第一話 第二話 第三話 第四話 |
「隊長! どうぞこれを食べてみてください。最近メニューに加わった新料理ですが、おいしいんですよ、とっても!」 ド・ゼッサールの正面に座った青年が、肉の盛られた皿をすすめる。 「そうか。ではいただこう」 料理に手を伸ばしながら、ド・ゼッサールは心の中で苦笑していた。まるで屋敷の主人にもてなされる客のようだ、と思ったからだ。 ここは、チクトンネ街にある『銀の酒樽』亭。個人の邸宅ではない。だが彼の部下アシル・マントノンは『銀の酒樽』亭の常連であり、この店の料理のことはよく知っているのだった。 「おぬしのおすすめとあらば、間違いないであろうからな」 マントノンは、恋人のリゼット・アンペールと一緒に、この店で食事をすることが多い。リゼットは大貴族の家庭教師をしているのだが、現在、雇い主一家の旅行に同行する形で、トリスタニアを離れていた。 ならばマントノン一人で来ればよいものを、寂しがりやの部分があるのだろうか、今夜は隊長のド・ゼッサールを誘って、二人で来店している。 ド・ゼッサールにとっても、家に帰るより街中で食事した方が宮殿に戻りやすくてよい、という考えがあった。今や世界情勢は『聖戦』に向けて動き出しており、突然王宮に呼び出される可能性も高いのだ......。 そうした内心はおくびにも出さず、彼は普通に、料理に舌鼓を打つ。 「ふむ。たしかに美味だな」 火の通し方にコツがあるのだろう。ワインで煮込んだ肉は、口に入れるだけで、とろけるようだった。 「でしょう? では隊長、このあぶり鳥を試してみて下さい。これもたいしたもんですよ」 すすめられるままに別の皿を受け取りながら、ド・ゼッサールは、ふと店内を見回した。 ......前に来た時と同じく、店は賑わっている。店に来る途中、街中でも感じたことだが、市井で暮らす人々の間には、まだ不安は広がっていないらしい......。 ド・ゼッサールは、つい、そんなことを考えてしまう。 なにしろ、火竜山脈で『山並みが宙に浮く』といった事件は、すでにハルケギニア中を巡っているはずだった。『風石』の暴走である、という真相までは既に公表されているが、これがハルケギニア全体にわたって起こり得る事件なのだということは、慎重に伏せられている。だから、そのためにトリステインが『聖戦』を支持するということも、まだ一般大衆は知らないはず......。 「......おや? これは......」 あぶり鳥を口にして。 ド・ゼッサールの意識が、目の前の料理へと戻った。 「あ、中の詰め物ですね? 私も最初は驚いたんですよ! でもジュワーッと口いっぱいに広がる感じが、これまたなんとも言えなくて......」 「......いや、驚いたとかそういうのではなく......」 ド・ゼッサールは、どこか懐かしい感じがしたのだった。 そういえば、さきほどの一品も......。 「......とろけるほどに柔らかい、肉のワイン煮込み......。それに、中に野菜やらキノコやらが詰まった、あぶり鳥......。もしかして、これらはガリアの郷土料理ではないか?」 「隊長、よく知ってますね。そう、店のおかみさんが言ってましたよ。たしか......エメルダ地方の名物だとか......」 そうだ。エメルダ領だ。あの宿場町で食べたものと同じ味だ。 「なるほど。ここまで再現するとは、さすがだな」 「もしかして......隊長は、これを本場で食べたことがあるんですか?」 「ああ。ちょっとした事件に関わったので、印象に残っておる」 「事件......? トリステインの魔法衛士隊がガリアまで出向いて......?」 「いや、違う。そもそも、かなり昔......およそ十年くらい前なのだ。あれは......」 懐かしい味に誘われて。 ド・ゼッサールは、一つの昔話を語り始めた。 ######################## ######################## 旅の途中で彼がその街に立ち寄ったのは、特に深い理由があったからではない。そろそろ腹が減ってきた頃合いであり、携帯食よりもその地方特有の料理で腹を満たしたほうがよかろう......と思っただけだった。 街をぐるりと囲む煉瓦造りの城壁に、ぽっかりと開いたアーチ。そこをくぐって、こじんまりとした宿場町に入っていく。 主要な街道からは外れているせいか、それほど行き交う馬車や旅人は多くなかった。 「ふむ。ここにするか」 一軒の酒場から良い匂いが漂ってきたので、彼は迷わず、その店を選んだ。 入ってみると、食事時だというのに、それほど混雑していなかった。木でできた粗末なテーブルが三つあるだけで、その一つを行商人らしき数人のグループが占拠している。奥にはカウンターがあって、太った店主が料理に精を出していた。 入ってきたド・ゼッサールを見て、店の主人が笑顔を見せる。 「これはこれは貴族のお客さま! ささ、空いてる席におかけください。まだまだ貴族さまをお迎えするような上品な店じゃあねえが、この辺りでは割と評判でね。いずれは立派な店になる、と言われてるんでさあ」 「そうか。では適当に見繕って、持ってきてもらおうか」 店主は次々と料理を運んできた。なるほど、店主が言うだけあって、どれも絶妙な味付けになっている。特に、ワインで煮込んだ肉や、詰め物の入ったあぶり鳥などは、トリステインでは食べたことがない逸品だった。 「ほう、これはうまい! 主人、いったいどう料理したら、こんなに美味になるのだ?」 「へっへっへ......。そいつは商売上の秘密でして。勘弁してくださいな」 ド・ゼッサールの問いかけは、褒め言葉に続く掛詞のようなもので、別に具体的な返事を期待していたわけではない。だから店主の言葉に軽く頷き、ド・ゼッサールは料理を食べ続けた。大食漢でもないのに、料理が美味しいがゆえ、どんどんおなかに入ってしまう。 そうやって食事を楽しんでいると......。 「ん?」 痩せた老婆が扉をくぐるのが、彼の視界に入った。 薄汚れた麻の服を纏っており、哀しげな顔をしている。これから旨いものを食おうという雰囲気には、とても見えなかった。 彼女はキョロキョロと店内を見回してから、まっすぐド・ゼッサールのテーブルに向かって来る。 「......なんだ?」 「あの......。あなたさまがラルカス様でしょうか?」 どうやら人を探しているらしい。ド・ゼッサールは、ゆっくりと首を横に振った。 「わしは違う。それに、ラルカスという名前の貴族に心当たりもない」 「......そうですか。お騒がせしました」 がっくりと肩を落としながら、老婆はきびすを返す。それを見て、人のいいド・ゼッサールは頭をかいた。 「まあ、待ちたまえ。事情を話してみないか? ラルカス殿ではないが、わしでも力になれるかもしれん」 「......あまり相手にしないほうがいいですよ、お客さま......」 奥から店主が声をかけたが、ド・ゼッサールは、聞こえないふりをした。 旨いものをたらふく食べて心まで豊かになっていたからなのか、あるいは、生来の人の良さからなのか。相手が平民の老婆とはいえ、困っている女性に手を貸すのは、一種の騎士道精神だと思ってしまったのだ。 ######################## 「ミノタウロス?」 「そうです。騎士さまもご存知でしょう、恐ろしい牛頭の魔物です」 ド・ゼッサールのテーブルで、老婆は語り始めた。 彼女はマルゴといって、ここから少し離れたカズハ村の住人である。緑に囲まれた山村だが、近くの森の廃墟に、最近、ミノタウロスが住み着いた。 そのミノタウロスは若い娘を好んで食するらしく、すでに一人が犠牲になっている。さらにもう一人、新たな生贄を名指しで要求しており、従わなければ村人を皆殺しにすると脅している......。 「ここから三時間ほど歩いたところにあるエズレ村でも、つい最近、似たような事件が起こったと聞いております。エズレの村人たちは、この街でラルカス様と名乗る騎士さまを見つけ、退治をお頼みしたとか」 「......ミノタウロス退治か......」 口ひげをひねりながら、ド・ゼッサールは唸った。 ミノタウロスは、首をはねてもしばらくは動けるくらいの生命力と、巨大ゴーレム並みの怪力を誇る、驚異的な怪物だ。皮膚も硬くて刃や矢弾など受けつけず、メイジといえども簡単に倒せる敵ではなかった。 しかし。 「......ラルカス殿は、見事そのミノタウロスを討ち果たしたのだな?」 「そうです。かなり苦戦され、大怪我を負われたそうですが......。それでも、村で少し休んだだけで、すぐに旅立てる程度だった、と聞いております」 ラルカスは、この辺りに住む者ではなく、旅の途中に通りかかった騎士。だが元々この街でスカウトされたのだから、またこの街に立ち寄るのではないか......と期待して、マルゴは探しに来たらしい。 「ラルカス殿は、どうやってミノタウロスを倒したのかな」 何気なくつぶやくド・ゼッサールだが、その表情には、強い興味の色が浮かんでいた。 ......強敵ミノタウロスを退治した以上、そのラルカスという騎士は、相当な腕前のメイジだ。 だがド・ゼッサールも、自信だけはある。彼は、トリステインの騎士なのだ。しかも、一介の騎士で終わるつもりはない。これは腕試しには絶好の機会だと彼は思った。 「さあ? そこまで詳しい話は、存じておりませぬが......」 「いや、かまわん。ただの独り言だ」 「はあ」 「なに、もしも知っているのであれば、参考にしようと思ったまでのこと。さすがに無策でミノタウロスのところに乗り込むほど、わしも無謀ではないのでな」 持って回った言い方ではあったが、これは、ミノタウロスと戦うことを決めた男の言葉だった。 「では......! ミノタウロス退治の件、引き受けてくださるのですね!?」 パッと顔を明るくしながら、老婆マルゴは革袋を取り出して、テーブルの上に置いた。 ジャラッと音がするので、中には銅貨が入っているのであろう。彼女が袋の口の紐を緩めるより先に、ド・ゼッサールは手で制した。 「やめたまえ」 「あの......?」 戸惑う老婆に、ド・ゼッサールは言葉を足す。 「報酬などいらぬ。わしは金のためにミノタウロスと戦うわけではない。困っている者を助ける、ただそれだけのために戦うのだ」 どうせ田舎の村人たちがかき集めた金など、はした金に決まっている。ならばいっそ無報酬のほうが潔いではないか。それがド・ゼッサールなりの、名誉を重んじる貴族の考え方だった。けちな金のために命をかけるなどと思われては、名誉に傷がつくのだ。 それに、貴族にとっては『はした金』であっても、貧しい村人にとっては、苦労して捻出した金のはず。その金をより必要としているのがどちらなのか、考えるまでもなかった。 「おお! ありがとうございます!」 涙を流さんばかりに、マルゴは喜んでいた。言われるがまま、彼女は銅貨の袋を懐にしまう。 もしもこれが貴族同士のやりとりならば「そうはいきません受けとってください」「いやいや必要ない」と押し問答になるところだろうが......。 やはり、この老婆は平民なのだ。貴族とは違う。 ド・ゼッサールは、そう思った。 ######################## 老婆マルゴに連れられて二時間ほど歩き、小高い丘を越えたところで、問題のカズハ村が見えてきた。 鬱蒼と茂る森に挟まれた、小さな集落である。畑もわずかばかりで、たいした収穫もなさそうだ。だが、村の規模とは別に、ド・ゼッサールの注意を引くものがあった。 「あれは......何かな?」 村の東側の森を指さしながら、傍らの老婆に尋ねるド・ゼッサール。 木々の緑の間に、赤茶けた塔が建っているのを見つけたのだ。 物見台のような高い塔を中心に、小さな円塔が複合した構造らしい。丸い屋根や三角の屋根、とんがり屋根が重なり合って、どう見えても田舎の村には似つかわしくない建物となっていた。 「......あれこそが、このたびミノタウロスが住み着いた廃墟......。村の者は『獣人魔塔』と呼んでおります」 苦渋の表情で答えた老婆は、さらに説明を補足する。昔から、野生の獣や亜人などが時々すみかにすることがあり、いつしか村人は恐れを込めて『獣人魔塔』と呼ぶようになったのだ、と。 だがド・ゼッサールにとっては、塔のネーミングの由来など重要ではなかった。それよりも。 「......