守ってあげたい 52話
土曜日の午後、私は柳と約束したとおり神奈川総合病院に向かうべく電車に乗り込んでいた。
出来るなら2度とこの地を踏みたくない、そう思っていた。
だけど、現実はそれを許さないらしい。
実直そうな態度で、ためらいも無く私に頭を下げてみせた柳の気持ちに答えるべくこうやって、神奈川に向かう列車に乗り込んだ。
あれから私の心が晴れることは無かった。
過去の夢は前ほど頻繁に見ることは無くなった。
だが、その代わりに記憶として私の中に刻み込まれようとしていた。
思い出そう、そう意識しないでも自然に過去の記憶が掘り起される。
立海大付属中学に入学して、初めて皆に出会った時の記憶やら、合宿に行った事や全国優勝を成し遂げて共にそれを喜んだりした事など…。
――――――それはまるで、私自身の記憶のように思い出す事が出来た。
いつか私はこの過去に侵食されて、25歳の私が消えてなくなるのだろうか?
眠って起きたら自分が無くなってしまうかもしれない。
そんな得体の知れない恐さと隣り合わせで、最近は眠るのが恐くてたまらなくなっていた。
寝不足で重い身体の上に、精神状態は最悪でこの状態で幸村に合う事を想像すると、気持ちが負けそうになってくる。
そんな私の状態などお構いなしに、列車は目的の駅に到着してしまった。
この間は駅のターミナルの中を迷い迷い来た道を、過去の私が知っていた記憶が作用して何の苦もなく歩みを進めた。
そんな何でもない、ふとした瞬間に当たり前のように思い出せる事に気付く。
駅から少し奥まった、母さんのお見舞いに行く時に寄っていた花屋で幸村へのお見舞いの花を買った。
夏の陽光が照りつけ、アスファルトが焼けるジリジリという音が聞こえそうなくらいの暑さだ。
歩いているだけでうっすらと汗が滲む。
その汗をハンカチで拭いつつ、坂を昇る。
花を抱え、坂道を登ろうとしていた時にありえない幻影を見た。
そこには、髪の長い私と幸村が連れ立って坂を下りて来ていた。
言葉も無く、二人連れ立って歩いていた。
俯きがちの私を支えるように肩を抱く、幸村。
ああ……。これ、覚えている。母さんが、倒れて何とか持ち直したんだけど。お医者さんに、次が同じような事があったら覚悟して下さい。そう言われた時だ。
小さく嗚咽を漏らしながら、休み休み歩いて帰る帰り道。
触れ合った体温にどれだけ勇気づけられたことか……。
そんな気持ちを思い出した。
幻影の二人はどんどん近づいてきて、私を通り抜けようとする。
――――来ないで、恐い。
そう思ったのを最後に、私の意識はぷつりと途切れ闇に包まれた。
仁王side
週末にが来る。それが分かり、俺は性懲りも無く待ち伏せる予定にしていた。
監督の都合か、土曜日の練習が午前中だけになったのでこれ幸いとが降りる駅へと向かっていた。
東京から、神奈川まで来るのに乗り継ぎなどで2時間はかかるらしいので午前中に来るとは考えにくく来るのなら午後からだとうと踏んでいたのだ。
一人暮らしのマンションに荷物を放り込んで、駅の改札口が見える場所に立つ。
時間にして40分くらい待った頃だろうか?
白のノースリーヴのワンピース姿のが駅の改札から出てきた。
人ごみに邪魔をされ、声をかけるタイミングを逃した俺はしばしそのままの後をつけることにした。花屋に入って白い小さな花束を抱えたが出てきた。
声を掛けようとしたが、は俺に気付かずにそのまま歩いていく。
華奢な背中を見つめながら、待ち伏せていたそう告げるバツの悪さにの後ろを歩く。
ピタリ
急にの歩みが止まる。
不審に思い、を見ても前方を見ているだけで何かが起こった訳でも無いらしい。
後ろから見ているだけではその表情まで分かるわけも無く、ゆっくりとに近づいて声を掛けようとしたその時、グラっとの身体が傾いたと思ったらそのまま俺の方に倒れこんできた。
青ざめたその顔色から、貧血と想像出来たが苦しそうに顰められた眉、その表情があまりに悲しそうで……。
「はて、どうするもんかのう?」
苦しそうなの表情に、何処かで休ませた方がいいだろうとは思ったのだが……。
病院に着くまでには徒歩で20分以上が歩かなくてはならず、それならまだ自分のマンションに連れ込んだ方が早いそう判断して、が買った花束ごとを抱え自分のマンションまでの道を歩いた。
抱き上げると、体重を感じさせないほど軽い。
初めて抱き上げた少女の軽さに感動してしまう。
こんな機会でも無ければ、が俺の自室に来る事など無いだろう。
偶然こんなシーンに居合わせた自分の強運に感謝しながら、仁王はマンションまでの道のりを軽い足取りで歩いた。
side
すうっと心地よい風が頬をなでる感触で目が覚めた。
先ほどまでの焦げつくような暑さと打って変わって、クーラーの空調が良く効いていて肌寒いくらいの中、タオルケットの柔らかな感触とほのかな暖かさが気持ち良くて、微笑みが浮かぶ。
「おぉ、目覚めたようじゃの?」
「…んっ、誰?」
特徴のあるイントネーションとその口調から、大体の想像は出来ていたのだけど。瞼を開けてその相手を確認するとそこには、想像どおり仁王が居た。
「ど、うして私がここに居るの?」
反射的にガバっと身を起こすと、額に濡れタオルが乗せられていたのかそれがズルリと落ちた。
タオルを拾い上げつつ、仁王を見る。
