第一話 第二話 第三話 第四話 |
「ふむ。たまには、こうして街に出るのも悪くないな」 小さくつぶやきながら、男が一人、王都トリスタニアの街中を歩いていた。 この辺りは中央広場から近いこともあって、人ごみも多く、なかなか賑やかである。 「大きな戦が終わったばかりだというのに......」 彼は、わずかに顔をしかめる。 このたびのガリア王継戦役に、トリステインから参加した者は少なく、また、戦場となったのも遠く離れた地。虎街道やカルカソンヌといった、ガリアとロマリアの国境近辺であった。 トリスタニアで暮らす民にとって、今回の戦争は、しょせん他人事であったのか。あるいは、戦争に勝ったからこそ、このように、陽気に騒いでいられるのか......。 色々と考えながら街の人々の様子を観察していた彼は、ふと、自分のやっていることに気づいて苦笑する。 「......いや、あれこれ考えるのは止そう」 街を警邏しているわけでもないのに、ついつい周囲に目を光らせてしまうのは、これも一種の職業病なのかもしれない。 なにしろ......。 ごつい体にいかめしい髭面でありながら、同時に、人のよさそうな空気も纏っている、この男。彼こそが、トリステインの全魔法衛士を束ねる者、ド・ゼッサール隊長なのだから。 ######################## 元々、魔法衛士隊は三隊から構成され、ローテーションを組んで王宮の警護にあたっていた。その中でド・ゼッサールは、マンティコア隊を率いていたわけだが......。 まずグリフォン隊が、隊長ワルドの裏切りと、続くタルブでの戦いにより、ほぼ半壊。さらに、アンリエッタ女王誘拐事件の際に、ヒポグリフ隊が全滅。 残った者たちは全てマンティコア隊の指揮下に入ることとなり、結果、ド・ゼッサールが全魔法衛士隊の隊長となってしまったわけである。 こうなると、彼の忙しさも、以前とは比べものにならない。 アンリエッタ女王の治世になってから、銃士隊や水精霊騎士隊といった近衛隊が新設されたが、銃士隊は平民女性のみで組織されており、また、水精霊騎士隊のメンバーは全員がトリステイン魔法学院の生徒。 彼らの地位や実力を認める者は少なく、やはり王宮警護は、魔法衛士隊の任務なのであった。 ######################## そんなド・ゼッサールにとって、今日は、数少ない非番の日。 といっても、特に予定もなく、王宮内をウロウロしていたのだが......。 「たまの休みの日くらい、しっかり休んでいてください!」 「居場所がないなら、街に出かけられてはいかがですか? いい気分転換になりますよ!」 と、部下たちに懇願されてしまう。 隊員たちの中には、隊長の身を気遣ったというより、上司の休日勤務を鬱陶しく思う者もいたようだ。 ド・ゼッサールにも、そういう若者の気持ちは理解できたので、おとなしくアドバイスを受け入れる顔をして......。 こうして、街まで足をのばしたわけである。 「この先は......たしか、タニアリージュ・ロワイヤル座だったな」 目的なく歩きながらも、無意識のうちに、きちんと周辺の地理を把握するド・ゼッサール。 彼に観劇の趣味などないが、現在タニアリージュ・ロワイヤル座で公演されている歌劇が何なのか、たまたま彼は記憶していた。 戦争に関わるものだったからだ。 少し前のアルビオンにおける戦いを題材にした、と聞いている。その主人公のモデルは......。 「......おや?」 ド・ゼッサールが一人の人物を頭に思い浮かべた、ちょうどその時。 劇場から出た辺りの大通りで、何やら騒ぎが起こっているのが、目に入ってきた。 「祝福を! 祝福をくださいまし!」 「お手を触らせてください!」 「ヒリガル様! ヒリガル様!」 群がる市民たちの中心にいるのは、ド・ゼッセールも知る人物。 水精霊騎士隊副隊長、サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガである。 「またサイト殿か......」 遠目で見ながら、思わず苦笑してしまう。 ド・ゼッセールが彼と初めて出会ったのは、レコン・キスタが侵攻してくるという噂のために、魔法衛士隊の空気もピリピリしていた頃のこと。飛行禁止となっているのも知らずに、彼の主人や仲間と共に、風竜で王宮の上空に現れたのであった。 彼は人間でありながら、ラ・ヴァリエール公爵家三女ルイズ・フランソワーズの使い魔をしている。彼女は国家の機密に関わる人物であり、そのため彼らは、その後も面倒なときに限って姿を現す......。 「ああ。今も彼女が一緒なのだな」 よく見れば。 群衆にもまれるサイト・ヒラガの近くに、そのルイズ・フランソワーズや、水精霊騎士隊メンバーの姿もあった。 市民たちと水精霊騎士隊の少年たちに挟まれるような形で、サイト・ヒラガは、さらに大変なことになっているようだ。こうなっては誰にも止められない。まるで津波にのまれたようなものだが......。 「はてさて、どうしたものか」 ド・ゼッサールは、少し考え込む。 これが王宮近辺の騒ぎであれば、一も二もなく飛んでいって止めるところだ。 しかし、ここは街中。自分の管轄ではない。 「だが......放ってもおけないか?」 騒動の中心にいるのは、一応、彼の知己である。しかも、女王陛下とも関わりの深い者たち。 となれば、これも彼の仕事のうちかもしれない。 そもそも、先代のマンティコア隊隊長は、王宮だけでなく、街の市民の間でも大活躍だったという。偉大な先代と自分とでは、比べるだけでもおこがましいが、やはり自分も......。 と、彼がそこまで考えた時。 「こらぁ! なんの騒ぎだ! ただちに解散しろ!」 そう叫びながら、騎乗の一団が、通りの向こうから駆けてきた。 ド・ゼッサールのいる位置とは反対側であり、その姿は遠く小さなものだが、これまた彼の知る者たちである。 「なんでぇ! 引っ込んでろ!」 「なんだと?」 市民の声に、先頭の女剣士が剣を抜いた。 「陛下の銃士隊だ! 逆らうやつは捕縛するぞ!」 短く切った金髪の下、澄みきった青い目が、市民たちを鋭く睨む。 ところどころ板金で保護された鎖帷子に身を包み、百合の紋章が描かれたサーコートを羽織った女性。 銃士隊の隊長、アニエス・シュヴァリエ・ド・ミランである。 「じゅ......銃士隊......」 市民たちの態度が変わった。 隊長の顔や名前は知らずとも、誰もがみんな知っている。銃士隊といえば、泣く子も黙る女王陛下の近衛隊。若い女性だけで構成されているがゆえに、ナメられてはいかん、と銃士たちは考えているらしく、その激烈さはとみに高名であった。 「よし! 一人残らずチェルノボーグの監獄に放り込んでやる!」 チェルノボーグという名前と、迫力あるアニエスの怒号に、市民たちは散り散りになって逃げ出していく。 そうした光景を遠巻きに眺めながら......。 「......そうか。アニエス殿が来られたのであれば、わしの出る幕ではあるまい」 ド・ゼッサールは、小さくフッと笑って、クルリときびすを返した。 ######################## 非番の日に、しかも王宮の外で、わざわざ彼らと顔をあわせることもあるまい......。 そう考えたド・ゼッサールは、彼らを避けるように大通りから外れて、裏通りへと入っていく。 「ほう......」 小さなつぶやきと共に、彼の目がスーッと細くなった。表通りから少し曲がっただけで、空気がガラリと変わったのだ。 いかがわしい繁華街の匂いがする。今は人の気配もほとんどないが、夜には酔っぱらいで溢れるであろう。 さらに奥まった路地へと進むと、丁字路に突き当たった。そこを左に曲がった瞬間。 「......ん!?」 背後に気配を感じて、彼は振り返る。が、少し遅かったらしい。 小走りに駆けてきた女に、彼はぶつかってしまった。 「きゃっ!?」 悲鳴と共に、女が倒れる。 ド・ゼッサールは、助け起こそうと、手を差し出した。 「失礼......。大丈夫ですかな?」 まだ若い、十代にも見える女である。せいぜい二十歳を過ぎたくらいであろうか。 彼女は、暗褐色のローブに身を包んでいた。フード付きのローブであるが、倒れた拍子に、被っていたフードは少しめくれている。 そこから覗く顔は、素朴な街娘のものだった。やや大きめのクリッとした瞳と、高過ぎない鼻、そして、形の良い小さな口。貴族が持つ高貴な美しさはないが、いかにも平民らしい、愛嬌のある顔立ちだ。 ただし髪は、やや珍しい色をしていた。パッと見では赤なのだが、ありふれた『赤毛』とは違う。薄い赤色だ。いや、赤というよりも、この色は......。 「......桃色?」 思わず、口に出してしまうド・ゼッサール。 しかし少女は気にせず、ガバッと彼にしがみついてきた。 「お願いです! 助けて下さい!」 「......なっ!?」 かりにも彼は貴族である。少女の態度は平民の一般的なものではなく、「無礼な平民だ」と彼はムッとするが、それも一瞬。ここは街の中であり、王宮ではない。貴族ではなく、平民が暮らす場所なのだ。 それに、何やら事情がある様子。これくらいは許すべきであろう。 