洞窟ではなかったのか......」 「洞窟......ですか?」 老婆が不思議そうに聞き返したので、ド・ゼッサールは苦笑しながら応える。 「うむ。森の廃墟をミノタウロスが根城としている、と聞いて......わしが勝手に勘違いしておったのだ」 基本的に、ミノタウロスは洞窟の中で暮らし、ほとんどそこから出てこない生き物である。 ミノタウロスが人間に大きな害を与え得る怪物でありながらも、これまで完全に駆逐されることなく、同じハルケギニアの生物として共存が可能だったのは、互いの生活圏が異なるからだった。そうでなければ、いくら驚異的なミノタウロスとはいえ、大規模な軍隊を派遣されて討伐されていたことだろう。 だから今回の一件を聞いた時、ド・ゼッサールは、これを「たまたま人里近くの洞窟に住み着いてしまった、はぐれミノタウロスによるもの」と思ったのだ。 ......まさか『廃墟』というのが『洞窟』ではなく『塔』だったとは......。 たしかに、普通の村人にしてみれば、それは些細な違いなのかもしれない。だが、いざミノタウロスと戦おうとするド・ゼッサールにしてみれば、重要なポイントだった。 なにしろ、洞窟では空気がよどみ、風魔法の威力が落ちる。『風』を得意系統とするド・ゼッサールには、不利な戦場なのだ。しかし高くそびえ立つ塔ならば、窓や銃眼もあり、風通しは良いはず。 とはいえ、ミノタウロスが強敵であることに変わりはない。『洞窟』ではなく『塔』に住むミノタウロスを想像して......。 「......ちょっと変わったミノタウロスなのかもしれないな......」 小さくつぶやくド・ゼッサールであった。 ######################## 「こりゃあ、たまげた! マルゴ婆さん、ほんとに騎士さまを連れてきちまったよ!」 「いやはや、見るからに強そうな騎士さまじゃないかい!」 「これなら、もうミノタウロスも怖くねぇや!」 村に入ったド・ゼッサールを、住人たちの歓声が出迎える。 ごつい体にいかめしい髭面のド・ゼッサールは、さぞや立派な騎士に見えたのだろう。貴族のお偉いさんに粗相があってはならぬ、と考えているらしく、村人たちは遠巻きに眺めるだけで、ド・ゼッサールに近づこうとはしなかった。 「さ、さ。とりあえずは、うちに来てくだされ」 老婆マルゴに促され、彼女の家へと向かうド・ゼッサール。 村を代表して街まで騎士を探しに出たくらいだから、マルゴは村の有力者なのかと思いきや、彼女の家は、村はずれにある、みすぼらしい一軒家だった。 マルゴが扉を開けると、バタバタと足音を立てて、奥から一人の少女が顔を出す。 「おばあちゃん! 騎士さまを連れてきてくれたの!?」 「そうだよ、だから安心していいんだよ。絶対、おまえを貢ぎ物になんてさせないからね」 少女を抱きしめながら、優しく声をかける老婆。その一言で、ド・ゼッサールはピンと来た。 この少女――おそらく老婆マルゴの孫娘――こそが、ミノタウロスの要求している『新たな生贄』なのだ。 ならば、マルゴの行動にも合点がいく。ミノタウロス退治の騎士を彼女が探していたのは、村のためというよりも、可愛い孫娘のためだったのだろう。 心の中で大きく頷きながら、ド・ゼッサールは、あらためて少女に目を向けた。 田舎娘にしては色白で、年の頃なら十六、七。スレンダーな体つきだが、アンバランスにならない程度に、出るところは出ている。赤い髪は短めで、肩までもなく、少しフワッとしたストレート。やや面長な顔立ちに、スーッと通った鼻筋。目は細いのに、その小さな瞳には、強い意志の光が宿っていた。 「おばあちゃん、そんなに強く抱きしめないで......。ちょっと苦しいわ」 「ああ、すまないね。私にはもう、おまえしか残されてないもんだから......」 少女に言われて、マルゴが腕を緩める。 おそらく、祖母一人孫一人の二人暮らしなのだろう。 このようなちょっとした言葉のやりとりからも、色々わかるものだ。 「それに......。ほら、騎士さまが見ているわ。大事な騎士さまを放っておいてはいけないでしょ、おばあちゃん」 ド・ゼッサールの視線に気づいたのだろうか。 少女は彼の方を向き、ニッコリと微笑んだ。 その表情に、悲壮感はない。天真爛漫とか、明朗闊達とか、そんな表現が似合いそうな笑顔だった。 ミノタウロスに狙われているというのに......。とてもそうは見えない少女である。 不安を顔に出さないように努力しているのか、あるいは、老婆が救世主を連れてくると信じていたからなのか。 ともかく、これならば色々と詳しい事情を聞くこともできるだろう。わざわざミノタウロスが彼女を指定してきた以上、この少女は、ミノタウロス退治のキーとなる情報を握っているかもしれない......。 ド・ゼッサールがそんなことを考えているとも知らずに、少女は老婆と並んで、彼に頭を下げた。 「お願いします。どうか私を......助けてくださいませ」 「私からも、あらためてお願いします。......このミミまでがギギのようになったら......もう私は......」 老婆の言葉から、少女の名前がミミだと判明。 だが、それよりも。 「どういう意味かな? ギギのように......とは?」 ふと気になって聞き返したド・ゼッサールに、マルゴは目を伏せたまま答える。 「はい。このミミには、ギギという姉がいたのです。でも......ギギは......」 言葉になったのは、そこまでだった。それ以上は嗚咽になってしまった。 「おばあちゃん、しっかり......」 崩れ落ちそうになる老婆に、ミミが手を貸す。今度は、孫娘が祖母を優しく抱きかかえる番だった。 「大丈夫だから。こちらの騎士さまが、きっと助けてくださるから」 「......うぅ......。私を一人にしないでおくれ......。ミミ......」 ああ、なんということだ。 ド・ゼッサールは、ようやく理解していた。 ......すでに犠牲になった一人と、次の生贄として指名された一人と。二人は無関係ではなかったのだ......。 つまり。 老婆マルゴは、ミノタウロスから狙われている少女の祖母であると同時に。 ミノタウロスに食べられてしまった少女の祖母でもあったのだ......。 (第二話へつづく) |
「お待たせしました。こんなものしかありませんが......」 案内された部屋で待つことしばし。 赤毛の少女ミミが、お茶とビスケットを運んできた。 「いや結構。腹は十分くちておるのでな。......飲み物だけもらおうか」 言われるがまま、少女はド・ゼッサールの前にカップを置き、ティーポットからお茶を注いだ。 湯気と共に、良い香りが立ちのぼる。地方の村人が買える茶葉など、たかが知れているはずだが、それでも一応、それなりのものを用意したようだ。精一杯のもてなしなのだろう。 カップに口をつけてみると、香りだけでなく、味も悪くない。やや渋みがキツイ気もするが、これは個人の感性の問題で、この程度ならば許容範囲だとド・ゼッサールは思う。 「ふむ。良いお茶だな」 彼が満足そうにつぶやくと、正面に座った少女の表情が、パッと明るくなった。 「でしょう?」 いったい何がそんなに嬉しいのか。身を乗り出すようにして告げたミミは、しかしすぐに、はしたない態度だと反省したらしい。椅子に深く座り直し、落ち着いた口調で言葉を続ける。 「ありがとうございます。いれ方にコツがあるのですよ」 なるほど、自分の給仕の仕方を褒められたと思って、あんなに喜んだのか。......などとド・ゼッサールが考えていると、 「......あ、もちろん葉っぱ自体も高級品ですわ。私、お茶にはちょっとうるさいもので。街に行く度に、じっくり選んで買ってくるのです」 ミミが静かな話し方だったのは、ほんの一時だけだった。いつのまにか、声のトーンは元に戻っていた。 「ささやかな贅沢......ってやつなのでしょうね。自分でも、分不相応なのは承知しているのですが」 まるで友だちに趣味の話でもするかのように。 若い女性らしくキャッキャッとしたミミの様子を見て、ド・ゼッサールは、第一印象で感じた疑問を思い出した。 状況が状況だというのに、この態度。これが本当に、ミノタウロスから次の生贄として指名された娘なのだろうか。いや、あるいは、だからこそ現実逃避の意味で明るく振る舞っているのかもしれない......。 そんなことを考えながら、ふと室内を見回す。 窓から午後の陽射しが差し込む、灯り要らずの明るい部屋。簡素な木製のテーブルに、椅子が四脚。部屋の隅には、特に装飾も施されていない食器棚がある。 ここまでは、いかにも庶民の暮らしというイメージそのまま。だが、やや場違いなのが、壁にかかった一枚の絵画だった。それほど美術品に詳しいわけではないが――貴族の嗜みとして多少知識があるという程度だが――、彼の知るかぎり、これは有名な画家の作品のはず。確か、ヴァロン調の工芸品に強い感銘を受けて、その結果として描かれたものだったか......。 「......あ!」 ド・ゼッサールの視線が絵に向いたことに、ミミが気づいたらしい。 「いい絵ですよね、それ。もちろん本物なんて買えないので、複製品なんですけど。......なんていうか、ガリアの古代カーペー朝を思わせる古き良き格式が、新進気鋭の画家の若い躍動感で描かれていて、なんとも微妙に融合して......」 「ずいぶんと詳しいのだな。わしは、その方面への興味はあまりないのだが。......あなたは絵を描く人なのか?」 放っておけば延々ミミの美術論が続きそうだったので、途中で遮るド・ゼッサール。 ミミは軽く首を横に振って、 「いいえ、私にはとても無理です。見て楽しむだけ。でも......自分では描けないからこそ、憧れるんですよねえ」 「ふむ。まあ、そんな話よりも......」 ド・ゼッサールが露骨に話題を変えようとすると、ミミも理解したのか、うっとりとした表情を消し、真面目な顔で告げる。 「ああ、祖母のことですね! 祖母なら大丈夫です。二階で休ませておきましたから。しばらく横になっていれば、落ち着くでしょう」 ミミの祖母マルゴは、ギギの名前を出したところで泣き崩れてしまい、もう話も続けられない状態となっていた。 だからミミは老婆を寝室へと連れていき、寝かしつけた。そしてド・ゼッサールは、今度はミミから事情を聞こうと思って、こうして一人、案内された別室で待っていたのだ。 実は彼が『そんな話よりも』と水を向けたのも、別に老婆の身を心配したわけではなく、早く本題に入れという催促のつもりだった。だが、どうやらミミには真意が伝わらなかったらしい。これでは一向に話が進まないので、今度は単刀直入に言う。 「......さて。そろそろ、ミノタウロスの一件について、聞かせてもらえるかな?」 「はい......」 あからさまに表情をくもらせるミミ。 やはり今までは無理して明るく振る舞っていたのか......とド・ゼッサールは思った。 「祖母は......どの程度お話ししたのですか?」 「たいした話は聞いておらん。森の中の......『獣人魔塔』といったかな? そこにミノタウロスが住み着いたこと。一人が殺され、別の一人が狙われていること。......そのくらいだな」 もちろん、その『一人』がミミの姉であり、『別の一人』が目の前のミミであることは、もう承知している。敢えて言う必要はなかった。 「はあ。具体的なことは、まだまだ全然なのですね......」 小さくため息をつくミミ。当事者としては、語りづらい部分も多いのかもしれない。 だがド・ゼッサールにしてみれば、当事者から聞き出すからこそ、正確な情報も手に入るというものだ。 「うむ。家に着いて落ち着いてから、という予定だったのでな」 「......わかりました。では私が、最初から詳しくお話ししましょう」 そして。 ようやく、ミミが語り始めた物語は......。 ######################## ######################## あれは......今から一週間ほど前の、月が明るい夜の出来事でした。 基本的に私は眠りが深いたちで、いったん寝つくと朝までグッスリなのですが、その晩は途中で目が覚めてしまったのです。 「ほう。それは......何か物音でもしたから、とか?」 いいえ、少なくとも私の気づいた限りでは、何もありませんでした。 ともかく。 