たからもの
河村隆は、壊れた携帯電話をひとつ、持っている。
普段、箪笥の引き出しにしまわれているそれを、時折、取り出しては眺める。
電池切れの携帯電話。充電機能がダメになっているから、この電話で誰かに電話をかけたりメールをしたり、中に入っているデータをどうにかしたりすることは、もうできない。
修理に出せば、できるようになるのかもしれないが、河村の中に、その選択肢はなかった。壊れた携帯電話を、そのまま、使えないままに、河村は大切に持っている。
2年使った携帯電話の調子がおかしいな、と気づいたのは、ある冬の日の午後。その日、店は定休日で、父と母は朝から連れだって出かけていた。
全国大会が終わって、河村はテニス部を引退した。河村の通う青春学園はエスカレーター式だが、中には別の高校を受ける生徒もいる。3年生は一応受験生ということで、3学期の授業には午前中のみの日が何週間かに1度ある。
その日、4時間目の後のHRを終えると、河村は、鞄にいそいそと荷物を積め、クラスメイトとの挨拶もそこそこに教室を出た。3年の昇降口で靴を履き替えながら、気持ちは逸る。どこにも寄り道せず、まっすぐ帰宅した。
前日、亜久津から電話があった。亜久津は、河村の幼なじみ兼その他いろいろで、河村とは違う学校に通っている。(河村の主観によれば)温厚な不二をして「不良」と言わしめた亜久津は、電話でも、例によっての喧嘩腰。ポーズのそれが本気に変わらないよう、河村は、他の友だちにするより倍は注意深く話した。それでも、決して嫌な感じはしない。河村にとって亜久津は誰よりも気がおけるようで、実は誰よりも気安い、不思議な相手だ。
ともかく、そんな電話が昨日あって、今日は午後から、亜久津が河村の家に遊びに来ることになっていた。河村が急いで帰宅したのは、そのためである。
「ただいまあ」
玄関で靴を脱ぎながら、留守だと分かっていても、つい習慣で言ってしまう。妹もまだ学校で、無人の家に「ただいま」がやけに大きく響く。足をかけた階段の一段目が、ぎしりと軋んで、河村は、思わず首をすくめた。
今日は亜久津の中学でも、3年生の授業はいわゆる半ドン、昼で終わる日らしい。正確には、出席自由の選択授業があるというのだが、もちろん、亜久津が出席するはずもない。
河村は、午前中の授業にはきちんと出るよう念を押し(なぜか亜久津は、「俺に指図するな」というお得意の台詞を言わなかった)、
「じゃあね」
と通話をオフにした。
そういえば、昨日、亜久津、家の電話からじゃなかったよな。
亜久津から連絡がきたらすぐ出られるように傍らに携帯電話を置いて、着替えているとき、河村は、ふと気がついた。
着信履歴を確かめてみると、そこには、「亜久津」、と姓のみ。
河村の携帯電話には、アドレス帳に亜久津の電話番号が2つ登録されている。1つが「亜久津仁」で、これは亜久津の自宅。もう1つが、「亜久津」で、これは亜久津の携帯電話だ。
つまり、昨日、亜久津は河村に、自分の携帯電話から、電話をかけてきた、ということになる。
「珍しい」
少し意外で、何だか嬉しかった。亜久津が、そもそも亜久津が電話をかけてくること自体がほとんどないのだが、携帯電話で、河村に連絡をとってきたのは、これが初めてだった。
