カーさんについて考える
拍手でいただいたお話に刺激され、ちょっとカーさんについて語ってみたくなる(笑)。
ほんとは「実体験を持たないのにこの嗜好」について書くつもりだったんですけど、
まあ、予定は変わるものです(^^ゞ。
で、カーさんについて考える。
カーさん。スパンカーさん、叱るひと。
もはや言わずもがなな気もいたしますが、管理人にはリアルの体験がありません。
というわけで、管理人はキーさんになったこともカーさんになったこともありません。
そのせい、もたぶんあるのだと思うのですが、管理人は自分をキーともカーとも定義できません^_^;。
(自分は)たぶんキーさんだ、と思いつつ、書いているときは確実に両方が自分の分身です。
たとえばカーさんのせりふを書くとする。
言ってもらいたいこと、を書いているんじゃないんですよね。言いたいこと、を書いている。
これって別に私だけじゃなくって、小説書きさんみんなそうなんじゃないのかなあと思ってみたりするのですけど、どうなんでしょう。それともこれは自分の分身しか書けない筆力のなさをあらわしてるだけなのかしらん?(笑)
もちろん、フィクションであるから理想が反映されるので、言いたいこと、は言うべきであると思うこと、さらに言ってもらいたいこと、とある程度は一致するのですが^_^;。
ともかく私の中には「こんなカーさんでありたい」っていう意識が実は結構はっきりあります。
「こんなキーさんでありたい」っていう意識より強いくらいですね。(もっとも、これは私がむしろカーであるってことじゃなくって、受動的な部分がそれなりにあるキーさんと、能動的でしか有り得ないカーさんの性質の違いから来るのだと思います(^^ゞ。)
まあ、実体験でキーさんになったりカーさんになったり、はきっと無理でしょう!
フィクションとしての嗜好だからこうのんきに言ってられるのです(笑)。ま、それはともかく。
前置きが長くなりました。
こんな管理人による「カーさんってこんなひと」(でありたいな/だといいな)語りです。
*
カーさんって、大変ですよね。
カーさんは、まず第一にキーさんを理解しなくっちゃいけない。
カーさんとキーさんって他人なのに。
他人の心の中なんて、絶対にわかんないのに、それでも。
叱るのだって、叩くのだって、怖い、ですよね。
自分が間違ってないって自信持ってたって、けどそれは怖い。
キーさんに嫌われちゃうかもしれないよ?
カーさんは、キーさんのこと大好きなのにね。
嫌われたってなんだって、悪いことは悪いと伝える?
それは正しい態度ではあるのですが、物事はそれだけで割り切れるほどシンプルじゃない。
一方通行で言い放ったって、それは伝わるとは限らない。
確かに、「嫌われる」それは残念だけどあるかもしれない、仕方がないかも。
けれどそれ以前に、嫌われたって少なくともキーさんに、わかってもらえる、のでなければ。
叩かれた、むかつく、言うとおりになんか絶対にしない。
そこで終わってしまったら、叱る意味はない、というか叱ったことにならない。
むかつく、腹が立つ、けど、認めたくないけど、それは正しい。
そこまでは伝わる、そう信じるから口も手も出すことができるのだと思うのです。
嫌われたってなんだって、って態度はそこまで含んで初めて正しい。
伝わらないかもしれない、その恐れを抱きながら叱るの叩くのって、怖い。
その恐れは絶対になくならない。だってキーさんはカーさんと別のひとだもの。
それでもカーさんは手を出すわけです。
カーさんってすごい、そんなにキーさんを信じてるんだ。
信じていたい。
それよりもさらに、無条件に信じてるのじゃなくって、
ちゃんと見て、聞いて、理解して、それで信じてたい。
”キーさんはいま、こう考えてる”それが分かる、っていうのが理想のカーさん。
キーさんには絶対、キーさんなりの理由が、ある。
