家の中
私が子供の頃、近所に奇妙な家があった。
黒い板塀にぐるりを囲まれて、中の様子をうかがうことはできない。
敷地は相当に広いはずなのに、人の気配はほとんどない。
かたく閉ざされた門の向こうは、いつもひっそりとしていた。
一体、あの家は何なのか。
父や母に尋ねても、よく分からない。
秘密めいた雰囲気に、少年の私はますます興味をそそられた。
その頃の友人に、早熟なのが一人いた。
彼は何でもよく知っていて、私はとても頼りにしていた。
たまたま彼と一緒にその家の前を通ったとき、私は思い切って彼に聞いてみた。
「あれは妾宅だよ」
友人は、あっさり答えた。
「妾宅?」
何だか拍子抜けしてしまった。
確かに、その家は、敷地を囲う黒い塀も塀の向こうに枝だけ見える庭木の松も、言われてみれば、何故気づかなかったのだろうというくらい、典型的な妾宅のそれだった。
今の人には想像もつかないだろうが、昔私が子供だったその時分には、金持ちがいわゆる「おめかけさん」を囲うための家を建てるのは、それほど珍しいことではなかった。
私の住んでいた地域が、特別に多かったのかもしれないが。
その家の他にも、あれは妾宅だと目されている家は町内に何軒もあったし、誰も面と向かって聞きはしないものの、あの人は誰それのめかけだと目されている人だっていくらもいた。
「何だ」
そんなものだったのか。
すっかり興味を失った風に呟いた私に、しかし、友人はニヤリと笑った。
「でも、多分、ただの妾宅じゃないぜ」
耳打ちされ、私は立ち止まる。
鳴きたてる油蝉の声に、包まれるような路地だった。
件の家の門がすぐ先に見えていた。
暑い、真夏の朝のことだ。
以下は、そのときの友人の話である。
あの家は外観から見るに、間違いなく誰か金持ちの、しかも相当の金持ちの家である。
自分ではないが、あの家の門の前に自動車が着けられているのを見た者もいるという。
家の主は、何となく物騒な雰囲気の男だという。
髪が真っ白で、しかし老人にしては背が高すぎる。
外国人かもしれない。
ともかく、真っ当な仕事をしている風ではなかったらしい。
ところで、あの家には、主とは別の男が一人住んでいる。
若い男である。
おそらくは下男であろう。
他に人がいるのかは分からない。
家の出入りしているのは、主を除けばその男一人だ。
あの家が妾宅である以上、中には必ず女がいるはずである。
しかし、その姿を見た者は誰もいない。
表通りに並ぶ店々の御用聞き連中だって、あの家の中には入れないのだ。
買い物は全てあの若い男が店に足を運び、買った物も全て彼が一人で運ぶ。
運動選手のように体格の良い男なのだ。
「郵便は?」
私が聞くと、事情通の友人は、
「あの家があそこに建って半年だ。その間、一度もあの家に郵便がきたことはないそうだよ」
「どうして誰も、あの家で囲われている女の人の姿を見たことがないんだろう」
「あの家の主人がひどく嫉妬深い男で、自分の妾を人目に触れさせるの嫌さに決して家の外には出さないという噂だよ。一緒に住んでいる若い男は、彼女の身の世話をする係兼見張りだとさ」
友人がそこまで話したとき、私たちの数歩先でその家の門が音もなく開いた。
私は息をのんだ。
そして、隣を見れば友人も。
ふいに、今までどこに隠れていたのか、黒塗りの大きな自動車が私たちの背後に現れた。
自動車は竦んだようになっている子供を追い越し、門の前にぴたりとつける。
「いってらっしゃい」
「ああ」
門の中から、先ほどまで話題になっていた家の主その人が出てきた。
彼は車に乗り込み、彼を送りに出てきた若い男に窓を開けて応える。
私たちは思わず顔を見合わせた。
この家に住んでいる方の男のことを若い男若い男といってきたが、主もまたこんな家を持っているにしては思いがけないほどに若かった。
車の外で長身を折り曲げるように彼と話している男と、ほとんど同年代にも見えた。
主は、見送りに出てきた男の頭に手をやり、短い髪を梳くように指を滑らせる。
首を撫で、肩を撫で、
「またな」
と言った。
見送りに出てきた男は、その間、身じろぎ一つしなかった。