「......よくわからぬが、とりあえず......」 やんわりと少女の手を振りほどき、まずは引き起こす。 ヨロヨロと立ち上がった少女は、彼の胸に飛び込みながら、再び懇願する。 「助けて下さい! 追われているんです!」 少女のその言葉で、ド・ゼッサールは、ピンと意識を張りつめた。 彼女がやってきた方角へと視線を向ければ、たしかに、走り来る人影が二つ。 ......それも、全く気配を感じさせぬまま。 「なるほど......」 少女を背中に隠すかのように、彼は立ち位置を変えた。 二つの人影が、ド・ゼッサールたちから少し離れたところで立ち止まる。 漆黒のローブに身を隠し、深々とフードを被っているために顔も見えないが、体つきから判断して、二人とも男のようだ。 これだけ近づいておきながら、まだ二人は、気配も殺気も完全に消している。姿がハッキリ見えている分、気配ゼロでは、むしろ怪しいくらいだというのに。 「かなりの使い手とお見受けいたすが......」 平民同士の争いならば、首を突っ込むつもりはなかった。だが、二人のローブの隙間からは、チラッと杖が見えている。 「......それだけの力を持ちながら、男二人で無力な娘一人を追い回すというのは、いささか高潔さにかける行為ではないですかな?」 ド・ゼッサールの言葉にも、男たちは口を閉ざしたまま。 そして、まるで返事の代わりであるかのように、スッと杖を取り出した。ド・ゼッサールが使う軍杖と似た、レイピアのような形状の杖である。 「そうか......それが貴様らの返答か......。ならば......」 丁寧な口調もかなぐり捨てて。 ド・ゼッサールも、杖を構えた。 ######################## 名誉ある貴族同士の決闘とは違う。 開始の合図も何もなく、黒装束たちは呪文を唱え始めた。 「......フン......」 軽蔑の態度を一つ示してから、ド・ゼッサールも、呪文を唱える。 相手は小声で、口元もフードで見えないから、何の呪文が来るのかわからない。しかも、後ろには守るべき少女もいる。 不利な条件の中、ド・ゼッサールが選んだ呪文は『ブレイド』だった。 魔力の風が、彼の杖に纏わりつく。 同時に。 「ほう......」 黒ずくめ二人の杖にも、魔法の刃が形成された。どうやら向こうも、こちらと同じ呪文を唱えていたらしい。 「わしと斬りあうつもりか。よかろう!」 接近戦ならば、望むところだ。二対一でも負けないという自信があった。ダテに魔法衛士隊の隊長をしているわけではない! ザッ! 左側の男が大地を蹴り、斬り込んでくる。 その敵の動きに、ド・ゼッサールは、怒りの言葉をぶつけた。 「卑怯なっ!」 ガキンッ! 杖と杖がぶつかり合い、男の体が弾き飛ばされる。 「貴様らの相手はわしだ! 貴様らもメイジであるなら、最低限のマナーは守りたまえ!」 そう。 たった今、敵が狙ったのは、ド・ゼッサールではなかった。 回り込みながら、背後の少女を突こうとしていたのだ。 ド・ゼッサールはそれに気づいて、繰り出された突きに、横合いから杖をぶつける形となっていた。 正面からの激突ではなかったからこそ、敵も容易に吹き飛ばされたのであろう。 ......しかし、一人倒したからといって、油断は出来ない。これは二対一の戦いなのだ。 案の定。 倒れた仲間を気にする素振りもなく、もう一人が斬り込んでくる。 「......またか!」 左右の違いこそあれ、これもやはり、ド・ゼッサールを抜いて後ろを狙う、という軌道だ。 「ならば......こちらも容赦はせんぞ!」 正々堂々と斬り合いをするつもりはない、というのであれば、ド・ゼッサールにも考えがある。 彼は急いで、新たな呪文を詠唱する。 今度は『エア・スピアー』。 槍となった空気が、襲撃者に突き刺さる! 「......お恨みめさるなよ......」 正確な狙いで、一応、心臓だけは避けておいた。それでも、致命傷になるかもしれない。 ......そう思ったのだが。 「なっ!?」 胸にポッカリと穴を開けたまま、敵は、まだ向かって来る! ド・ゼッサールは咄嗟に体を捻り、かばうように少女に抱きついた。彼女ごと跳んで、敵の攻撃をかわす。 「......どういうことだ......!?」 命を落としてもおかしくないほどの大怪我なのだ。少なくとも、普通に動き回れる状態ではないはず。 それなのに......。 敵は普通に駆け抜けていき、しばらく進んだところで立ち止まり、こちらを振り返った。 「まさか......」 驚愕の表情でつぶやくド・ゼッサール。 すでに、倒れていた一人目の男も立ち上がり、再び杖を構えている。 少し距離はあるものの、ド・ゼッサールは、二人の黒ずくめに挟まれる形となっていた。 両者を見比べながら、彼は一つの推測を口にする。 「......貴様ら......死人兵なのか!?」 一滴の冷や汗が、彼の頬を伝わる。 かつてヒポグリフ隊を壊滅させたのは、『アンドバリの指輪』で蘇ったアルビオン貴族たちであった。 忘れもしない、アンリエッタ女王誘拐事件......。三隊の幻獣の中でヒポグリフが一番追跡に適しているという理由で、かの隊が選ばれたわけだが、もしもヒポグリフ隊ではなくマンティコア隊が向かっていたとしたら、自分は今頃、ここに立っていなかったであろう。 いや、『アンドバリの指輪』だけではない。そんな伝説級のマジックアイテムなぞ使わずとも、死者を操ることは可能らしい。少し歴史をひもとけば、先代のマンティコア隊隊長がまだ騎士見習いだった頃......。 「......いや。今は余計なことを考えている場合ではないな......」 わざわざ口に出して、自身を現状に集中させる。 もとより、ナメてかかれる相手ではないと思っていたが、当初の想定以上に、厳しい戦いになりそうだ。 とりあえず、彼に身を寄せるように震える少女だけでも、何とか逃がしてやりたいが......。 「......!?」 気を引き締めていたド・ゼッサールは、一瞬、我が目を疑った。 二人の襲撃者が、それぞれ体を反転させ、そのまま走り去っていったのである! 「......退いてくれた......のか......?」 杖を構えた姿勢で硬直するド・ゼッサール。 彼が敵の強さを認めたように、敵も彼の力量を恐れたのであろうか? 向こうにしてみれば、狙いは彼ではなく、あくまでも少女のほう。何も好き好んで、強力なボディーガードがいる時に襲うこともない、と考えたのであろう......。 しばらくジッとしていたが、敵は本当に消え去ったのだと確信して、 「お嬢さん。どうやら、もう大丈夫なようですぞ」 彼は努めて優しく、傍らの少女に声をかける。 その言葉で、彼女も安心したらしい。 「......ありがとうございます。おかげさまで、助かりました」 礼を言いながら、フードを脱ぐ少女。 短めの桃色の髪が、バサッと広がる。 あざやかなピンクブロンドではなく、くすんだピンク色ではあるが、その桃髪が強く、ド・ゼッサールの印象に残った。 「本当に......本当に、ありがとうございました。......あ、私、ソフィーと申します」 今さらのように、少女が名前を告げる。 これが......。 後に『桃色の研究』と呼ばれる事件の、その幕開けであった。 (第二話へつづく) |
「ふむ。平民にしては......よいところに住んでおるようだな」 ごつい体にいかめしい髭面の男が、一人の少女と共に、王都トリスタニアの街中を歩いていた。 ド・ゼッサールが連れているのは、淡い淡い赤色......いや、むしろ桃色というべき髪をもつ少女。 彼女はソフィーと名乗る街娘であり、裏通りで黒ずくめの二人組に襲われていた。偶然その場に通りかかったド・ゼッサールがこれを助けたわけだが......。 一度は襲撃をはねのけたとはいえ、いつまた例の二人組が現れるか、わからない。少女の身を心配した彼は、彼女を家まで送り届けることにしたのであった。 「はい。自分でも......恵まれた境遇だと思っています」 ド・ゼッサールのつぶやきに、言葉を返すソフィー。 やや見上げるような形で、愛嬌のある笑顔を彼に向けている。 「そうか」 若い少女と見つめ合う格好になるのが照れ臭く、彼は視線を逸らす。 別に恥ずかしかったからではないと言わんばかりに、あらためて彼は、周囲を見回した。 夕日に浮かぶ街並は、レンガ造りのアパルトメンが建ち並ぶ、古い住宅街。茶色のレンガと、白い漆喰で造られたアパルトメンは、どれも色褪せてはいたが、趣味の良い落ち着いた感じを漂わせている。 貴族ばかりではなく、裕福な平民も暮らしているようだが、それでも道ゆく人々は、身なり卑しからぬ者ばかり。 そうした光景を冷静に観察しつつ、ド・ゼッサールは言う。 「この辺りまで来れば......もう怪しい輩が出没することもあるまい」 もう自分はお役御免。言外に、そう匂わせたつもりだったが......。 「いえ。せっかくですから、うちに上がっていって下さいな。もう、すぐそこですし」 そう言ってソフィーが微笑む以上、拒絶の意志を示すことは難しかった。 ######################## 「ここです」 アパルトメンの一つに入っていく二人。