DOOR 4




 ある晩のことだ。


 いつものように客を玄関まで送って、河村は事務所に戻ってきた。
 ホワイトボードを確認すると、今日はこの後、指名は入っていない。
 飛びこみがあるかもしれないから、あと1時間はいるように。
 マネージャーは、そう言い残して出かけて行った。
 河村以外の従業員は皆接客についていて、事務所には自分しかいない。
 シャワーを浴びて帰ってきても、さして広くもない部屋に、響いているのはコチコチという壁掛時計の音だけだった。

(暇だな……)

 ここ数週間、亜久津は来店していない。
 例によって河村には何も話してくれないが、どうやら仕事が忙しいようで、自宅に帰ってこない日も多かった。

「ハア……」

 ため息をついて、淡々と時を刻む時計を見上げる。
 黒い文字盤の左下隅に、カレンダーがついている。
 亜久津が最後に「DOOR」を訪れたのは、先月の終わり。
 もうひと月近く触れていない。
 先ほど帰った客とは本番なしのプレイだったが、こうした店に勤めていれば、少なくとも2、3回の出勤に一度は誰かとのセックスの機会がある。
 それでも、何となく物足りなさを感じるということは、やはり、心身とともに充たされてこその性欲ということだろうか。


 話相手もいない、この部屋にはラジオやテレビはない、煙草も吸わない、ということで河村は暇を持て余していた。
 事務所の隅に置かれたソファに座ったり立ち上がったり、部屋の中を無意味に歩きまわったりする。
 のんびりしている、マイペースだと言われることも少なくない自分だが、こうした何をする必要もない時間を1人で過ごすのは、本当をいうと苦手だった。


「あれ、1人なの」

 だから、軽い驚きをこめた言葉とともに、事務所の扉が開いたときにはホッとした。
 たとえ、現れたのが、見るからに胡散臭い微笑を唇にたたえた「DOOR」のオーナーであっても。


「君のヒモのことだけどさ」

 黒い革張りのソファにどかりと座りこみ、オーナーはやおら言った。
 口に咥えた煙草の先を上下させる。
 火をつけろ、という合図である。
 こっちへおいでと手招きされ、呼ばれるままに隣に腰かける。
 自前のライターで煙草に火をつけると、「隆はいい子だね」と冗談めかして頭を撫でられた。


 河村はこの店ではただ1人、本名で働いている従業員である。
 職場バレや家庭バレを恐れる同僚たちからは、「こわくないのか」としばしば聞かれたが、実のところ、それが「DOOR」に勤めるにあたり、河村が自ら店側に示した唯一の条件だった。
 それとは、すなわち本名を通すこと。
 本当は、亜久津がそう呼ぶように「河村」と上の名前が良かったが、さすがにマネージャーから断られた。


「彼、近いうちに例の組で盃もらうことになるみたいだよ」

 オーナーの手には、緑色の大きな石の嵌められた指輪が中指に輝いている。
 小指の一部が欠損した左手で顎を持ち上げられ、河村は反射的に目を閉じた。
 「売り物には手を出さない主義だ」と言いながら、お前は例外、とばかりに、彼は時々こうして悪戯をしかけてくる。
 亜久津とは違う煙草のにおいのする唇に唇を奪われ、派手なスーツの背中に腕をまわす。
 河村は、怪しい青年実業家を地でいくこの男が嫌いではなかった。


 オーナーは、河村も知っている某指定暴力団の名前を挙げた。
 亜久津は、その中枢に近いある組のトップから、実力を非常に買われているらしい。
 範囲こそ定かでないが、オーナーは裏社会に太いパイプを持っている。
 彼の情報の確かさを思うと同時に、河村は、ここ数週間の亜久津が多忙であることの理由を悟った。

「蛇の道は蛇だろう」

 そう笑って、オーナーは河村の肩を抱いた。


「いきなり幹部待遇だっていうし、前代未聞のスピード出世だよ」

 前身が100%カタギで、わずか2年足らずの間の成り上がり。
 河村が何となく予想していたとおり、亜久津の働くクラブの背後には、彼が今度盃をもらうという組の系列で、切り捨て御免の末端組織がついていた。
 ほとんど直営と言っても良い。


 「DOOR」のオーナーが偶然そのクラブを訪れたのは、亜久津が用心棒を始めて数日後のことである。
 クラブの入り口で、亜久津は辺りを睥睨するようにして立っていた。
 その姿に、彼は一目で確信したのだという。
 もっとも、オーナーの言うことだから、どこまで本当かは分からないが。

「この男は凄い、ってね」

 最初の出会いから程なく、オーナーは再びそのクラブを訪れた。
 そこで、前回は外に立っていたチンピラが、短期間のうちに店の中に持ち場を移動し店に出入りする組関係者の頭に収まっているのを見て確信を深くした。
 彼は、人脈をつくるのに骨惜しみをしない。
 クラブの閉店時間までボックス席でねばって、クロークで亜久津に声をかけたらしい。


「あの人、見た目どおりっていうか、すごいよね。こっち一応お客なのにさ。『うるせえ、さっさと帰れ』の一点張り。でも、僕がこういう店をやってる、って知ったら食いついてきたよ」

 こういう店、つまり「DOOR」のような店のことである。





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