目が覚めて最初に思ったことは、なんで部屋がこんなに薄暗いのだろう、ということでした。 「なるほど。いつもならば窓から朝日が差し込んでいるはず......ということか」 はい、ド・ゼッサールさまのおっしゃるとおりです。 それで不思議に思いながらも、暗い室内をボーッと見回して......。 隣のベッドが空いていることに気づいたのです。 「隣のベッド......?」 ああ、申し遅れましたが、私の部屋は姉と一緒でして。二階に上がって左に行けば祖母の部屋、右に行けば私たち姉妹の部屋、という構造になっています。 「では、お姉さんがいなくなったのを察して、目が覚めたのだな」 そうみたいです。 最初はトイレにでも行ったのかと思いましたが、なんとなく胸騒ぎがして、窓から外を見ると......。 月明かりの下、姉が歩いているのが見えたのです。寝間着の上から一枚羽織っただけの、簡単な格好で。 「軽装......ということは、遠くまで出かけるつもりではなかった......」 はい、私もそう思いました。それならば、二階から声をかけるより、姉が何をするのか直接この目で見届けようと考えて、私も上着を引っ掛けて、ソッと外に出ました。 先ほど述べたように、私たちの部屋と祖母の部屋とは離れています。だから祖母は、姉や私の外出には気づかず、普通に眠っているはずでした。私としては、祖母に心配をかけたくなかったのです。 「もしかすると......。あなたは、お姉さんが出かけた目的に、心当たりがあったのではないかな? あまり良い話ではないと想像できたからこそ、知られたくなかったのでは......」 さすがですね。 まったく、そのとおりです。 この時、私は姉の行動を、夜の逢い引きかもしれないと思い始めていました。 「ほう。こっそり密会するような相手がいたわけか......」 そうです。 もともと姉と彼とが知り合ったその場には、私もいたのですよ。姉妹で街まで買い物に出かけた際、袋からこぼれたオレンジを彼に拾ってもらった......というのが、そもそもの出会いだったのですから。 ただ彼は、いわゆる『悪い男』でして、とてもじゃないですが、昼間おひさまの下で堂々と交際できるような相手ではありませんでした。名前だって......自分ではリュティスと名乗っていましたが、どう見ても偽名ですよね。恐れ多くも、このガリア王国の首都と同じだなんて......。 ああ、でも『悪い男』といっても、別に犯罪者というわけではなく......。なんというか、いかにも『女の敵』という感じの男なのです。 貴族くずれの三十男で、外見は悪くはないのですが、何と言いますか、退廃的な雰囲気を漂わせていて......。まあ、それはそれで、女性を惹き付ける魅力になっていたようですね。 「なるほど。お姉さんは、女たらしに引っかかってしまったわけか」 ......はい。 姉は私と一つしか違わず、顔も体型も私とよく似ていましたが、性格は大違いでした。おとなしくて、あまり自己主張することもなく......。 でも結局は、世間知らずだったのですね。そうでなければ、あんな男に騙されることもなかったでしょう。 ええ、姉は『騙されていた』のです。どう間違っても、彼が本気で姉を愛していたとは思えません! ......申し訳ありません、少し取り乱してしまいました。あまり......彼のことは口にしたくないもので。 「結構。その男のことよりも、問題の夜の話を......」 どこまで話しましたっけ? そうそう、姉を追って、私が家を出たところでしたね。 さて。 私が音を立てないようにして階下まで降りている間に、姉の姿は見えなくなっていました。 ぐるりと家のまわりを一周してみましたが、どこにも見当たりません。 事ここに至り、ようやく私も気がつきました。密会するにせよ何にせよ、姉は家の近くではなく、どこか遠く......おそらく人目につかないよう、村の外へ向かったのではないか、と。 ならば、姉の行く先はどこなのか。真っ先に頭に浮かんだのは、東の森でした。 「ほう。それは......なぜ?」 東の森には『獣人魔塔』があります。ミノタウロスがいるだなんて、当時は誰も知りませんでしたが、それでも昔から獣や亜人などがいるかもしれないと思われていて、危険なところだというのが村人の共通認識でした。 つまり、人が近づきにくい場所なのです。ある意味、密会には最適といえるでしょう。 それと、もう一つ。 いつだったか忘れましたが......。以前に一度、夕焼けがきれいな時間帯に、東の森に通じる小道から、姉が出てくるのを目撃したことがありました。『山菜を探しに行っていた』と言われて素直に信じてしまったのですが、あとから思い返してみれば、あれも逢い引きだったのかもしれません。 つまり、二人は『獣人魔塔』の辺りを密会場所として頻繁に使っていた......という可能性があるのです。 「......ふむ」 もちろん、家から出たところで一人、夜風にさらされながら、そこまでちゃんと理屈づけて考えられたわけではありません。 ただ、今になって言葉にするならば、無意識のうちにそういう理由付けをしていたのだろうな、と思えるのです。 あの晩の私の感覚としては「なんとなく」としか言いようがなかったのですが、ともかく自分のカンを信じることにして、静かに一つ深呼吸してから......。 東の森へ向かって、私は歩き出しました。 ######################## 静かな夜でした。 フクロウか何かの鳴き声が遠くから聞こえましたが、ただそれだけでした。 自分の足音......というより、木々や茂みの間を歩くことで生じる葉ずれの音ですね。それが妙に目立って聞こえて、先を行くはずの姉の耳にも入るのではないかと、ちょっと心配になりました。 「しかし......。それが聞かれるくらいに近づいたのなら、あなたの方でも、お姉さんの立てる物音が聞こえようて」 それは......そうなのですけど。 でも、そうやって理屈づけて冷静に考えられるほど、落ち着いてなかったものですから。 「......ふむ。そんなものか......」 貴族の男性のかたには、わからない感覚かもしれませんが......。なにぶん私は、か弱い平民で、うら若き女性ですから。夜の森というだけで、ちょっと入って行くのをためらうような、漠然とした怖さがあったのです。 とはいえ、いったん行動し始めた以上、泣きごとなんて言ってられません。どんどん森の奥へと進んでいきました。 さいわい、その日の夜空は、雲ひとつない澄んだ状態。木々の緑葉が重なり合う隙間から、双月と星明かりが、私のゆく道をハッキリと照らしてくれていました。 「はて。茂みをかき分けて、森の中へと分け入ったのだろう? ちゃんとした『道』などなかろうに......。いや、比喩的な意味での『ゆく道』だとしても、なぜ方向がわかった?」 姉の行き先は『獣人魔塔』ではないか、と見当をつけていましたから。 それに、ド・ゼッサールさまは誤解しておられるようですが、一応『獣人魔塔』までは、人の通れる林道があるのです。 確かに『獣人魔塔』は、現代では獣に荒される廃墟となり、その周辺は危険な区域となっています。でも言い伝えによると、昔々は偏屈なメイジが引きこもって暮らしており、何やら怪しげな魔道具の研究をしていたそうです。 「なるほど。造られた当時から、いわくのある塔だったのだな」 まあ、真偽のほどは定かではありませんが。 ともかく、そんなわけで。 かなり獣道と化していますが、それなりの小道がありますので、歩くこと自体には、さほど苦労しませんでした。一本道ではないのですが、木々の隙間から時々、星明かりなどを遮る形で大きな建物の存在が見えましたから、特に迷うこともありませんでした。 そして。 ただの黒い影だったものが、明確な塔として見えてきた頃......。 道幅が広くなって、少し開けた感じの場所で。 姉がボーッと立っているのを見つけたのです。 ######################## まだ逢い引きの相手は来ておらず、姉は一人でした。 おそらく、これから現れる男のことを想って、心が昂っていたのでしょう。体も火照っていたのでしょう。 羽織っていた上着は足もとに脱ぎ捨てて、寝間着も半分、はだけたような状態でした。 もともと器量もスタイルも良い姉ですから、月明かりの下でそんな格好をしていると、ちょっと幻想的な美しさも漂わせていました。 まるで一枚の絵画のよう......。この光景を壊すのは無粋かもしれない......。そう感じながらも、私は声をかけました。 「......ギギ姉さん!」 恍惚と夜空を見上げていた姉は、びっくりしたように振り返りました。ようやく私の存在に気づいたのです。 「ミミ!? あなた、いったい......どうしてここに......!?」 それ以上は何も言わせず、私は畳み掛けました。 「姉さんこそ! どうせ、あの男と会うのでしょう?」 「な、何を言ってるの!? あ、あの男って......」 「しらばっくれないで! もしかして......彼は今、あそこの塔をねぐらにしているの......?」 すぐ近くにそびえる『獣人魔塔』を指さしながら私が言うと、 「そんなわけないでしょ! 誇り高き貴族のあの人が、なんでこんな薄汚い廃墟に住まなきゃいけないのよ!」 姉はムキになって否定しましたが、今度は動揺していないので、おそらく本当なのでしょう。 しかし逆に言えば、先ほど言葉が震えた時は、大嘘だったということ。私の質問が図星だったということです。やっぱり、姉は男と会うために、ここに来ていたのです。 「......ギギ姉さん......。お願いだから、目を覚まして。姉さんは悪い男に騙されてるのよ。あんな貴族くずれに誑かされて......」 「馬鹿なこと言わないで! 子供のあなたに、何がわかるというの!?」 子供ですって! 姉さんは私と一つしか違わないのに。 内向的な姉さんより、積極的で行動的な私の方が、むしろ知識も経験も豊富で、ある意味、大人だといえるのに。 ......私が目を丸くしていると、姉は私に飛び掛かってきました。惚れた男のことを悪く言われて逆上したのでしょうか、あるいは、実力行使で私を追い返そうというのでしょうか。 「ね、姉さん!?」 不意を突かれて、私は腕を引っかかれてしまいました。 ......ほら見てください、ここの傷ですよ。まだ少し痕が残っているでしょう......。 いやはや、いくら姉が恋に狂った乙女とはいえ、まさか実の妹である私に手を上げるとは思いませんでした。 「やめて、ギギ姉さん! 暴力は良くないわ! 冷静に話し合いましょう!」 「そんなこと言って! 私から彼を奪うつもりなのでしょう!? あなたも彼が好きなのでしょう!?」 純粋に諌めようとしていただけなのに、いつのまにか、恋敵に認定されてしまいました。 まるで笑い話ですね。でも、笑っていられる状況ではありません。 「ちょ......ちょっと待って! どうしてそういう話になるの!? 私は全然そんな気持ちはなくて......」 私の言葉にも耳を傾けようとはせず、姉は、子供の喧嘩のように腕を振り回していましたが......。 その時です。 ......ガサ......ガサガサ......。 争っていた私たちにも聞こえるくらい、大きな物音でした。 私から見て右手――ちょうど『獣人魔塔』がある方角――の、茂みからです。 「......!」 突然に表情を明るくして、姉はそちらに駆け寄りました。もう私のことなどどうでもいいと言わんばかりに。 待ち人きたる......。そう思ったのでしょうね。 でも。 「......え?」 その一瞬。 姉はポカンとして、立ちすくんでいました。 茂みから現れたものが、あまりにも予想外だったもので。 「......牛さん......?」 これは私のつぶやきです。だって最初に見えたのは、頭だけでしたから。 しかし、すぐに全身も見えてきて......。 「ぎぃやあああああああああああ!」 私は叫んでしまいました。 大斧を握りしめた、牛頭の怪物......ミノタウロス。実物を見るのは初めてでしたが、そのようなモンスターがハルケギニアに存在することは、私も知識として知っていたのです。 そして。 怪物は、その斧を振るって......。 「逃げなさい、ミミ!」 ザクッと斬られて血を流しながらも、姉は、毅然とした表情で言いました。 その瞳は......。 恋に恋する少女のものではなく。 私に襲いかかった女のものではなく。 いつも私に向けられていた、あの優しい姉さんの目でした。 「何をしてるの! 逃げなさい、ミミ!」 姉は、同じ言葉を繰り返しました。 もう立っていられない姉でしたが、まだ健在な二本の腕で、しっかりと怪物の脚に組み付いていました。 ......怪物を文字どおり、その場に足止めするために。 「は、はい!」 それしか言えずに、私は逃げ出しました。 ただ......。 私が駆け出した瞬間、姉は満足そうに笑っていたような気がします。それが、私が姉を見た最後になりました。 「妹は......妹だけは、絶対に......」 「うるぅろぉおおおおお!」 姉の叫びをかき消すかのように、怪物の咆哮が聞こえました。 その唸り声はいつまでも続きましたが、私は後ろを振り返らず、一心不乱に走りました。 いや、咆哮だけはありません。 もう一つ別の音......。 バリバリと骨を噛み砕くような音も聞こえてきました。 そうした恐ろしい音を背に受けて、それらに追い立てられるようにして......。 私は泣きながら、ただただ走り続けました。 (第三話へつづく) |