「偶然会うての、声掛けようと思うたらいきなり倒れたんじゃ、流石の俺も焦ってしもうてのう。とりあえず、近い俺のマンションに連れてきたんじゃ」
「……偶然ねぇ」
この男が言う偶然が言葉どおりの訳などあるはずも無い、多分待ち伏せていたのだ。
「そう偶然で、おまいさんが目の前で倒れたから親切な俺が介抱しとった訳じゃ。それより、体調はどうなった?」
「大分良くなったみたい。多分寝不足と、暑さにやられたんだと思うわ」
気を失う前に見た、幻影の事を瞬間的に思い出したけどそれを目の前の仁王に告げるつもりは無かった。
「なら、介抱したかいがあったちゅう訳じゃな。買うた、花も一緒に運んどるき安心せい」
テーブルの上に、さっき幸村への見舞いとして買ったかすみ草の花束を発見できて、それを見て存外に繊細な心遣いを見せる仁王にちょっとだけびっくりしてしまった。
「ここ、仁王の家?」
「一人暮らしやき気つかわのうてもええ。それに、見てのとおりのワンルームやき」
そう言われて、思わず辺りを見渡したらワンルームとは言っても30畳以上あった。
その中にリビングやダイニング、ベットルームが点在している状態で、とても庶民の暮らしとは言えないような感じだった。
「広いワンルームだね」
モデルルームさながらに、余計な物が少ないせいかごちゃごちゃした感じはうけないけど。はじめて来た場所で気安く、くつろげるような雰囲気じゃない。
「そうか?まぁ、体調が良うなったんなら、それでええ。幸村の見舞いに行くんなら後から送ってやるき、まだ寝ときんしゃい」
冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して、こっちにポンと投げて寄越した。
「脱水になっちょるかもしれんから、飲んどきんしゃい」
この前の紅茶の時といい、良く人を観察しているそんな印象を持ってしまった。
キャップをはずして、遠慮なく頂くと知らないうちに喉が渇いていたのか一気に半分以上飲んでしまった。
一息ついて、仁王を見ると私のすぐ側に来て居てとても優しい瞳で私を見ていた。
「優しいんだ」
「俺んこと、優しいやなんて言うんくらいじゃ。俺は悪い男らしいけんのう」
仁王が私の居るベットの横に腰掛け、ベットがギシリと軋む。
頬にかかる髪をかき上げられ、息がかかるほど近くにに来てその吐息の匂いが跡部とも忍足とも違っていて、当たり前の事だけどそれが可笑しくて口付けられる瞬間に唇が笑みを刷いた。
2度目のキス。
ゆるく微笑んでいたので、容易く唇はほどけてすぐに熱い舌が歯列を割って入り込んできた。
この間したような探るようなキスじゃなく、情欲を呼び起こすようなそんなキス。
情熱的なその口付けに酔いそうになりながらも、心は冷えていた。
抱き寄せられ、背にあるファスナーを下ろそうとしているのを悟って身を捩り口付けから逃げる。
「キスの次は身体で試そうって訳?」
「……そうじゃなか……。惚れたっちゅうたら軽う聞こえるかの?」
「仁王が好きなのは、過去の私じゃないの?」
過去の私は、立海大の面々に洩れなく愛されていたらしいから。
ついそんな問いが口をついて出る。
「そうやの。過去の“”ん事も好きじゃった。やけんど、皆のモノを皆で可愛がるちゅう感覚じゃ。それと、おまんへの感情は違うぜよ」
「…………。」
「前は話して、一緒に帰ってそれで満足出来るような“好き”じゃった。今は、今すぐにでも手に入れたいと思うような“好き”じゃの」
「それって、お手軽に手が出せそうだからとか、そんな理由じゃないの?」
私が、仁王に会って今日で2度目で私の何を知っている訳じゃないのに、いきなり惚れたとか好きとか言われても信じる事が出来ない。
ましてや、立海大が求めているのは過去の私のはずなのだから……。
「心外やの。俺は多分誰より、おまんのこと分かっちょると思う」
飄々とした態度でそう言われ、カっと血が上るのが自分でも分かった。
「…う、そ言わないで。貴方に私の何が分かるって言うの!」
「跡部や忍足はこの事知ちょるんか?」
跡部や忍足が、25歳の精神が15歳の身体に宿っているのを知っているのか?そう問われる。
「…それが、何の関係があるの?」
「あいつらは、知らんのんか?」
重ねてそう問われて、仕方なく頷いた。
「そうか、ほなら余計に辛かったの。誰にも相談出来ず、一人でずっと頑張ちょったんか。えらいの」
幼子にするように頭を撫でられ、ゆっくりと引き寄せられ背を抱かれる。
強い力じゃなく、私でも簡単に振りほどけるような力だったけど。
ずっと、誰かに打ち明けたくて言えずに居て、辛かった思いとか一遍に蘇ってきた。
誰かに言いたかった、自分の居ない違う過去に来て不安だった事や辛い事。誰にも相談出来ずにいてずっと心細かった。
仁王が私の思いをすべて分かってくれる、そうとは正直思えないけどそれでも私の思いを分かろうとしてくれている。その思いが伝わって来た。
弱音を吐いてもいいんだろうか?
一人で頑張らなくてもいいんだろうか?
弱っていた心は簡単に軋みはじめる。
「…んっ」
こみ上げて来る嗚咽を押し殺そうとすると。
「我慢せんでええ。泣きたい時は声を上げて泣けばええ」
そう言って、背を撫でてくれる。
姿かたちを偽らなくても、ありのままの私を私のまま受け入れてくれようとする人にやっと会えた。
それが嬉しくて、私は幼子のように声を上げて泣いた。
2006.04.06UP