だって
その日あたしはお兄ちゃんとけんかして、そのままうちを飛び出した。
「由佳!ちょっと、待てって!」
引き止めてくれる声は聞こえたけど、聞こえない振りで。
ううん、ほんとはケンカですらなかったってわかってる。
いとこの美郷お姉ちゃんと信兄ちゃんが週末遊びに来るって楽しみにしてたのに、来られなくなったって。お兄ちゃんはそれを教えてくれただけで、あたしはそれを我慢できなかったっていう、それだけ。
近くの公園に行っても、学校のグランドに行っても、こんなときひとりでぼーっとしてるとこなんか誰にも見られたくないから。
どこに行くこともできずに、あたしはうちに帰るしかなくて、でも帰りたくなくて。日が暮れるまでぐるぐるあたりを歩き回っていた。
あたりが真っ暗になっちゃって、寒くなってきて、どうしようかと思いながらうちの裏の通りで立ち止まったとき、「由佳!」ってお兄ちゃんの声が響いた。
お兄ちゃんは走ってきてあたしの腕を掴む。
「由佳、どこ行ってたんだよ。探したぞ」
その場で怒鳴られるか、ぎゅうって腕を引っ張られるかって思ったんだけど、あたしの腕はやさしく掴まれていて、お兄ちゃんは黙ってあたしを促してうちに帰った。
うちに帰ったら、お兄ちゃんはまずあたしにセーターを投げてきた。「とにかく着とけよ。風邪引くぞ」って。それから電子レンジでホットミルクをチン。確かに寒かったから、ホットミルクはとってもおいしかったんだけど、・・・飲み干しちゃいたくなかった。
もちろん、カップの中のミルクはそのうちには無くなっちゃって。
テーブルに空のカップを置いたら、お兄ちゃんは聞いてきた。
「由佳、なんか言うことないのか?」
「・・・・・。」
「由佳?」
「だって・・・」
だって、美郷姉ちゃんが・・・・。だって、お兄ちゃんが・・・。
言いかけて、でもそれ以上言えなくて、でも黙ってることもできない。
言い募るのを止められないあたしに、お兄ちゃんは溜息をついた。
「さっきから『だって』ばかりだな。由佳、言いたいことがあるのはわかるけど、最初に言わなきゃいけないのはそれじゃないだろ?心配したんだぞ」
「でも、だって」
だって、くやしかったんだもん・・・。寂しかったし、つまんなかったし、・・・。
口を開くと、こういう言葉ばっかり出てくる。
「由佳?」
お兄ちゃんが聞きたいのは、これじゃないって分かってるけど。
「だってぇ・・・」
あったかくなってきたせいかな、じんわり涙があふれる。
次のお兄ちゃんの声はでも、すこし怖くなってた。
「由佳、泣いてもだめだよ。言わなきゃいけないこと、あるだろ?」
「・・・・。」
泣きたくて泣いてるんじゃないもん。だからあたしは、そっぽを向いた。
「由佳」
きゅうっと、お口がくっつけたみたいに固く閉じちゃう。奥歯が痛いくらいだけど、でもどうにもできない。お兄ちゃんはそんなあたしを見て、やっぱりちょっと怖い声で言った。
「素直になれないんだったら、兄ちゃんの膝の上で泣いとくか?」
・・・・・。
お兄ちゃんが大きな手を伸ばすと、あたしはすぐに捕まえられちゃう。そのままソファーに座ったお兄ちゃんの膝の上に、ぐいって倒されて。ふわってスカートがめくりあげられちゃうのは、嫌。お尻に当たる風が、寒いよ。
「や、やだぁ・・」
お兄ちゃんはぜんぜん取り合ってくれない。
「お、口が開いたか。ほかに言うことは?」
だって、あたしだけが悪いんじゃないのに。(ううん、たぶん、あたしだけが悪い。)
「やだ、やだよ!」
「ほかには?」
ぱしぃん!
