「さぁ、早くここから逃げるんです」
「私はあなたを助けに来た者です」
が煙のように消えた後、すれ違いに昆侖が王宮の天窓を破り、縄を伝って、するすると降り立った。
「もしや・・誰か、あなた以外にここにいませんでしたか?」
昆侖は狐が消えたあさっての方向を、ほうけたように見つめている傾城の様子をみとめて言った。
「え・・えぇ・・狐が・・狐が・・なんだかよくわからないけど・・私の前に現れて」
傾城は、床に落ちていた漆黒の一枚の羽を拾い上げた昆侖に言った。
「
様だ」
彼は取り付かれたように呟いた。
「
様なら、狐に化けることぐらい出来るだろう」
彼は漆黒の羽を握り締めて、興奮したように歩き回った。
「さぁ、早くここから出ましょう」
彼はそれから二本の縄を傾城の身体にしっかりと結びつけ、天窓への螺旋階段を一気にかけあがった。
が城をぐるりと取り囲んでいる警備の者を、狐火で錯乱させたおかげで
昆侖は思ったよりも上手く、傾城を助け出すことが出来た。
こんな奇想天外な脱出劇はあるだろうか?
今、昆侖は王宮の金箔塗りの屋根を兆速で駆けていた。
手には傾城廃妃に結びつけたロープの先端を持ち、彼は彼女を凧のように飛ばしていた。
何てここちよい風だろう。
傾城は大空高く鳥のようにはばたいている自分を夢みたいだと思った。
昆侖はそんな彼女の楽しそうな様子に、ますます足が弾んだ。
だが、この絵のような光景を面白くない様子で眺めている者がいた。
北の公爵だ。
彼はたまたま王宮の外れに出てきたところを、空を舞う天女のような女と護衛らしき者が
王宮の屋根を駆けていくのを見つけたのだ。
彼の怒りはすさまじく、手にしていた短剣を何本も仕込んだ扇子を傾城廃妃
と護衛の者を結んでいるロープめがけて投げつけた。
途端に傾城王妃と護衛を結んでいた命綱が断ち切られ、彼女は浮いていた地上から
まっさかさまに地面に向かって墜落しはじめた。
「あぁぁああああ〜!!」
傾城王妃の絹を裂くような悲鳴に、王宮の中に残っていた
は気づいた。
「脱出に失敗したか」
彼女はちっと舌打ちすると、くるりと羽衣を翻し、その場から消えた。
「あの門が出口よ!」
「急いで!」
だが、傾城は危うく地面に激突する前に昆侖によって抱きとめられていた。
彼らは今、落下地点から少し離れたところの窓を蹴破って、王宮の大広間に着地し、自由を求めて駆け出した。
だが、ここでまたしても邪魔が入った。
二人が逃げ込むであろう場所をあらかじめ予測していた公爵は龍旗を携えて
待ち構えていた。
そして、逃亡者達は公爵が鞭のように放った龍旗にたやすくからめとられてしまった。
蛇がとぐろを巻くように回転する龍旗の中で、二人はこれ以上ないほど互いを意識した。
昆侖と傾城の吐く熱い息が互いの喉下にかかり、彼らはぞくぞくとするような陶酔感を味わった。
「いけない・・私には
様がいるのに・・」
昆侖は初めて感じた性の喜びに、頭を振り払ろうとした。
公爵は上下に大きく旗棒を振って、捕らえた二人を転がし、引きずり出した。
「あっ!」
と傾城は狼狽し、短く一言呟くと、自分に覆いかぶさって出てきた昆侖を跳ね除けた。
そして、傾城は目の前に聳え立つ門めがけて再び駆け出した。
「残念だったな!」
公爵はにやりとした。
今、傾城は後ろから音もなく近づいてきた彼に白絹の上着をつかまれ、思いっきりこちらに引っ張られたのだった。
「あいつは誰だ?」
「知るものですか!」
公爵に後ろから羽交い絞めにされながら、傾城はわめいた。
その時だ。ビシッと空を切る音が聞こえ、昆侖が持っていた縄が鞭のようにしなり、公爵の右頬を打った。
彼は相手に剣を抜く隙も与えずに、俊足で近づくと相手の頬を力任せに殴った。
公爵は正気を取り戻し、そのまま自分側を通過して、傾城を小脇に抱きかかえて走る昆侖を追ったが、
