WHY?の嵐



 桃城の自転車の後ろに乗って、越前リョーマはいつもの帰り道。
「おお!越前、食い放題だってよ!」
 信号待ちでふと目を留めた立て看板に、万年欠食児童の先輩は、浮かれた声をあげる。見れば、それは関西を本拠地とするレストランチェーンの、関東進出1号店の開店を報せる看板だった。
「おーっ、越前、エビフライだってよ。菊丸先輩も呼ぶか?って、制限時間2時間もあんのかよ。全メニュー制覇はかてえな」
 桃城は、無駄にテンションが高く目をキラキラさせて、行くぞ行くぞと、こちらの都合も聞かず、もう突撃を決めている。
 まあ、食べ放題に否やはないけれど。
 リョーマはため息をついた。




「あれ?」
   目的のレストランまで、自転車で向かう途中だった。ふと視線をやった脇道に、見覚えのある2人連れの姿を見とめ、リョーマは桃城の背中を軽く叩く。
「ちょっと、先輩、停めて」
「どーした、越前?」
 停まった自転車から、ひょいと飛び降りる後輩は、あれを見ろ、というように指をさす。
「やっぱり、あの2人だ……」
「あ!?」
 リョーマの指す方を見た桃城の顔に、先ほど食べ放題の看板を見つけたときと同じ、いや、それ以上の喜色が浮かんだ。
「タカさん!」
 声が裏返って「タカさん」が「タカすわぁん」になっている。ビルとビルの間の薄暗い路地に見えるのは、青学テニス部3年、タカさんこと河村隆の後姿だった。
 しかし、なぜ毎日会っている同じ部の先輩を、たまたま校外で見かけたからといって、それほど喜ぶ必要があるのだろうか。リョーマが疑問を口にすると、
「越前、お前は男心を分かってないぞ」
 なぜか真顔で答えられてしまった。お前も大人になれば分かる、と諭すような口調にムッとする。
 桃城は、河村に思いを寄せていた。その思いは、いわゆる恋と呼ばれる類のものだ。
 まだ自宅には戻っていないのだろうか、河村は制服の学ラン姿で、
「ああ、私服、私服見たかったなあ!」
 本気で悔しそうに言う桃城は……後輩から、変態……と冷たい目で見られているのに気づくと、俺は何にも言っていませんよ、というように視線を逸らした。
「よし、越前、タカさんも誘おう!」
 そして、気を取り直して柏手1つ。省略なしで言えば、よし、越前、食べ放題のレストランへ行くのに、タカさんも誘おう!である。
 しかし、
「先輩」
「何だよ?」
「河村先輩、1人じゃないっすよ」
 しっかり見てごらんなさい、と今度はリョーマが諭す番だ。
「え?」
 そう、河村は1人ではなかった。
「ほら」
 桃城は不満気な顔で、しかし、指し示された方向を見る。
 驚愕の叫び「あー!」が、濁音つきの「あ゛ー!!」で叫ばれるのを、リョーマは初めて聞いた。




「あ゛あ゛あ゛…あ゛くつ」
 驚きと憤りとが、桃城の中でぐちゃぐちゃになって、「あくつ」が「あ゛くつ」になっている。
 そう、河村は1人ではなかった。
 学生服の河村の隣に立つのは、同じく学生服。しかし、青学のオーソドックスな学ランと異なり、一度見たら二度と忘れられない真っ白なそれは、桃城もリョーマもよく知っている、山吹中学の制服だった。
 山吹中学といえば、都大会の決勝で青学と優勝を争った、テニスの名門校である。
 しかし、桃城にもリョーマにも、その制服に、そういった意味でのイメージ、つまり、「わが青学のライバル」の制服としてのイメージは実のところあまりない。
 白地に緑の縁取りも鮮やかな学ランは、山吹の制服というより、あるたった1人の人物が身につける衣服、として、青学テニス部員には記憶されている。
 その、「あるたった1人の人物」が、「あ゛くつ」こと亜久津仁。
 都大会を前に青学に乗り込み、荒井やカチロー、リョーマといったテニス部員を、えげつないやり方で痛めつけた、その所業よりもむしろ、「河村先輩(タカさん)の幼なじみ」という境遇によって、青学テニス部における、不二を中心とした激烈な呪詛の対象となっている人物である。
 リョーマは、金魚のように口をぱくぱくと開閉させる桃城のズボンの尻ポケットから財布を抜き、手近の自動販売機でファンタを2本買って、1本を桃城に渡した。当然、もう1本は自分の分だ。
 奢らされたことに自覚のないまま、桃城はファンタの缶を受け取る、ひと口、思い切りよくあおって、
「何で亜久津の野郎がタカさんと一緒にいるんだよしかも時間は夕方こんなひと気のない道で2人っきりで!?」
「幼なじみだからでしょ?」
 ひと息で言い切った桃城に、あくまで冷静にリョーマは応じる。
「バカお前幼なじみだからって今も付き合わなきゃならない義理があるかよ大体真面目なタカさんとあの亜久津が合うわけねえ合うわけねえよ!」
 再びひと息で言い切られたセリフの、最後のあたりには、希望的観測も多分に混じっていた。