「......そして家に戻った私は、着替える余裕もなく、そのままベッドに入り......。布団をかぶって、朝までブルブル震えていたのです......」 ミノタウロスからの逃走......。 そこまで一気に語ったところで、ミミは一息ついた。 ティーポットから自分のカップに一杯注ぎ、喉を湿らす。 これで惨劇の夜の物語は終わり、ということなのだろう。ミミは目を伏せ、黙り込んでしまった。 ド・ゼッサールは考える。話の後半では必要ないようなので控えていたが、前半では、話を先に促すために、質問やら相づちやら、意識して多めに挟むようにしていたのだ。ここは再び、そうするべきタイミングが来たらしい。 「つらい話をさせてすまんが......もう少し聞かせて欲しい。まっすぐ家まで帰るのではなく、村の誰かに助けを求めよう......とは考えなかったのかな?」 彼の問いかけに、ミミは少しだけ顔を上げ、わずかに眉をひそめながら、 「そこまで頭が回りませんでした......。というより、心のどこかで理解していたのでしょうね。もう姉は助からない......死んでいるのだ、と」 さすがに『死んでいる』という直接表現は、心に響くものがあったのだろうか。 最後の部分を口にした時、ミミの表情が変わった。感情をなくしたかのような、無表情な顔になっていた。 感情移入しないですむように、距離を置いておけるように、第三者として冷静に語れるように......。 その顔のままで、ミミは言葉を続ける。 「朝になって、祖母が起こしに来ました。いつまでたっても私も姉も起きてこないので、不思議に思ったそうです......。部屋に入ってきた祖母は、まず姉がいないことにびっくりして。次に私の様子を見て、二度びっくり」 小さく苦笑するミミ。普通に話せる場面に戻ったことで、人間らしい表情を取り戻したらしい。 「......だって私、ボロボロの汚い寝間着で布団に包まっていたのですから。帰りは転んだり、木にぶつかったりしましたから......。泥や血で汚れて、ひどい状態だったのですよ」 そこまでミミが話したところで。 「見苦しいところをお見せしました。申し訳ありません」 軽く頭を下げながら、老婆マルゴが部屋に入ってきた。 実はド・ゼッサールは、彼女が二階から降りてくる足音に気づいていたのだが、ミミは違っていたようだ。彼女は驚いた顔で振り返り、 「おばあちゃん! もう大丈夫なの? もう少し休んでいた方が......」 「平気だよ。これ以上休んでいたら、今度は夜に眠れなくなってしまうよ」 「でも......」 「だいたい、おまえだけに騎士さまのお相手をさせるわけにはいかないからね」 軽口を交えて孫娘を安心させながら、マルゴはミミの隣に座った。 「さて。うちのミミは、どこまでお聞かせしたのでしょうか......?」 「ちょうどおばあちゃんが来たところまで、よ」 マルゴは貴族のド・ゼッサールに向かって尋ねたのに、平民のミミが横から答える。やや失礼とも思えるが、ド・ゼッサールは、特に文句を言ったりはしなかった。 これくらいは構わない。しょせん平民の、それも若い娘なのだから。厳格な礼儀作法など期待してはいけないのだ。 それに、こちらは事件について聞く側の立場。変に黙り込まれるよりは、積極的に話に割り込んでもらったほうが、むしろありがたい。同じ話でも、一人ではなく同時に二人が語るとなれば、それぞれ微妙に異なる見方が加わって、話の内容も深まるはず......。 ド・ゼッサールは、そう判断していた。 「私が来たところ......?」 「ほら、ギギ姉さんの事件の翌朝......おばあちゃんは私を起こしに来たでしょう? そのことよ」 「ああ。......あの日の話をしていたのかい......」 一瞬、マルゴの顔が暗くなる。だが、すぐに表情を取り繕って、 「ええ、あれは大変な朝でした。ギギの姿は見えないし、ミミはミミで、がたがた震えるだけで、なかなか話をしようともせず......。挙げ句に、ようやく聞き出した内容が......あれでしたから」 マルゴの話を聞いて、ド・ゼッサールは、視線をミミに向ける。意図を理解したらしく、彼女は小さく頷いた。 「はい。全部おばあちゃんに話しました。さすがに、もう隠しておけなくて......」 「......驚きましたよ。腰が抜けるかと思いましたが、そうも言っていられません。とりあえずミミの体を拭いてやり、着替えさせて、ゆっくり休むように言ってから......。村の若い男たち数人を連れて、私は森へ向かったのです」 活動的な老婆である。考えてみれば、一人で街まで行き、ド・ゼッサールを村まで連れてきたくらいなのだから、根は元気な人なのだろう。 ......そんなどうでもいいような感想を彼が抱く間にも、マルゴの話は続く。 「現場に着いてみると、ひどいありさまでした。ギギは......あちこちの体の肉が欠けていて、右脚と左腕はブツッともがれていて......。顔だって誰だかわからないくらいに無茶苦茶で......。そして......はらわたは食い散らかされて、ぶちまけられて......」 やや青ざめながら、死体の状況を淡々と語るマルゴ。隣でミミが表情を歪めたのにも、気づいていなかった。 「......あれならいっそ、死体も残らぬくらいに丸呑みされていたほうが、どんなにか良かったことか......」 「その状態で......よく身元がわかったものだな」 冷たいようだが、それでも敢えて確認するド・ゼッサール。 判別不能なほど顔が無茶苦茶にされていた、と聞いて、死体は実は別人のものだったという可能性を、チラッと思い浮かべたのだ。 「......騎士さま。そりゃあ、間違えるわけもありません。私の大事な......。大事な大事な、孫娘ですから」 小さく体を震わせるマルゴ。 また倒れてしまうのではないか......とド・ゼッサールは少し心配になったのだが、ミミがサッと手を伸ばし、老婆の背中をさすっていた。 「おばあちゃん。それより......あの書き置きの話を......。たぶん、あれが一番大切なはず......」 「ああ、はいはい。忘れていたわけじゃないんだよ」 老婆は孫娘に軽く微笑んで、懐から何か取り出した。 「......ほら。さっき二階から降りてくる時に、ちゃんと取ってきておいたんだよ」 テーブルの上に広げられたそれは、獣の毛皮。同じくらいの大きさのものが、二枚ある。 「見てください、騎士さま。ギギの体の横に、これが落ちていたのです。......狡猾なミノタウロスめは、人の言葉をも操るのです」 マルゴが憎々しげに語ったように、それはミノタウロスから村人に宛てたメッセージ。たどたどしい筆跡ではあったが、それぞれ革の内側に、血文字でハッキリと記されていた。 『次は妹をよこせ 塔で待つ 月が重なる晩に』 『断れば村を襲う おまえら皆殺し』 ハルケギニアの空に浮かぶ双月が次に重なるのは、今日を入れて四日目の晩だ。今日明日の話ではない。まだ少しばかり、時間の余裕はある......。 ド・ゼッサールが冷静に考えていると、 「......姉妹なら同じような味がするんじゃないか......。きっとミノタウロスは、そう思ったのでしょうね」 ミミがポツリとつぶやいた。 彼女は彼女なりに、怪物の心情を推測していたらしい。 本来ならば、別種族であるミノタウロスには人間の個体識別など困難であり、ギギとミミが並んでいたところで、二人が姉妹だとはわからなかったはず。 しかし......。 「私が最後に耳にした姉の言葉は......『妹だけは、絶対に』というものでした。皮肉にも、あれで......姉の最期の行動で、血縁関係がバレてしまったのですね」 「ミミや、そういうことを言うものではないよ! ギギは......あの子は、おまえを命がけで逃してくれたのだよ」 「わかってるわ、それは私にもわかってるの。でも......だからこそ、なんだか悔しいの......」 ミミの言葉が尻すぼみになる。最後は少し、涙混じりになっていた。 ちょっとした愁嘆場を前にして、ド・ゼッサールは、今のミミの発言について考えていた。 彼女の解釈が正しいのかどうか、それは不明である。が、可能性の一つであることは間違いない。なにしろ、ミノタウロスの次の標的として、実際にミミが選ばれているのだから。 「......それから、村は騒然となりました」 孫娘を落ち着かせてから、唐突に話を戻す老婆。『それから』というのは、死体発見以降の展開のことだろう。 「曰く付きの『獣人魔塔』です。今までも獣や亜人などが住み着くことはありましたが、ミノタウロスは初めてです。ああ、なんという凶暴な怪物! ......信じたくないと思う村人もいましたが、エズレ村の話もありましたから、信じざるを得ませんでした」 エズレ村。 最初に街で老婆から聞いた話の中にも、その名前は出てきていた。 似たような事件が発生し、そちらのミノタウロスは、無事に退治されたという話だったが......。 などと、ド・ゼッサールが思い返していると、 「......それに、近くで狼か何かの死体も見つかりましたから。半信半疑だった者も、それでミノタウロスがいるって認めたみたいです」 ミミが言葉を挟んだ。 今ないたカラスがもう笑う......というほどではないが、会話に参加できるくらいには立ち直ったのだろう。乾いたのか拭ったのか、顔にも涙の跡は見当たらない。 だが、そんなことより。 「狼の死体? さきほどの話には出てこなかったが、その夜、現場に狼も来ていたのか......?」 「ああ、紛らわしい言い方でごめんなさい。姉の......『事件』の翌日の話です」 「騎士さま。私たちがギギの体を運び去って、しばらくしてから......。夕方くらいの出来事です」 混乱させたことを謝りながら、ミミとマルゴが、二人がかりで説明する。 ......事件の噂が村に広まった後、村の若い者が一人、こっそり森に入っていった。怖いもの見たさ、というやつだったのかもしれない。 かなり『獣人魔塔』まで近づいてもミノタウロスらしきものは見かけなかったが、代わりに見つけたのが、三匹の野獣の死体。大斧で首をバッサリ斬り落とされたらしく、切り口から吹き出した大量の血が固まって、なんともむごたらしい状態だったという......。 「そやつは泣きわめきながら、村に戻ってきたのです。見に行ったのを後悔して、もう絶対に森には近づかない、と叫んでいましたよ」 「それで話を確認するために、村の有志が徒党を組んで、様子を見に行きました。ええ、斧や猟銃や弓矢など、一応それぞれ武器を手にはしていましたが、ミノタウロスと戦えるなんて思っちゃいません。あくまでも『様子を見る』だけです」 そうしてわかったことは、獣の死体には食い散らかされた痕跡はないということ。つまり、ギギのケースとは違って、食用ではなかったのだ。 ならば、なぜ殺されたのか。 「おそらく『獣人魔塔』に住み着いていた獣が、ミノタウロスに追い出されたんじゃないか......という話になりました」 「あと、塔には近づくな、という意思表示......