そうしたタイミングを、ちゃんと犯人は調節しておったのだ。ようするに、わしらの追跡が早すぎても遅すぎてもいけないのだから、自分も追跡グループに参加してしまえばよい。そうすれば、時には足を引っ張ることも可能だっただろうて」 「えっ!?」 「......いや何、心配するな。マントノン。わしは別に、ミス・アンペールを疑っているわけではない。魔法人形が倉庫の中に飛び込んだ後、ミス・アンペールは扉のところで、わしと一緒だった。中の人形を抜く、なんて操作は出来やしない」 「ちょっと待ってください! それじゃ、まるで......」 「......かといって、おぬしを疑っているわけでもないぞ。おぬしは確かに、わしら二人から一時的に離れたので、そうした操作も出来る立場にあるが......だがな、マントノン。おぬしでは、もう一つの時間調整が無理なのだよ」 「......もう一つの時間調整......?」 「そうだ。おぬし自身が言ったではないか、『私たちが倉庫に入るまでに犯人はサッと人形を抜かなきゃいけなかった』と。......よく考えてみたまえ。では、わしたちが倉庫に入るタイミングというのは、何によって決められていたのだ?」 「それは......」 「あのような状況で鍵を取りに行かされるであろう者は、立場上、彼しかいなかった。わしたちは、彼が鍵を持ってきてくれたからこそ、中へ入ることが出来たのだ。逆に言えば......彼が鍵を持ってくるまでは、絶対に中に入れない。彼こそが、そのタイミングを決定する人物だったのだ」 そしてド・ゼッサールは、真犯人を見据えて言った。 「おぬしの目的も、この日記だったのであろう? この日記を奪いたいならば......魔法人形などではなく、自分自身で勝負することだな、シルヴァン!」 ######################## 「おやおや。いったい何の話でございましょう?」 シルヴァンは、穏やかな初老の執事の顔をしたまま、そう返した。 いつのまにか彼だけが、マントノンやリゼットからも、メイドのミレーネからも、少し離れた場所に立っている。 「フン。貴様、まだ言い逃れするつもりか? わしには、もうわかっておるのだぞ」 「......あのぅ......」 威勢のよいド・ゼッサールの背後で、対照的な声を上げるマントノン。 「......超展開すぎて、私には何だかサッパリわからんのですが......」 「簡単な話だ。こやつも日記を探していたのだよ。だが自分では見つけられないから、わしたちをあの倉庫に案内したのだ」 今にして思えば。 襲撃犯の黒衣は、昼間にしては目だつ格好だったが、それも敢えて姿を見せつけるため。 シルヴァン自身が同席している場で襲撃事件を起こすことで、自分は犯人ではないと思わせ、かつ、ド・ゼッサールたちを問題の倉庫へと誘導する......。 そして倉庫で人間消失をやってみせれば、捜査の過程で、同じ倉庫から紛失した日記が話題になるのも自然の流れ。 「こやつだって、庭のどこかに埋められているのではないか、という程度の見当は既につけておったかもしれぬ。執事として庭仕事をやっていたのも、そのためだったのかな? ......だが残念ながら、場所の特定までは出来なかったようだな」 少しではあるが日記を読んだ今となっては、ド・ゼッサールにもわかっていた。『四つの四』とは、本当は、始祖ブリミルの言葉に由来するものなのだ、と。 その程度のこと、あらかじめシルヴァンは知っていたに違いない。シルヴァンにとって『四つの四』は既に意味のある言葉だったので、まさか別のキーワードにもなっているとは思わなかったのだ。 「......なるほど。鍵を隠すには鍵束の中、ってことですね」 ド・ゼッサールの推理を聞いて、マントノンが、わかったようなことを言う。どうせ全部ではなく部分的に理解しただけなのだろうが、これ以上、彼に構ってはいられない。 今は、目の前にいる敵が最重要である。 「なかなか面白い話ではございますが......しかし困りますな」 「なんと! この期に及んで、まだとぼけようというのか!? ......