ただじっと主を見つめ、なすがままになっていた。
やがて、車は走り去る。
残された男は、ずいぶんと長い間車の去っていった方に視線を向けていた。
ため息を一つつき、門の方へと向き直る。
彼は、そこで初めて私と友人の存在に気づいたようだった。
板塀に貼りつくように立つ二人の子供に一瞬目を見張り、その後、ゆっくりと会釈をした。
私たちのような子供に、まるで大人にするような丁寧な会釈だった。
「おはようございます」
「お…おはようございます」
友人がうわずった声で応える。
私はといえば、情けないことに声が出なかった。
私たちに向かって頭を下げ、その人は少し笑った。
(これ以後は、もう彼のことは「その人」あるいは「あの人」などと呼ぼう。後の私の心の動きを考えれば、その呼称の方が彼にはふさわしいだろう)
その微笑の内に含んだものの深さ。
蝉の声が遠くなり、友の気配が遠くなる。
心を、奪われてしまった。
「君たちは、この辺りの?」
「そうです」
「今から学校?」
「いえ…」
「ああ、夏休みだものね」
「はい」
私が呆然としている間にも、その人と友人との会話は進んでいく。
けれど、日ごろ誰を相手でも怖じるところがなく、立ち過ぎるほどに口が立つ友人が、その人の前では何となくおとなしいのが不思議だった。
その人は、友人と話しながらふと私の顔を見た。
私の心臓がどきりと跳ねる。
「君は……」
彼は、私の家が表通りに開いていた時計屋の名前を言った。
そこの子かい、と。
「はい」
私が頷くと、
「お父さんは、懐中時計の修理もやってくださるかな?」
そう言って、懐に手を入れた。
その人が取り出したのは、銀色に鈍く光る懐中時計だった。
表には帆船が彫られている。
銀はやわらかな金属で、加工しやすい分磨耗もしやすい。
しかし、その帆船には一つの傷もなかった。
よほど大切に扱っているのだろうと思い、その人を見れば、何だか悲しそうな顔をしている。
「動かなくなってしまってね」
蓋を開く。
確かに、針は止まっていた。
大きな手が文字盤をそっと撫でる。
指が長くて細かった。
あれは職人の手だな、と家に帰り父の手を見て思った。
「直してくださるかな?」
「任せてください」
心配そうなその人に、自分でも驚くほど強い声が出ていた。
「ありがとう」
その人は笑い、いつのまにか高くなっていた日差しに目を細めた。
暑くなってきたね、という言葉の歌うような響き。
胸が詰まるような思いがした。
その日の午後、その人は私の家にやってきた。
応対に出た父に時計を預け、店の外の往来からこっそり覗いていた私に気づき頭を下げる。
私に手を振りながら帰っていくその人の背中を、見えなくなるまで見送った。
それから何日か経った。
私はといえば何をしていてもあの人の顔が頭にちらつき、何も手につかない状態だった。
父の帳簿を盗み見ると、あの人の名前は河村さんというらしかった。
こんなときに限って遊び仲間は皆忙しく、あの日あの家の前でともにあの人に会った友人にいたっては姿を見かけることさえなかった。
夏風邪でもひいたのだろうか。
心配に思っていた、それから更に何日か経ったある日の午後、件の友人が私を訪ねてきた。
彼は今まで私が見たこともないほど思いつめた顔をしていた。
「ちょっといいか」
彼は私を連れ出し、あの家の方へ向かって歩いた。
日ごろ雄弁な彼にしては珍しく、何も喋らず、
「何か話があったんじゃないのか」
私が聞くと、ようやく重い口を開いた。
「あの後、ずっと考えていたんだけれど」
話は、そんな前置きで始まった。
あの家に、囲われている女なんて本当にいるんだろうか。
じっと黙っていた友人は、突然、堰を切ったように話し出した。
お前も見ただろう。
あの日、車に乗って帰る男と見送る男の様子を。
あれは、少なくとも主人と下男の雰囲気ではなかった。
それにあの懐中時計。
高価な物だってことは俺でも分かったよ。
何で、ただの下男があんな物を持っている。
どうして、自分の女を全く家の外へ出さないほど嫉妬深い主が、彼女をあんな若い男と二人暮らしにさせておく?
