ここで不思議なことが起こった。
公爵が暖炉にくべたはずの王妃の白い羽は、我先に奪い合う兵士らの手と燃え盛る炎を逃れ、
ひらり、ひらりと優雅に舞って、昆侖の頭上へと舞い戻ってきたのだ。
「鬼狼、そちらの客人を別室にご案内しろ」
その様子を眉一つ動かさずに眺めていた北の公爵は、側に控える奴隷に命じた。
「
様!」
昆侖は叫んだ。
彼女はあっと言う間に昆侖の見ている前で、白い布で両眼を覆われ鬼狼によって
外へと背中を押しやられた。
それからこの部屋で行われたのはおぞましい殺戮だった。
公爵の短剣を何本もしこんだ扇子が宙を優雅に舞い、昆侖の目の前で逃げ惑う大勢の家来を
切り刻んだのだ。
「家来を殺した理由は分かるな?」
一糸乱れぬ見事な舞と、汗一つかかずに地上へと戻った公爵は言った。
「これで王殺しの真相は誰も知らぬ」
「あの奴隷を閉じ込めておけ」
彼は大量虐殺の行われた部屋の入り口を警備していた兵士に告げると、どこかへと立ち去った。
ところかわって目隠しをされ、小部屋へと連れてこられた
は
急に静まり返った王宮の不気味さに怯えていた。
まさか・・昆侖が公爵の手によって、始末されたのだろうか?
そして・・私も彼に始末されるのだろうか?
どこかの柔らかいちんつばりの肘掛椅子に座らされた
は急に湧き上がってきた恐怖に
ぶるぶると震えていた。
「せめて目隠しだけでも外してくれないの?」
は真っ暗な視界を突き破るような声で叫んだ。
「無歓様がすぐにいらっしゃる。静かにしておいたほうがいい」
鬼狼はそっけない声で
を黙らせると、黙って扉を押して出て行った。
バタンと観音開きの扉が閉められ、室内は再びしーんと静まり返った。
しばらくして掛け金の軋む音が聞こえ、彼女はますます椅子に身を縮めた。
ドアが細く開き、床に触れるか触れないかわからないぐらいの靴音が響いた。
彼女は耳を澄ませ、四方にあるどの扉から公爵が近づいてくるのか聞き取ろうとした。
「網にかかった小鳥め、どこへ行く?」
彼女は目隠しされたまま、椅子から立ち上がり、声のするほうへ一歩踏み出そうとした。
「私から逃れられるとでも思っているのか」
公爵は歌うように言うと、いともたやすく彼女の背後に忍び寄り、さっと腰を抱くと開いたほうの手で目隠しを
外してしまった。
「あなたから逃れようなど思わない」
目隠しが外されたところから現れたのは美しい漆黒のかげりのある瞳だった。
「これで網にかかったのは二回目だな」
公爵はさっと彼女の腰から手を離すとにやりとした。
「お前が私の前に現れたのは、何かの縁のような気がする」
彼は白絹の扇子を開くと、物憂げな声で言った。
「食事でもどうだ?」
「えっ?」
彼女は聞き違いだと思った。
だが、彼の言葉を合図に、冷たい黒長石の床が開いて、スーッと中から小型のテーブルがせりあがってきたのだ。
「城に客人を招くのは何年ぶりだろうな?」
彼は
の着ていた黒絹の羽衣をさっと脱がすと、彼女の為に椅子を引いてやった。
「遠慮せずに食べるがいい。」
彼は意味ありげな笑みを浮かべた。
「心配するな。毒など入っていない」
彼は疑わしそうにジュージュー湯気のたつ銀の盆に盛られた料理を眺めている
に
すすんで自分から料理の一つを食べてみせ、言った。
はおそるおそる食卓におかれていた銀の箸を取り、料理に手をつけ始めた。
それから黒絹の袖なしのドレスの彼女は、ここ数日ろくに食事をしていなかったため
思ったより箸がすらすらと進むこととなった。
銀器に盛られたフカヒレのスープ、鳩の丸焼きに柔らかく裏ごししたジャガイモとカブラの付け合せ
海老の甘辛いソテー、クラゲと胡瓜の酢の物、様々な野菜の五目旨煮、黒酢で味付けした酢豚、香ばしい黄金色に輝く炒飯。
デザートには雪のような杏仁豆腐、真紅のライチー、そして真ん中にサクランボを埋め込んだ可愛らしい饅頭。
それは下界の食べ物としてはまさに素晴らしいの一言に尽きた。
が晩餐を美味しそうに食するのを、公爵は箸を止め、小気味よさそうに眺めていた。
傾城王妃は私の前では決して、
のような笑顔を見せたことがない。
いつも私の前では、あの忌々しい、仮面のような笑顔だ。
公爵は銀の箸をぼんやりと握ったまま考えた。
あの奴隷の逃亡を阻止するのもかねて、この娘を軟禁しておくか。
彼は固く心に決めると、
にさりげなく「この赤い実の饅頭は美味しいので、是非食べてみるように」
勧めた。
は先ほどの恐怖心や警戒心もどこへやら、素直にその菓子に手を伸ばし、上品に口をつけた。
次の瞬間、彼女は声をあげるなく、椅子から崩れ落ちた。
食べかけの饅頭は彼女の手を滑り、ぽとりと磨きこまれた床に落ちた。
あの饅頭には大量の眠り薬がしこまれていたのだ。
「悪いがお前にはしばらくここにいてもらおう」
公爵は椅子を回り込んで、ぐったりと瞼を閉じて眠る彼女を抱き上げると言った。
彼女の頭は彼にぴったりと押し付けられ、腰に回された彼の腕は力強かった。
金箔張りのお気に入りの長椅子に彼女を横たわらせると、彼は静かに言った。
「私を慕ってきてくれたのはお前が始めてだ」