想像をぜっする速さにとても追いつけない。
「あの俊足・・あいつは雪国の者だな」
公爵はぜいぜい息をきらし、石柱にもたれかかりながら呟いた。
パカッ、パカッ。
「王妃はあそこにいます!」
「光明大将軍?」
傾城はその懐かしい音に狂喜して、振り返った。
目線の先には、せまりくる公爵の軍に追い立てられている二頭の馬の姿があった。
馬上には真紅の花鎧に身を包んだ光明、そして、ここまで彼を導いた
。
は沢山の怒声と馬や兵士の汗の匂いが、すぐそこまでせまっていることを感じ、
黒の扇子を取り出し、公爵が投げ捨てた龍旗めがけて振った。
途端に龍旗から六メートルもある巨大な青龍が飛び出し、兵士たちの行く手を防いだ。
「いけません!」
その頃昆侖は、彼は兵士たちの手によって、閉じられようとしている門を見て叫んだ。
「はなしてちょうだい!嫌な人ね!」
傾城は昆侖につかまれた肩を振り払うために、渾身の力をこめて殴り、門の中へ駆け込んだ。
公爵の軍は突然、出現した青龍に総崩れとなった。
切り裂くような悲鳴と怒声が大広間にこだます中、傾城と昆侖は馬を駆って、悠々と
閉じかけられた門の隙間から脱出した。
「昆侖、何をぼんやりしてるの!!」
狐火で錯乱させた、兵士から奪った白馬で駆けてきた
は叫んだ。
昆侖は傾城王妃に叩かれた箇所をさすり、放心したようにあさっての方向を眺めていた。
「早く!馬に乗って逃げなさい!」
は黒い絹のスカートを翻すと、下馬した。
「
様!」
はっと我に帰った昆侖が叫んだ時にはもう遅かった。
石柱の影に隠れながら、音もなく移動してきた公爵に
は龍旗ごとからめとられてしまったからだ。
「これは・・これは・・珍しい鳥が網にかかったものだ」
「宝石に彩られた熱帯鳥は逃したが・・」
彼はそこで彼女の顎を掴み、あいているほうの手で喉元に短剣を突きつけた。
「それはそれでよい・・」
彼は油断なく
に剣をつきつけながら、昆侖に「動くな」と目配せした。
「この前、私を足止めしたのはお前だな・・実に鮮やかだった。正直言って、感心した」
彼は意地悪く雄猫のように歯をむき出して笑った。
「本来ならば、あの場で射殺してやるところだ」
怯えている彼女の心を見抜いたかのように、公爵はあざが出来るほど彼女の腕をきつく掴んで
ぎりぎりと締め上げた。
「だが、今はそうしない」
公爵の吐く息が彼女の首筋に暖かくかかった。
彼女は恍惚感にぞくりとして身をよじらせた。
「この娘を殺されたくなければ・・お前はおとなしく捕まってもらおう」
公爵の目がぎらりと危険な光を帯びた。
「光明はあの花鎧を身代わりの者-に着せ、私の目をくらました」
ところかわって、王宮の一室に公爵は場所を移していた。
「見事に出し抜かれたな」
公爵は自嘲気味に笑った。
「王殺しはお前か?」
公爵は全身を縄で縛られて連れてこられた昆侖に尋ねた。
それから彼は、昆侖が手の中に隠し持っていた二枚の白と黒の羽を取り出した。
「私のものだ」
昆侖はくやしそうにうめいた。
「二枚ともお前のか・・」
公爵は取り上げた二枚の羽を、燃え盛る暖炉にくべながら言った。
「一枚は、傾城王妃の羽、もう一枚は、おそらくあの娘のものだな」
彼はあてどもなく冷たい床を歩き回りながら言った。
「
様!!」
「昆侖・・」
彼はそこで扉が開き、刺客によってしっかりと肩をつかまれて連れてこられた
女主人の姿を見据えた。
「
?お前の名は
というのか?」
公爵は彼女の方を振り向き、にやりと笑った。
「そして、この男は調べたところによれば、元はあの大将軍の部下の奴隷。今はこの娘に仕える護衛。
そうだな?」
公爵は我先にと燃え盛る暖炉にくべた、白い王妃の羽をもぎとろうと
群がった兵士どもを小気味よさそうに眺めながら言った。