考えてみれば、おかしいことだらけだ。
だから、なあ、俺は考えたんだが……。
もしかすると、噂は間違っていたのかもしれない。
もしかすると…もしかするとの話だぞ。
もしかすると、あの家に囲われている女なんていないんじゃないだろうか。
友人はほとんどひと息にそこまで話すと、私を見た。
私は頷く。
彼の疑問はどれも言われてみれば、確かにと頷くほかのないものだった。
気がつけば、私たちはあの家のすぐ近くまで歩いてきていた。
友人は口の端をかたく引き結び、ひっそりと静かな家の門を睨みつける。
午後のもう遅い時間で、黒い板塀は傾き始めた日に照らされ、まるで油でも塗られたようにてらてらと光っていた。
足元の砂利を強く踏みつける。
友人が、ぽつりと言った。
「あの家に囲われているのは、あの男なんじゃないだろうか」
「あの男」
「俺たちが、あの日、あそこの門の前で話をした男だよ」
「あの人か」
「ああ」
友人は、ひどく思いつめているように見えた。
私がそれを指摘すると、自嘲気味に笑い、
「そうか、思いつめているように見えるか」
そして、
「勘違いするなよ。俺は、男が男を囲っているからって、そんなことでこんなになっているわけじゃない」
彼にしては歯切れ悪く言う。
私と視線を合わせない。
「どうしたんだ?」
「あの日から、俺はおかしいんだ」
友人は、吐き出すように言った。
「あの人のことが忘れられない」
あの日見た車に乗っていった男、あの白髪の背の高いあいつが、俺たちが門の前で話をしたあの人を囲って。
囲うってことは、それなりのことをするわけだろう。
そんなことをしているって、想像するだけで、頭を掻きむしりたいような気分になるんだよ。
河村、河村っていうのか、懐中時計の男は。
そうか、河村さんか。
でも、何でお前が。
ああ、そうか。
お前んちに時計を修理に出したんだったな。
あの時計は、あの男に貰った物だったりするんだろうか。
下の名前は知ってるかい。
タカシ。
字は……こざと編で一文字のタカシ。
隆か。
河村隆、タカさんか。
いい名前だなあ。
河村さんがあの男に抱かれているのを考えると、我慢ならないんだよ。
いっそのこと、あの男を殺してしまいたいような……。
嫉妬か、うん、嫉妬だろうな。
おかしいだろう。
たった一度話しただけの人に。
おかしいよなあ、自分でもおかしいよ。
うなだれてしまった彼に、私はかける言葉を持たなかった。
思わず手に取った友人の手は、手の甲にまでにじんだ汗が冷たかった。
私は震える彼の手を取って、何度も何度も首を横に振った。
何も言うことはできなかったが。
私とて、彼と同じだったからだ。
あの日からあの家の主があの人、河村さんに触れているところを何度となく妄想した。
そのたび、重たく熱い石が腹に溜まっていくような感覚を味わった。
私とて、彼と同じだ。
河村さんに会って、私も友人もおかしくなってしまった。
あの人には、確かにそんなところがあった。
背の高い人だった。
がっしりとした大きな体だった。
顔だって、眉が濃く顎の線のしっかりとした、どこからどう見ても逞しい男以外の何ものでもなかった。
それなのに。
それなのに、と思う。
彼に出会って、私たちの何かが狂った。
私たちの中の何かが、彼に出会っておかしくなった。
自分がおかしいのを、他人のせいにするのは卑怯なことだ。
けれど確かに。
妄執といえば良いのだろうか、執着といえば良いのだろうか。
人の心の中の暗い部分を煽るような何かを、あの人は確かに持っていた。
その夜、私と友人は、家族が寝静まるのを待ってそっと家を抜け出した。
待ち合わせの路地に相手の姿を見とめ、どちらもほっと息を吐く。
「今夜、あの家に忍び込んでみないか?」
友人に持ちかけられて、私は一瞬の躊躇の後、頷いた。
あの妾宅で囲われているのが河村さんだというのは、今のところ友人の推測の域を出ない。
私はおそらくその推測は当たっているだろうと思ったが、本人はそうでもないようで、自分の推測が真実か自分の目で確かめてみたいと言うのだ。
確かめてみたいと言いながら、しかし、友人は同時に、自らの推測が外れていてほしいと思っているようにも見えた。
私たちは家の裏側から庭木の枝に取り付いて塀を乗り越え、まんまと敷地の中に忍び込んだ。