悪いコトしたことだって、ごめんなさいするときだって、できないときだって、それぞれに理由がある。
キーさんの考える理屈があるかもしれないし、そんなのない時だってそれに至った感情は必ずある。
筋が通った理由のときもあるだろうし違うときもあるだろうけど、何か、ある。
で、カーさんがキーさんの心を読めれば早いんだけれど、間違わない、理想なんだろうけど、
でもカーさんがすごいのはそうじゃなくって、
キーさんの心なんて読めない、そんな超能力もドラえもんの道具もない、
それでもカーさんはキーさんのことを考える、ってことであると思うのです。
カーさんはキーさんを見て。
その表情、口調、泣いてること、黙ること、言ってること、ぜんぶ見て聞いて。
言葉を聴く、けど、言葉にされたものが全てじゃないことを知ってる。
そして考える。キーさんの思ってること、その理由。
考えて、推測して、で、受け入れるか撥ね付けるかはまた次の問題で。
ただの我が儘、口答え、筋の通らない感情に飲み込まれてるときなんていくらでもあるもの。
でも、とにかく、最初のステップとしては考える。
考えた上で、だからどうする、ってさらに考える。
悪いと思っててもごめんなさいが言えないってときと、全然悪いって思ってないときと、
その違いを無視して一方通行の言葉や平手を投げつけたって、伝わるはずがないから。
そう、それでは伝わるはずがない、っていう畏れを持ってる。
そして伝えたいっていう望みを持ってる。だから考える。
叩く手の向こうには、考えるべき何か、自分と同じく考え感じる”ひとりのひと”が存在する。
そういう畏れを持っている。
叱りたいわけじゃない。っていうかそれは叱れてない。
一方的に投げつけるものなんて、自己満足でしかない。そんなことをしたいんじゃない。
キーさんの言うままになるわけじゃない。それももちろん叱れてない、ってか伝わらない。
我が儘で言ってるのかな、理由があるのかな、何て言ったら伝わるのかな。
わからない。確証はない。
だからキーさんの全てを見て聞いて、それで必死に考える。
わからないままに手探りする、自分の知れる限りのことから懸命に探す。
迷う。
それでも、きっとこうだという答えを探してそしてそれを踏まえて伝えようとする。
正しいかどうか分からないけど。怖いけど。
けど、それでも、きっとこうだと思ってそして伝える。
キーさんはきっとこう思ってる。
そして、きっと、だからこうすれば伝わる。
伝わるはず、だってキーさんにはそれを、その正しい何かを受け入れる力がある。
キーさんには望みが、善くありたいっていう望みがある。
それをカーさんは信じてる。
この不確実性の上にある熟慮と信用、それがわたしの思うカーさんの理想というか惚れどころ、そうでありたいと思う姿です。
「聞く耳を持ち」、そして「不安を抱えていて」も「揺らがない」。
自分のキーさんの理解と、そしてそれからキーさん自身を、信じてるから揺らがない。
不安でもね。揺らいでしまったら伝わるものも伝わらないから、無理にでも。
あ、そういえばこれは、プライベートな、個人的な、家庭的なお仕置きのお話です。
例えば学校なんかでありそうな、ルールが明確で違反に対する罰も明確な、ある意味システマティックなお仕置きにおけるカーさんはまた違うのだと思います。
でもね、それは書いてて萌えないの(笑)。
↑ ま、比較的萌えないってだけで、ホントに萌えないわけじゃないんですけど(^^ゞ。
学校での家庭的な(笑)お仕置きとか、書いてみたくもありますね。
・・・いやいや、まずは家庭教師さんに決着をつけなきゃいけないか(^^ゞ。
・・・いやいやいや、そんなこと言ってたらいつまでたっても書けないか(^^ゞ。
揺らがないで伝える、その方法がお尻叩きだ、ってことの萌えどころについてはまた今度。
嗜好、の話も一緒にできれば是非に(笑)。そしてそのうちキーさんについても語らないとね!o(^-^)o
2008.7.5 up