いわば見せしめみたいなものじゃないか、って説も」 その後、東の森で、ミノタウロスらしき怪物がウロウロするのも目撃されるようになり......。 危険だから森には近寄らないようにしよう、おとなしく要求に従おう、という方針になった。 しかし『要求に従う』ということは、ミミを生贄として差し出すということ。とてもマルゴには受け入れられない話である。 彼女は、エズレ村のミノタウロスがラルカスという騎士に退治された件を耳にして、貴族の騎士ならばミノタウロスは倒せるのだ、と強硬に主張し......。 「......そしておばあちゃんは街まで行き、ド・ゼッサールさまと出会ったのです」 ミミは、そう話を締めくくった。 「ふむ......」 小さく唸りながら、考え込むド・ゼッサール。 ......本当にミノタウロスは、問題の『獣人魔塔』をアジトにしているのだろうか......。 その点に、小さな疑問を感じてしまう。 さきほどの血文字にあった『塔で待つ』という言葉。『次は妹をよこせ』と併せれば、確かに「俺の住む塔まで妹を連れてこい」と言っているように思える。 だが。 わざわざ『月が重なる晩に』と期日指定しているのだから、別の解釈も成り立つのではないか。その日以外はミノタウロスはいない......つまり塔に住んでいるのではなく時々やって来るに過ぎない、という考え方だ。 マルゴとミミの話では、塔に住み着いていたらしい獣たちが追い出されたのは、ギギの惨劇の翌日。ならば、もしも本当にミノタウロスが塔をすみかとしているのだとしても、事件のあとで引っ越してきたということになる......。 「あの......? ド・ゼッサールさま......?」 難しい顔で黙り込んだド・ゼッサールを見て、ミミがこわごわ声をかける。貴族の気分を害してしまったのか、と心配になったのかもしれない。 「いや何、ちょっと考えごとをしておった。気にしないでくれ」 いかめしい髭面に笑顔を浮かべて、安心させるように言うド・ゼッサール。 ミノタウロスの住居問題については、ここで深く追求しても無駄だろう。これ以上二人に尋ねたところで、有益な情報が得られるとは思えないが......。 「ちょっと確認しておきたい。村の者たちもミノタウロスを目撃した......と言ったな。それは、いつごろの話かな?」 「さあ......? たしか三度、目撃されたはずですが......正確な期日までは......」 あやふやなマルゴに対し、ミミはしっかりと覚えていた。 「四日前と三日前と、あとは昨日だわ。だって、おばあちゃん、最初は二日連続だったでしょ。それから一日、間が空いてたもの」 「ああ、言われてみれば、そうだったね。......そうです、ミミの言うとおりでした、騎士さま」 「ふむ。して、その時間帯は? いつも決まって同じ時刻なのか、あるいは、日によってまちまちなのか......」 「まちまちですね。最初が午前中で、次が夕方。昨日のは、お昼過ぎくらいでした」 ミミが明確な答えを返し、隣でマルゴが頷いている。 「......なるほど......」 頻繁に目撃されたからといって、そこに住んでいるとは限らない。理由があって別の場所から通ってきているのかもしれない......。 そう考えて、わざわざ時間帯まで尋ねたのだが、結果はバラバラ。断定はできないが、これならば『ミノタウロスは塔に住み着いた』と考えてかまわないだろう。 「ついでに、もう一つ。彼らはミノタウロスの姿をハッキリ見ているのかな?」 「いいえ、騎士さま。聞いた話では、角を生やした黒い影が木々の間で動いていた......という程度だったそうで」 「でもシルエットだけとはいえ、特徴的な二本の太い角は、見間違えようがないでしょう」 「そうか。では、同じミノタウロスなのかどうか、わからないわけだな」 ド・ゼッサールが口ひげをひねりながら言うと、老婆は跳び上がらんばかりに驚いた。 「まさか! 騎士さまは、あんなのが二匹もいるとおっしゃるのですか!?」 「いや、あくまでも可能性......というだけだ」 苦笑しながら、軽く首を横に振るド・ゼッサール。 あまり心配させないために、冗談めかしたような軽い口調で言う。 「突拍子もない可能性かもしれんが、わしとしては一応、考えておかないと......。いざ戦っている最中に背後からもう一匹出てきて、挟撃されてはたまらんからな」 ######################## ふと窓に視線を向ければ、いつのまにか、西日が差し込む時間帯になっていた。 少女と老婆も、そろそろ語り疲れたことだろう。だいたいの事情は把握したし、他に聞いておくべきことは......。 「ところで。あなたのお姉さんのことに話を戻すが......」 「はい。なんでしょうか?」 ド・ゼッサールは、ミミを見ながら問いかけていた。 彼女の表情次第では、別の機会に尋ねようかとも思ったのだが、この様子なら大丈夫そうだ。 「......問題の夜、彼女が森に向かった原因は、あなたの言うところの『悪い男』だったわけだろう。その男に関して......」 ド・ゼッサールは、ここで視線をミミからマルゴに移し、 「......あなたは、どれくらい知っていたのかな?」 「はあ。私は何も知りませんでした」 「何も......?」 「はい。あの子は......ギギは、男にうつつを抜かすような子じゃありませんでしたから。まさか、そんなことになってるだなんて......」 悲しげな表情で、老婆は首を横に振った。 「ギギとミミの様子を見ていて、何か変だな、という程度は薄々気づいていました。あれだけ仲の良かった姉妹なのに、ちょっとギスギスした雰囲気をただよわせていましたから」 「......おばあちゃん......」 声をかけられて、マルゴはミミに目を向ける。だが変えたのは視線の方向だけであり、言葉はド・ゼッサールに向けられていた。 「......ですが、あまり気にしないようにしていたんです。年頃の姉妹のちょっとした喧嘩なんだろう、と思って。今までが仲良すぎたのであって、これくらいがちょうどいいんだろう、と思って。......それが......まさかこんな事態になるだなんて......」 悔やむ老婆に、孫娘が語りかける。 「私がいけなかったのね......。心配かけまいと思って、内緒にしていたのがアダになったのね。最初から......全部おばあちゃんに相談するべきだった......」 それからミミは、ド・ゼッサールの方を向いて、 「私......大きな問題になる前に、姉を説得するつもりでした。説得できると思っていました。でも姉は、私の言葉に耳を貸そうとはせず......」 「ミミや、そんなに自分を責めるもんじゃないよ。おまえは少なくとも正しいことをしようとしていたんだから。ギギを正しい方向に導こうとしていたんだから」 「ふむ。おばあさん、あなたの目から見ても、その男は、かなりの悪人に見えたのかな?」 ド・ゼッサールが問いかると、マルゴは、きょとんとした顔になる。少しの間をおいてから、 「いや、私は見ちゃあいないんですよ。でもねえ、ミミから聞いた話だけでも、ある程度の人物像はわかります。夜中に若い女をあんな森に呼び出す男が、まともな奴のわけないじゃないですか!」 「......そうだな。では問題の男は、事件の前だけでなく、事件の後も、あなたの前には顔を出していないのか......」 「はい。薄情な話ですよ、まったく......」 吐き捨てるように言うマルゴ。口には出さなかったが「恋人が死んだっていうのに」という言葉が続きそうな口調だった。 まあマルゴとしては、ギギとその男の恋人関係を認めたくもないし、ギギの死を直接に口にしたくもないのだろう。ド・ゼッサールはそう思っているからこそ、この場でギギ惨殺を言及する際には、『事件』という漠然とした表現を用いることにしていた。 「......考えてみれば、あの晩も彼は来なかったわけですし......。もしかしたら、もうこの近くにはいないのかもしれませんね」 ふと思いついたように、ポツリとつぶやくミミ。 ド・ゼッサールは一応、同意の言葉を口にする。 「......なるほど......」 さきほどマルゴが来る前にミミが語った話によれば、確かにあの惨劇の夜、ギギの待ち合わせ相手は現れていない。そして、たった今のミミの発言――「もういないのかもしれない」――は、その後もミミが男の姿を見ていない、ということを意味している。 「おや、まあ!」 突然。 マルゴが素っ頓狂な声を上げた。 「すっかりカラになってるじゃありませんか。これはこれは、私としたことが、気づきませんで......」 カップのお茶をド・ゼッサールが飲み干したのは、かなり前である。 何を今さら、と思わんでもないが、ド・ゼッサールが何か言うより先に、老婆は慌てて注ごうとしていた。 だが。 「あれまあ、すっかり冷めてしまって! 今、新しいのを持ってきますから......」 ティーポットの中身もかなり冷たくなっていたため、マルゴは立ち上がった。 「おばあちゃん! お茶なら私が......」 「いや、私が行ってくるよ。おまえはここに座って、騎士さまのお相手を続けてなさい」 「でも......」 「さっき十分、休ませてもらったからね。これくらいは私にやらせておくれ。少しは体を動かさないと」 孫娘を手で制してから、ポットを持って部屋を出て行く老婆。 彼女の姿が見えなくなったところで......。 「おばあちゃんには言えませんが......。私、別に食べられてもいいかも、って思ってるんです」 伏し目がちに、ミミは小声で漏らした。 「死んでヴァルハラに行ったら......姉と同じ場所に行ったら、そこで姉と仲直りできるような気がして......」 マルゴは言っていた。もともと姉妹は仲が良すぎるくらいだった、と。 ミミは言っていた。あの夜の森で姉と口論になった、と。 それを思えば......。 「気持ちはわからんでもないが......。しかしあなたがいなくなっては、一人残されるおばあさんが可哀想であろう......?」 「......それはわかっていますが......。でも、姉とは喧嘩別れみたいな形になっちゃったから......ひとこと謝りたくて......」 ミミは下を向いたままなので、その表情はわかりにくい。それでも、後悔の色を顔に浮かべているように、ド・ゼッサールには思えた。 「だって最後の瞬間、それまで喧嘩してたのに、姉は私を助けようと......。それまでのイザコザなんて水に流したかのように、心変わりして......。あれじゃ......私が悪者みたい......」 ミミの言葉は、筋が通っているようで通っていない。姉妹が争った原因はギギの側にあるのであり、ミミに非はなく、謝る必要もないのだ。 だが、そうやって理屈で割り切れないのが、女性というものなのだろう。 ド・ゼッサールは軽く頭をかきながら、目の前の少女に告げる。 「お姉さんは、あなたを逃すために頑張ったのであろう。お姉さんの犠牲が無駄になるぞ......」 「......そうですね。ただ......だからこそ、ひとこと言いたい......と思ってしまうのですよ......」 死を受け入れるという、悟ったような発言をしておきながら。 やはり祖母を残して逝くことには思うところあるのか、あるいは、ド・ゼッサールの説得が功を奏したのか。 ミミの表情は、とても死を覚悟した人間のものには見えなかった。 ######################## その夜。 ド・ゼッサールは、マルゴとミミの家に泊まることになった。 「どうぞ、こちらへ」 ミミの姉ギギが亡くなったことにより、ちょうどベッドが一つ空いているのだが、そのベッドはミミの寝室の中。平民とはいえミミは若い女性なので、一応の配慮の上、マルゴがミミと同じ部屋で眠り、ド・ゼッサールには、日頃マルゴが寝ている部屋を与えられた。 「おやすみなさい。では、私はこれで......」 案内のミミが部屋から去った後、彼は軽く室内を見回す。 こじんまりとした寝室だった。ベッドの脇には窓が一つ、反対側にドアという配置。小さな棚が一つあるのは、洋服箪笥なのだろう。 ベッドは粗末なものだが、清潔なものだった。白いシーツに、柔らかい毛布がかけられている。 マントを脱いで横になり、ド・ゼッサールは小さくひとりごちた。 「さて......明日だな」 森の中の『獣人魔塔』を調べなければ、と彼は思う。 