夫神―Wsir― 或いは「呪縛」



腕の中の柔らかい温もりが びくり と身を震わせるのを感じて意識が浮上した。


常の癖で周囲の気配を探るも余人の気配は無い。
夜の闇を確認した意識は、再びゆるゆると眠りの中に落ちようとする。

――ほ……っ――
その時、すぐ傍らで洩らされる安堵の吐息。
――?

薄く眼を開いて見えたのは、愛しい娘の怯えた表情だった。
華奢な腰にまわした腕に、その身体の震えが伝わる。

唐突に、胸の内から怒りが湧き上がった。



――なぜ、この腕の中にいながら怯える?
強国エジプト帝国の統治者、絶対権力を持つこの世の神たるファラオの翼の下にありながら。
この世で最も安全な場所であろうものを。



――それとも。



ざわり、と身の内の闇が鎌首をもたげる。




それとも、恐れているのは――この自分か。
神の国から零れ落ちた女神の娘を、無理矢理この地上に繋ぎ止めたこのわたしを恐れているのか。
この世の者ならぬ無垢な神女を、唯の女に貶めたわたしという男を恐れているのか――



――ぎり――っ


知らず、喰いしばった奥歯が鳴る。

愛しくて、愛しくて――この手から逃れようとする、しなやかな身体を王宮という檻に押し込めた。
その身も心も己の物にしたいと――自由に大空を翔る翼を毟り取った筈なのに。
――漸く、その輝く魂を手に入れたと思っても…いつの間にかこの手をすり抜けて羽ばたいていく――

月明かりの中、白い頬を音もなく涙が伝う。



――そなたは、声も無く忍び泣くほどに……っ



やはり神の娘には、この世は汚泥にしか見えぬのか。
わたしは、女神の下からそなたを攫った……掠奪者でしかないのか。



そなたが未来を語る度、叡智を顕す度に、この胸には焦燥が広がる。
――やはりそなたは唯人とは違うのだと。
此の世ならざる世の生まれであるのだと――



『――帰りたい……帰りたいわ、ママ……兄さん……』

かつてその唇から零れた哀願が、我が心を呪縛する。
神の国への望郷を、何度この唇で封じたか。
その声を聞きつけ、母女神が、兄神がその愛し子を迎えに来るやもしれぬと恐れた。
幾万の兵を前にしてさえ懼れたことのないこのわたしが、だ。
自分の裡にこのような怯懦なる心情があろうとは!



もしも――母女神が、そなたをその胸に帰そうと今ここに現れたならば。

わたしは神に逆らってもそなたを渡しはせぬ。
後の世に愚王よと罵られようとも――幾万のエジプト全軍を率いてナイルへ侵攻しよう。
――既に、この女はわたしのものだ、と
御身の大切な姫神は、わたしという男に穢され、人に堕ちたのだ、と――
神の怒りに触れようとも、高らかに宣言しよう――



不意に、身を起こそうとする気配を感じて、腕に力が籠る。



――逃しはせぬ。



その蒼い瞳の先にあるのは、ナイルへの郷愁か?
母女神への、兄神への切情か?



――逃しは、せぬ――
――どこにも行ってはならぬ――


どれほどにその身に言霊を浴びせただろう。
玉にも栄華にも靡かぬ、その凛とした瞳を繋ぎ止める鎖と為すために。
白い身体を絡め取る、呪縛と為すために。



――誰にも、渡しはせぬ――



もしも――もしも母神に還さねばならぬのであれば。
わたしの手の届かぬ処へ行こうとするのであれば――



――その前に、わたしがその身を喰ろうてやろうぞ――



その白き身体をこの手で裂き、骨を噛み砕き、血の一滴まで啜ってくれよう。
柔らかき肉を食み、髪の一筋までこの臓腑に取り込んでくれる。
そなたの内なるカァ(霊)もバァ(魂)も――全てを飲み込んでやろうぞ――

――さすれば、そなたはもう何処へも逃げられぬ――
二度と、わたしから離れられぬ――



――わたしは既に狂うておる。
そなたという甘美な神罰を呷ったわたしは、正気ではおられぬ――





――ふ、と――
語られるのは、異国の――異界の言葉か――
聞き慣れない異界の言葉は、赤黒く爛れた思考に一陣の涼しい風を差し入れた。



左の胸に、細い指先が触れる。
殆ど触れていない程の距離で。
くるくると、不思議な印章を刻み付け――そっと唇を落とした。



女神の接吻は、猜疑に膿み病んだ魂を浄化していく。
その触れた処から染み入ってくる熱は、狂乱する魂を醒ましてゆくようで――心地良い。




「――何を、いたした?」



涙に濡れた蒼玉が、真っ直ぐにわたしの眼を焼いた。
魂まで刺し貫くような清冽さで――


――あれは、神の癒しの業か?



「――呪いを、かけたのよ」



消え入りそうに、震える声。



――あれが、呪いなどであるものか。
女神の祝福に、身体中が歓喜に酔い痴れ戦慄いているというのに。



「呪いだと?どのような呪いだ?」
「――内緒。」



その、まるで迷い児の様な泣笑いに、愛おしさが込み上げてくる。

――そして、己にはこの何よりも愛おしい存在に、傷一つつけることは不可能であると――

今更ながらに、思い知る。



「――気に入らぬ――!」



己の懊悩の、なんと滑稽である事よ!





――この熱き唇にて、腕の中の愛しい女に印を刻もう。
神ならぬ、暖かい血潮を持つ女に。
その魂にまで刻み付ける。



――これは、未来永劫わたしのものだという、所有の証を――












―Wsir―ウシル
オシリスの古名
豊穣を齎す、永遠に美しき者






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