もし、町の噂のとおりこの家に女の人がいるならば、彼女の生活の痕跡くらいは見つけることができるだろう。
広い庭には、草木が鬱葱としていた。
この庭の手入れも、河村さんが一人でしているのだろうか。
目隠しのためなのか、ところどころどう見てもわざとという風に植物が伸び放題に伸びたままにされている場所があった。
茂みを掻き分けながら、私たちは歩く。
進めば進むほど、緑は濃くなっていった。
「表から入れば良かったね」
裏口から入ろうと決めたのは友人だった。
私が恨みがましく言うと、私の先を歩いていた彼は振り返り、
「そら、見えてきたぞ」
前方を指さした。
平屋の木造家屋。
やっと姿を現したその建物は、私が想像していたよりずっと小さな物だった。
改めて、この家の敷地は、おそらくはこの家屋の様子が外から分からないよう、深く深く造られた庭がほとんどだったのだなと思う。
勝手口には鍵がかかっていた。
私たちは、表の方へ回った。
もう夜も深い時間だったが、表の雨戸はまだ閉てられていなかった。
縁側に膝を乗り上げ、細く開いた明障子の隙間から中をうかがう。
障子の向こうは、この小さな家には不釣合いなほどだだっ広い座敷だった。
いや、だだっ広く見えたのは、部屋の真ん中に敷かれた布団の他にこれといった調度がなかったせいかもしれない。
布団と、枕元に置かれた明かりと、何やら細々とした色々の載せられた丸い盆と。
それがその部屋にある物の全てだった。
部屋の奥の襖には薄い紫色を基調に夏の花々が描かれ、布団の色はあろうことか血のような赤だった。
青畳の上に真紅の布団。
息をひそめる私の横で、友人が怒りとも興奮ともつかない荒い息を吐く。
赤い絹張りの布団と薄紫の襖絵を浮かび上がらせる明かりに彼が何を連想したのか、そのときの私には分からなかった。
布団の上には、二つの人影が蠢いていた。
獣のような息遣いと、暗闇にぼうっと光を放つような白い背中。
人影の一つは、この家の主である白髪の男だった。
「ああ」
私の口から小さな声が漏れる。
主は、布団の上のもう一つの人影に背中から圧しかかっていた。
その人物はうつ伏せに横たわり、襖の方を向いている。
私たちのいる方から、顔は見えない。
二人は、確かに交わっていた。
主の腰が緩く前後に揺らめけば、甘い悲鳴があがった。
聞き覚えのある声だった。
つい先日、耳にした声だ。
もはや、確かめるまでもなかった。
血のように赤い布団の上、その人は背後から貫かれる姿勢で男を受け入れていた。
促され、腰を高く掲げる。
引き締まった体。
暗い中でもよく分かる。
背中がしなり、汗が飛んだ。
河村さんだった。
おそらくは当たっているだろうと思っていた友人の推測。
しかし、心のどこかでは、外れていてほしいと私も願っていた推測。
やはり、彼がこの家で囲われていたのか。
「おい、こっち向けよ」
言いながら、河村さんの頭に手をやる。
こちらを見ろ、という言葉とは裏腹に、うつ伏せになった彼の頭を敷布団にぐっと押しつけた。
抗うように振られた首に、男の手が弾かれる。
肩越しに後ろを向いた河村さんと、二人の視線が絡んだ。
男は河村さんに自身を含ませたまま体勢を変え、正面から彼を抱きこんだ。
と、同時に、激しい律動を開始する。
濡れた肉と肉とがぶつかり合う音、部屋中に立ちこめる男の汗の臭い。
あの人は双眸に涙をにじませ、「亜久津」と男の名を呼びながら喘いだ。
河村さんを抱く白髪の男の名を私たち知ったのは、実はこのときである。
「あくつ」
友人が低く呟く。
河村さんは息も絶え絶えになりながら、それでもはっきりと男を呼んだ。
亜久津は河村さんの涙ひとつ声ひとつ逃すまいとするように、目にそして唇に自らの唇を寄せ、彼の涙を吸い彼の声を奪った。
暗い部屋の隅々にまで、咽るような性の臭いが満ちていた。
亜久津が河村さんに施す愛撫が、度を越して執拗なものであるということは、子供の目にも明らかだった。
双方ともに数度の射精の後、しかし、亜久津はひと時も休み休ませることなく彼を貪り続ける。
そして、亜久津が河村さんを貪り続けるその間、私も友人もその場から一歩も動くことができなかった。
二人の交わりを凝視し続けた。
目を逸らすことはできなかった。
