守ってあげたい 54話
開いた扉の先には、読みかけの本をパタリと閉じて、扉を開けた私を静かに見ている幸村が居た。
「来てくれたんだね」
良く通る綺麗な声。
私を見て、幸村が薄く微笑う。
それを見て、私の感情が高ぶるのが分かった。
秀麗な容姿、流れる水のような静かな雰囲気の中に見え隠れする焔のようなその視線。
「メールくれたでしょ?それに、私も気になってたから……。」
柳に頭下げられたから来ました、などとそんな無粋な事を言うつもりは無かった。
なんだろう、この感情は幸村を見ていると胸が切なくなってくる。
これはきっと、私の感情じゃなく15歳の私の想い。
幸村の事が好きで好きで堪らなかった、私で居て私じゃない存在の記憶から来る感情。
そう割り切ろうとしても、心が叫ぶ。
―――――コノヒトガ、スキ。
進んで来た訳じゃない、乗り気じゃなかったはず。なのに、幸村へ向かうこの気持ちはまぎれもない好意だった。
「遠いところ来てくれて、嬉しいよ」
記憶の中の彼より、白くなった肌、少し痩せた身体。
「ううん。それより、体調はどうなの?」
微笑んでいるその笑顔に、どこか違和感を感じる。
私の記憶している、笑顔に比べて現在のその顔とは雰囲気が違う。
何処かピリピリとしていて、嵐の前の静けさのような、薄氷を履むような感覚がする。
「体調?今日はことの他いいよ、が来てくれたからかな?」
屈託なく笑うその笑顔に、よくない予感がして意識せず後ずさってしまった。
「どうかした?……その花、俺へのお見舞いにくれるんじゃないの?」
「あっ……。ええ。花瓶何処かしら?」
「後で俺がやるからいいよ。かすみ草だね。初めてここで、会った時もこの花を持っていたね」
「よく覚えているわね」
そう言い終るとすぐに、手首を掴まれ引き寄せられた。
あっと思った後には、既に幸村に抱きしめられていた。
両手ごと、拘束されるように抱かれる。
パサリ、花束が床に落ちる。
「君はやっぱり、俺のだ」
耳元で囁かれるその言葉を否定しようと、口を開けば幸村の口付けが落ちてきた。
「んっ……」
抗おうとしても両腕ごと抱きしめられているので、たいした抵抗は出来なかった。口付けが深くなろうとしたとき、ふいに拘束が緩んだ。
そのチャンスに、精一杯の力で振り解いて幸村の抱擁から逃げ出した。
「なっ…に?なんのつもり?」
上がった呼吸を整えつつ、問いかけると。幸村は、自分の両手を見つめた後いきなり笑いだした。
「ふっ……あははは…まったく、こういう時にも役立たずになる腕なんて、もうイラナイよ」
そう言って、いきなり両手の拳をベットの柵に打ち付けだした。
ガッ、ガツン、ガツン
肉と鉄がぶつかり合う鈍い音が響く。
突然繰り広げられる凶行に唖然としたのは一瞬だった。
頭で考えるより先に幸村の両手を押さえるべく、身体ごとぶつかっていた。
「やめて、貴方のその腕はテニスをする大切な手でしょ?どうしてそんな事するの」
「動かなくなる手なんて、イラナイんだよ。俺の手なのに、コレはちっとも言う事を効かない。だからね、これはその罰なんだ」
にっこり綺麗な顔で微笑まれて、そこでやっと幸村が常軌を逸するほどに追い詰められている事に気がついた。
ギランバレー症候群に似た病気、手足が自由に動かなくなる症状が出るというのを読んだことがあった。その事実が、どんなに幸村の精神を蝕んでいたのかそれを私は理解していなかった。
原作を読んで、強い人なのだろうと漠然と思っていた。だけど、何があっても揺るがずに平気でいられる人なんて、きっと居ない。
私は幸村にイラナイと言われた幸村の両手を私の両手で包み込んだ。
「きっと、治るわ。だから、お願いだから馬鹿な事しないで」
「…………。ホントウに?…治るのかな……」
小さく呟かれたその声があまりに苦しげで、胸が掻き毟しられるような思いがする。
私は、幸村の手術が成功することを知っている。だから簡単にそう言うことが出来た。だが、そんな事など知る由もない幸村にとって今現在不安な毎日の中にいるのだろう。
「治るわよ。私が保証するわ」
そう言うとすがるような瞳をして、幸村は私を見た。
トンと幸村の頭が、私の肩に触れる。