だいたい、そうやって大事そうに抱えているのが、何よりの証ではないか!」 ド・ゼッサールが魔法人形と戦っていた間に、シルヴァンは木箱を回収していた。中には数冊の日記が入っている。 まだシルヴァンの手に渡っていないのは、ド・ゼッサールが持ったままの一冊のみ。 「いえいえ。これは放置していてはよくないと思って、拾い上げたまでのこと」 「ならば、こちらに渡してもらおうか」 「......そういうわけにはまいりませんな」 執事の表情は変わらなかった。 だが言葉には冷たい空気が混じり、ド・ゼッサールはゾッとした。 本能的に、サッと体を捻る。 瞬間。 彼の脇腹を、風の刃がかすめていた。 「おやおや。危ないではありませんか......」 いつのまにか。 シルヴァンの右手には、杖が握られていた。 若い女のメイジが好んで使うような、小型の杖だ。どうやらシルヴァンは、これをずっと懐に隠し持っていたらしい。 「......下手に避けては、後ろにいるお二人に当たるかもしれませんよ」 「......貴様......」 額に汗を滲ませ、ド・ゼッサールが呻く。 ......位置取りに失敗した。リゼットとマントノンを後ろ手にかばっているつもりだったが、確かに、これでは下手に動けない。 「わかっておられますか? あのように自慢げに謎解きをされては......困るのです」 執事の口調のまま、シルヴァンは言う。 同時に、彼は右手を小さく動かした。 「!?」 再び襲い来る風の刃。 ド・ゼッサールは、『ブレイド』をかけた杖で、なんとか弾いた。 「......こやつ......」 恐るべき敵だ。 彼には、シルヴァンの呪文詠唱は聞こえなかった。よほど小声で、口の動きも悟られぬ程度なのだ。ああやって話をしているのも、呪文詠唱を紛れ隠すためらしい。『エア・カッター』を用いているのも、スペルが短いがゆえの選択......。 ド・ゼッサールが敵を冷静に観察している間にも、シルヴァンは話し続けている。 「何も知らなければ、無駄に命を落とすこともなかったのに......。ですが、色々と知られた以上、ここにいる全員を殺す必要が生じてしまい......」 最後まで言わせずに、ド・ゼッサールは、シルヴァンめがけて走り出した。 気づいたからだ。 この位置関係では、メイドを狙われては打つ手がない、と。本当に『全員を殺す』つもりならば、先に無防備なメイドを狙うに違いない、と。 「わしが相手だ! シルヴァン!」 杖を光らせて迫る風のメイジを、さすがにシルヴァンも無視できない。メイドのミレーネに向けて放つはずだった風の刃を、予定変更してド・ゼッサールへ。 ここまではド・ゼッサールの計算どおり。 そして。 来るとわかっている攻撃なら、回避するまでもない。防御すればいいのだ。 だからド・ゼッサールは、『エア・シールド』で空気の壁を作り出したのだが......。 「......くっ!?」 彼の風の盾は、敵の風の刃に負けてしまった。いくぶん勢いを減じたものの、それでも刃は彼に届き、右の太腿を切り裂く。 その場に崩れ落ちるド・ゼッサール 深い傷ではないし、すぐに『治癒(ヒーリング)』すれば、痕が残ることもないだろうが......。とりあえず今は立ち上がれない。 マントノンの叫びが、その背に届く。 「隊長!」 「来るな! おぬしのかなう相手ではない! ミス・アンペールを守ることに専念せよ!」 余力があればメイドも守れ......と言いたいところだが、マントノンでは『余力』などあるまい、とド・ゼッサールは思う。 「賢明な判断ですな」 見上げれば。 シルヴァンの口元に笑みが浮かんでいた。 左手で抱えた木箱の上には、さっきまでド・ゼッサールが持っていたはずの日記が置かれている。 ......しまった。転んだ拍子に地面に落としてしまったのだ......。 それをシルヴァンは、『レビテーション』で手元に引き寄せたのだろう。 「さて。これで目的のものは手に入りました。少し予定と変わってしまいましたが......」 