ソフィーに続く形で、ド・ゼッサールも階段を上がっていく。 その三階部分がソフィーの借間であり、彼女は三階をすべて借り切っているようだった。それほど部屋数があるわけではなく、居間と寝室、それで部屋は全部。とはいえ、やはり平民としては、裕福な部類に入るであろう。 居間に案内されたド・ゼッサールは、促されるまま、椅子にドッカと腰掛けた。彼が室内のインテリアを見回していると......。 「どうぞ」 ソフィーが、酒と簡単なつまみを運んできた。 「いや、わしは長居をするつもりは......」 「そう言わずに......。貴族のメイジ様に助けていただいて、何のおもてなしもせずに帰すわけにもいきませんから」 なるほど、ささやかながらも、彼女なりの礼のつもりか。ならば、おとなしく受けるのもよかろう。 そう判断したド・ゼッサールは頷いて、手をグラスに伸ばした。 トレイの上にあるグラスは二つ。彼一人に飲ませるわけではなく、ソフィーも付き合うらしい。 案の定、彼のグラスに注いだ後、彼女は自分の分も注いでいた。 ド・ゼッサールがグラスに口をつけるのを見て、彼女はニコリと笑ってから......。 彼女自身のグラスの中身を、一気に半分以上、クイッと喉に流しこんだ。 「なかなかの飲みっぷりですな」 「あら、おはずかしい」 ド・ゼッサールに言われて、照れたような声を漏らすソフィー。 酒はワインではなく、相当強いリキュールであった。独特の香りと色がついている。たぶんヨルヨモギの葉を使って作られたものだ、と彼は推測した。 ......こんな二十歳そこそこの少女が、こんな強い酒を好んで飲んでいるのであろうか? それとも父親か兄あたりのボトルなのか、あるいは来客用としてとっておいたものなのか? それにしては、彼女の飲み方は妙に慣れているのだが......。 気になって、やや遠回しに聞いてみる。 「......家族は? まだ働いており、帰ってきていないのか......?」 「いいえ」 ソフィーは、やや目を伏せるようにしながら答える。 「私一人です。......父も母も......既に亡くなりました」 「そうか」 悪いことを聞いてしまった。 そんなニュアンスでつぶやくド・ゼッサール。 ソフィー自身は『恵まれた境遇』と言っていたが、あれは一種の強がりだったのかもしれない。 「いいえ、いいんですよ。もう、かなり昔の話ですから。特に父などは、私が生まれる前で......。それに、両親が遺してくれたお金のおかげで、こうして暮らしにも困らないわけですし」 顔を上げたソフィーの表情は、ひまわりの花のように明るかった。 ######################## いくら親の遺産があるとはいえ、働かずに食べていけるほどではなく。 ソフィーは、酒場に給仕として勤めており、それを家計のタシにしているのだという。 なるほど、これが酒場の娘のテクニックであろうか。ただ取り留めのない話をしながら一緒に酒を飲むだけで、ド・ゼッサールは、なんだか愉快な気分になってきた。 しばらくは、他愛ないおしゃべりに興じていたが......。 「ところで......」 適当なところで、まるで、ふと思い出したかのように、ド・ゼッサールは切り出した。 いつまでもここに留まるわけにもいかないが、しかし立ち去る前に、是非これだけは聞いておきたかったのだ。 「......さきほどの連中は何だったのだ? 何か心当たりは......?」 「それなんですが......」 ソフィーは、両手でグラスを握りしめ、ちょっと躊躇うような表情を見せる。 嫌な話は思い出したくない、というよりも、むしろ、彼を巻き込んでいいのか迷っている、という態度に思えた。 だから、ド・ゼッサールは言葉を足す。 「......なに、わしも他人のゴタゴタに自分から首を突っ込むような趣味はないが......ほら、これも乗りかかったフネなのでな。よくわからぬ二人組と遣り合ってそれっきり、というのでは、どうにも寝覚めが悪い」 「......そこまでおっしゃるのでしたら......」 少し眉間にしわを寄せてから。 ポツリポツリと、ソフィーは語り始めた。 ######################## 話の発端は、彼女の勤める酒場『黒い雄牛』亭での出来事だった。 昨夜、フラリと入ってきて、店の片隅に座った二人組......。 「それが、さきほどの......?」 「そうです。あの黒いローブを着込んだ二人組です」 わざわざ薄暗い席を選んだようで、近寄りがたい雰囲気もあったのだが、それでも客は客。気が進まないながらも、彼女は、注文を取りに向かった。ちょうどソフィーが、どのテーブルにも給仕しておらず、手が空いていたからだ。 そして。 二人組のテーブルに近づいたところで、彼女は、嫌な予感を強めた。 他の客からは離れた席で、かつ、明かりを避けるように座っていたので、誰も気づいていないようだったが......。 なんと二人は店内でも、ローブのフードで顔を隠したままだったのである。 「......まあ酒場ですから、これまでも、酔っぱらって奇行に走る客もいたんですけど......。そういうのとは別の怪しさがあったんです」 ともかく。 二人は、ボソボソと低い声で、ありきたりなワインと軽い食事を注文。 しばらくして、ソフィーは、それを運んでいった。 「問題は......その時だったんです」 彼女は聞いた。 一人がもう一人に「しっ!」と言ったのを。 明らかに「静かにしろ、黙れ」という口調だった。 続いて男は、フードの奥から、不気味な視線を彼女に向けた。 そして。 「......『聞いたか?』と言われました」 彼女が聞いたのは「しっ!」という一言だけ。それ以上は何も聞いていない。 だから当然、「いいえ、何も」と、営業スマイルを浮かべつつ返したわけだが......。 「どうやら、それを信じてもらえなかったようで......」 以後、彼らが店を立ち去るまで、ソフィーは二人組の怪しい視線――いやらしい視線ではない――を感じ続けたのだった......。 ######################## そこで話をいったん区切って、ソフィーは、手の中のグラスに目をやった。 カラになっていたことに気づき、酒を注いで、喉を湿らす。 喉を湿らす、にしては相応しくない飲み物だ。ド・ゼッサールは思わず苦笑するが、頭の中では冷静に、今の話を吟味し直していた。 タイミングは遅いが、それでも相づちを打つかのように、一言つぶやく。 「なるほど......」 ド・ゼッサールは考える。 さきほどの戦いでは、二人組を不死身の怪物かもしれないと思ったが......。 酒場で飲食していたということは、そこは少なくとも普通の人間と同じということだ。 また、彼との戦いの最中は無言であったが、普通に口がきけることも判明した。 「簡単にまとめるならば......。怪しい二人組が、怪しい会話をしていた。その内容をあなたに聞かれた、と彼らは誤解した。......そんなところであろうな」 「そうみたいです」 ガクンと首を振るソフィー。 力強く頷いた、というより、少し酒が回ってきたようにも見える。 飲み過ぎは良くない、と彼女の健康を心配するド・ゼッサール。そんな彼に、ソフィーはグイッと身を乗り出して、もたれかかってきた。彼が支えるように受け止めると、彼女は話を再開する。 「......店の中で感じていた、二人組の怪しい視線......。同じものを、仕事が終わって家へ帰る途中で、また感じたのです」 「それは......待ち伏せされていた、ということか? 連中は、あなたが店を終えるのを、どこか近くに隠れて待っていた......?」 「そうみたいです。たぶん私......よっぽど大事な内緒話、聞いちゃったんでしょうね」 答えるソフィーは、今や、ド・ゼッサールの胸に顔を埋める格好になっていた。それが突然、ガバッと顔を上げて、 「でも大丈夫です!」 「大丈夫......とは?」 「ちゃんと途中で撒きましたから、二人の尾行を! この家までは、つけられてません! あっちこっちグルグル回るうちに、怪しい視線もなくなりました!」 明るく言い切ってから、ソフィーは再び、顔を彼の胸へ。 ......こりゃあ酔っぱらいだ。 ド・ゼッサールはそう感じて、彼女の背中を優しくポンポンと叩いた。 するとソフィーは、顔を伏せたまま、 「だから、昨夜は平気だったんです。ところが、今日になって......」 ここで、少しトーンが低くなった。やや悲しげな声で、彼女は続ける。 「......街の中で、また感じたのです。昨日と同じ、怪しい視線を。......たぶん私を探して彼らが街をうろついていたところに、偶然、私が出くわしちゃったんでしょうね。あーあ、今日は、せっかくの休日だったのに......」 そういえば、自分も今日は、めったにない休みの日だった。 妙な親近感を覚えつつ、ド・ゼッサールは考える。 「ふむ......」 ......暗殺者なのか傭兵なのか知らないが、あの二人組は、少なくとも普通のメイジではない。裏の世界に関わる者たちのようだった。 そんな連中の尾行を、素人娘が簡単に撒けるものであろうか? 