逢い引きの場所がミノタウロスの住処の近くだったのは、素直に考えれば、不幸な偶然と言えよう。 だが......。 殺されたのは女の方だけ。密会ならば相手も近くに来ていたはずなのに、男の死体は発見されていない。「たぶん彼は来なかったのだ」とミミは言っていたが......。 はたしてそうであろうか......? なにしろ、密会の相手――リュティスと名乗った男――は、いわゆる日陰者なのだ。 この『不幸な偶然』に、彼が関与している可能性は......? 「......現場のすぐ近くにある塔......ミノタウロスがいるという塔......。あそこを調べれば、何か思わぬものが出てくるかもしれない......」 理屈ではなく。 ド・ゼッサールのカンが、そう告げていた。 ######################## 「わしは今から、東の森まで行ってこようと思う」 翌日。 朝食をとり終わったところで、ド・ゼッサールは宣言した。 「おお! では、早速ミノタウロス退治を......?」 「いやいや。まずは下見だ。相手は、普通のミノタウロスではないようだからな。戦う前に、しっかりと準備を整えておきたいのだ」 軽く手を振りながら、マルゴの言葉を否定するド・ゼッサール。 平民のマルゴがミノタウロスに詳しいはずもなく、洞窟ではなく塔に住むことの異常さも理解していない。だから彼女は、ド・ゼッサールの言っている意味が十分には理解できないという顔をしていたが、それでも敢えて問いただそうとはしなかった。せっかくド・ゼッサールがヤル気を出している以上、へたなことを言って水を差すような真似は控えたのだろう。 老婆の傍らのミミも、ただ微笑みを浮かべて、おとなしく黙っていた。 そして。 それから少しの後......。 「二人は、ここまででよい。ここから先は、わし一人だ」 ド・ゼッサールは後ろを振り返り、マルゴとミミに告げる。森の入り口にあたる場所までは、案内のために二人が同行してくれていた。 ここから先が、いわゆる『東の森』だ。立て札や目印などはないが、茂みと茂みの間に、ハッキリとした林道が見える。これならば一人で大丈夫だと彼は思っていた。 「いいえ、私も行きますわ。薄暗い森の中で、道に迷ったら困るでしょうから」 「ミミ! なんてことを言い出すんだい! まったく、この子は......」 孫娘の言葉に、老婆は目を丸くした。 ド・ゼッサールも同感である。これから行く先には、ミノタウロスがいるという『獣人魔塔』があるのだ。ミノタウロスに狙われているミミがそこに近づいては、それこそ本末転倒である。 「これは村の問題であると同時に、私の問題でもありますから。私のために動いてもらっている以上、少しでもお役に立ちたくて......」 「危険だからやめたほうがいい。万が一の場合を考えると、役に立つどころか、むしろ足手まといになる」 「でも......」 「塔を目印にして進めばよいのであろう? これ以上の道案内はいらぬ」 少しの押し問答を経て。 老婆と少女をその場に残し、ド・ゼッサールは、森に入っていった。 ######################## 鬱蒼とした森の小道を進むド・ゼッサール。 空はどんよりと曇っており、それでなくても森の奥まで陽射しは届きにくく、周囲の視界は悪い。 「だが夜の森とくらべればマシであろうな」 苦笑と共に、そんな言葉が彼の口からこぼれた。 闇夜には慣れていないはずの少女――ミミは寝付きがよく夜中に目覚ますことはほとんどないと言っていた――でさえ、迷うことなく普通に歩けた森なのだ。男の、しかも貴族であるド・ゼッサールにとっては、何の問題もない。なるべく精神力は温存しておきたいが、いざとなれば『ライト』で足もとを照らすことも出来るのだから。 「ふむ......」 道が二つに枝分かれしているところで、彼は立ち止まった。 落ち着いて周囲を見渡す。なるほど、木々の隙間から、遠くに赤茶けた塔らしきものが建っているのが見えた。 「......ならば、こちらだな」 そして再び歩き始める......。 分岐点の度に、そんなことを繰り返して。 どれほど歩いた頃であろうか。 「......ここか......」 ド・ゼッサールの目の前に今、問題の『獣人魔塔』がそびえ立っていた。 こうして間近にしてみると、遠くから見た時とはまた違ったおもむきだ。赤レンガの円塔、その大小が組合わさった巨大な建造物。壁一面に生い茂るツタの葉が、放置された年月とその朽ち果て具合を示していた。 数メイル程度の幅の溝に囲まれているので、ちょっとした城のように、小さいながらも周りに堀を巡らす造りだったらしい。だが、もはや水も少ししか残っておらず、空堀に近い状態となっていた。 その上にかけられた跳ね橋――既に開閉装置も壊れたとみえて固定状態――を渡って、ド・ゼッサールは塔の中へ。 「さて......鬼が出るか蛇が出るか......」 マルゴやミミに告げたように、あくまでも今回は偵察。あまり奥まで進むつもりはなかった。 ミノタウロスがこの『獣人魔塔』の主になっているのであれば、どうせ最上階あたりに巣くっていることだろう。だから、その手前辺りで引き返せばよい。とはいえ、浅い階にミノタウロス以外の獣や魔物がいる可能性もあるのだから、警戒を怠ってはならぬ......。 それくらいの気持ちで、ド・ゼッサールは『獣人魔塔』に乗り込んだのだ。 だが。 「......!」 ド・ゼッサールは、思わず言葉を失った。 入ってすぐの、だだっ広いホールのような空間。床には丸やら四角やら、幾何学模様が刻まれているが、魔法陣か何かのつもりだろうか。ホールの正面には立派な大理石の大階段が設置されていたが、二階に上がる必要はなかった。 なぜなら......。 ちょうど魔法陣の中心と、大階段との真ん中あたり。 そこに......。 ねじくれた太い角を持つ怪物が、大斧を握り締めて、獲物を待ち受けるかのように立ちはだかっていたのだ。 (第四話へつづく) |
予期せぬ遭遇。 その驚きから立ち直り、ド・ゼッサールは、冷静に問いかける。 「やけに小さいミノタウロスだな。ひょっとして......おぬしは、まだ子供なのか?」 特徴的な二本の角が左右に突き出しており、たしかに首の上に存在するのは、紛れもなく雄牛のそれ。 しかしミノタウロスといえば普通、ゆうに二メイル半は超える巨体のはずなのに、目の前の怪物は、ド・ゼッサールと同じくらいの身の丈しかなかったのだ。 見る者を圧倒するほどの盛り上がった筋肉......などというものも見当たらない。ボロ布をマントのようにして身にまとい、からだ全体を覆い隠していたために。 老婆マルゴの話を聞いた時から、普通のミノタウロスではないと感じていたが......。 「......子供のうちは貧弱で、人間のように服を着ているのか? 好んで住む場所も、幼年期と成長後とでは異なるのか?」 これは単なる当てずっぽうである。ド・ゼッサールは亜人研究家でも何でもないので、明確に言い切るほどの知識は持っていなかった。 怪物も、彼に答えようとはしなかった。ただ返事の代わりに、右手一本で大斧を振りかぶった。 「......やる気か......!?」 子供であろうがなかろうが、ミノタウロスはミノタウロス。それでもこのサイズならば、自慢の怪力もタカが知れていることだろう。うまく相手の力を受け流すようにすれば、ド・ゼッサールでも渡り合えそうだ。 向かってくる怪物から目を逸らさずに、ド・ゼッサールは『ブレイド』の呪文を唱えた。 杖に風が纏わりつき、魔力の刃と化す。 「はたしてマントの下に、噂どおりの強靭な皮膚が隠されているか否か......見せてもらおうではないか!」 床を蹴り、ド・ゼッサールも斬り込んでゆく。 しかし。 斬り合いにはならなかった。 怪物の大斧はフェイント。 本命の攻撃は......。 「なんと!?」 敵は呪文を唱えたのだ。 しかも、幻獣やエルフといった亜人が用いる先住魔法ではなく。 人間のメイジのような系統魔法を。 「おぬし、マントの下に杖を隠し持っておったのか!?」 ......体を包むボロ切れは、ただの人間の真似ではなかった......。 それに気づいた時には、ド・ゼッサールは強風を受けて、壁に叩きつけられていた。 「......くっ......」 咄嗟に受け身をとり、苦痛は最小限に抑えた。 おかげで、杖を取り落とすこともなかった。 しかし、彼が体勢を立て直すより先に。 「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ」 ......今度は『ウィンディ・アイシクル』が来る......!? まだ『ブレイド』が効いたままの杖で、叩き落とすつもりだった。が、氷の矢は思いもよらぬ方向から飛んできた。 目の前の相手からではなく、斜め後ろから。塔の入り口の方角から。 「......!」 対応しきれず、直撃を食らってしまうド・ゼッサール。 片膝をつきながら、唸るようにつぶやく。 「......そういうことか。おぬし、なかなかやるな......」 敵は、周りを取り巻く空気中の水分を固めたのではない。外の堀にいくらか残っていた水を、氷に変えたのだ。 なるほど、塔に入ってすぐのこの場所ならば、そういう戦い方も可能だろう。だが、これは野生の亜人の戦い方ではない。狡猾なメイジの戦い方だ。 つまり......。 「おぬし......ミノタウロスではないな?」 「ご名答」 答えながら、牛頭の被り物を脱ぐ男。 現れたのは、欲で濁った目と、頬骨の浮いた顔だった。 「ミノタウロスなど、最初からいなかったわけだな?」 「もちろん」 正体を現した男は、下卑た笑みを浮かべている。 ド・ゼッサールは、男をじっと睨んだ。 「では......村娘のギギを殺したのは......」 「おいおい。それは俺じゃないぜ」 男が返したその時。 ド・ゼッサールは、脇腹の辺りに、焼け付くような痛みを感じた。 さきほど氷の矢でやられたものとは違う。たった今、背後から刃物で刺されたのだ。 振り返ると......。 血染めのナイフを手に、ミミが立っていた。 ######################## 「ド・ゼッサールさまがいけないんですよ。関係もない事件に、首を突っ込んでくるから」 場違いな笑顔を浮かべて、言葉だけは優しく、しかし冷たい口調でミミは告げる。 「私、やんわりと『手を引くように』って言ったのに。伝わらなかったようですね」 「死んでもかまわない、姉と同じヴァルハラに行けるから、と言っていた......あれか」 とても死を覚悟しているようには見えなかったが、それも当然。死ぬ気があったわけではなく、ただ「だからミノタウロス退治なんてしなくて結構」と言いたいだけだったのだから。 あのときミミは「このままでは私は悪者」と言っていたが、なるほど、別の意味で、いや本当の意味で『悪者』だったわけだ。 「あら。今頃になって、ようやく意味がわかったようですね。......でも残念。もう手遅れ」 ド・ゼッサールは、傷口を押さえながら、その場にうずくまっていた。 血が止まらない。どこか重要な臓器をやられたのかもしれない。 意識も遠くなりそうだ......。 それでも。 ミミが男のもとへ歩み寄り、仲睦まじく寄り添う姿が、ハッキリと見えていた。 これで完全に、人間関係も理解できた。 「......つまり......逆だったのだな......?」 確認するかのように尋ねるド・ゼッサール。 貴族くずれの男に引っかかったのは、姉のギギの方ではなく、妹のミミの方だったのだ。 姉妹仲が悪くなっていたのは本当だが、諌めようとしていたのは、ミミではなくギギ。 問題の夜、二人が家を出たのは本当だが、逢い引きしようとしていたのがミミで、あとを追った方がギギ。 「そう。嘘をつく時は、完全な作り話にするよりも、微妙な真実を混ぜるのがいいのですよ。だから、姉と立場を入れ替えた話をしたり、彼のことを悪人扱いしたり......」 「おいおい。俺は悪人かい?」 「だって......あなた、もう貴族の家を捨てちゃうんでしょ? それも、私と駆け落ちするためじゃなくて、兄に冷や飯を食わされたから、って理由で」 「まいったなあ。その程度で悪人扱いかよ......」 ミミが上目づかいで媚を売るような表情を見せると、男は彼女の腰に手を回し、グッと抱き寄せた。 