あの年、どうしても七夕飾りをつくりたかったあたしは、でも笹なんてどうやって手に入れていいか全然わかんなかったあたしは、お兄ちゃんに頼んだ。お兄ちゃんは近所の山にあたしを連れて行って、丁度いい枝振りの笹を一本切ってくれたんだ(いまから思えばあれはもちろん誰かの山だったんだとは思うけど、まあ、大目に見てよね)。
で、あたしは一生懸命その笹の枝を飾って、短冊も書いて。そしてそれから。
それから当然、うん、あたしは当然だと思ってたんだけど、あたしはお兄ちゃんにも短冊を書いてくれるように頼んで。
お兄ちゃんはこれには頑として首を縦には振ってくれなかったのだ。
「何で?何でお兄ちゃん、短冊書いてくれないの?」
「・・・別に、俺の勝手だろ?」
「だって!みんなでお願いしなきゃ!」
「由佳が書いといてくれればいいだろ、俺が書かなくたって」
「そんなんじゃだめ!そんなんじゃお願い、叶わないもん!」
「・・・とにかく、俺は書きたくないんだよ」
「お兄ちゃんの意地悪!お兄ちゃんは、お母さんが治らなくてもいいって思ってるんだ!」
「由佳、・・・」
あたしは、ついに泣き出した。「お兄ちゃんのばかぁ!」とか言いながら。
お兄ちゃんはたぶんあの時困り果ててたと思う、それどころかいろいろ言いたいことをすっごく我慢してくれてたんだと思うけど。
ともかく、あたしが泣いてもお兄ちゃんは短冊を書くとは言ってくれなくて、(でもあたしをひとりにもしないでいてくれたんだけど、)どうしていいか分かんなくなったあたしはお兄ちゃんに書きかけの短冊とか、飾り輪とか、セロテープとか・・・(はさみは投げなかった、さすがにね)、最後には笹飾りそのものとかを投げつけた。
まあ、短冊なんて投げて投げられるものじゃないから、結局あたしの周りにひらひらと散って落ちたくらいなんだけど。いまでもあの色紙の舞うさまが眼に残ってる。
そうしてあたしが泣いていて、お兄ちゃんが困り果てて黙りこくってる散らかった部屋に、いつの間に帰ってきてたんだか父さんが上がってきた。
「由佳、芳貴、どうしたんだ?」
いつの間に、っていうか。この時期父さんの帰りは早かった。
母さんが入院してていないから。あたしたちの夕飯も作って、それからみんなで毎日お見舞いに行って。
あたしはこのとき母さんが病気だってことしか知らなかったけど、中学生になってたお兄ちゃんは病名も聞いてたのかもしれない。あたしがそれを、母さんが舌
癌だったってのを知ったのは、母さんの手術が成功して、さらにそれから何年も経って。転移もないだろう、おそらく再発もしないだろうってみんなが安心したとき・・・あのときから五年後くらいだっただろうか。
いまならどうしてお兄ちゃんが短冊を書きたくなかったかがわかる。お兄ちゃんは、願って叶わないのが怖かったのだ。
けどもちろん、あたしにはそんなこと言えやしなかった。
どうしたんだ、ともう一度聞いた父さんにお兄ちゃんは何も言わなかった。
逆にあたしはまだかーっとしていて、お兄ちゃんが意地悪で、母さんのことなんかなんとも思ってなくて、だから短冊を書いてくれない、なんてことを父さんに訴えた。
あたしの書いた短冊、「おかあさんが早くよくなりますように」って短冊が、あたしと父さんの目の前に落ちてる。
父さんはそれを見て、まずきゅうっとあたしを抱いてから。
それから甘くない静かな眼であたしを覗き込んだ。
「由佳、お兄ちゃんに短冊を書いてもらいたい気持ちも分かるけど」
けど。そこであたしはあたしが叱られるのを悟って、嫌だって首を振った。父さんはあたしの頭をゆっくり撫でて、でもあたしを逃がしてくれない。
「お兄ちゃんがほんとに母さんのことを思ってないって思うかい?」