途中で気配がなくなったからといって、本当に彼らが消え去ったという保証はない。 そもそも、あの二人は、ド・ゼッサールにも気配を感じさせなかったほどの手だれ。ソフィーごときの感覚がどれだけアテになることやら......。 まあ、それを言い出したら、昨日や今日つけまわされた、という話自体、彼女の勘違いかもしれない......ということになる。だから、そこのところは、本能的に女性はストーカー的視線に敏感、ということで納得しておこう。ましてやソフィーは酒場で働く女だ、そうしたアンテナが人一倍鋭いとしても不思議ではない。 少なくとも、今日は実際に襲われているのだ。昨日はともかく、今日察知した『怪しい視線』は本物だったはず。 それに昨日の話にしたところで、本当につけられていたとしても、家まではバレていない、という判断は正解であろう。もしも、この場所を連中が知っていたら、たぶんソフィーは寝込みを襲われていたはずだ。 「......おや?」 考え込んでいたド・ゼッサールは、ふと気がついた。 スヤスヤという寝息が聞こえる。 いつのまにか、ソフィーは眠りこんでしまったらしい。 ......彼の腕の中で。 「そうか。ホッと安心して、気が抜けて......しかも酒が入れば、無理もないか......」 納得すると同時に、苦笑するド・ゼッサール。 「しかし......困ったな......」 下手に彼が動いたら、せっかく寝付いた彼女を、起こしてしまうかもしれない。 それに......。 「......そうだな。ひょっとすると、今日のわしらは、つけられていたかもしれん。あの二人組がここを嗅ぎつけて襲ってくる、という可能性もあるわけだ。ならば......とりあえず今夜は、もう少し、ここに留まるとするか......」 自分に言い聞かせるように、ハッキリと口に出して言ってから。 ド・ゼッサールも、目をつぶった。 ほどなく......。 室内で静かに聞こえる寝息は、二つになった。 ######################## こうして。 ド・ゼッサールが、少女と二人、束の間の平穏な時間を過ごしていた頃。 同じ王都トリスタニアの、別の一角では......。 ######################## 年老いた貴族が一人、薄暗い部屋のソファーに腰掛けていた。 彼の視線は、正面の壁に備え付けられた暖炉へ向けられていたが、まだ火が必要な季節ではない。それでも、まるで炎を幻視しているかのような目をしていた。 「わしは......」 彼の口から、独り言が漏れ始めた時。 背後の扉がスーッと開いて、二人の男たちが部屋に入ってきた。 黒いローブに身を包んだ二人......つまり、ソフィーを襲った二人である。 もしも注意深く見れば、その一人の胸に、ド・ゼッサールが貫いた穴が開いたままであるのを見てとれるであろう。 彼らは、部屋の主である老貴族のもとへ、音もなく歩み寄り......。 ボソボソ......ボソボソ......。 耳元で、何やら長々と囁いた。 「そうか......」 一言、老貴族が納得したように発すると、二人は引き下がる。おとなしく彼らは部屋から出ていった。 バタン......。 ドアが閉まる音。 再び一人になった老貴族は、フラフラと斜め前に手を伸ばす。しかし彼の手は、宙で止まった。 魔法の蓄音機が奏でる音楽に浸っていたい気分であるが......。 もう昔とは違う。この部屋には、演奏する音楽の情報をたたえた水もなければ、蓄音機の本体すら存在しないのだ。 上げていた手をだらしなく垂らし、力なくうなだれながら、老貴族はつぶやく。 「わしは、ただ、静かに余生を過ごしたいだけなのじゃよ......」 (第三話へつづく) |
「昨日は、ゆっくり休めましたか?」 翌日。 魔法衛士隊の屯所に現れたド・ゼッサールに、隊員の一人が声をかけた。 体はごついし、また、いかめしい髭面でもあるが、こう見えてド・ゼッサールは、人のいい隊長である。隊員たちからも慕われていた。 「ああ。よい気分転換になったわい」 部下の言葉に、彼は気さくに答えた。 ......正体不明の二人組と遣り合ったことなど、敢えて告げたりはしない。魔法衛士隊の管轄外の事件であるからだ。ましてや、その後――やましいことこそなかったが――若い女性の家に一泊した話も、誰に言う必要もない私事である。 「そうですか。それはよかったですね」 「隊長がおられぬ間に、王宮では、ちょっとした事件が持ち上がったんですよ」 世間話のような形で、昨日の出来事を報告する部下たち。 「......事件とな?」 たいしたことではあるまいと思いつつも、語気を正して、彼は聞き返す。 すると部下たちが、少し慌ててたように、 「ああ、たいしたことではないですし、もめごとって意味でもありません」 「例の二人......女王陛下お気に入りの女官と、その使い魔の少年が、また王宮にやって来たのです」 魔法衛士隊の間では、ルイズとその仲間たちは、面倒なときに限って姿を現す連中として、広く知れ渡っていた。 「......厳密に言えば『やって来た』というより『連れて来られた』ですけどね」 彼らの話をまとめると。 女王陛下が二人に用事があり、銃士隊のアニエスを使いに出して、宮廷まで呼び寄せたらしい。 「なるほど......」 昨日トリスタニアで見かけた騒動を思い出すド・ゼッサール。 自分は、アニエスが登場したあたりまでしか見ていないが......。 では、あの後、彼らは王宮に来たわけか。 「......して、陛下は何故ルイズ殿たちを......?」 政治に深く首を突っ込むつもりはないが、ある程度の事情は知っておかないと、王宮警護の仕事にも差し支えるかもしれない。 そう思って、彼は部下に続きを促す。 部下の隊員たちも、それくらいは了解しており、そのため、王宮内での噂には多少敏感になっていた。 「はい。それが......どうやら、二人をガリア王との交渉官に任命なさったそうで」 「......ほう」 ガリア王継戦役の結果、新たにガリアの王となったのは、オルレアン公の遺児シャルロットである。 彼女はジョゼフ王が倒れるまで行方不明だったわけだが、実はタバサという偽名でトリステイン魔法学院に隠れていた......。それをド・ゼッサールは知っている。彼女の操る風竜がルイズたちを乗せて王宮の中庭に降りてきた時、彼女たちに対応したのは、他ならぬド・ゼッサールだったのだ。 「なるほど。現状を鑑みれば、最適な人選であろうな」 彼が口ひげをひねりながら頷くと、 「ですが、隊長。ヴァリエール嬢はともかく、彼女の使い魔は、一国の大使になるような身分じゃないでしょう?」 「そこで女王陛下が、また、わがままを申されまして......」 サイト殿は一国の大使としては御名前が短過ぎる......ということで、トリスタニアの西にあるド・オルニエールという土地を与えたそうだ。 「そうか。これでサイト殿も、今後は......サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガ・ド・オルニエールと呼ばれるわけか」 ド・ゼッサールに他人の出世を妬む気持ちはなく、ただ、事態を確認する意味で、そのフルネームを口にしてみた。 ......貴族には二種類ある。領地を持つ封建貴族と、官職を得て政府に奉職する法衣貴族の二種類だ。名目上はどちらも同じ貴族だが、その実入りは全く違う。 国から年金をもらうばかりの法衣貴族や軍人たちは、そのほとんどがあまり金持ちではない。街の商人たちのほうが、よほど裕福なくらいだ。裕福な平民が暮らす住宅街を、昨夜ド・ゼッサールも見てきたばかりである。 一方、領地を持つ貴族となると、その土地からの莫大な利益を享受することができる。もちろん、そのうちの何割かは税金として政府に納めなければならないし、領地によって収入の度合いは異なってくるのだが......。 「そうですよ。いくら戦場で手柄をあげたとはいえ、破格の出世ですよねえ......」 そう言った部下の声に羨望の響きが混じっているのを、ド・ゼッサールは聞き逃さなかった。 ......これだ。 ド・ゼッサールは、少し心配になる。 「おまえたちも、しっかり励めばいい。アニエス殿やサイト殿の例でもわかるように、手柄をあげた者には、それ相応の恩賞が与えられる。......その点、陛下は公平なお方だ」 「......はい!」 元気よく返事する隊員たち。 その場の噂話は、それで終わりとなった。 しかし......。 「やはり、心配だな......」 誰にも聞こえぬよう、小さくつぶやくド・ゼッサール。 昨日の街での一件を見てもわかるように、サイト・ヒラガは、街の民衆の間では英雄として持ち上げられているのだ。それだけでも面白く思わない貴族はいるだろうに、領地まで下賜されるとなれば、どれだけの嫉妬を生むことであろうか。 ......ド・ゼッサールとしては、別にサイト・ヒラガの身がどうなろうと、それは知ったことではない。問題は、これが女王陛下の政策に端を発しているということ。 もめごとの火の粉が、王宮や女王の近辺まで及ぶ可能性がある以上、彼も対岸の火事という気分ではいられない。 