括る日まで 4
吹きつける木枯らしに、お好み焼き屋のガラス戸がガタガタと抗議のような音をたてた。隙間風にぶるりと肩を震わせる。いつのまにか日は傾き、空は茜色に暮れかけていた。
表の扉に「準備中」の札がかかった薄暗い店の奥で、河村は亜久津とキスをしていた。亜久津と呼び、河村と呼ばれる。濃密な空気の切実さに、泣きたくなる。抱き合う腕、深くなるキス。その姿を覗く桃城の目に、2人は、まるで2人で1つの生き物のように見えた。
すっぱい葡萄。
忍足に指摘されて、桃城は初めて気がついた。
自分は、決して河村に幻滅したわけではなかったのだ。亜久津とキスをしていた河村に、これまで彼に対して抱いてきた幻想が壊れ、恋心を失った……のではない。
ただ、悔しかったのだ。
河村のことが好きだ、と桃城が本当に自覚するまでには時間がかかった。好きな相手が同性であることが、恋にブレーキをかける、自分なりに長く辛い時間だった。彼に会うことのできない中学3年の1年間で諦めようと試みたものの、それも成らず、好きだ、と半ば観念するように認めた後も、今に至るまで、思いを伝えることはできていなかった。
嫌われるのが恐かった。告白して、これまでの関係を壊してしまうことを考えると、どうしても好きだとは言えなかった。
「バカみてえ、って思ったんです」
忍足に取り分けてもらった、お好み焼きの一切れを口に運びながら、桃城は言った。自分が彼を困らせまい、迷惑をかけまいとしてきたのに、当の河村は同じ男である亜久津と……。
人の気も知らないで。
呟きながら、こみ上げる涙に喉の奥が熱くなる。お好み焼きを咀嚼し、何とか飲み込みながら、桃城は忍足の顔を見た。鉄板を挟んで向かいに座るかつての対戦相手は、桃城を慰めるでなく叱るでなく、さっきから黙ったまま話を聞いていた。俯く桃城に、もっと食べ、と追加注文のたこ焼きを勧める。
そのときだった。
桃城の携帯電話が鳴った。上着のポケットから電話を取り出せば、ディスプレイには「タカさん」の4文字。慌ててキーを通話にする。
「ごめんね。今、大丈夫だった?」
電話越しの穏やかな声。河村は、来ると言った後輩がいつまでたっても家に来ないので、まさか途中で何かあったのでは、と心配になったのだという。
「大丈夫です。……すいませんでした」
行けなくて。
「いいよいいよ。俺こそごめんね、いちいち電話なんかして」
急用ができた、という桃城の嘘を疑う様子もなく。時計を見れば、河村の休憩が終わるという午後4時直前。携帯電話の向こうに、家電の受話器を手に、頭を下げている河村の姿が見えるような気がした。
「いや、俺が悪かったから。河村先輩が謝ることじゃないっす」
「そうかな。でも、ごめんね」
やっぱり好きだ。
思いが胸の奥から、まるで涙のようにこみ上げる。あなたが誰を好きでも、あなたが好きだ、と。河村は、ごめんね、と謝罪をくり返す。その声に耳を傾けながら、桃城は思った。
電話が終わると、忍足が、眇めた目で桃城を見ていた。
「今の河村先輩って、俺らが中3の関東大会で樺地とノーゲームだった河村?」
「そうです」
一昨年の関東大会初戦で、桃城や河村の青学は、忍足の氷帝とあたった。シングルス3は、河村と、当時2年の樺地。初めて見た対戦相手の技を試合中にコピーできるという、驚異の能力をもった樺地は、河村の波動球を吸収。
波動球は、もともと不動峰の石田が地区予選の決勝で見せた技である。河村は、関東大会直前に会得したばかりのそれを、樺地との試合で初披露した。
桃城は正直なところ、あの試合のことを、あまり思い出したくはない。
波動球は、桃城の知る限り、およそ最強のフラットショットである。練習中に河村が打つのを、何度か受けたこともあるが、ボールがラケットをかすめた瞬間、ラケットが弾き飛ばされることも珍しくなかった。
そして、波動球、特に片手で打つ波動球は、また、そのあまりの球威ゆえに、打つ者の腕をも傷めてしまう。諸刃の剣のような技だった。
樺地との試合で、波動球をコピーされた河村は、樺地の打つ波動球を波動球で打ち返すという、捨て身の作戦に出た。桃城ばかりではない。あのときは、青学全員、本当に生きた心地がしなかった。今後テニスができなくなるという、竜崎先生の声を耳にして、気が遠くなりかけさえした。
やめてくれ、という桃城の心の叫びも空しく、河村は樺地と2人ともに限界に達するまで、ゲームを中断することはなかった。
「河村は、テニスやめたんよね?」
「はい」
忍足が聞く。頷きながら、桃城は意外だった。忍足が、自分の対戦相手でもなかった河村、決して目立つタイプでも印象的なタイプでもない彼を、きちんと記憶していることが。
波動球合戦とでも言うべき、樺地との打ち合いのことを口にすると、あいつ、全国の準決でもそんな感じやったな、と呟く。
「ラケット握るまでは、おとなしそうやし、気ぃも弱そうな奴なのに」