苦々しい顔で、つぶやくシルヴァン。 彼にしてみれば、ド・ゼッサールが日記を発見したところまでは計算どおり。だが、魔法人形に日記を奪わせるつもりだったのに、結局は彼自身でやることとなった。正体をさらす形になってしまったのは、大きな誤算なのだ。 「......いやはや、なんとも困った話です。さきほども言ったように、秘密を知る者は全て処分せねばなりませんから。......繰り返しになりますが、これは、他の者の前で謎解きをしたあなたさまの過失であり......」 そこまで言って。 シルヴァンは突然、グラリと倒れた。 ######################## 「......小石......?」 つぶやいたのは誰だったか。 崩れ落ちるシルヴァンを追うように、その傍らに、コロンと小石が落ちていた。 後ろから頭に石をぶつけられて、それでシルヴァンは意識を失い、倒れたようだが......。 「......いったい誰が......」 もちろん、正面にいたド・ゼッサールではないし、ド・ゼッサールの背後のマントノンやリゼットでもない。 メイドのミレーネも方向が違う。彼女の立ち位置は、シルヴァンの左前方。後頭部を狙える場所ではない。 誰かが魔法で遠隔操作して......というわけでもない。今この場で杖を構えているのは、ド・ゼッサール一人なのだ。 だが。 この疑問は、すぐに晴れることとなった。 ちょうどシルヴァンの後方にあたる方角から、小さな白い影が、トボトボと歩いてきたからだ。 「あ、あの......ここは......ミス・アンペールのお屋敷で間違えないですよね?」 震える声で言う少女。 年のころは、十五ほどだろうか。白い巫女服に身を包んだその姿は、まるで寺院の助祭のようだが......。 「......何をしらじらしいことを......」 ド・ゼッサールは、思わずつぶやいてしまった。 この少女こそが、あの小石を投擲してド・ゼッサールたちを助けた救い主なのだ。今さら屋敷の確認をする必要など、あるはずがない。 彼の射すくめるような視線で、少女は身をすくめた。怯えたような態度のまま、彼女は倒れたシルヴァンのところへ歩み寄り、小さく耳元で囁く。 「あの......私の手を煩わせるようなことは控えてくださいね。例の二人の監視は終わったとはいえ、今度は、お世話しないといけないですし......それでなくても、私は忙しいのですから」 「あ。......ミ......ケラ......さま......」 シルヴァンが反応する。意識を取り戻したようだ。 だが。 「シルヴァンさん。どうぞ、おとなしく寝ていてくださいね」 やさしく撫でるように、彼の頭に手を置く少女。 ド・ゼッサールには、二人の会話は正確には聞き取れなかったが、一部始終を見ていた彼の目には、むしろ「黙れ」と手で合図したように映っていた。 これだけで、彼は少女の立場を察する。 ......諜報機関の者だ。それなりに高い地位の......。 「ロマリアの裏組織の......お偉いさんですな?」 探るように、ド・ゼッサールは口に出してみた。 状況から考えて、この少女もシルヴァンも、ロマリアの手の者に違いない。 「まさか! そ、そんな!」 震える声が返ってきた。 どうせ演技だ、と彼は見抜く。 「あ、あの......。ロマリア政府の使いで参りました。......あ、正式な大使とかそんなんじゃなくて、あくまでも非公式な使いです」 慌てて補足する様子は、ややドジな少女というキャラクター作りか。愛嬌があって可愛らしいとも言えるが、諜報機関の者であるなら、それも含めて演技であろう。 「ミケラと申します。実はその、この一件の後片付けをするために、主人に遣わされたのです」 裏も表もありませんという顔で、きちんと名乗る少女。 しかし、ド・ゼッサールにはわかっていた。彼女が間諜でありながら名前を告げたのは、部下がうっかり口を滑らせたからだ。それを逆手にとって、自己紹介することで、裏組織の者ではないと強調してみせたのだ。 「ロマリア政府の......? じゃあ、主人というのは......