「......だが、もめごとが起こるにせよ、今日明日の話でもあるまい」 ならば。 今のうちならば、少しは余裕もあるだろう。 「東の宮まで行ってくる」 ド・ゼッサールは、座っていた椅子から立ち上がり、部下に声をかけた。 「東の宮へ......?」 「そうだ。少し調べておきたいことがあってな。......しばらくわしは王軍の資料庫にこもっているから、何かあったら、そこまで呼びにきてくれ」 そう言って彼は、魔法衛士隊の詰所から出ていった。 ######################## 一日の仕事も終わり、夜になって......。 ド・ゼッサールは、いつもよりも早く、王宮の門を出た。 責任感の強い彼にしては珍しい。自身は当直ではなくとも、部下の隊員が警護についている以上、なるべく遅くまで王宮に留まるのが、ド・ゼッサールの日課であった。 彼の習慣は魔法衛士隊の全員が知るものであり、今夜の早めの帰宅は、門番をしていた者の目にも好奇に映ったらしい。 「......おや?」 王宮の門の前、幻獣に跨がり闊歩していた隊員の一人が、ド・ゼッサールに声をかける。 「隊長、今日は早いんですね」 「まあな。ちょっと寄るところがあってな」 この隊員が騎乗しているのは、獅子の頭に蛇の尾を持つ幻獣、マンティコア。つまり彼は、魔法衛士隊が一隊に統合される前からの、ド・ゼッサールの部下である。 昔からの仲であるため、上官と部下という立場ほど堅苦しくなく、気軽に言葉を交わす二人。 「......寄るところ......ですか?」 「ああ。今夜のわしは『黒い雄牛』亭という酒場にいるから、何かあったら、そこまで連絡を寄越してくれ」 「『黒い雄牛』亭......ですね? わかりました」 隊員は、なるべく表情に出さぬよう、心の中だけでニヤリと笑う。彼は常々、苦労性の隊長も少しは世俗で遊興するべき、と思っていたからだ。 表向きは澄ました顔で、彼は隊長を送り出した。 「では、いってらっしゃい。お気をつけて」 ######################## 「ここ......だな?」 ド・ゼッサールが見上げる先にあるのは、入り口の上に掲げられた丸い看板。 描かれているのは、一頭の黒い牛。ややデフォルメされ擬人化されたそれが、入ってくる客を見下ろすように、こちらへ目だけを向けていた。 「ふむ......」 唸るように一言つぶやいてから、ド・ゼッサールは、店に入っていく。 「いらっしゃいませ」 彼を出迎えたのは、立派な革の胴着を身につけた小太りの男。 この店の主人であろう。 入ってきたド・ゼッサールを一目見ただけで、普通の貴族とは違うと――これは上客になると――判断して、自ら相手しようと出てきたらしい。 「......そうだな。どこか奥の方の......静かに飲める席に、案内してもらおうか」 「それでしたら、どうぞ、こちらへ......」 席へと案内されながら、ド・ゼッサールは店内を見回す。 店は繁盛しているようだった。給仕の娘たちが、忙しそうに、酒や料理を運んでいる。 店名の『雄牛』に対して『雌牛』のつもりであろうか。彼女たちは、胸元を強調するようなデザインの、白と黒の衣装に身を包んでいた。カチューシャの両脇にもケモノ耳っぽい膨らみがある。 そして。 そうした娘たちの一人と、目があった。 「まあ! ド・ゼッサールさま......?」 声を上げたソフィーに、ド・ゼッサールは軽く手を振って、挨拶する。 そんな二人を、店長は見比べつつ、 「......ソフィーのお知りあいのかたでしたか......?」 「うむ」 ド・ゼッサールが頷くと同時に、ソフィーが駆け寄ってきた。 「嬉しいですわ! 来てくださって!」 満面の笑みをみせるソフィー。 本気の笑顔なのか、酒場の営業スマイルなのか、ド・ゼッサールにはわからない。 傍らでは、店長も微笑んで、 「......そうですか。ならば、貴族さまのテーブルは、ソフィーの担当ということで......」 「はい」 朗らかに答えるソフィーに彼を任せて、店長は、奥へと戻っていった。 店長の姿が見えなくなったところで、ソフィーはド・ゼッサールに体を寄せ、小さな声でささやく。 「店長も店の仲間も、一昨日や昨日のことは知らないのです」 「......ほう?」 案内された席に座りながら、ド・ゼッサールは、小さく疑問の声を上げた。 これに対してソフィーは、メニューを説明するかのような格好で、体を少し屈めつつ、 「あんまりオオゴトにしたくなかったですし、店の者たちを厄介ごとに巻き込みたくもなかったですから......」 「しかし......事件の発端は、この店に例の二人が来たことであろう?」 はたから見ればメニューについて話し合っている、と見える雰囲気で、話を続ける二人。 「はい。......ですが、あの二人は、目立たぬ席で、目立たぬように座っていましたから。給仕した私以外の者にしてみれば、日に何組もある一見の客の一組に過ぎません」 「なるほど」 昨日ソフィーから聞いた話を思い返しながら、ド・ゼッサールは、あらためて店内に視線を走らせた。 繁盛しているといっても、満席というわけではない。実際に今、彼のテーブルだって他の客からは離れており、ソフィーとの会話も誰にも聞かれない状態だ。 ......そもそも、そういう雰囲気だからこそ、例の二人も半ば安心して、秘事を話し合っていたのであろう。それを運悪く、担当給仕のソフィーが聞いてしまった......。 「さて。では......」 突然、ソフィーの声のトーンが変わった。 内緒の事情説明は終わり、ということだ。 「......ご注文は何になさいますか?」 「そうだな......。ワインと、あとは何か適当に食べるものを。......まずは、この店一番のお勧めをもらおうか」 努めて明るく、ド・ゼッサールは言葉を返した。 ######################## 「お待たせしました」 店の裏口のドアから、ソフィーが出てくる。 彼女に言われたとおり、裏に回って待っていたド・ゼッサールは、軽く手を振って「たいして待っていないから気にするな」という意を示した。やや上機嫌なのは、たっぷり飲み食いした後だからなのかもしれない。 ......彼女の上がりの時間まで外で待っていたわけだが、実質、ソフィーが私服に着替えるのを待っていたようなものである。 なにしろ今日の彼女は、ずっとド・ゼッサールのテーブルに張りついており、ずっと彼の相手をする形だったのだから。 「では、行こうか」 「はい。ありがとうございます」 先に礼を言ってから、彼と並んで歩き出すソフィー。 「でも......すいません、わざわざ......」 「いや、いいのだよ。......昨日の今日だからな」 夜の闇に乗じて、また昨日の二人組が襲ってくるかもしれない......。 それを心配して、ド・ゼッサールは、彼女を家まで送り届けることにしたのだ。そもそも、彼が今宵『黒い雄牛』亭にやって来たのも、長い時間そこに居座っていたのも、これが目的である。 ......それくらい、聡明なソフィーにもわかっているであろう。ド・ゼッサールは、そう思っていた。 「では、御言葉に甘えて......」 それ以上は特に言葉を交わすこともなく、黙ったまま二人は、酔っぱらいで賑わう繁華街を歩いてゆく。 時折、すれ違う男たちがチラッとこちらを見ることがあったが......。 どうやら、彼らはソフィーに目をやっているらしい。 特に変わった点があるわけでもないのに......と思いつつ、ド・ゼッサールは、傍らの少女を横目で一瞥。 「なるほど......」 思わず、小さくつぶやいていた。 ......今日のソフィーの服装は、昨日とは違う。街娘の間で流行っているデザインであろうか、胸元の開いたワインレッドのワンピースに、茶色い革のブーツ。それに赤茶色のベレー帽をかぶっていた。 濃赤色を基調としてコーディネイトされており、彼女の特徴的な赤毛――桃色と言っていいくらいの淡い赤毛――と、よく似合っている。もともと愛嬌のある顔立ちをしているわけだし、これならば、すれ違う男たちが振り向くのも無理はない。 「......なんでしょう?」 小首を傾げながら、見上げるようにして尋ねるソフィー。 彼女に対して、彼はバタバタと手を振る。 「いやいや、なんでもない。気にせんでくれ」 やや照れたように視線を逸らしながら、彼は思った。 ......同じ私服でも、まるっきり昨日とは雰囲気が違うな、と。 昨日のソフィーはフード付きのローブに身を包んでおり、ド・ゼッサールの目から見ても、なんとなく野暮ったい感じがしていた。 なぜ昨日は、あのような服装を......? そんな疑問もチラリと頭に浮かぶが、それも、すぐに消える。仕事帰りと休日とでは、女性の服装が異なるのも当然であろう、と自分を納得させたのだ。 そして、なによりも。 ソフィーのファッションについて、考察している場合ではなかった。 「......来ました」 小声でつぶやき、ソフィーがピタリと足を止めたからである。 「ふむ......」 彼も鋭く目を細めた。 ちょうど二人は今、人通りも少なく、喧噪もない路地に入り込んだところであった。 