妻神―Ast― 或いは「呪詛」







――若いなあ、おそらく王は18歳くらいじゃろうて。
王朝によくおこった悲劇的な死じゃな。毒殺されたか、暗殺か――

――棺の前で、恩師が語る。
黄金のマスク。
矢車菊の花束――





心臓が、引き締められて目が覚めた。

耳に響く煩いほどの鼓動。
乾いた唇は呆れるほど空気を求めていた。

未だ、月は中天にある。
その淡く蒼い光に守護されて、傍には目を閉じる若き国主がいた。
あまりにも整っているその眉目。
大理石の彫刻のように滑らかで優美な――整いすぎた相貌。
呼吸をしているのかも分らぬ程静かなその眠りに、胸の奥から不安が込み上げる。

――もし――
――もしも、息をしていなかったら――?

そっと、震える細い指をその唇にかざした。
微かに零れる規則正しい呼吸を指先に感じて、ほっと吐息を洩れる。
握りしめる己の指先が、余りに冷たくなっていて瞠目する。



――何度、あの夢を見ただろう。

震える指先を、己の唇へ温めるように押し付けた。
その冷たさが背筋に走る。

――夢?
夢じゃない。あれは現実。
はるか、三千年の未来で、語られる言葉――

強く、目を閉じた。
心を覆いつくしてしまいそうな闇を追い払う様に、ひとつ頭を振る。



――大丈夫よ。あれはきっとこの世界に来たばかりの頃に。
そう、コブラの毒で死んでいた筈の、この人を助けたその時に運命は変わっている筈
なのだから――

そう自分に言い聞かせても、湧き上がる不安は消えない。



此処は、謀渦巻く古代世界。
古代オリエントの頂点に立つ富める強国エジプト。
その燦然たる王宮の、至高の座に君臨する国主の命を狙うものは後を絶たない。
輝き放つ光が強ければ強いほど、闇に巣食う魍魎は昏さを増す。
この十重二十重に警備された奥宮の、更に奥に有る国主の寝所にあってさえ
すぐ手の届く傍らに、その身を守る大剣を控えさせなければならないほどに――

「暗殺を恐れて王など務まらぬわ」
闊達に言い放つ顔が瞼に浮かんだ。



彼を守るためだけに、この世界に留まった筈だった。

――だけど、今まで自分に何ができただろう。

守る筈の存在護られて、その腕の中でぬくぬくと生きている。
あまつさえ、自分を護ろうとする彼を、何度も危険に晒した。

――この人は、何度私の為に生命を落としかけただろう。

その身に残る傷跡を見る度、慙愧の念に駆られる。

数々の戦闘を引き起こしたのは、紛れもないこの自分の存在。
『未来を語る、英知ある姫』と呼ばれ、エジプトの王位継承権を持つ、自分が元凶な
のだ。

自分は、ここにいるべき人間じゃないのに。
――彼に、命を賭けさせる価値のある人間じゃないのに――



もしも今、この人が命を落としたら。

――未だこの国の世嗣は無く、王の唯一の姉、先王の娘であるアイシスは、既にバビ
ロニアの王妃である。
次代の王が立つまでの混乱は必至だろう。
国の混乱は国力の低下に直結する。
諸外国は富国を手にせんと触手を伸ばす。
施政の目が届かなくなった悪吏は私腹を肥やし、民は餓え、国土は荒れる。



――私が、もし今、ここから居なくなったら?
きっとこの人は怒るだろう。烈火の如く。
そして、探して、探して――民は『守り神』を失って悲しんで。

――それで、おしまい。



私一人がいなくなっても、この国は繁栄し続ける。
こんな、歴史の中で一つの塵芥の様な私など居なくても……

どちらがこの国にとって――世界にとって重要かなんて、解り切った事。



不意にナイルのさざめきが耳に入る。
この国主の寝所は、大河のすぐ傍らに聳え立っていた。
滔々と、未来に繋がる流れが、誘惑する。



――帰れ、未来へ。
――真に彼の命を守りたかったならば、お前がここにいるべきじゃない――



「――っ!」



衝動的に、ナイルに飛び込もうと身を起こそうとした、その時。
己の腰に回されていた、褐色の腕に阻まれる。
白い腕に絡み付いた漆黒の髪が、さらりと滑った。

その、己に縋り付く漆黒の呪縛を見て
――それ以上動けなくなった。



――愚かだ――



何が『英知を持つ賢い姫』なものか。
この髪から――この愛しい人の腕から逃れられる筈がないのに!
愚かにも、この呪縛から逃れようとするなんて。
逃れられると、思うなんて。



――この人から永遠に引き離された瞬間に、私の心臓は止まってしまうというのに―




頬を濡らすのは、慙愧の涙か。



――神よ、お許しください!



私の醜い心を――私がここにいては、彼の命を危険に晒してしまうのに!
この国を、滅ぼしてしまうかも知れないのに。

それでも彼から離れられない、なんて自分勝手な女!
なんと浅ましい執着!
正に、傾国の妃ではないか――



そう、胸の前で十字を切ろうとして――闇の中、薄く嗤った。



――私が祈るべきは、どの神なのか?



イエス・キリストがエルサレムに生を受けるのは遥か未来。
キリスト教の母体であるユダヤ教すら興ってはいない、この古代で。



――私の縋るべき神の手は、ここには無い――



祈りすら封じられた夜の中。
ただ、双の蒼玉から音もなく真珠が滑り落ちる――





「――Lovin ' you」



小さく呟いた。
それは誰に聴かせる事もない、独白。
そっと、触れるか触れないかの微妙な距離で、滑らかな褐色の胸に象徴を描く。
左胸の、心臓が脈打つ場所の上に。



「――Please protect him ――
  I would give it all I would sacrifice――」



そして描かれた刻印の上に、そっと唇を触れた。





「――何を、いたした?」



静かな低い声が頭上から降ってきた。
見上げると、穏やかな黒曜石の瞳があった。
いつか見た夜の海のようで、胸が痛くなる。


「――呪いを、かけたのよ――」


「呪いだと?どのような呪いだ?」


面白がるように眇められた瞳。
その瞳に魅入られたように目が離せない。


「――内緒。」
「――気に入らぬ!」


悪戯めいた微笑を載せた唇に、力強く張り詰めた褐色の腕に攫われた。


――独りで泣くなど……許さぬ。


耳元で囁く、愛しい声。
涙が一つ、褥に落ちていく。



――私の信じる神は、未だこの世界にはいらっしゃらないけれど。
祈らずには、いられないのです――



――神様。
この愛しい人の心臓が、止まってしまう時が来たならば。
どうか、私の心臓を抉り出して、この人にお与えください――

胸に描いた刻印は――心臓の形。












―Ast―アセト
イシスの古名
夫神を守り、再生させ得る者





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