知り合いの多い河村と違い、亜久津の携帯電話には、本当に数えるほどの電話番号しか、アドレス帳に登録されていない。そのうちの1つが自分で、なおかつ、亜久津がそれに自分からかけてきてくれた、ということが、無性に嬉しかった。
亜久津の携帯電話は、亜久津の母親の優紀が、少し前、時々家出まがいのことを仕出かす息子に、緊急連絡用!と半ば強制的に買い与えた物だ。
その携帯電話のアドレス帳を、河村は亜久津から、見せられたことがある。亜久津が携帯電話を持って間もない頃である。そこには、優紀の携帯電話や勤め先の電話番号、山吹という学校と思しき番号と一緒に、「かわむらすし」の一件があり、
「ババアが勝手に入れた」
と毒づきながら、その実、亜久津は満更でもなさそうな顔をしていた。
そして、
「寿司屋ついでだ、お前のも入れろ」
一瞬何を言わるたのか分からず、きょとんとした河村に、亜久津はひと言、
「ケータイ」
横を向いた亜久津の耳が、気のせいでなく赤く染まっているのがかわいく見えた。
亜久津の携帯電話は、自分の物と同じ機種で、河村は、その電話に、つい、自分の携帯電話のほか、自宅の電話番号、それから、携帯電話とパソコンの両方のメールアドレスも登録してしまった。
「登録完了、っと」
ひと仕事終えた気分で、「確定」を選択する。
そのとき、
「おい」
それまで黙って河村の手元をのぞきこんでいた亜久津が、ふいに低い声を出した。
しまった。怒らせたかな。
河村は、冷や汗をかく。
「これ、番号消すのどうやんだ?」
亜久津は、低い声のまま言った。
パソコンのメールアドレスまで入れたのが、まずかったかな。
「ごめん、すぐ消すから」
そう言って「河村隆」の項目を呼び出した河村の手を、
「違ぇよ」
まるで削除させまいとするように、亜久津の手が覆う。
「いいから、消し方教えろ」
「う、うん」
亜久津は、河村からアドレスの消し方を教わると、
「あ」
まずは「山吹中」、次に優紀の職場、最後に優紀の番号まで削除してしまった。携帯電話の蓋をパチンと閉める。
「亜久津〜」
「いいんだよ」
せめて、優紀ちゃんの番号くらいは残しておかなきゃダメだよ。
言いかけて、河村は途中で口ごもった。
今、亜久津が自分の携帯電話に残したデータは、たった2つ。それが、「かわむらすし」と「河村隆」の2つだと気づいたからだ。
そのときのことを思い出すと、今でも胸がドキドキする。「ケータイ」と「いいんだよ」の、どちらも分かりにくいけれど、確かに照れていた亜久津の顔。河村が携帯電話を片手に一人、ふくみ笑いをしていると、
「何ニヤニヤしてんだ」
「!」
突然、背後から声をかけられた。振り返ると亜久津だった。畳の部屋に、浮いているのかいないのか分からない、白い制服姿だ。
「い、いつのまに…」
「いつのまに、じゃねえよ」
チャイムを押しても反応はないし、でも玄関は開いているしで、勝手に入らせてもらった。亜久津はそう言って、河村の部屋の隅に積まれている座布団を2つ取り、1つを自分が敷き、もう1つを河村に投げてよこした。
「ありがとう」
礼を言って受け取る。腰を下ろすとすぐに、亜久津が、
「で、さっきは何で笑ってたんだよ?」
「ああ、これだよ」
そう言って、手に持ったままだった携帯電話を亜久津に見せるように差し出して、
「あれ?」
切ったおぼえもないのに、携帯電話の電源が切れていた。
いつのまに切っちゃったんだろう?