薄紫の夏の花が咲き乱れる襖に、半身を起こした亜久津の影が揺れる。
亜久津の体の下で、すでに限界を越えているようにも見えるのに、河村さんは必死の態で受け入れる。
快楽というより、自らの存在そのものを亜久津に与えようとしているように見えた。
そして、亜久津も。
河村さんが懸命に差し出そうとするものを受け取り、等価のものを差し出し、更にそれ以上のものを河村さんに与えようと。
あんな交わりは最初で最後だった。
自分でするのでも、他人がしているのを見てしまうのでも、それ以来なかった。
私の傍らで、友人は眉根をきつく寄せて二人を見ていた。
こんな濃密な時間が彼らにとっての日常ならば、そこに私たちの入り込む余地はない。
私は、この家に足を踏み入れたことを後悔していた。
おかしくなっていた頭の芯が、すうっと冷えていく。
「もう帰ろう」
友人の袖を引き、私は小声で言った。
まるで人形のように力なく、友人が頷く。
そうして、私たちが立ち去ろうとしたときだった。
「小僧」
私たちの背中に向かって、低い声が飛んだ。
恐る恐る振り返る。
きっと気づいていないと思っていた亜久津が、私たちを見ていた。
河村さんは分からない。
障子の隙間からは、亜久津の鋭い瞳だけが見えた。
「他言無用だ」
そう亜久津が言って、手も触れられていないのに鼻先で障子がぴしゃりと閉まる。
私たちは、もう後ろも見ずに駆け出していた。
それからのことは、実はよく覚えていない。
私も友人も、その夜のことは誰にも言わなかった。
亜久津と河村さんの様子は、単に金持ちが気まぐれで男のめかけを囲っているというようなものではなかった。
そうであれば、私たちが何か言うことで二人の仲が何か悪い方向に転がっていくことは、私たちの本意ではなかった。
他言無用だという亜久津の言葉がなくても、きっと言わなかったろうと思う。
河村さんの姿は、それから一度も見なかった。
私はあの夜以来あの家には近づかなかったし、友人もそうだったようだ。
また、河村さん自身、元々それほど頻繁に戸外に出る人ではなかった。
あれから数年後、友人は家族とともにどこかへ越して行った。
越して行った先の彼と連絡を取り合うことはなかった。
ただほんの時々、元気だろうかと思い出すくらいだ。
後々まで困ったのは、河村さんが父の時計店に預けていた懐中時計のことだ。
父によれば、あの時計の修理は完璧にできた、というより最初から修理が必要な壊れたところなどなかった。
それなのに、動かない。
不思議なこともあるものだ、と自分の腕に絶対の自信を持っていた職人の父は悔しそうに首をひねっていた。
父は、時計を返すため何度かあの家を訪れたらしい。
しかし、河村さんに会うことはできなかった。
いつ行っても門扉はかたく閉ざされていた。
稀に中に人の気配を感じ声をかけても、扉が開くことはなかったという。
父は、亜久津の姿を見かけたこともあったという。
門の前に黒い大きな車が横付けされていた、と言っていた。
もちろん、預けた当人でない亜久津に時計を渡すことはできないし、亜久津の容姿は気楽に声をかけることを躊躇わせるものだ。
そんなこんなで、河村さんの懐中時計は店の戸棚の奥深くに仕舞われた。
河村さんが取りにきたときに返そうという話であったが、しかし、河村さんが時計を取りに現れることはついになかった。
河村さんのことは、ずっと私の心に引っかかっていた。
まだ人生のとば口に立ったばかりの少年の頃にあの人と出会い、そして、河村さんが亜久津と二人で作る恐ろしく濃密な空間を垣間見た。
子供の頃の記憶というと、必ずあの人とあのときのことを思い出す。
河村さんはいつしか、私にとって過去そのものとなっていた。
あれから数十年が経った。
私はすでに老境といわれる年に入っていた。
自宅の寝室で一人目覚める。
今朝は、久しぶりに河村さんの夢を見た。
夢の中で、あの人はもちろん若いままで、私の方を見て何かもの言いたげにしていた。
音をたてぬよう階段をそっと下りる。
まだ私のような年寄りの他は誰も起きてこないような時間だ。
私は店の戸棚の奥から小さな箱を取り出し、それを片手に通りに出た。
何か、予感のようなものがあったのかもしれない。
河村さんの住んでいたあの家は、もう随分前に取り壊され無くなっていた。
