8月プールの日





8月×日
 河村とプールに行った。



 河村は、
「プールに行こう」
の一言で、亜久津をまんまと連れ出した。


 亜久津よりもよっぽど亜久津の家の物の在処を知っている河村が、てきぱきと亜久津の出かける支度をする。その姿に、いつだったか何だったかで伴田の言っていた、古い言葉が頭に浮かんだ。すなわち、「世話女房」である。
 しかし、悪くねえ、と鼻の下を伸ばしていたのもつかの間
「はい、これ」
と荷物を渡され、亜久津は河村に背中を押されるように家を出た。
 そして、気がつけば、炎天下のバス停に立って、いや立たされていた。


 夏の空気は濃密だ。アスファルトに反射して立ち上る熱と、そこかしこに生き物の気配。バス停は、小さな公園に隣接していて、顔を上げれば植え込みの、下を向けば芝の緑が強く匂った。
「暑いな…」
「そうだな。ごめんね」
 暑いのは別に河村のせいでもあるまいに、河村は、亜久津が何か言うたびに、いちいち律儀に謝ってくる。
 河村に謝られると、何だか自分の方が、ひどく悪いことをしたような気分になる、と亜久津が気づいたのは、いつだっただろうか。「胸がいたむ」というのを、初めて自分の感覚として得たのは。
 俯いた河村の首に腕を回し、河村の頭を胸に抱きこんだ。
 8月の昼日中、汗ばんだ肌と肌が触れ合って、冗談ではなく死ぬほど暑い。むしろ熱い。
「暑いよ、亜久津」
 亜久津の胸に顔を伏せて、暑さのためばかりではなく、のぞいた耳も項も赤い河村が、抗議の声をあげる。抗議の声をあげながら、けれど河村は、自分から体を離そうという気配もない。
「暑いだろ?」
 河村の頭を胸に押しつけて、物分りの悪い生徒を諭すように、亜久津が言う。
「暑いんだよ、暑いんだ」
 ほとんど殺人的な日差しと、気温。だから、物の分かった人間は、こんな真夏の昼間に、わざわざバスに乗って出かけようなんて思わないんだ。
 もう分かっただろう?分かったら、
「帰るぞ」
 亜久津は囁いた。
 河村の部屋にクーラーはないが、亜久津の部屋にはある。思い切り冷えた部屋の中で、今は夏休みで、日中は優紀もいないとなれば、やることは1つだ。
 しかし、河村は、
「帰るのは嫌だよ」
 亜久津の胸に伏せていた顔を上げ、意外なほどきっぱりとした口調で、
「俺、亜久津と行ったことないんだもの」
 そう言って、近くの公営プールの名前をあげた。
「お前、あそこに行くつもりだったのか?」
 亜久津が問うと、こくんと頷く。
 その公営プールは、亜久津と河村が今待っている、このバス停から、3つほど先に行ったバス停の、ちょうどまん前にある。付近の小学生は、夏の間、皆ここに通う、らしい。らしい、というのは、亜久津は通ったことがないからだ。友だち同士、連れ立って出かけていく姿を、いつも亜久津は軽蔑したような眼差しで見ていた。実際、軽蔑もしていた。
 何度か河村に誘われたような記憶もあるが、そのたびに断ったはずだ。河村と行けば、向こうでは必ず、河村の友だちに会うだろう。それが亜久津には、そのときはそうはっきりとは自覚していなかったけれども、耐えられなかった。
「俺、ずっと、亜久津と一緒にあそこに行きたかった」
 あのプール、と河村は言う。
 そのプールは、公営だけあって、深さの違うプールが3つ並んでいるだけの、本当にただもうプールだ。入場料が破格に安いこともあって、小学生の間は、皆熱心に通うが、中学生に上がった途端、ぴたりと行かなくなる。暗黙の了解のようなものらしい。
「浮くな」
 亜久津はぽつりと言った。
「何が?」
「俺らが。周り、ガキばっかだろう?」
 亜久津も河村も身長は180cm超。2人ともに、中学生の頃から、高校生や時には大学生に間違えられることも普通だった。まして、高校生になった今では。少なくとも、小学生に混ざって違和感がないとは決していえないだろう。とはいえ、これも2人ともに、子ども連れの父親にも見えないだろうから、
「まあ、浮くだろうね」
 河村が言った。
「だろ?」
「でも、俺、行きたいんだ」
 顔を上げて、亜久津の目をまっすぐに見て、河村は言った。
「暑い中、付き合わせてごめん。でも、俺、亜久津に一緒に行ってほしいんだ」


 河村は、時々、こういうことをする。
 まるで、記憶をなくした人間が、失われた過去を取り戻そうとするように、時々、こういうことをする。
 小学生、中学生と、もしかしたらありえたのかもしれない2人の時間を、必死で埋め合わせようとする。
 亜久津にも、河村のその気持ちは分からないでもない。
 今、どれだけ近くにいても、あのとき、手を伸ばせば届くところにいた相手に手を伸ばさなかったという、その事実が消えるわけではないのだ。
 過去に拘ることが、どれほど愚かなことであるか、亜久津は知っている。きっと、河村も知っているだろう。
 そのことが、いつか、今の、未来の2人の関係を歪めてしまうことさえ、あるのかもしれない。それも分かっているのだろう。
 それでも、河村は、時々、こういうことをする。しないではいられないのだ。
 そして、亜久津は、亜久津自身も自覚していないところで、河村のその気持ちは、なるべくなら尊重してやりたいと思っている。
 多分、その辺りの過去に拘る往生際の悪さというか、愚かさというか、弱さというか、そうした部分は、亜久津がおそらく河村に惹かれた、その根本のところにかかわっている。目つきの悪い痩せた子ども、亜久津本人がとっくに捨てたと思っていたそれを、後生大事に抱えていてくれた河村だからこそ、亜久津は好きになったのだ。


 通りの向こうからバスが近づいてくるのが見えた。河村が亜久津と一緒に行こうとしているのと、きっと同じプールに行くのだろう、小学生を満載したその姿は、日差しの中で、陽炎みたいにゆらゆら揺れて、まるで幻のようだった。
 停車したバスのタラップに足をかけ、河村が亜久津を振り返る。
 不安げな眼差しに、亜久津は思わず、笑い出したくなった。バスに乗り込む河村の、張りつめたような後ろ姿に、誰がお前を見捨てるか、と吐き出すように思った。
 走り出したバスの中、長身の2人をうかがうように見上げる小学生たちには聞こえないよう、河村の耳元で、亜久津は囁く。
「仕方ねえから、今日は付き合ってやる。その代わり、帰ったら、手加減ナシでやるからな」
 覚悟しとけよ、と付け加えて、見れば、河村の顔は首まで真っ赤に染まっていた。ただ、バリバリと音のしそうな緊張に、心持ち怒らせていた肩も、柔らかく落ちていて、良かったと亜久津は思う。良かった、と思ったことには気づかないふりで、窓の外を眺めながら。







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 またしても現場に着く前に終わる夏のデートもの。
 個人的に、単体では、公営プールにも公共交通機関にも乗っているイメージのない亜久津さんは(アニメで電車に乗ってましたが)、タカさんが一緒だと、いきなり、それらに行ったり乗ったりしていても、オッケーになるような感じがします。逆にタカさんも、亜久津さんが一緒だと、単体では絶対にいそうにない、今や懐かしの某「夏の日の1993」に出てきそうなプールにいてもおかしくない気になります。





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