いぶかしく思いながら、電源のキーを押す。
が、電源は入らない。
もう一度押してみたが、やはり、入らない。
試しに他のキーも押してみる。
ダメだ。
「おかしいな…」
「どうしたんだよ?」
携帯電話を握りしめて、いきなり悪戦苦闘をしだした河村に、亜久津が声をかける。河村は、もう一度だけ、ダメ押しのように電源キーを長押ししてみた。それでも、河村の携帯電話は沈黙したままだ。
「携帯電話の電源が入らないんだよ」
見せてみろ、と言うように手を出した亜久津の手に携帯電話を乗せる。亜久津は、河村と同じようなことをひと通りくり返した後、
「充電、切れてんじゃねえのか?」
と言った。
「でも、昨日亜久津と話した後、充電して、今日は一度も使ってないんだよね」
「いいから、いっぺん充電してみろよ」
「う、うん」
河村は、箪笥の上の充電器を取り、携帯電話をセットする。しばらくして、電源キーを押してみると、はたして、ディスプレイが点滅。電源が入った。
「あ、入ったよ!亜久津」
思わず大きな声をあげてしまう。
良かった良かった、といくつかキーを押して、異常がないか確認していた河村の手が、ふと止まる。
「どうした?」
亜久津が声をかけると、
「アドレス…」
河村は、肩を落として、
「アドレス、全部消えちゃったよ」
河村の手の中の携帯電話のディスプレイをのぞいてみれば、確かに、おそらくはたくさんの電話番号やメールアドレスの登録されていたのであろう、アドレス帳が、きれいさっぱり登録数0件になっている。消えた番号やアドレスの中には、手帳にメモしてあるものもあるが、河村とて今時の中学生、携帯電話のアドレス帳にしか登録していなかったものも多かった。
河村の顔から、一気に血の気が引いた。
「おい」
亜久津が呼ぶ。
しかし、河村はそんな亜久津の声も耳に入らなくなった様子で、
「どうしよう…」
と、今にも消え入りそうな声で呟いた。
ついさっき、登録されていた番号などが消える前の状態にアドレス帳を回復するため、手間がかかるのは、それが自分ならば別に気にならない。ただ、河村は、そのことで他人に迷惑をかけるのが嫌だった。電話番号ならワン切り、メールアドレスなら空メール。頼めば、嫌な顔をする人間は、おそらくいない。それでも。
「俺のせいで」
「俺なんかのために」
2つの言葉が、河村の頭の中でぐるぐる回る。とうの昔に克服したはずコンプレックスまでが、再び頭をもたげてくるようで、小さなトラブルのたびに、いちいちそんなものを呼び起こしてしまう自分が嫌で、
「どうしよう…」
再び呟いた河村に、
「おい!」
俯いた河村の耳をつかんで引っぱる勢いで亜久津が叫んだ。河村も、思わず耳を押さえる。
「河村、テメーまたくだらねえこと考えてんだろ」
亜久津は河村を睨みつける。いつもなら、その視線をまっすぐに受け止めるはずの河村も、今は少し、気圧されたように後ずさった。
細い眉をつり上げて、亜久津は河村をじっと見る。
「貸せ」
「え?」
「いいから貸せ」
亜久津は河村の手から携帯電話を取り上げ、以前、河村がアドレスの削除の仕方を教えたときとは別人のような速さで、自分の携帯電話の番号を打ち、「亜久津」と名前をつけて登録した。
「こんなもん、面倒でも何でもねえんだよ」
呆気にとられた河村に、携帯電話を投げ返し、亜久津は吐き捨てる。
「お前は何でも考えすぎだ」
と言われて、河村は何だか泣きたくなった。コップに注がれすぎて、溢れる水。そんな気持ちだ。亜久津の言動のひとつひとつが、嬉しくて、情けなくて、やっぱり嬉しい。亜久津は、こんな時ばかり、まるで河村の心を読んでいるようで、さっきとは違う様々な感情で再び頭の中がぐるぐるする。
「くだらねえこと考えんな」
亜久津は、ポケットから取り出した煙草の箱で、河村の頭を軽く叩いた。
河村の部屋の窓を細く開けて、亜久津は煙草を吸う。その横顔に、
「ありがとう」
と心の中だけで河村が言うと、亜久津は口に煙草を咥えたまま、河村の方に視線だけを向けた。頷くように目を細めて見せる。
明日、皆に番号とか聞きに行くよ。ちゃんと理由を話して、変な遠慮はしないよ。
そう亜久津に言おうと思っていたけれど、河村の方に向けた視線の思いがけない優しさに胸が詰まって、その先は何も言えなかった。
亜久津が好きだ、と思う。