「いたぁい!」
ぱしぃん!
「やだぁ!」
「うん、やだよな」
ぱしぃん!
うぇ、え、え。あたしはおおつぶの涙をこぼし、お兄ちゃんはそ知らぬふりであたしのお尻を叩き続ける。
ぱしん!!
「痛ぁ・・。もう、やだ・・・」
ぱしぃん!
「・・・痛いよなぁ」
ぱしん!
そんなふうに言うくらいなら、止めてくれたらいいのに。
でも、わかってる。あたしがこのままだったら、お尻叩きは終わらない。
でも、でも。
ぱしん!!
「急に飛び出してって、遅くまで帰らなかったら、心配するだろ?」
ぱしん!
うん。それは、わかってる・・・。
ぱしぃん!
「ふぇ・・わぁ〜ん・・」
痛いの。痛い。我慢できないってば。
「人に心配かけるのは、いいことじゃないだろ?」
ぱしん!
わかってるってばぁ・・・
「悪いことしたら、なんて言うんだ?」
・・・・・。
「だって・・・」
ぱしん!
何か言おうとすると、だってになっちゃう。
だって、だって。
「だって美郷お姉ちゃんが来れないって・・・」
ぱしん!!
手は止まらなかったけど、今度お兄ちゃんはあたしの「だって」を否定しなかった。
「だな。だから?」
「だから、って・・・」
だから、って言われても。言えることなんてない。それは・・わかってる。
ぱしぃん!
「美郷ちゃん達が来られなくてつまんないのは分かるけど、だからって由佳が人に心配かけていいのか?」
「・・・・。」
あたしは、首を横に振った。「由佳、口で言ってごらん」お兄ちゃんはそう重ねて、あたしはなんとか声を絞り出す。「・・よくない・・」
ぱしん!
「そうだな。由佳はちゃんと分かってるじゃん」
「・・・・・。」
わかって、ないもん。わかりたくないもん・・・。
ぱしぃん!
いたぁい!
「いつまで意地を張るつもりだ?お尻が痛くなるばっかりだぞ?」
「だ・・」
だって、をあたしは何とか押し込めたけど、・・・痛い。
ぱしぃん!
「うぇぇ・・」
「ほら、言ってみな。由佳はちゃんと言えるだろ?」
ぱしぃん!
「う・・・」
ぱしぃん!
「言えるって。ちゃんと聞いてやるから」
「うぇ・・・ご・・ごめ・・・なさ・・」
ぱしん!
い、言えた・・かな?
さっきのぱしん!が最後みたいで、だからたぶん、言えたんだと思う。
あたしはお兄ちゃんの膝の上で、もうぐったり。
ぜんぜんわかんない。なんであんなに言えなくて、なんで言えたのか。
それでも、「だって」が言わない理由にならないことだけはわかってるから・・・何でかはわからなくても、言えてよかった。
お兄ちゃんはあたしの頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。
「ちゃんとごめんなさい出来て、偉かったな」
撫でてくれるのも嬉しいんだけど、すこし元気を取り戻したあたしはお兄ちゃんにしがみつく。・・・そうしないと、お兄ちゃんは抱き返してくれないんだ。たぶん、照れてるんだと思うけど。
「信がインフルエンザにかかったんだってさ。お前に伝染すわけにいかないだろ?見舞いの葉書でも書いたら、喜ぶかもしれないぞ?」
どうにかあたしを抱き返してくれて、お兄ちゃんはそんなことを言う。
それはいい考えかもしれないと、あたしも思う。信兄ちゃん、大丈夫かな?
「お前も風邪引くなよ・・・って、このままじゃ風邪引くか」
お尻を出したままのあたしを見てお兄ちゃんは苦笑し、気をつけてあたしの服を戻してくれた。
「ここはあったかいから、平気だもん」
あたしはそう言い返して、お兄ちゃんのあったかい腕の中で信兄ちゃんへのお手紙を考えることにした。
2006.11.12 up