私の父が亡くなったのとちょうど同じ時期だろうか。
家が無くなるまで河村さんがあそこに住んでいたのか、それとも、それより先にどこかへ移っていたのか、私は知らない。
知ろうとしなかった、というのが正しいだろう。
過去は過去で、寸断されることなく現在へと繋がる長い時間の一部である。
その頃の私は、もちろん明確にではないがそんな風に考えていた。
あれから元号は二度変わり、社会もすっかり変わった。
私の町は先の戦争で焼かれた。
それはもう、いっそ清々しいほどの丸焼けだった。
あの家の跡には別の家が建っていたが、それも燃えた。
私が父から継いだ時計店も例外ではなかった。
空襲の翌朝、焼け跡を片づけていた私は、黒焦げになった戸棚の中に河村さんの懐中時計が奇跡的に無傷のまま焼け残っているのを見つけた。
時計の針は動いていなかったが、それは元からのことだ。
中天に差しかかった太陽に照らされ、銀時計の表に彫られた帆船が鈍く光った。
それを見つけたとき、私はその場に膝をつき、不覚にも涙をこぼした。
河村さんと出会う前も出会った後も、あの人がこの町から去ったと思しき後も、私はずっとこの町に住んでいた。
変わることのない時間をこの先もこの場所で紡いでいくのだと、何の疑いもなく信じていた。
炎は、そんな私の時間を突然に断ち切った。
あの人の懐中時計は、今や私を過去へとを繋ぐ一つ残された糸のように感じられた。
小箱から河村さんの懐中時計を取り出す。
父の後を継いで時計職人となって以来、私は何度となくこの時計を動かそうと試みてきた。
けれど、動かなかった。
いつかの日父が言っていたとおり、この時計には元々故障といえるような故障はないのだ。
針が動かない分、せめて外観だけでも何とかしてやろうと、私は長い間この懐中時計の銀が腐食しないことに心を配ってきた。
しかし、それも何だか今日で終わりのような気がする。
予感があった。
だから、私は朝もやの道をひそやかな足音が私に近づいてきたときも、若々しい声に呼ばれたときも、まったく驚かなかった。
振り返ると、そこにはあの人が立っていた。
「河村さん」
あの人は、あの頃と同じ姿だった。
お久しぶりです、と頭を下げる。
「預けっぱなしにしていて、すみませんでした。時計を…」
返していただきにきました。
河村さんが全部言い切る前に、私は時計を差し出していた。
「父からの伝言です。……直せなくてすみません、と」
そう言って、私は河村さんの手に懐中時計を握らせた。
「そんな……」
河村さんは何か言いかけて、手の中の時計をじっと見た。
「こちらこそ申し訳ないことをしました。これは、直していただいてどうにかなるような物じゃなかったんです」
蓋を開け、私に見せる。
「針が!」
「ええ」
河村さんは相好を崩した。
彼の手の平の上で、懐中時計の針は確かに時を刻んでいた。
「本当に、すみませんでした」
河村さんは、何度も何度も頭を下げる。
もういいですからと私は笑って、放っておけば永遠に続けそうな彼を止めた。
「お元気で」
そんなひと言とともに、送り出す。
他にも何か言いたいことがあったような気がするが、それが精一杯だった。
「これで、やっと…」
立ち去り際、河村さんの呟いた声が耳に残った。
朝もやの道を、河村さんの後姿が段々と小さくなっていく。
やがて、どこからともなく白髪長身の男が現れた。
男は河村さんに話しかける。
河村さんが頷く。
他の誰であろうはずもない。
亜久津だった。
亜久津は一度だけ振り返り、あの日と同じ鋭い一瞥を私にくれた。
それから再び向き直り、河村さんの背中に寄り添うように歩き出す。
二人は肩を並べ、いずことも知れないどこかへ歩み去っていった。
戻る
ついにやってしまいました。アクタカパラレル。
「私」は、妖怪の大家、某水木先生のお父上と同い年くらいです。
その彼が、子供の頃の話。
め、明治の後半かな?
その辺りは、割とアバウトに書いてしまいました。
いかにもな妾宅にタカさんを囲う亜久津で頭が煮え煮えになって、一気にGo!だったのです。
アクセルを踏み込む前に、もう少しよく考えるべきだと書きながら思いました。
話の中では名前を出さなかったのですが、「私」も、そして「友人」もテニスの登場人物です。