そんな聞き方、ひどい。そうじゃないってわかってるけど、けど、お兄ちゃんは短冊を書いてくれなくて。
書いてくれない理由なんてそのときのあたしには全然分からなかったのだから。
だからそう言うしかなかったのだ。
「そんな言い方をされたらお兄ちゃんも悲しいだろう?言った由佳も悲しい」
悲しくたって。じゃあどうしたらいいのか、あたしはわからない。
父さんが言ってることは正しいってわかるんだけど、だからいっそうどうしたらいいかはわかんない。
わかんない、っていうやりきれなさが涙になって中から溢れる。さっきお兄ちゃんの前で声を上げて泣いていたときとは違う涙だったけど、それをどうしていいかわかんないのは一緒だった。
「でも、」
短冊を書いてほしい。母さんに元気になってもらいたいから。
結局言えるのがそういうことになっちゃって、でもお兄ちゃんはそうしてはくれない。
床の上の短冊を見つめるあたしの頭を、もう一度父さんは撫でた。
「短冊は、父さんも書くよ」
芳貴が書きたくないと言うなら、そっとしといておあげ。
大丈夫、芳貴も書かなくても願ってるから、由佳の願うとおりきっと叶うよ。
父さんの優しい言葉に、あたしは父さんを見上げる。
父さんは頷いて、あたしはその胸の中にしがみついて泣いた。
わかんないことだらけだけど、泣いていいってことは分かった。
もっとも、もちろんそれだけでは話は終わらない。
あたしがすこし落ち着くのを待って、父さんは言う。
「でもね、由佳。理由はどうあれ由佳はお兄ちゃんに言ってはいけないことを言ったんだよ。分かるかい?」
これまた分かってはいるけど、固まっちゃって返事ができない。
っていうかむしろ目の前に迫ってるお仕置きが怖くて、おもわず喚いちゃうのだ。
「ぇ、ぁ、・・・やだぁ、や、」
抱かれてる腕の中で横にされちゃって、あっという間にスカートが捲られちゃってパンツも下げられちゃって、ぱぁん!
「痛ぁい!」 ぱちぃん! 「うわぁん!」
また泣いちゃう。父さんは構わずに静かな声で話し続ける。
「由佳の言葉は、芳貴を傷つけるものだったってわかるよね?」
ぱちぃん!
「言ってはいけないことを言ったのだから、罰を受けなくてはね」
すぱぁん! 「いやぁ!・・」 ぱしぃん!
「ちょっと痛い思いをして、反省しなさい」
ぱしん! 「ふぇ〜ん!」
この日の父さんは、厳しかった。しばらく叩かれて、いっぱい泣いて。でもさ、お仕置きされてて泣いてるときって、どうしたらいいか分からないで泣いてるのと違って、やっぱり何か泣いてていいみたいな、ちょっと甘い気持ちがある。
ぱぁん!
「うぇぇ・・・」
たっぷりお尻を熱くされてから、父さんは手を止めて。
もう一度あたしを抱き締めてから、それからはじめて聞いた。
「由佳、お兄ちゃんに何て言うんだい?」
「・・・・・ごめん・・なさぃ・・」
いっぱい泣いたあとだったからか、父さんが短冊を書いてくれるといってくれてたからか、あたしは案外素直にその言葉を言えた。
父さんは「いい子だ」ってまたあたしを撫でてくれてる。
お兄ちゃんは、困ったようにそしてほっとしたように、笑っていた。
それからあたしは父さんにも短冊を書いてもらって。もういちど、笹飾りに取り掛かった。
すこし遅くなっちゃった夕食をとって、さらにもう少し飾り付け。結局その日は面会時間ぎりぎりになって七夕飾りを母さんの病室に持ち込んだ。
母さんはあたしの短冊を見て「早く元気にならなくちゃね」と穏やかに笑ってくれた。
それと、それから。
あたしの見てない隙に、お兄ちゃんが短冊を一枚こっそり結んでいたのを何故かあたしは知っている。
それには「由佳の願いが叶いますように」って書いてあったのだった。