傍目には分かりにくい優しさでもって、河村の背中を押してくれる。好きだ、と強く思って、河村はそれ以上何も言えなくなった。そして、「亜久津」の1件だけが登録された携帯電話を握りしめ、俯く河村に、亜久津も何も言わなかった。
しかし、結局、その後しばらくして、河村の携帯電話はとうとう本当に壊れた。充電ができなくなったのと、データが知らない間にどんどん消えていくことに気づいて、新しい携帯電話に変えた。変えたときに、残っていたデータは全て新しい方に移したから、河村も、今度は慌てることはなかった。ちなみに、新しい電話に変える以前にデータが消えた分の電話番号やメールアドレスについても、変えた翌日には、その持ち主のところを回って、アドレス帳に回復した。
「ごめんね、面倒かけて」
と言い、相手にすまないと感じながら、それでも決して卑屈な気持ちにならずに済むのは、亜久津のおかげだと思った。
その日も3年生の授業は午前中で終わり、しかし委員会のあった河村は、昼を2時間ほど回った頃に自宅へと戻った。「かわむらすし」は、ちょうど昼の営業が終わったところ。昼寝をする父親の脇をそっと通り、河村は自室に戻る。
古い携帯電話は、電池量も残り僅かで、ご苦労様、と最期を看取るような気分で2つ折りを開くと、
「ああ、アドレス帳、出しっぱなしだ」
おそらく、以前にどのアドレスが消えたかを確かめたのがそのままになっていたのだろう。ディスプレイには、開かれたままのアドレス帳が表示されていた。たくさん登録されていたアドレスも、今はそのほとんどが消えている。
「あれ?」
河村は気づいた。
アドレス帳は、登録されていたものが、ほとんど消えている…どころではない。ディスプレイをアドレス帳のメイン画面に戻してみて、河村は驚いた。
以前、この携帯電話のアドレス帳に登録されていた電話番号などが全て消えたとき、最初に回復されたのは、亜久津が自ら打ってくれた「亜久津」の携帯電話番号だった。その後、河村は周囲に頼み回って、消えたそれらをほぼ全て回復させた。そして、今、その携帯電話が壊れて、アドレスがどんどん消えていく。
河村が確認したとき、アドレス帳には、たった1件のデータしか残っていなかった。
「これ、最初に入れたやつが残っただけだよな」
その、たった1件残ったデータ、それはメールアドレスではなく電話番号だったが、その電話番号に付された名前に、河村は思わず呟く。
「そうだよな」
勘違いするな、と自分に言い聞かせるようにもう一度。それでも、自然と口元が緩むのを抑えられなかった。
そのとき、制服のポケットに入れていた新しい方の携帯電話が着信をバイブで報せた。古い携帯電話を卓袱台に置く。新しい携帯電話を取り出して、通話にすると、
「河村か?」
亜久津だった。
「亜久津」
河村は、どことなく浮き立つような気持ちで、その名前を口にする。
「山吹も、もう授業終わったの?」
「ああ」
「今日、これから暇?」
「ああ」
「俺、夕方までなんだけど、時間あるんだ。だから…」
「うちに来い」
「うん」
そうして話していると、卓袱台の上に置いた、古い携帯電話のディスプレイは、一度だけ点滅した。それは、まるで、さようならの挨拶のようで、その後は完全に沈黙した。もうどのキーを押しても、充電器にセットしてみても、電源が入ることはなかった。
河村隆は、壊れた携帯電話をひとつ、持っている。
その携帯電話の、1000件まで登録可能なアドレス帳には、今、たった1つの電話番号しか登録されていない。もちろん、電話自体がダメになっているから、そのアドレスも参照できるというわけではないのだが。
河村は時々、壊れた携帯電話を、普段しまわれている箪笥の引き出しから取り出して眺める。眺めるたびに、そこにたった1つ、残された名前の主を思う。そのたびごとに、感じる胸の高鳴りは大きくなっていった。
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亜久津はオフィシャルで確認済みだけれど、タカさんって携帯電話持ってるんでしょうか?
最初は、タカさんの携帯電話に登録されたデータを自分のものだけを残して全部消しちゃう亜久津の話になる予定でした。何でこういう展開になったのか、自分でも分かりません。