恋愛ごとには疎いド・ゼッサールだが、二人がアツアツのカップルではないことくらい、彼にもわかる。 男がミミに向けているのは、女を愛している者の目ではないのだ。むしろ、こきつかってたかってやろうとするヒモ男の目なのだ。 ミミのことだから、それくらい見抜いているのだろうか。あるいは、惚れた女の弱みで、彼女の目は曇っているのだろうか。 そういえば。 最初にこの男の話をした時、ミミは「あまり彼のことは口にしたくない」と言っていた。好きな男のことを悪く言うのは、やはり気が進まなかったのか......。 いや。 それだけではないだろう。 あの時ミミが取り乱していたのは、おそらく、あの発言のため......。 「......『どう間違っても、彼が本気で姉を愛していたとは思えません!』......。あれは心の底からの叫びだったのか」 ド・ゼッサールのつぶやきに、ミミの表情が変わった。痛いところを突かれたらしい。 ならば、男の愛情が本物ではないと、薄々ミミは悟っているのだ。 同時に、男と姉の間にも何かあるのでは......と、根拠のない嫉妬を感じてもいたのだろう。立場を逆にした『作り話』の中で『姉』が『妹』にやきもちを示したように。 「なあ、ミミ。おまえ一筋だぜ、俺は。安心しな」 「......知ってるわよ。あなたには、私が一番よく似合ってるんだから。......だいたい、あの真面目な姉さんが、あなたの相手なんてするはずないし」 いい加減な口調で男が言うと、ミミは複雑な表情で返した。 さらにギュッと、密着する二人。 そして突然、男はド・ゼッサールに視線を向けて。 「もうわかってると思うが、一応、言っておく。こいつの姉......ギギってやつを殺したのは、このミミだぜ」 ######################## 「うむ。わかっておる」 そう、もはや明白な話だった。 ミミの語った物語は、姉妹の性格はそのままで、姉妹の立場だけを入れ替えて書き直せば、事の真相となる。 ただし、それは夜の森で姉妹が争いを始めた場面まで。 実際にはミノタウロスなどいなかった以上、ミノタウロス出現以降は、完全な捏造なのだ。 ということは......。 二人の争いを止める者などおらず、そのままギギは殺されたのだ。 「いや、俺だって驚いたんだぜ? 約束の場所に着いたら、返り血を浴びたこいつが立ってたんだから」 「計画的な殺人ではなく......衝動的なものだった、と言いたいわけだな?」 「そりゃそうだ。少しくらい仲たがいしていたとはいえ、こいつが姉さんを殺す理由なんてないさ」 「だって、しょうがないじゃないの!」 癇癪を起こした子供のように、感情を爆発させて叫ぶミミ。 「小さい頃からずっと、私の言うことには『はい、はい』と従ってたお姉ちゃんなのに......この件に限っては、強く反対するんだから!」 「......だが、それは突然の話ではあるまい。今までも彼女は諌めようとしていたのであろう? だから姉妹仲も険悪になっていたのであろう?」 冷静なド・ゼッサールの合いの手に、ミミは激しい口調のまま返す。 「前々からやんわりとは反対してたけど、あの時ほど強硬だったのは初めてよ! だから私もついカッとなっちゃって......『ほんとはお姉ちゃんも彼のこと好きなんでしょ!?』って言ったり、殴りかかったりしちゃったのよ!」 ......何が『だから』だ、言い訳にも何もなっちゃいない......。 そう思って左右に首を振りながら、ド・ゼッサールは、あらためてミミの『作り話』を思い返していた。 襲いかかってきた姉に引っかかれたとミミは言っていたが......。 実際にはミミの方から仕掛けたのだから、あの引っかき傷は、反抗されてできたものだ。温厚な姉が反撃に出ざるを得ないほど、ミミは手ひどく殴りかかったのだ。 ド・ゼッサールが、そうやって事件当時の状況を推測していると、ちょうど補足するかのように、ミミの傍らの男が口を開いた。 「俺が着いた時には、こいつの姉さんは、もうピクリとも動かない状態だった。そこらに転がっていた岩で、ミミが何度も頭を殴りつけたらしいな。こいつ、血だらけの岩を握っていたよ」 「......私だって、殺すつもりなんてなかったわ。ふと我に返った時には、もう死んでたのよ」 「その割には、ミミ、おめえずいぶんと落ち着いてたじゃねえか」 「落ち着いてたんじゃないわ。呆然としてたのよ」 ふてぶてしく吐き捨てるミミ。 男はフンっと鼻で笑いながら、 「まあ、どっちでもいいや。......さいわいミミの服には、ほとんど血は付いてなかった。返り血を浴びていたのは、生肌の部分ばかり。なぜかこいつ、半裸だったからな。それはそれで、妖艶でグッとくる姿だったが、それどころじゃねえ。俺たちは、急いで後始末の打ち合わせをしたんだ」 男の説明を聞いて、ド・ゼッサールは思い出す。 立場を入れ替えた物語の中で、ミミは『上着は足もとに脱ぎ捨てて、寝間着も半分、はだけたような状態』の姉のことを、『月明かりの下でそんな格好をしていると、ちょっと幻想的な美しさ』と表現していた。実際には、それはギギではなくミミだったのだから、何のことはない、自画自賛していたわけだ。 いや、そもそも。 姉のことを『顔も体型も私とよく似ていました』と言っておきながら、その少し後で『もともと器量もスタイルも良い姉ですから』などと言い切ったのだから......。 作り話の中でさえ「私は美しい!」と主張していたようなものだ。 よほど自信があったのだろう。そういう女なのだ、このミミという少女は。 「何よ。後始末の打ち合わせって言っても、ほとんど私が考え出したようなもんじゃないの。......私がエズレ村の話を思い出して、ここでもミノタウロスが出たことにしよう、って言い出したのよ。忘れたわけじゃないでしょう?」 「そりゃないぜ、ミミ。たしかに計画立てたのはおまえだけど、面倒くさい作業は、ほとんど俺一人でやったようなもんじゃねえか」 より頑張ったのはどちらか、一種の手柄争いを始める二人。半分冗談だとしても、ひどい話だ。話題にしているのは、人殺しの隠蔽工作なのだから。 「......死体を切り刻むなんて、ちょっとゾッとしたぜ。あのままじゃ、とてもミノタウロスがやったようには見えなかったからな」 「あら。私だって、あなたのために時間稼ぎはしたのよ? 怖くて布団かぶって震えてる......なんて演技までして」 ミミが撲殺してしまったギギの死体を、ミノタウロスの犠牲者に見えるよう、魔法の刃で加工した男。 一方、男がそうした事後処理をしている間、自称『時間稼ぎ』の『演技』をしていたミミ......。 ド・ゼッサールは、ミミから嘘の話――当時は嘘とは気づかなかった――を聞かされた時、「まっすぐ家まで帰るのではなく、誰かに助けを求めようとは考えなかったのか?」と尋ねたものだが、今にして思えば、あれは核心をついた質問だったのだ。 答える際、ミミの表情は露骨に変化していたが......。あれも、姉の死に直接言及した動揺などではなく、咄嗟に言い繕うのに苦労したからだったのだろう。 いや、『死んでいる』という言葉が引きがねになった部分もあるかもしれないが、それはあの時ド・ゼッサールが推測したようなものではない。目の前で殺された姉に対する想いではなく、自分が殺してしまった姉に対するものだったのだ......。 「......それに私、それっぽい噂が村の中で広まるよう、上手く言って回ってたのよ。最初はミノタウロスなんて信じたくない、って人もいたんだから」 「それだって、ミミは口先だけじゃねえか。実際に手を動かしのは俺だ。ミノタウロスの脅し文句を血で書いたのも俺なら、おまえの指示でケモノの死体を用意したのも俺。牛頭の被り物を作って、言われたとおりに出没したのも俺......。特にこの被り物、こしらえるのに苦労したんだぜ。要所要所を『錬金』で加工して......」 「文句言わないの! うまくいってたんだから」 そういえば。 血文字のメッセージの話をするよう、マルゴをせっついたのはミミだった。そして自分が狙われている理由として、「同じ味だから」という可能性を提示したのもミミだった。稚拙な理由ではあったが、あれはあれで、ミミなりに考えた結果だったのだろう。ミノタウロスが特定個人を狙うという話に、一応の説得力をもたせるために。 それに、マルゴは曖昧だったミノタウロス目撃情報も、ミミは正確に覚えていた。今にして思えば当然である、なにしろミミは仕組んでいる側だったのだから。 しかし。 そうやって頑張れば頑張るほど、どことなく不自然に見えてくるものだ......。 「......ふむ。自分で思っているほど『うまくいっていた』わけではないであろうな」 ド・ゼッサールの言葉に、ミミは小馬鹿にしたような顔と口調で、 「なぁに? 今頃になって......負け惜しみ? 私の演技に、コロッと騙されていたくせに」 「いや。意外に不自然な部分は多かったぞ。たとえば......」 最初に見せた、明るすぎるその表情。そこには悲壮感など微塵もなく、とてもじゃないが、魔物から命を狙われる少女の態度ではなかった。 そう、あの『作り話』の最中も......。 ミミとしては精一杯の演技だったのだろうが、本物にしては、どうも感情の起伏が大きすぎた。わざとらしい感じがあったのだ。 祖母の前で泣いてみせたのも、嘘泣きだったはず。直後、涙の跡が見当たらないことに、ド・ゼッサールは気づいていたのだから。 そして、演技だけではない。ミノタウロスがギギを襲ったという場面――ミミがゼロから作り上げた創作話――も、少々やりすぎだった。ミミの語る描写は過剰演出で、翌日発見された死体の様子には、少しそぐわない点もあったのだ。 「フン。それだって『今になって言われてみれば......』って程度でしょ?」 「まあな。それは認めよう。......しかしミノタウロスに関しては、わしは本当に、最初から疑いをはさんでおったのだ。洞窟ではなく塔に住んでいる、というのは妙だったのでな」 「まあ、そこのところは勘弁してやってくれ。こいつは平民だから、亜人の習性なんて詳しくないんだ」 「なによ、馬鹿にして! 平民だからって、そんなに見下さないでよ!」 男が助け舟を出したのに、女は拗ねたような態度で返す。 そんなミミの言動から、ド・ゼッサールはピンと来た。 「......ああ、そうか......」 この少女には、貴族に対する憧れがあるのだ。良く言えば上昇志向、悪く言えば羨望。自分も貴族のようになりたいのだ。 今にして思えば、『死んだらヴァルハラに』というのも、本来は貴族が口にする言葉である。ヴァルハラとは戦士たちの魂が眠るべき場所であり、平民とはいえ軍関係に勤務する者ならまだしも、戦いとは無縁の田舎娘が用いる表現ではない。あそこで気づくべきだったのだ......。 いや。それより先に、もっと決定的な証拠があったではないか。 本題に入る前に、お茶や絵画に関して熱っぽく語っていた、あの態度である。ミミ自身『分不相応』と認めていた、彼女の趣味。あれは演技でも何でもなく、素の姿だったようだ。 そのような少女にとって――しかも自分の容姿に過度の自信を持つ少女にとって――、このような田舎の小さな村で一生を過ごすのは、我慢できないことなのだろう。だから......。 「......なるほど。村を出たかったわけだな? その男にただ惚れているというのではなく、村から連れ出してもらえる絶好の機会だと思ったわけか......」 自分の推理を口に出すド・ゼッサール。 「ふむ。ただ村を飛び出したのでは、連れ戻そうという動きがあるやもしれぬ。だが、ミノタウロスに食べられたことにしてしまえば、探そうとする追っ手も出てこない......。うまく考えたものだな」 「そうよ。頭いいでしょ、私って」 ド・ゼッサールとしては、「ミミはミミで男を利用している」と指摘して、二人の動揺を誘うつもりだったが......。 失敗だ。二人ともケロッとしている。それくらい男の方でも、とっくに承知していたようだ。悪者同士、持ちつ持たれつなのだろう。 「どうだい。これで事件の全貌も理解できて......もう思い残すこともないよな?」 からかうような男の言葉に、ド・ゼッサールは、いたって真面目に、 「うむ。わしがここへ来る際、ミミが一緒に来ようとしていたのも......こうやっておぬしと二人で、わしを抹殺するためだったのだな?」 