多分イーブン
君が大事だから、危険なセックスはしない。
常識である。
しかし、常識であるそれは、常識であるがゆえに亜久津を苛立たせる。
生まれついての反逆児は、たとえそれが理にかなったものであろうと、他人の決めたルールに従うことを何より嫌う。
理屈に合わない高リスクの賭けが、亜久津の欲望をむやみにそそるのだ。
要するに、生でしたいんだな。
河村は、苦悩する男の顔を見上げて思った。
自他ともに認める純情なテニス少年だった頃も今は昔。他人の倍は持っていたはずの羞恥心も年月とともに磨滅していく。
ベッドに寝転んで亜久津の顔を仰ぎ、封の切られていないコンドームのパックを片手にため息をついた。
いつものように亜久津とセックスをしていた。互いに準備OKになったのを見計らい、「挿れるぞ」と視線で問われたのに無言で頷く。
アイコンタクトの後、河村は、少しでも受け入れやすいように体の力を抜いた。目を閉じて、呼吸は深く。
亜久津の手が膝裏に当てられ、片足がゆっくりと持ち上げられる。
「亜久津!」
河村は、思わず目を開けて小さく叫んだ。
反射的に体を引くと、伸ばされた亜久津の手が宙をつかむ。体勢をくずした亜久津は、しかし、さすがと言うべきか、無様にベッドに転がるようなことはなかった。手を使わず、背筋の力だけで元の姿勢に戻ると、寸止めへの抗議のように低くうなった。
「だって」
河村が、枕もとに放り出されたそれを摘みあげると、ふいと横を向く。
それは、未開封のコンドームのパックだった。
眼前に晒された亜久津のペニスは、裸の状態。後庭に得た違和感の正体に、河村はため息をつく。
「着けてくれよ」
手渡そうとすると、やはりふいと避けた。
「亜久津」
「着けねえ」
困惑する河村に、亜久津は言い放つ。
「でも」
「着けねえって言ったら着けねえ」
そして、どうしてかひどく不機嫌な顔で、河村を押し倒そうとする。
「ダメだって」
当然のことながら、河村は押し倒されまいと抵抗する。
テニスは現役を離れて久しいが、それでも、元全国屈指のパワープレイヤー。いかな亜久津の力をもってしても、本気で抗うのを簡単にねじ伏せることはできなかった。
「危ないから、ダメだよ」
河村は、聞き分けのない子を諭すように言った。
男同士のセックスだから、妊娠のリスクはない。互いに互いとしかしていないのだから、「うつる」という意味での病気のリスクもない。それでも、使う場所が場所だけに、コンドームを使わないセックスは、常に危険なのである。
亜久津とて、それを知らないはずがない。
それなのに、なぜ今日に限ってこんなわがまま(あえてわがままと言おう)を通そうとするのか。わけが分からなかった。
初めて体の関係をもって、すでに10年以上の月日が経つ。その間、2人は一度も、いわゆる「生」でしたことはない。
正確には、コンドームを着けないでするセックスの危険性を知って以来。
最初の頃、何度か中で出された河村が腹をくだしたため、亜久津はコンドームを使うようになった。
同じ頃、不安心と好奇心の二つながらに突き動かされ、河村は男同士でするセックスの方法について、ネットで調べた。家にはパソコンがないし、そうしたサイトは学校のパソコンでは検索しにくい。悩んだ末、自宅から少し離れたネットカフェに行ったのだが、緊張のあまり指先が震えて、キーを1つ叩くのにも苦労した。
俺ならともかく、と河村は思う。
自分ならともかく、この場合、まず危ないのは亜久津だ。
「なあ、着けようよ」
河村は、亜久津の手にそっとコンドームのパックを握らせた。
「要らねえ」
亜久津は、それをベッドの下に放り捨てる。河村の手首を握り、「俺に指図するな」と、懐かしい台詞ですごんだ。
「俺は誰だ」
噛みつくように唇を奪い、裸の胸を反らす。
「俺は亜久津仁だぞ」
他の人間なら、だから何だの一言で切り捨てられそうな言葉である。それが、無駄に自信に満ちた亜久津の口から出ると、妙に説得力があるように感じられるから不思議だった。
しかし、だからと言って、河村としては、はいそうですかと通すわけにはいかない。
「何でそんなに生でしたいんだよ?」
手首を握る手を「痛いよ」とはずし、なるべく相手の気持ちを逆立てないよう、詰問調にならないよう、注意深く尋ねた。
「そりゃ、お前……」
言いかけて亜久津は言いよどむ。たとえば、生でする方が気持ちが良さそうだから、では、さすがの河村も許さない。
宙を泳ぐ目を、薄茶色の子犬の目が、じっと見つめた。
「それは……」
「それは?」
「つまり……」
「つまり?」
「……」
「ダメだよ」
口ごもる亜久津に、にっこりと笑いかける。
「……テメエ、そんな奴だったか?」
「そんな奴だよ」
優しいけれど、それはそれは頑固だとよく言われる。優しいはともかく、頑固の方は確かにそうだな、と自分でも思う。
結局のところ、譲るつもりのなさそうな相手に、亜久津はうなだれた。
「河村よぉ」
「うん?」
分身はいまだ硬度を失うことなく、反り返って天を指したままだ。
「お前も男なら分かるだろ?」
今度は、亜久津が、聞き分けのない子を諭す番だった。
男なら、一度くらいは惚れた相手に生で挿れ、できれば中で出してみたい。そんな趣旨のことを、亜久津は、彼一流のストレートなのかオブラートに包んでいるのか分からない表現で語った。
「俺は、分かんないよ」
しかし、河村としては、困り笑いをする他なかった。床に投げ捨てられたコンドームのパックを拾う。その言葉は亜久津の耳に、どうしてか「俺は」が強調されて聞こえた。
「ごめんな」
亜久津の背中に腕をまわし、囁く。片手だけで器用にパックが開封され、止められる間もなくペニスにゴムを被せる。
河村は膝立ちになり、胡坐をかいた亜久津の上にそろそろと腰をおろした。
自他ともに認める純情なテニス少年だった頃も今は昔。そして、今が昔となっても、河村が大胆な行動に出ることは滅多にない。
驚きに見開かれた亜久津の目は、やがて笑みの形に弧を描いた。
亜久津の膝の上で、河村は目を閉じて体を揺する。その姿を見上げ、亜久津は思った。
試合に負けて勝負に勝った気分だ。