ロマリアの教皇聖下!?」 マントノンのつぶやきが聞こえる。 ド・ゼッサールとは違って、彼が推察できるのは、その程度らしい。 「......なるほど。主人が留守の間に一仕事......というわけですか。宮仕えは大変ですな、お互い」 冗談めかして言うド・ゼッサール。 ロマリアの教皇は現在、ガリアに滞在中のはずである。 「そう理解してくださると助かります。......シルヴァンさんが、あのその、色々とやりすぎてしまったようで......申し訳ありません」 ペコリと一礼する少女。 彼女の『やりすぎた』という言葉が何を意味しているのか、ド・ゼッサールは、正しく受け取っていた。マントノンやリゼットにも知らせる意味で、それを口に出す。 「つまり......シルヴァンによるミス・アンペール襲撃は、彼個人の暴走だった、と言いたいのですか。ロマリアの組織が下した命令などではなく」 今日の襲撃だけではない。上から鉢植えが落ちてきたとか、階段で押されたとか、それらも『風』のメイジであるシルヴァンの仕業だったのだ。 だが、本気で殺すつもりだったとは思えない。シルヴァンは凄腕のメイジ、本気ならば、とっくにリゼットは殺されていたはず。 「一連の事件は、一種の警告だったのでしょうな。もしも兄上から何か聞いていても口外するな、という......」 ああやって突っついて反応を見ることで、リゼットが何をどこまで知っているのか、探りを入れていたのだろう。 また、リゼットを怯えさせて屋敷から追い出す、という意味もあったのかもしれない。たとえ追い出せずとも、屋敷から遠ざけるだけでも、シルヴァンには好都合。リゼット不在の時間が長ければ長いほど、日記捜索は容易になるのだから......。 「......トリステインの者にまで危害を与えるつもりはありませんでした。我らの国ロマリアと、あなたがたのトリステインとは、協力関係にあるのですから」 ただ少女は、そう言うだけだった。ド・ゼッサールの推理について、詳しく触れようとはせずに。 そして。 少女の『トリステインの者にまで』という言葉で、何か察したらしい。ここでリゼットが口をはさんだ。 「では......兄は殺されたのですね。あなたがたロマリアに」 ######################## そう。 ロマリア側の目的は、機密の漏洩を防ぐことである。ならば、リゼットの兄こそが、すべての発端......。 敢えてド・ゼッサールは口に出さなかったが、彼が『殺された』ことは、もはや明白だった。 こうして裏組織の者たちが出向いてきたくらいだ。最初に想像したとおり、リゼットの兄は、キナ臭い仕事に関わっていたのだろう。 そして......何か恐ろしいことを知ってしまった。本来ならば決して口外してはならないような、重大な秘密を。 しかも......恐ろしさに耐えかねて、彼は、それを日記に書き残してしまった。間諜という仕事では、機密の保持は何よりも最優先だったはずなのに。 だから......彼は消されたのだ。病死ということにして。個人ではなくロマリアの組織によるものなのだから、医者も当然グルであり、そうした工作は容易だったはずだ。 「失礼ですが、あのその、日記はロマリアへ持ち帰らせていただきます。申し訳ありません」 少女は、リゼットの告発を、肯定も否定もしなかった。あくまでも重要なのは日記に書かれた秘密であり、それ以外は些細なことであるかのように......。 「ミス・アンペール。兄上は、あなたにだけは真実を知ってもらおうと思って、手のこんだ隠し方をしたのかもしれませんが......こうなっては、もう仕方がないでしょう。ロマリアに献上するべきだと思いますぞ」 ド・ゼッサールの言葉に、リゼットは小さく頷いた。 二人のやりとりを見て、少女が、ほっとしたようにため息をつく。 「そう言ってくださると、助かります。実はその、これを最後まで読まれてしまうと、さすがに困ったことになりますので......」 場合によっては『トリステインの者にまで危害を与えるつもりはない』を撤回するぞ、というニュアンスだ。 