「そ。だって邪魔なんだもん。ここを調べられたら、ミノタウロスなんていないこと、バレちゃうし」 あっけらかんと肯定するミミ。 「......断られたけど、それでも責任感の強い私は『騎士さま一人に任せておけない』と、少し遅れて『獣人魔塔』へ。そして騎士さまはミノタウロスに返り討ちにされ、私は食べられてしまったのです......。なかなか良いシナリオでしょ?」 計画どおりと言わんばかりに、少女はニッと笑っていた。 すると、彼女の腰に手を回していた男が、 「さあ、もういいだろう。そろそろ時間稼ぎも終了だ」 「......え?」 「なんでぇ、ミミ、おまえわかってなかったのか? こちらの貴族様は、わざと長話をしてたんだぜ。死ぬ間際の好奇心だけで色々と聞いてたってわけじゃねえ」 「え? え? 時間稼ぎしてたのは、私たちの方じゃないの? かなりの手傷を与えたから、放っておけば失血死するはず、ってことで......」 「違う、違う」 わずかに口元を歪めながら、彼は首を横にふってみせた。 「メイジってやつは、そんなに甘いもんじゃないぞ。あいつはな、こっそり『ヒーリング』で回復を図ってたんだ」 ######################## 「ふむ。見透かされておったか......」 苦笑するド・ゼッサール。 うずくまったままの格好で、手の動きが隠れているのをいいことに、彼は今までずっと『ヒーリング』で自分を治療していたのだ。うめき声――ひどい怪我なので不自然ではない――に紛れて、スペルを唱える形で。 ド・ゼッサールは『水』のメイジではなく『風』のメイジ。回復魔法は、それなりに使えるという程度で、けっして得意呪文ではない。 かなりの時間をかけたものの、完全回復にはほど遠い状態だ。一応、最初の『ウィンディ・アイシクル』による凍傷は治ったようだが、ミミに刺された傷は深すぎて、まだ......。 「ちょっと! 相手が回復してるのに気づいてたなら、あなた、なんで放っておいたのよ!?」 「いいじゃねえか。奴だって貴族だ。ナイフで平民に刺されたせいで死ぬ......なんてことになったら、それこそ死んでも死にきれねえ。貴族にはな、プライドってものがあるんだよ」 男はミミの体を軽く突き放し、隠し持っていた杖を堂々と出して、それを構える。 「だからな、とどめは俺がさしてやるよ。貴族の端くれとして......俺の魔法で」 「うむ。そうまで言われては......」 ド・ゼッサールも立ち上がり、杖を掲げた。 勝ち目の薄い戦いだが、仕方がない。これ以上の時間は与えてもらえないらしい。 逃げるという選択肢もなかった。かりにそのつもりがあったとしても、とても見逃してはもらえぬ状況だった。 「あんたに言っておくが、さっきの『ウィンディ・アイシクル』は本気じゃないぜ。......いい機会だから、ミミも目ん玉かっ開いてよく見とけよ。俺の最大出力は......」 余裕の表情で、貴族くずれの男がそこまで告げた時だった。 「......怪我人をいたぶるというのは感心せんな。こんなところで、貴族同士の決闘というわけでもあるまい」 入り口から投げかけられた声。 見れば、大柄だが痩せ気味の男が一人。黒いマントを羽織り、太い杖を手に、ズカズカと塔に入ってくる。 「誰だ!?」 「ラルカスという。見てのとおり、旅の貴族だ」 貴族くずれの誰何に、堂々と答える侵入者。 ラルカス......その名前に、ド・ゼッサールは聞き覚えがあった。老婆マルゴが語っていた名前だ。 「あなたがラルカス殿か! エズレ村のミノタウロスを倒してのけたという」 「ああそうだ。この辺りでもミノタウロスが出たと聞いて、もしや私が倒したはずの奴が生き延びていたのでは......と心配になり、来てみたのだが......」 ラルカスは、貴族くずれの男に――その足もとに置かれたものに――目を向けると、フッと苦笑し、 「......ミノタウロスを模した被り物か。どうやら、ここのミノタウロスは偽物だったようだな。エズレ村の事件に便乗した、模倣犯か......」 「うるせえ! こっちにはこっちの事情があったんだ!」 貴族くずれは、すでに呪文を唱えていたのだろう。ラルカス目がけて、無数の氷の矢が飛ぶ。 しかし。 「笑止! その程度だから、悪に身をやつすのだ!」 同じく『ウィンディ・アイシクル』を放ち、それを相殺する。 いや、単なる『相殺』とは違う。ラルカスの方が、数も威力も勝っていた。相手の氷の矢を全て空中で撃ち落とした上で、ラルカスの氷は、貴族くずれの男へ。 「......うっ......」 杖を吹き飛ばされ、今度は男がうずくまる番だった。 なお、この時ド・ゼッサールは、傷の痛みがぶり返したために片膝をついており、二人の戦闘を見守るしかなかった。だが、ラルカスの実力ならば大丈夫そうだ。むしろ手負いの自分が参加しても、足手まといになるだけ......。ド・ゼッサールは、そう思っていた。 すると、ここで突然。 「ガハッ!」 攻撃されたわけでもないのに、ラルカスが口から血を吐く。 これを見て。 「今だ、ミミ! 逃げるぞ!」 「え? この隙にやっつけちゃえば......」 「馬鹿、実力差ってもんがあるんだ。退き時を間違えたら、メイジは生きていけねえんだよ!」 この短い攻防で、すでにラルカスの腕前は見抜いていたのだろう。 男はミミの手を引き、塔の奥へと消えていった。 ######################## 「大丈夫か?」 口元を血で濡らしながら、ラルカスがド・ゼッサールに歩み寄る。 この時ようやく、ド・ゼッサールは気づいた。ラルカスの顔色が悪いということに。 「わしよりも......貴殿こそ、大丈夫なのか?」 「私のことは心配しなくていい」 ド・ゼッサールの傷の様子を見ながら、呪文を唱えるラルカス。 傷口がみるみるうちにふさがっていく。嘘のように痛みも消える。何とも見事な、水系統の呪文であった。 「かたじけない。それにしても......いやはや、すごい水メイジなのだな、貴殿は。それなのに......自分のからだは治せないのか?」 立ち上がったド・ゼッサールは、恩人のラルカスに対して、率直な質問をぶつけた。何か手助けできることはないかと思い、そのためには詳しい事情を聞かねば......と考えたからだ。 「そうだな。実は......私のからだは不治の病に侵されている。もはや私自身、あきらめかけていたが......ようやく治療法を見つけたよ」 そう言って、ニヤリと笑うラルカス。 「おぼろげなアイデアだけは、少し前からあったのだが......。ここで見た偽ミノタウロスが、決定的なヒントになった。......外見はミノタウロスなのに中身は人間という、あの偽物が......。フフフ......今ならまだ間に合うはず......」 おしまいの方は、もはや独り言だった。 ド・ゼッサールには、彼の言葉の真意はわからない。だが、病人の世迷い言とは思えなかった。 なにしろ。 ラルカスのその瞳は、希望に満ちていたのだから。 ######################## ######################## 「......塔の奥には秘密の裏口があったとみえて、一応あとを追ってみたものの、二人には完全に逃げられてしまった。仕方なく、わしはラルカス殿を連れて、村へ戻ったのだ」 そこまで語り終えると、ド・ゼッサールは、大きくフーッと息を吐いた。 見れば、テーブルの上の料理はあらかた食べ尽くされており、皿の上のわずかな残りも、すっかり冷めきっていた。 雛鳥のパイ包み――ガリア料理ではなくトリステインでもよく見かけるメニュー――が半分ほど残っていたので、一切れ口に入れてみる。が、冷めてしまえば、やはり味も落ちるようだ。前に食べたときほど、美味しくは感じられなかった。 そんなド・ゼッサールを見て、マントノンが意見を述べた。これで物語は終了、という雰囲気を感じ取ったのだろう。 「それにしても......隊長も若い頃は無茶をしたんですね。ミノタウロスのすみかと思われるところに、一人で乗り込むなんて。......あ、でも『若い』といっても、今の私よりは上ですか」 「マントノン、何を言いたいのだ?」 ド・ゼッサールが顔をしかめると、 「いや、別に......。それより、その後、どうなったのです?」 「その後......とは?」 「村の人々の反応とか。逃げた二人の行方とか」 「ふむ。わしとラルカス殿とで真相を話すと、村の者たちは、ずいぶんと驚いておった。だがミノタウロスなどいないとわかって、大きく安堵しておったな」 「なるほど。村のピンチが一転、小娘の狂言だったということになれば......。そりゃまあ、そうでしょうね」 「うむ。しかし、結局はミミ一人に騙されていたわけで、憤慨すると同時に、かなり恥じておったようだ。わしとラルカス殿も、『どうか今回の一件は他言無用で』と頼まれたよ」 ド・ゼッサールは遠い目をして、当時の村人の様子を思い浮かべる。 ......噂を聞きつけて来たラルカスがいたように、あの時点でミノタウロスの噂は、すでに村の外まで出回っていた。 しかし村ぐるみで少女の嘘に振り回されたというのは、なんとも恥ずかしい話である。だから彼らは、それを打ち消すように、「ミノタウロス目撃は誤報だった、ミノタウロスに脅されるなんて話はなかった」と言って回ったらしい。 「......偽ミノタウロスの存在すら、最初からなかったことにしてしまったのだな。ほら、ちょうど同じ時期にエズレ村でミノタウロス事件があったから、それも上手く利用して......」 実際、後にド・ゼッサールは近くの街で「そういえばカズハ村でミノタウロスが......」「いや違う、ミノタウロスが出たのはカズハ村じゃなくてエズレ村だ」という会話を耳にしたことがあった。 「だから、今さらあの辺りで話を聞こうと思っても、もう無理であろうな。十年前のミノタウロスの事件と言っても、エズレのほうの話しか聞けないであろう」 「......大げさに言えば『闇に埋もれた事件』ですね。それじゃあ、逃げた二人の消息もわからない......?」 「過失で姉を殺してしまい、カズハ村を飛び出した娘がいた......という程度なら、噂話として耳に入ることもあったが......。その後どうなったのか、まるでわからん」 話しながら、顔をしかめるド・ゼッサール。 「人ひとり殺しておるのだ。村の者たちが、ミミを放っておいたとは思えん。だが......。なにしろ娘の連れは、相当な腕前のメイジだ。あの男が一緒ならば、そう簡単に村に連れ戻されることもなかろうて」 貴族くずれとはいえ、メイジとしての技量は、そこらの貴族の子弟よりも遥かに上。ミミに向ける視線は誠実なものとは言えなかったが、それでも簡単に女を捨てたりはしないだろう。いや、捨てるくらいなら、どこかに売りとばすのでは......。 落ちぶれたメイジが人売りに身をやつすというのは、よく聞く話でもあるし、ド・ゼッサール自身、魔法衛士として過去に何度か捕縛したこともある。 そう、あれから十年も経つのだ。あるいは「年をとって容姿が衰える前に」ということで、とっくの昔にミミも売られているのでは......。 「......では、そのミミって子は、やっぱり村を出てしまったんですね。一人残されたおばあさん、かわいそうに......」 「うむ。救いのない話で......すまんな」 気の毒そうにつぶやくマントノンに、あっさりと返すド・ゼッサール。 そうは言いながらも。 ラルカスだけがこの物語の『救い』なのかもしれない......と彼は考えていた。 不治の病に侵されていたとはいえ、死にゆくものの目ではなかったから。あの場で見たものがヒントとなり、治療法を見つけたと言っていたから。 「......今頃、どこで何をしているのか......」 そのつぶやきは小さく、店の喧噪に紛れて、目の前のマントノンにも聞こえていなかった。 ......村を出たところでラルカスとは別れたので、ド・ゼッサールは、その後の彼の消息を知らない。しかし、ラルカスはガリアの騎士。今でも元気でいるならば、ガリア王継戦役では、どこかの陣営に属していたのであろうか。もしかすると、トリステインの若き騎士たちと、肩を並べて戦ったのであろうか......。 ふと、そんなことを想うド・ゼッサールであった。 (「ミノタウロス男爵と獣人魔塔」完) |