守ってあげたい 61話
逝かないで、母さん。私を一人にしないで。
ゆっくりと、遅くなる鼓動が映し出される心電図モニター。
『覚悟して下さい。』
担当の医師にそう告げられて、丸3日が経過していた。
母は待っていた。
そう、感じていた。誰でもない、母は父が来るのをずっと待っていた。
だけど、父は来ず。母は、逝ってしまった。
私が側に居るのに、こんなに近くに居るのに母が本当に必要としているのは父だった。
それが、もどかしくて悲しくて母が父に会えずに逝ってしまった事が哀れで、の心の中はぐちゃぐちゃだった。
母さんが亡くなる夢を見た。
当然ながら、夢見は最悪で久しぶりに泣きながら起床してしまった。
そんな夢を見ても、何の変わりの無い一日が始まる。
自分と幸村の為にお弁当を作り、病院に出かける。
いつものように、微笑んで、他愛の無い話を続ける。
でも、朝見た夢のせいか、慣れない神奈川での暮らしのせいか精神的にも、肉体的にも疲れが見えはじめていた。
夕方になった頃に、真田がお見舞いにやってきた。
県大会に向けての、オーダーの事での相談らしくて。すんなり終わりそうな話でも無かったので、適当な事を言って席を外す事にした。
幸村side
ちょっと飲み物買ってくる。そう言って出たきり、はかれこれ1時間ばかり帰ってこなかった。真田の訪問とあって気をきかせたのだろうが、それにしても遅すぎる。
病院の中では、携帯電話は使えない。だから、幸村はもっぱら、病院のディールームに置いてあるパソコンからフリーメールを使ってメールしていた。
に連絡を付けるのに、一瞬携帯へのメールと思ったが、病院内なので携帯自体の電源を落としていたら意味が無いことに思い至り、散歩がてら病院内を探す事にした。
中庭などを探した後に、屋上に上がって行くと予想通りが居た。
沈み行く夕日を見つめるその瞳が、寂しげでいてそれでいて大人びて見えた。
毎日俺に見せていた、明るい笑顔が普通になっていて。其れが、だと思っていた。
だけど、それは俺の思い込みでしかなかった。
25歳の異世界に居る未来のの心が、15歳のの中に居る事は、分かったつもりになっていた。
考え方や、料理の味が違っていたりと相違点は探そうとすればするほどに沢山あった。
前のも寂しげな表情をすることはあった。でも、悲しそうとも辛そうとも取れる、何処か諦めにも似た、憂いをおびたその瞳は俺の知っている、の表情じゃなかった。
声を掛けるのを躊躇っていると、俺の心の声が聞こえたのか不意にはこちらに振り向いた。
「あら、もう副部長帰ったんだ?」
こちらを見た、は先ほどまで浮かべていた表情から、さっきまで俺が見ていた明るいに戻っていた。
「あ、うん。部屋で、戻ってくるの待ってたんだけど。遅いから迎えに来たよ」
「遅いって言っても、まだ30分くらいしか経って無いでしょ?」
「あれから、1時間は経ってるよ」
「ちょっと、ボーっとしすぎちゃったみたいね」
夕日を頬にうけて、微笑むがあまりにもいつもどおりでどこかやるせない気持ちになる。
「何考えてたんだい?」
「昔の事」
「昔って、いつの事?」
「こっちの世界じゃ、1年半前の事って言えば分かる?」
一年半前つまり、それは彼女のお母さんが死んだのはちょうどそれくらいだ。
「お母さんの事を思い出していたのかい?」
「うん。そう。辛い事ってあんまり思い出さないようにしていたんだけど、居るのが病院じゃない?だから、油断していると思い出しちゃうの」
茜色の夕日を頬に受け、微笑みを湛えて俺を見るの顔が、まるで泣いているように見えた。
自分の知らない所で、知らない時間を過ごした。10年後の君。
俺はその距離を埋めようと、少しだけ近づいた。
side
スルリと本音が出てしまった。
幸村の、ならこんな言葉は口にしないはず。だけど、弱った心がその自戒を解いてしまった。
私を見る幸村の瞳が、あまりに優しくて勘違いしそうになる。
「お母さんの事は残念だったね」
慈愛のこもった優しい言葉。
「うん、でも私にとっては10年以上前の事だから大丈夫なんだよ」
悲しみも、苦しみも昇華したはずだった。
なのに、こんなにも悲しくて苦しいのは何故なんだろう。
「我慢しなくてもいいんだよ」
暖かい微笑みを浮かべて、私を見る幸村。その言葉の真意を問いかねて、どう返事を返せばいいか分からなくて、ただその瞳を見つめ返す事しか出来なかった。
「やっぱり、昔のようにはいかないな」
「え?」
「『我慢しなくてもいいんだよ』そう、言ったら“彼女”は俺の胸で泣いてくれたんだ」
「……そう、なんだ」
日記にも書いてなかった事実。幸村と昔の自分の一年半前の過去。
チリッ心に小さな痛みが走る。
「うらやましい」
堪えなければいけないのだけれども。自分の唇から零れ落ちるように言葉があふれる。
「何が、羨ましいんだい?」
「ううん、私には幸村みたいに側に居て励ましてくれる人居なかったから、ずっと一人で……。誰にも母さんの事話せなくて、一人で見送ったの。流石にその時は、辛かったよ。さっきも言ったけど、私にとって10年以上前の話だから、聞き流してくれてかまわないから」
愛されているこちらに居た自分。その自分と今の自分の違いを聞く度に、昔の傷が疼きだす。塞がったはずの傷だった。
そのはずなのに、―――お前は愛されて居なかった。
それを思い知らされるだけで、簡単にその傷は蘇り心の奥がシクシクと痛み出す。
ことさら、何事も無かったかのように明るくそう言うに努めた。
だけど、次の瞬間。ぎゅ、っと強く抱き閉められた。
「え?」
幸村に抱きしめられている。それが、分かって一番に感じたのは嬉しさだった。
夏だから、不快に感じてもおかしくないのに。幸村のその暖かな腕は、私には心地良かった。
「な、なに?何なの」
「今更、遅いけど。その頃の君を、俺が抱き閉めてやりたい。そう、思ったから実行に移しただけだよ」
「……。幸村は優しいね」
残酷な程に。
「そんな事は、無いよ。俺は弱い人間だから、こうやって君を手放せずに居る」
ゆっくりと、慈愛に満ちた仕草で背中を撫でられ心の中まで癒されるような気持ちになる。
でも、幸村が優しいのは、過去の私の事を好きだからこそ、現在の私を気遣ってくれている。そう、思い至ると癒されている。そう、思っていた心に軋みが走る。
ここまで、来てやっと私は気付いた。
仁王に言われていた事の意味に、やっと分かった。
贖罪の為に幸村の側に居るんじゃない、私は―――幸村の事が好きなんだ。
コノヒトガスキ
何て単純で、原始的な感情。
休学までして、幸村の側に居る事にした理由は、贖罪の為なんかじゃなかった。
私が、幸村の事を好きだったから、側に居たい。そう、思ったから側に居たんだ。
認めてしまえば、何て簡単だったんだろう。
過去の私とか、現在とか関係無く。
ただ、ただこの人が好きで側に居たかったから。
ここに居る。
私の事を見て欲しい。そう、口に出せずに私はこみ上げる涙を堪えて、幸村の背を抱いた。
2008/02/15