危険な発言をしておきながら、彼女は何気ない顔で、問題の日記をパラパラとめくっていた。 「......ああ、みなさまが読んだのは、ここまでなのですね。よかった......。この程度ならば、アンリエッタ女王陛下や側近の方々も、既にご存知の話のはず。問題ありません」 さきほど開いていたページに、クセがついていたらしい。 心の底から安堵したような表情を見せる少女。今度ばかりは演技ではなく本心ではないか、とド・ゼッサールは感じた。今の発言は、些細なものではあるが、失言の一種なのだ。 「......では。大変おさわがせいたしました。不始末をしでかしたシルヴァンさんは、ちゃんとロマリアに連れ帰りますので、なにとぞ御勘弁ください」 これでロマリアは、トリステイン駐在の間諜を一人、失うわけだ。それで今回の一件は水に流せ、というつもりなのだろう......。 と、ド・ゼッサールが少女の言葉を解釈していると。 「......シルヴァンだけ......?」 マントノンが胡散臭そうに、メイドのミレーネを横目で見ていた。 とんだとばっちりである。彼は何か勘違いしているらしい。 「こら、マントノン。おぬし誤解しておるぞ。この屋敷がロマリア間諜の巣窟であった......というわけではないのだ」 「......え? 違うんですか?」 「当たり前だ。ちょっと考えればわかるであろう。ロマリアの手の者は、シルヴァン一人きり。だからこそ暴走したのだ。仲間が一緒なら、ちゃんと仲間が止めていたはずだ」 「さすがは魔法衛士隊の隊長、ド・ゼッサールさま。そのとおりでございます」 少女は恭しく一礼した。言葉と態度だけ見れば、近衛の隊長に対して敬意を示したようにもとれる。むしろ彼は慇懃無礼と感じてしまうが、その気持ちは表には出さず、 「では、これで事件は解決......というわけですな」 「そういうことです。ド・ゼッサールさま」 「......え? なんか終わったような気がしないんですけど......」 せっかく二人が終了宣言をしているのに、空気を読めないマントノンが馬鹿なことを口走っていた。 これはいけない。ロマリアの裏組織の者がいる前で、わざわざ口にする言葉ではない。 「マントノン。魔法衛士隊の隊長として命令する。......この事件のことは全て忘れたまえ」 ド・ゼッサールは、厳しい言葉で注意する。 「いいな? 事件は解決したのだよ」 「......はあ。隊長がそう言うのであれば......」 この若い隊員のためにも、もう少し話しておく必要がありそうだ。 そう思って、ド・ゼッサールは、少女に向かって最後の念押しをする。 「こうしてそちらも正体もさらした以上......そちらから何か仕掛けてくることは、もうないわけですな。揉め事を起こして、痛くもない腹を探られたくはないでしょうから」 いくらトリステインとロマリアが協力関係にあるとはいえ。 やはりロマリアは、油断のならぬ国なのだ。 特に上層部の非情なやり口は、彼も噂で聞いたことがある。真実か否か定かではないが、共同で対ガリア戦をおこなっている最中に、サイト・ヒラガ――水精霊騎士隊の副隊長――をロマリア教皇の側近が謀殺しようとした......などという話もあった。 それに。 さきほどの『この程度ならば既にご存知』という言葉から判断するに、どうやら日記の後半には、それ以上の秘密――トリステインの者に知られては困る秘密――が書かれている可能性が高い。 ド・ゼッサールも今、それを探りたい気持ちはあるのだが......。 彼の独断で、両国の友好関係にヒビを入れるような真似は、とても出来なかった。 「ええ、安心してください。大丈夫です。始祖ブリミルに誓って」 巫女服の少女が、ブリミルの名前まで出して誓約する。 それを受けて。 「よろしい。ならば、こちらも全部忘れて、この件は全てなかったこととしましょう。......始祖ブリミルに誓って」 相手の真似をするかのように、ド・ゼッサールは言ってのけた。 ######################## ロマリアの二人が、立ち去った後。 夕焼けの庭に残された者たちの中で、マントノンとリゼットの顔には、納得できないという色が浮かんでいた。 ......まあ、無理もない。リゼットは、実は兄は殺されたのだ、と知らされたばかり。しかも犯人に連なるロマリアの者たちを、みすみす見逃さざるを得なかったのだ......。 彼女の心情を思いやりつつ。 それでもド・ゼッサールは、小さく首を横に振っていた。 ......仕方がないことなのだ、これは。ロマリア諜報組織内のゴタゴタなのだから。 「......まあ、守秘義務を破ってしまった間諜など、殺されても仕方ないですな......」 非情なセリフを、敢えて口にするド・ゼッサール。 「隊長! なんてこというんですか! あなた鬼ですか!?」 案の定マントノンがくってかかるが、ド・ゼッサールは、これを睨め付けることで黙らせて、ポツリと一言。 「国家に仕える......とは、そういうものだ」 平時が続いたり、王宮にこもっていたりすると忘れてしまうかもしれないが、魔法衛士も軍人の端くれである。軍人は、死ねと命令されたら、死なねばならないのだ。 ド・ゼッサールは、続いてリゼットに顔を向けて、 「あなたも将来、軍人のもとに嫁ぐのであれば、心しておくがよかろう」 「......はい」 貴族は子供の頃から、名誉を重んじろ、と教わる。 任務のために死ぬ。名誉のために死ぬ。 そうやって国家に忠誠を尽くす。 ......言葉にすると綺麗かもしれないが、現実には美しくない側面もあるのだ。『任務』で死んだからといって、『名誉』にならないこともある。特に諜報活動においては......。 もう若くもないド・ゼッサールは、そう思う。 それでも。 「......しかしまあ、安心なされ。トリステインはロマリアとは違う。ここトリステインならば......兄上の一件のようなことは起こるまい。わしが保証しよう」 沈んだ表情のリゼットを見ていると、そんな慰めの言葉も、つい口から出てきてしまった。 ......口先だけの安請け合いではない。トリステインはロマリアとは違う、これはド・ゼッサールの本心である。 アンリエッタ女王を中心とする国家なのだ、今のトリステインは。従来の慣習に縛られぬ若い女王と、彼女を助ける若い世代の......。 「......そうだ......トリステインならば大丈夫だ......」 自分に言い聞かせるように、小さくつぶやくド・ゼッサール。 リゼットに寄り添うマントノンの姿を見て、ふと、別の若者の姿が頭に浮かんできた。 ......従来のハルケギニア貴族とは異なる価値観を持った若者。女王に重用され、女王にも良い影響を与えているであろう若者。女王の間違いを平然と糾弾することもできる若者......。 そういえば、かつて女王陛下に楯ついた彼を陛下の命令で牢屋へ連れていったのは自分だったな、と思い出し......ド・ゼッサールの口元が、わずかに笑みの形に歪んだ。 「では、ミス・アンペール。わしも帰るとしよう。マントノン、おぬしはもう少し残って、彼女の面倒をみてやれ」 リゼットはしっかりした女性のようだが、それでも割り切れない想いが残ったかもしれない。 だが、それを宥めるのは、ド・ゼッサールの仕事ではない。マントノンの役割である。 ......そう考えて。 ド・ゼッサールは、ソッときびすを返した。 ######################## 後日。 火竜山脈で山並みが宙に浮く、という事件が起こり......。 その一報を耳にした時、ド・ゼッサールは思った。これこそが、あの日記にあった『未曾有の危機』の始まりなのではないか、と。 「四つの四......か」 詳しいことは、彼にもわからない。魔法衛士隊の隊長として、いずれは色々と知らされるだろうが、まだ今のところ、『四つの四』に関する話を公式的には聞かされていないのだ。 それでも......。 ド・ゼッサールは、時代の波が大きくうねっているのを、ヒシヒシと感じるのであった。 (「四つの四」完) |