その路地の奥に......いる! 「なるほど......そうか......」 一度戦った相手だから......かもしれない。 昨日はわからなかった、ごく薄い殺気。 今夜のド・ゼッサールは、それを何となく、感知することができた。 ......間違いない、昨日の黒ずくめ二人組である! 「やっぱり......また......」 震え気味の声が、ソフィーの唇から漏れる。 彼女の方を見もせずに、ド・ゼッサールは、言葉だけを投げかけた。 「安心しなさい。今夜のわしは、昨日とは違う。......ちゃんと対策を立ててきたからな」 口の端をわずかに上げて、自信に満ちた笑みを作るド・ゼッサール。 それは、少女を元気づける表情のはずであった。 ######################## 「ラナ・デル・ウィンデ」 ド・ゼッサールの呪文詠唱は、黒ずくめたちが動き出すよりも早かった。 先手必勝とばかりに、相手が杖を抜く前に、杖を振るド・ゼッサール。 これが貴族同士の決闘であるならば、卑怯者のそしりを受けるかもしれないが、この黒ずくめたちが相手であるならば、こうした戦い方も許される。 ゴウッ! 彼の放った『エア・ハンマー』が、黒ずくめたちを二人まとめて吹き飛ばす。 追撃するかのように、彼は、倒れた男たちに向かって走り出し......。 「悪く思わんでくれ。今、ラクにしてしんぜよう」 二人が起き上がるよりも早く、ド・ゼッサールは、次の呪文を唱えていた。 彼の杖から、今度は炎が噴き出し、黒ずくめたちに襲いかかる! 「......わしの得意系統は『風』だがな。初歩の『発火』くらいならば、わしでも扱えるわい」 これが、彼の用意してきた『対策』であった。 ......トリスタニアの宮殿、東の宮の一隅には、王軍の資料庫が設けられている。王軍でも高位の者しか立ち入れない場所であるが、ド・ゼッサールは、全魔法衛士隊のトップに立つ男。資料の閲覧をするにあたり、困ることはなかった。 その資料庫にて、今日の昼間。彼は、アンリエッタ女王誘拐事件について、資料を読み直していたのである。 彼が知りたかったのは、あの事件でヒポグリフ隊を壊滅させた死人たちのこと。致命傷を受けても活動を止めぬ『死人』たちの弱点として、そこに記載されていたのは......。 「なるほど......。『炎がきくわ、燃やせばいいのよ』か......。あのゲルマニアのレディの発言とやらは、本当だったようだな」 今。 彼の目の前で、黒ずくめの一人が火に包まれ、燃え尽きようとしていた。 しかし。 「くっ! しょせんわしの炎では、この程度か......」 資料によれば、死してなお動き回るアルビオン貴族たちを何人も倒したのは、トライアングルの『火』の使い手。 一方、ド・ゼッサールは『風』のメイジ。彼の炎では、一人を焼くのが精一杯であった。 ......黒ずくめの一人が、焼け崩れる仲間を見捨てて、その場から逃げてゆく! 「待て!」 追いかけようとしたド・ゼッサールは、いったん後ろを振り返り、 「すまんが、あなたを家まで送ってやれなくなった! わしは、これからあいつを追う!」 「......わかりました。今夜は私、一人で帰ります。......ド・ゼッサールさまも、どうか、お気をつけて!」 ド・ゼッサールが黒ずくめを追う間は――彼が相手を見失わない限り――、黒ずくめもソフィーを襲うことは出来ないはず。ならば、彼女を一人にしても大丈夫......。 ド・ゼッサールはそう判断したし、それはソフィーにも伝わったようだ。 彼女に向かって一つ大きく頷いてから、彼は、黒ずくめの追跡を開始した。 ######################## 「......ん?」 逃げる黒ずくめを追ううちに、ド・ゼッサールは、貴族の屋敷が並ぶ高級住宅街に来ていた。 どの屋敷もそれなりの広さの敷地を持つため、門と門との間隔はあいている。もし、その中の一つに飛び込めば、隣の屋敷と誤認することもないであろうが......。 「まずいな......」 どうやら、ついに敵の姿を見失ったらしい。 なにしろ、闇夜を走り抜ける黒装束。やはり目視は難しく、これまでも何度かロストしそうになっていたが、気配や殺気を頼りに、ここまでは追跡を続けてきたのだった。 不死身の怪物とはいえ、ダメージを負ったために、気配を消せなくなっていたらしい。それが消えたということは、だんだん回復してきたということか......? あるいは、ド・ゼッサール自身が疲れて、感覚が鈍ってきたのか......? どちらにせよ。 「ふむ」 彼は立ち止まり、地面に目を落とした。 振り返れば、自分の走ってきた跡がクッキリと残っている。 ならば......。 「これ......かな?」 近辺を丹念に探すうちに、黒ずくめの足跡と思われるものを発見。 それは、一つの屋敷へと向かって......。 その塀の前で消えていた。 見上げれば、一本の大木。どうやら、これを足がかりにして、塀を乗り越えていったようだ。 ......では自分も続くか? いや、黒ずくめは、無関係な貴族の屋敷に逃げ込んだのかもしれない。不法侵入ではなく、自分は正面から入っていった方がいいのでは......。 その場で彼が考え込んでいたのは、ほんの一瞬。だがその間に、隣の屋敷の門から、誰かが出てきた。 格好から判断すると、貴族ではない。出入りの商人、といったところであろうか。 「すまんが、ちょっと教えてくれ」 「......へい。なんでしょうか?」 ド・ゼッサールに話しかけられ、素直に対応する男。 夜遅くの仕事帰りで疲れているのかもしれないが、貴族が相手だけあって、嫌な顔一つ見せていない。 「こちらの屋敷は、どなたのものかな?」 ド・ゼッサールが指さしたのは、もちろん、黒ずくめが侵入したらしい屋敷である。 「はあ。そちらは......たしか、ゲルマニアから引っ越していらした貴族さまで」 「ゲルマニアから......?」 「はい。たしか御名前は......ブランケンハイム伯爵とおっしゃったはず......」 「そうか。ありがとう」 もう行ってよい、という態度で言うド・ゼッサール。 商人らしき男は、小さく頭を下げてから、足早に歩き去った。 「ブランケンハイム伯爵......か。知らんな......」 他国出身の貴族であるならば、下手に騒ぎに巻き込めば、ちょっとした国際問題に発展するかもしれない。 ......が、だからといって引き下がるつもりはなかった。 「......ならば逆に、こっそり調べて、こっそり立ち去るまでだ」 ニヤリと笑って。 彼は『フライ』を唱えて、大木を陰にしながら、塀を越えた。 ######################## 「やはり......」 降り立った庭の地面には、ハッキリとした足跡が残っていた。 今までよりも鮮明な痕跡だ。敵も、まさか屋敷の敷地内まで追われるとは、思っていなかったのかもしれない。 足跡は、屋敷の建物の玄関へと通じていた。 ド・ゼッサールも、それに続く。 「......ふむ」 まるで何かの罠であるかのように、玄関のドアは、わずかに開いていた。 臆せず、彼が中に飛び込んだ瞬間。 「助けてくれぇぇぇぇっ!」 奥の方から聞こえてきた悲鳴。 ド・ゼッサールは、ダッと走り出す! 「あそこかっ!?」 廊下の突き当たりにある部屋だ。 扉が大きく開かれており、ここからでも中の様子が、少し見えるくらい。 入ってすぐのところに倒れているのは、例の黒ずくめ。『火』のメイジにやられたらしく、赤々と燃え、室内を照らす明かりとなっていた。 床の材質は木材よりも石に近いのか、さいわい、室内に燃え移ってはいない。 そして。 その向こう側には、争うような二つの人影......。 「やめたまえ!」 部屋に飛び込むと同時に、ド・ゼッサールは魔法を放った。 彼の風の槌が、二人のうちの一人を吹き飛ばす。 「きゃっ!?」 それは、今にも杖を振り下ろそうとしていた女性。 そう。 ド・ゼッサールは、一人の少女が老人を襲撃している場面に出くわし、これを止めたのであった。 「どういうことなのだ、これは!?」 杖を構えたまま、厳しく問い詰めるド・ゼッサール。 彼が睨みつける前で......。 彼女は、取り落とした杖を拾うこともなく、ただ、ゆっくりと立ち上がった。 「......止めないでください......」 特徴的な色の髪を振り乱しながら、懇願する彼女。 「彼は......あのエスターシュは、父のカタキなのです!」 そう言って叫んだのは......。 一人で家へ帰ったはずの少女、ソフィーであった。 (第四話へつづく) |