不思議だ、と首を傾げる忍足に、ああ見えて頑固な人なんです、と桃城は答える。そんな桃城を、忍足は、タコ焼きの最後の1つを爪楊枝で刺しながら、チラと見る。
「なあ……」
「はい?」
「自分の好きなんって、河村やろ?」
当たり前のように言われたセリフに、思わず咽る。
「違ったか?」
咳き込む桃城に、水の入ったガラスコップを手渡しながら、忍足は、違…うくはないすけど、と口ごもる桃城を見て、楽しそうに笑った。
「俺、どうしたらいいんすかね?」
本当に格好悪い。プライドも何もかも、剥ぎ取られたような気分だった。藁にも縋る思いとはこのことだ。
「好きにしたらええ」
けれど、いっそ投げやりな調子で聞いた桃城に答える忍足の言葉は、意外なほどに真面目だった。
顔を上げると、彼は突き放しているのとは違う、相変わらず感情は読めないけれど、決して冷たくはない無表情でこちらを見ていた。
「河村は、いつもそうしてたやろ?」
言いながら、忍足は、まるでテニスをしているときの河村の姿を思い出すように、視線を上にやる。桃城も、つられて天井を見上げた。煤で黒ずんだお好み焼き屋の天井が、じんわりと涙にぼやけた。
お好み焼き屋の前で、忍足と別れて、桃城はバスに乗った。
結局、お好み焼きからたこ焼きから、全て奢ってもらった。先輩とはいえ他校の人だし。そう思い、たとえば菊丸あたりと寄り道をするときには、決して出すことのない財布をポケットから出した桃城を、ええから、と忍足は制した。
「ありがとうございました」
店を出たところで頭を下げる。ごちそうさま、ではなく、ありがとう。奢ってもらったことばかりではない。忍足が話を聞いてくれなかったら、自分は河村のことを嫌いになっていたかもしれなかった。
感謝しつつも、バスに乗り込む直前、がんばり、と頭を撫でられたときには、複雑な気分だった。
バスの中、吊り革に掴まって立つ桃城の前の座席では、1人のサラリーマンが居眠りをしていた。スーツを着たその男よりも、さっき別れた、たった1つ年上の忍足の方を、ずっと年上に感じた。
その夜、河村から、本日3度目の電話があった。
「さっき、片づけのときに見つけたんだけどね」
夜分遅くの電話を河村は詫びる。桃の自転車、と言われて思い出した。すっかり忘れていた。昼間、亜久津と河村のキスシーンにショックを受けて、逃げ出した桃城の放り出した自転車。
「見覚えのある自転車だから、もしかしたら、と思ったんだけど、やっぱり桃のだったか」
仕事終わりの開放感からか、河村の声には屈託がない。夕方の電話では考えなかったけれど、彼は、自分があの場面を覗いていたことに気づいていないのだろうか。
今から取りにいきましょうか、という桃城の申し出を河村は断った。
「もう遅いから」
明日、自分が学校に乗って行って、桃城に鍵を渡すのはどうだろう。河村は提案する。もう遅いからいけない。危ないから。こういうときの彼は譲らない。
はい……と力ない声で答えながら、そういうタカさんはどうなんだ、と思う。今から、タカさんは亜久津の家に行くんじゃないのか。それは、いけないことじゃないのか、危ないことじゃないのか。
けれど、おやすみ、と囁くような河村の声が優しくて何も言えない。
通話の終わった携帯電話からは、ツーツーと無機質な音だけが聞こえてくる。その電話を握りしめ、自室の床にへたりこむ。風呂上りの妹が、そんな兄の姿を見とめて、具合でも悪いの、と声をかけてきた。けれど、桃城は答えぬまま、河村のことを考えていた。今頃、夜を駆けて亜久津のもとに向かっているのだろう、河村のことだけを考えていた。
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忍足と桃ちゃんがお好み焼き屋でグダグダ、の続き。忍足のことは、普段はオッシーと呼んでいます。オッシーは、ここでは年上らしく桃ちゃんにお好み焼きその他を奢ってあげていますが、実は割と恒常的に金欠の人です。理由は、趣味に金を使いすぎるから。おうちはお金持ちなので、お小遣いはたくさんもらっているはずのオッシーですが、割と常に金欠です。理由は、趣味に金を使いすぎるから。氷帝の中では例外的に庶民の宍戸さんは、オッシーのそういうところが嫌いです。ジローも庶民ですが、ジローは気にしていません。
氷帝の中では、オッシーも宍戸さんもジローも好きですが、一番好きなのは榊太郎です。カップリングなら跡タロだ、と思っているのですが、跡部様の目には、樺地しか映っていないようです。
氷帝は、いつのまにか青学に迫る勢いで好きですが、一番好きな学校は山吹です。好きというか、入りたい学校。極めてラフな雰囲気がたまらん。同じ意味で四天宝寺も好き。ところで、山吹といえば疾風怒濤ですが、山吹のどの辺りが疾風怒濤なのか、いまだに分かりません。
夢は、山吹か青学の生徒になって、校門の脇で亜久津を待っているタカさん、あるいはタカさんを待っている亜久津を目撃することです。