ビー玉
お前が心配なんだ、と河村は言った。ビー玉のような丸い瞳に宿っていたのは、純然たる好意だった
俺はずっと、河村が俺を好きだから、俺は河村が好きなのだ、と思ってきた。
河村は毎日、いろいろなことを忘れていく。人の顔、場所の名前。最初にいけなくなったのは車の運転で、今のところ最後にダメになったのは包丁の使い方だ。
うす暗い台所の真ん中に立ちつくし、河村はとても悲しそうな顔をした。あの日のことはよく覚えている。
河村がものを忘れ始めた頃、あの頃は、2人して何日も家の外には一歩も出ず、かと言って、家の中で何をするでもなく過ごすようなことがよくあった。冬だった。
一週間あまりも引きこもって、さすがに冷蔵庫の食料も尽きてきた。買い出しに行こう。しかし、寒いな、車で行くかという話になって。
酒の入っていた俺は、年代物の四駆の助手席に乗り込み、運転席の河村に、上着のポケットから取り出した車の鍵を渡した。
何となくおかしいな、と最初に感じたのはそのときだ。
河村は、車を発進させようというそぶりもなく、俺から渡された鍵を見つめていた。
「どうした?」
先のつぶれた釣り針みたいなキーホルダーが、河村の小指の下あたりにぶら下がって揺れる。河村は、俺の声に我に返り、えーと、いや、などと無意味な言葉をいくつか並べた。
「これ、どうすればいいんだっけ?」
一つ目の爆弾が投げられた。
それからの日々、河村は徐々に、しかし確実に、全てを忘れていった。
「電話、電話なんだよ」
ある日、俺が帰宅すると、河村は、ブツブツと呟きながら家中を歩きまわっていた。どうやら、実家に連絡を取りたいことがあったらしいのだが、その手段を忘れたらしい。電話、という言葉だけでも覚えていたのが良かったのか悪かったのか。
俺は河村にこれが電話である、と電話はこのようにかける、と教えた。分かった、分かったと理解した後、子供のように喜ぶ河村の姿に、気分が良くなかったといえば嘘になる。
しかし、河村は次の日には電話の操作方法を再び忘れた。程なく、電話という言葉を忘れ、家族に伝えたかった用件を忘れ、ついには自分の家族そのものを忘れた。
明け方、途方に暮れたように台所に立つ河村は、もう、あれほどの修行の果てに手に入れた、料理人としての腕をふるえない。まるで第二の手のように、慣れ親しんだ包丁を握ることもない。
俺が冷蔵庫から出してやった缶入りウーロン茶のプルタブすら開けられず、テーブルの上で汗をかく350ミリリットル缶を見つめる。
「ほら」
見かねて横から手を出すと、ありがとう、亜久津と少し困ったような顔で笑い、ウーロン茶に口をつける。
それで、ああ、まだ俺は忘れられていないんだ、と安堵する。そんな生活が、もう何か月も続いていた。
いつか、河村が俺のことも忘れたとき、河村がこれまでの長い間、俺に向けた言葉や表情、2人で重ねた時間はどこにいくのだろうと考える。
そして、いつか河村の瞳から、きっと世界が終わってもそれだけは変わらないだろうと俺の信じた河村の思いが消えたとしても、それらは全て俺の中に残るのだろうと考え。
俺は、自分がひどく河村のことを愛していたことに気づいた。