癒してあげたい、過去の私の感情なのか現在の私の感情なのかどちらとも分からないまま私はやさしく幸村を抱きしめた。
「さっきは、ごめん」
しばらくして、平静を取り戻した幸村がぽつりと呟いた。
未だ抱き合ったままだったので、ゆっくりと身体を離す。
「いいよって言ってあげたいけど、ああいうのはやめてね」
「うん。花持ってきてくれたでしょ。さっき何気なく、問いかけたら覚えてくれてたみたいだから……。昔のが帰ってきたそんな風に思ったんだ」
「え?…は、なの事?」
確かに、幸村と最初に病院で会った時にかすみ草を持っていた記憶があった。だから問われて、意識せずに返事をしていた。それを知っているのは、過去の自分しか居ないはずだから、“”が戻ったとそう勘違いしても無理は無いのかもしれない。
「ネタばらし、しちゃうと過去の夢を見るの。だから、知ってるの。後は、日記つけてたみたいだから。情報元はソコなのよ」
期待持たせて、ごめんね。そう続けると、思ったとおり幸村は少しだけ悲しそうな顔をした。でも、そう思ったのは一瞬ですぐ薄く微笑んだ優しい顔に戻っていた。
「戻った訳じゃなかったんだね。俺のは何処へ行ってしまったんだろう?」
責めるでもなく、問いかけるような口調でもなく呟かれる言葉。
目の前のお前は要らない、そう言われている様で少しだけいたたまれない。
「どうして私がこっちに来たのか分からないの……。」
「だから、戻る方法も戻す方法も分からないって事だね」
その問いかけにコクリとうなずく事しか出来なかった。
「一つ聞いてもいいかな?」
「いいよ」
「いつ、こっちの世界に来たの?」
「目が覚めたら4月13日だった。本当の時間では、クリスマスイブのはずだったんだけどね」
「じゃあ、俺が見たはホンモノだったんだね」
チクリ
何気ない言葉の中の、“ホンモノ”という言葉が私を傷つける。
お前はニセモノだ。そう言われているように聞こえた。幸村に他意は無い、それは分かっていても幸村が求めているのは、元の自分なのだから余分なのは今の自分な訳で……。
「どうして私こっちに来ちゃったんだろうね。本当ならここに居るはずの無い存在なのに……。ごめんね」
私が謝っても、どうなる訳じゃないってのは分かっていた。
だけど、私がここに居るからこっちの世界の“私”が居ない。
それは明白で、お前のせいだ。と糾弾されても仕方ないと思っていた。
だから、すんなり謝罪の言葉が口から出ていた。
幸村は私の謝罪の言葉を聞いて、はじめて私の顔を見たかのように目を見開いた。
「君が悪いんじゃないのは、分かってるよ。けど、責めるつもりは無かったけど、そんな風に聞こえたなら、謝るよ。ごめん」
「ううん。そうじゃないの。ただ、申し訳ないなと思って……。私はどう頑張っても、こっちの私にはなれないから。幸村が今、ここに居て欲しいのは私じゃないでしょ?」
「……………。」
そう問いかけても、帰ってくる言葉は無かった。
無言こそ肯定で、愛されていただろうこっちの世界の自分。姿かたちは一緒でも中身が違っていては、価値は半減なのだろう。
「だからこその、謝罪の言葉なの。あまり深い意味は無いから気にしないで」
落ち込みがちになる気分を、誤魔化すべくわざと微笑んで私はそう言っていた。
「……そ、れでも、側に居て欲しい。そう願うのは君にとって残酷な事だろうね?」
側に居て欲しい。その言葉を聞いて、私で居て私じゃない部分が喜んだ。
なんだろう、この嬉しいという感情は……。私個人としては係わり合いになりたくないそう思っていたはずだった。
だけど、心の一部が叫ぶ。
コノヒトガ、スキ。ソバニイタイ。と
だから私は、その心に従う事にした。
「手術するんだってね?」
私のその問いかけに少しだけ、幸村の表情が翳る。
「うん。するよ」
「手術するまでなら、側に居てあげる」
そう告げると、嬉しそうな複雑そうな顔をして幸村が笑った。
「ありがとう」
私の事を好きな人―――そしてきっと私を疎んじている人。
私はその人の側に少しだけ居る決心をしていた。
どっちにしろ、手術は成功する。
だから、少しの間だけの事だからと自分自身に言い訳をして幸村の側に居る事を選んだ。
それが更なる苦しみを呼ぶだなんて、思いもしなかったのだ。
2006.04.15UP