「エスターシュ......?」 聞き覚えのある名だな、と思いつつ、おうむ返しにつぶやくド・ゼッサール。 だがすぐに気づいて、ハッとする。 「エスターシュ大公! かつてトリステイン王国宰相であられた、あのエスターシュ大公か!?」 腰砕けで座り込んでいる老人へ、ド・ゼッサールは目を向けた。......ゲルマニアから来たブランケンハイム伯爵......のはずであるが......。 彼の視線を追うように、そちらへ顔を向けながら、ソフィーが言う。 「そうです。そのエスターシュです」 エスターシュ大公。 フィリップ三世の御代に、トリステインの宰相を務めた男である。政治の才能だけは欠けていた『英雄王』に代わって、政治・外交・経済を一手に引き受け、改革を次々と行った。その若さも相まって、百年に一度の傑物と噂されるほどであったが......。 若さ故であろうか、内に秘めた野心も、余人には計り知れぬレベルであった。 王宮の魔法衛士隊を壊滅させ、自分のユニコーン親衛隊を正式な近衛隊とし、そうやって王の警護も全て自分の配下で固めた後、ついには玉座を奪い取ろうという、恐るべき陰謀......。 その過程で、吸血鬼や不死の怪物まで用いたエスターシュであったが、結局、彼の計画は失敗。ついには失脚したのであった。 「この老人が......エスターシュ大公......」 ド・ゼッサールの瞳に、憐憫にも似た色が浮かんだ。 エスターシュは政治家としてだけでなく、メイジとしての技量もなかなかのものだった、と聞いていたからだ。特に、その巧みなブレイドさばきは恐るべきもの、とも言われていた。 それが、どうだ。 かつての黒髪ももはや白髪と変わり、すっかり痩せ衰えた老貴族。体力どころか、杖を振るって戦う気力や精神力すら、もう残っていないのであろう。 「わしは......わしは、ただ静かに余生を過ごしたいだけなのじゃ......。せめて最後くらいは、このトリスタニアで......」 ブツブツつぶやきながら、座り込んだまま、ジリジリと後ずさりしていく。 老貴族の言葉を聞きながら、ド・ゼッサールは思い出していた。 ......たしかエスターシュ大公は、大逆罪に近い罪を犯しながらも、死罪とはならなかった。これまでの功績を鑑みて、というだけではない。陰謀の数々は明るみになったものの、直接フィリップ三世を狙う罪は立件できなかったし、また、エスターシュの息のかかった高等法院や貴族たちが助命嘆願に走ったためである。 結局、すべての官職とほとんどの財産を剥奪され、一貴族として領地に追いやられる、という形に収まった。同時に、その小さくなった領地から、一生出ることを禁じられたはずであるが......。 「......偽名を用いて、王都に戻ってきていたわけか」 唸るようにつぶやくド・ゼッサール。 目の前のエスターシュに、もはや、かつてのような悪事を為す力はなさそうだ。年を経て、すっかり性格も丸くなってしまった老人......。 本人の言うとおり、おそらく昔の栄華を懐かしむ意味で、トリスタニアで『静かに余生を過ごしたい』と考えたのであろう。 しかし......。 「......逃がさない......」 その言葉と同時に。 ソフィーが、落ちていた杖を、再び手にしていた。 「ひっ......!」 彼女の態度に怯えたのであろうか。 老貴族は、弱々しく、しかし慌てたように立ち上がった。そのままフラフラと部屋を出て行く。 「待ちなさい!」 叫んで追おうとするソフィーであったが......。 今度は、彼女にストップをかける者がいた。 ド・ゼッサールが、彼女の行く手に立ちふさがったのである。 「行かしてやりなさい」 「なぜ!? どうしてです!?」 「彼は......もう無力な老人であろう」 あの黒ずくめ二人は、おそらく、かつての手ごまの残り。いまだに自由に使える、最後の死体兵士だったのだ。いや兵士というより、ちょっと腕の立つ従者、くらいの存在だったのかもしれない。 それを二体とも倒されたエスターシュに、もはや何が残っていようか。 自らの屋敷を飛び出した彼に、もう逃げ込む先はないはず。そもそも、彼に協力しようとする貴族がいるのであれば、彼もこんな屋敷でヒッソリと隠遁生活なぞ――死体だけを従えた生活なぞ――していなかったであろう。 だからといって、助けを求めて役人のところへ駆け込んだとしても、それはむしろ自殺行為。あの『エスターシュ大公』だと知られてしまえば、領地に送り返されるか、あるいは、蟄居命令を破ったということで収監されるかもしれない......。 「でも......でも......あいつは......」 まだ何か言おうとするソフィーを制して、ド・ゼッサールは尋ねる。 「ソフィー。あなたは......メイジだったのか?」 彼は、彼女の持つ杖をジッと見ていた。 ソフィーは苦笑いしながら、首を横に振り、 「......私は貴族じゃないですけど、でも、父は貴族でしたから。その血を引いている私も、少しは魔法が使えるんです。......簡単な『発火』程度くらいですけどね」 「そうか......」 表向き、魔法が使えるのは貴族だけである。 だが実際は、父親がメイジであるならば、母親がメイジでなくとも、子供は魔法が使えるというケースもあるのだ。 たとえば、人間どころか、エルフを母に持つメイジ......という例まで存在するくらいだ。そのハーフエルフの一件などは、さすがに極秘事項であるが、仕事柄、噂話のような形でド・ゼッサールの耳にも入ってきていた。 「お父上......か」 「はい」 半ば、うなだれるようにして、彼女はボソッと返事した。 ソフィーとしても、ここでド・ゼッサールと正面から戦って、実力で排除する、というつもりはないらしい。それが可能か不可能かくらい、彼女にも明白だったのだ。 そしてソフィーは、彼が部屋に入ってきた直後の言葉を、今また繰り返した。 「あのエスターシュは、父のカタキなのです」 ######################## 「私の父は、エスターシュ大公の親衛隊......ユニコーン隊の一員でした」 主人が不在となった屋敷の中、落ち着いて話の出来そうな一室に移動した後。 どこからか引っ張り出してきた酒のグラスを片手に、ポツリポツリと、ソフィーは語り始めた。 「そして母は......父の愛人だったのです」 ソフィーの母親は、さして裕福でもない商家に生まれた、ごくごく普通の街娘。ソフィーの父親と知り合い、二人は恋に落ちたのだが、平民と貴族とでは、身分が違う。一緒になれるわけもない。 さいわい、彼は裕福な貴族であり、彼女を秘かに囲うだけの経済的な余裕があった。彼女も、その愛人という立場に納得していたのだが......。 「母が私を身ごもった直後。父は突然、姿を消したのです」 それでも彼女は、もてあそばれたとか、捨てられたなどとは思わなかった。それだけ、彼を信じていたのである。 むしろ......。 戦か決闘か何かで、死んでしまったのではないか。あるいは、大怪我をしたのではないか。 そう考えて、心配になって探しまわり......。 ある日。 街中で偶然、何食わぬ顔で普通にユニコーン隊として活動している彼を見かけた。 しかし彼女が近寄り話しかけても、ウンともスンとも言わない。見知らぬ他人のように、無視されるばかり......。 せいぜいが、手切れ金か何かのように、大量の金貨が詰まった袋をポンと渡される程度であった。 ######################## 「......事ここに至り、さすがに母も、自分は裏切られたのだと思い始めたようです」 ほとんどカラになったグラスへ目をやりながら、ソフィーは言った。 「それでも私を産んで、育ててくれたわけですが......。やっぱり信じていた分、裏切られたショックも大きかったんでしょうね。私が物心ついた頃には、もう母は、酒浸りの毎日でした」 ド・ゼッサールは思い出す。 ソフィーの家にあった、やたらと強いリキュール。 あれは元々、ソフィーの母親が好んで飲んでいた酒だったのだ。 ......いや。 母親だけではあるまい。 あのボトルは、そんなに古いものではなかった。母親が亡くなった今でも、あの家には、あの酒を飲む者がいるのだ。 つまり。 惨めな母親を見ながら、自身も辛い思いと共に育ち、そして母親の後を追うように、ソフィーも酒に逃避するようになった......。 「......母は最後はアル中になって、ロクに働くことも出来ずに、死んでしまったんですよ」 ド・ゼッサールの考えを知ってか知らずか。ソフィーは嘲るような、そして憐れむような表情を浮かべていた。 そして。 「ええ、母だけではないですわ。母と同じく......私も、母を捨てた父を恨んでいました」 酒に溺れた母親が酔っぱらって口に出す話題など、一つしかなかったのであろう。 母ひとり子ひとりの生活で、ソフィーは、父親に対する愚痴や恨みつらみを聞かされ続け、そうして大きくなったのだ。だから、大人になった少女は......。 「......いつか父を見つけ出して、復讐してやろう。いや復讐は大げさだとしても、せめて恨みごとの一つも言ってやらなければ、亡くなった母も報われません。......ずっと私は、そう思っていたのですが......」 いつしかソフィーは、酒場で働くようになっていた。 お金のためだけではない。 酒場には、貴族から平民まで、雑多な人々がやってくる。そして酒が入れば、舌も多少は滑らかになる。そうして出てくる話は、突拍子もない噂話が主ではあったが、時には貴族に関して、普通では知ることの出来ない情報が手に入ることもあった。 ......酒場での情報収集だけではない。休みの日には、彼女自身の足で街の中を駆けずり回り、噂のウラを取ることに努めた。そうやって父親の消息に通じる手がかりを探るうち......。 「私は、真相を突き止めたのです」 そう。 ついにソフィーは知ったのだ。 ソフィーの父親は、母親を捨てたわけではない、ということを。 最初に行方不明となった時点で、すでに彼は死んでいたのだ、ということを。 ######################## 「......ですから、その後に母が探し当てた父は、もう父ではありませんでした。あれは......エスターシュの死体人形だったのです」 「なるほど。そういうことか......」 ド・ゼッサールにも、ようやく事件の背景が理解できた。 ソフィーの父親は、エスターシュの反乱において用いられた、多くの死人兵の一つだったわけだ。 たしか、記録によれば......。ドーヴィルのように街の住人が丸ごと、動く死体とされたケースもあったが、エスターシュが用いた『死体』は、そうした平民のものだけではない。自身の親衛隊であるユニコーン隊のメンバーまで、一部は不死の怪物に変えられていたらしい。 ......と、そこまで思い出したところで、彼は、ふと気がついた。 「......ん? エスターシュ大公の事件は、今から三十年以上も昔の話のはず。そこでお父上が死体にされた、ということは......」 ソフィーは言ったはずだった。 父親は彼女が生まれる前に死んだ、と。 父親が姿を消したのは母親が彼女を身ごもった直後だった、と。 「そうですよ」 怪訝な顔をするド・ゼッサールに対して、ソフィーはクスッと笑いながら、 「私......若く見えるでしょう? もともと童顔ですし、それに、若作りしてサバを読むのも、酒場女の仕事のうちですから」 「......」 絶句するド・ゼッサール。 考えてみれば、ソフィー自身は彼に対して年齢を告げたわけではなく、勝手に彼が「若い少女だ」と思っていたに過ぎない。 ......まあ、今の彼女の言い方からすると、わざと誤解させていたようではあるが。 「......そ......そうか......」 言葉を絞り出すようにして、ド・ゼッサールは再び口を開いた。とりあえず、ソフィーの年齢の件は頭の隅に押しやって、 「......ともかく、そういうことであるならば......あなたが事件に巻きこまれた、というのは嘘だったわけですな? むしろ、あなたの方から、エスターシュ大公をつけ狙っていた......」 父親の仇として、そして、母親の人生を狂わせた原因として。 ソフィーの恨みの矛先が、父親からエスターシュへとシフトしたのも、当然であろう。 そのエスターシュの手ごまと、彼女との関わりが、偶然のはずがない。 おそらく......。 父親の死の真相を知ったソフィーは、さらに調査を続けて......。 エスターシュがトリスタニアに舞い戻っていたことまで、とうとう突き止めたのだ。 「ええ、もうおわかりでしょう。例の二人が一昨日『黒い雄牛』亭に来た......というのは、私の作り話でした。一昨日には、何も起こっちゃいません。実際のところは、私の方から昨日、この屋敷に攻め込んだのですが......」 昨日のソフィーが野暮ったい服装だったのも、そういう理由だったのか......。 ド・ゼッサールは、妙に納得してしまった。 黒装束というほどではなかったが、それでも暗色系の、フード付きローブ。あれは彼女なりの、正体を隠そうという、目立たぬ格好だったわけだ。 「......あの二人に阻まれ、逆に追われていたところで、ド・ゼッサールさまと出会ったのですよ」 「ふむ......」 小さく唸るド・ゼッサール。 彼が『黒い雄牛』亭を訪れた際、ソフィーは「黒ずくめたちの一件は店の者にも内緒だ」と言っていたが......。 作り話であるというなら、これも納得である。おそらく、ソフィーは心配したのであろう。彼が下手に店の者に聞いて回ったら、嘘がバレるかもしれない、と。 それに、本当は黒ずくめたちは店に来ていないのであれば、当然、ソフィーが尾行されたという話も嘘。ド・ゼッサールは「ソフィーが本当に彼らの気配を察知できたのか」と疑問に思ったものだったが、それに関する考察も無駄だったわけだ。 ただし。 そもそも尾行などされていない以上、「黒ずくめたちにはソフィーの家は知られていない」という点に関しては、間違っていなかった。 そして、知られていないと言えば、もう一つ......。 「......では彼らは、あなたが『黒い雄牛』亭に勤めていたことも知らなかった......?」 「そうみたいですね。もし知っていれば、今夜だって、もっとお店に近いところで襲ってきたかもしれません。......たぶん昨日の今日だから、彼らは私を探し回っていて......それで、偶然出くわしたんでしょう」 今夜の襲撃について、自分なりの推測を述べるソフィー。 ド・ゼッサールも、小さく頷いていた。 ......余生を静かに過ごしたかっただけのエスターシュが、積極的にソフィーを襲うわけもない。ただ身に振りかかる火の粉を払う意味で、屋敷に攻め込んだ少女を探索していたに過ぎない。 もちろん、エスターシュは、あの黒ずくめたちに対して「見つけた場合には始末せよ」くらいの命令は与えていたであろうが......。 それだって、あの『死体』たちには単純な命令しか出せなかったから......ではあるまいか? たしか昔の反乱においても、エスターシュ自身が死人兵に直接命令を与えていたわけではなく、間に立つ者がいたはず。エスターシュだけでは、細かい指図をすることは出来なかったのかもしれない。 そう考えれば、今日『死体』を二体とも街に放ってしまった理由も、説明がつく。本来ならば、片方を探索に出し、もう片方は警護に残しておくべきだったのに......。きっと、二体セットでしか動かせなかったのであろう。 ......ド・ゼッサールの頭の中で、いくつものパズルのピースが、ピタッ、ピタッと嵌っていく。彼は静かにソフィーを見つめながら、総括するように言った。 「......それが今夜の真相か。ああやって、わしが奴らの相手をしているうちに......あなたは、この屋敷へ先回りしたわけだな?」 「ええ。あの二人さえいなければ......と思ってましたから。ド・ゼッサールさまが一人倒して、もう一人を追い回していたわけですから、またとない好機だったんです」 最初から――ド・ゼッサールの実力を知った時から――、そうやって彼を利用する魂胆だった......。 ド・ゼッサールも、ようやくそれに気づいたが、敢えて口には出さなかった。 ソフィーも、ハッキリそう言ったりはしなかった。 ......ひととおりの説明が終わり、しばしの沈黙が訪れる。 静寂の中、ソフィーは、グラスに残ったわずかな酒を飲み干して......。 「......で、どうするつもりです? 貴族のエスターシュを襲った罪で......私を役人に突き出しますか?」 問い掛ける彼女の顔には、複雑な笑みが浮かんでいた。 ######################## 結局。 ド・ゼッサールは、ソフィーを捕えはしなかった。 この事件に関しては全て、彼の胸の内に納めることにしたのである。 ......今さらエスターシュの事件をほじくり返すこともない。エスターシュが秘かに王都に戻ってきていたことだって、もはや彼が王政府に危害を与える人物でないならば、わざわざ表沙汰にする必要もあるまい、という判断である。 「たしかにあなたは、エスターシュ大公を襲った。だが、とどめを刺すには至っていない。それは、わしが止めたのだからな」 ド・ゼッサールは、そう言ってソフィーを解放したのだった。 ......ただし......。 あの夜、屋敷を飛び出したエスターシュは、逃げる途中で力つきたらしい。 特にハッキリとした外傷もなかったので――しょせんソフィーが与えたダメージなどその程度――、エスターシュの死は、老人の自然死として処理された。夜中に年寄りが一人で散歩なぞしているから、突然、倒れてしまったのだ......と思われたようだ。 この事後処理に、ド・ゼッサールは関わっていない。管轄が違うので、知らんぷりしておいた。 もちろん、むこうから話を聞きにきたら、それなりに情報提供しようかとも思ったが......。 担当の役人は、あまり有能ではなかったらしい。当日の夜ド・ゼッサールが屋敷を訪ねたことも知らず、もちろん老貴族の正体も知らぬまま、異国から来た孤独な老貴族の死として、事件を片づけてしまった。 だから......。 あのエスターシュが王都トリスタニアで死んだと知る者は、ほとんどいない......。 ######################## その後。 ド・ゼッサールは、ソフィーの家の近辺には、二度と近づこうとはしなかった。 あの『黒い雄牛』亭にも、二度と足を運ばなかった。 ただ......。 のちに彼は、風の便りで聞いた。『黒い雄牛』亭の看板娘の一人が店を辞め、トリスタニアの街からも去っていった、ということを。 それがソフィーだったのかどうか、ド・ゼッサールは知らない。 敢えて知りたいとも思わなかった。 (「桃色の研究」完) |