「いやあ、一概にそうとも言い切れないんじゃないの?」
 そのときだった。突然、桃城とリョーマの間に、派手なオレンジ色の頭がニュッと割り込んだ。
「うわ、俺、一概とか言っちゃったよ、一概とか」
 そう言って、1人でウケている。
「千石……さん」
 仰け反るような姿勢で千石の頭を避けながら、桃城が辛うじて応じる。現れたのは、亜久津と同じ、山吹中学の千石清純だった。練習帰りなのか、彼も制服にラケットバッグを携えている。
「こんにちは、オモシロ君、越前屋君」
 千石は、クスクスと笑いながら会釈した。2人の名前のことは、確実に、わざと間違えている。
「桃城っす」
 律儀に訂正する桃白をよそに、リョーマは千石を見上げて言った。
「何で、『そうとも言い切れない』んすか?」
「何でだと思う?」
 千石は片方の眉を上げてリョーマを見た。くずした表情の似合う男だな、と思う。
「……分かんないから聞いてるんじゃないすか」
 靴の爪先でアスファルトを擦りながら桃城が言う。彼は、イライラしている様子だった。本来、それほど短気でもないが、今は向こうの亜久津と河村が気になってしょうがない、そんな様子。こうして話している間に、2人がどこかへ行ってしまったら、と考えると、気が気でないのだろう。
「あの2人ね、最近、毎日会ってるみたいだよ」
 あの2人。千石は2人を指して言う。
「それで破綻してないし。あ、ほら、亜久津が笑った。君の言う『合う』が付き合うなのか、気が合うなのか知らないけど、結構合ってるんじゃないの?」
「何で……?」
 呆然と呟いたのは桃城だった。近頃、練習帰りに河村に何か食べていこう等と声をかけても、そういえばいつも断られている。
「理由までは分かんないね」
 千石は、2人を指していた指を、これ内緒だよ、と言うように唇に当てると、もう片方の手に持ったラケットで、リョーマを指した。
「意外と、そっちの君の方が分かるんじゃない?」
 そう言われても、リョーマに心当たりはない。
 2人が毎日会っている、という千石の言を、桃城は、まだ信じられない様子で、
「亜久津がタカさんにつきまとって…」
「そういう感じじゃないよ」
 しかし、千石は彼のセリフを途中で遮った。再びラケットで、今度は亜久津と河村、3人の前方で歩き出した2人の方を指す。
「どっちかっていうと、河村君の方がつきまとってるって感じだし。あ、亜久津がキレた」
 亜久津がキレた。そう言った千石の口調は、のんびりとしていて緊張感がなかった。
 そのせいで、少々のタイムラグができた。千石の言葉が桃城とリョーマの頭の中で処理され、亜久津が河村の学生服の襟首をつかんでいるのを見とめ、タカさんが危ない!と2人が飛び出していこうとするまでに数秒。その間に、するり、と猫のような身ごなしで、千石は、2人の動線上に立ちふさがった。気色ばむ桃城の肩をぽんぽんと叩き、
「まあ、見てなさいって。おもしろいから」
 グッとつかむ。見た目よりも強い力だった。




 やがて、3人の視線の先で、大きな体の全身から殺気をほとばしらせていた亜久津は、
「チッ」
 舌うちをひとつ、河村の襟首をつかんでいた手を放し、踵を返して歩き出した。引っぱられていたものが急に離された反動でよろめいた河村も、体勢をたてなおして亜久津を追う。
「今、『河村先輩が殴られる!』って思ったでしょ?」
 片手は桃城の肩にかけたまま、千石はリョーマの顔を見て、ニッと笑った。2人とも、頷くほかになかった。
「でしょでしょ?」
 俺も最初そう思ったもんね。そう呟く千石は、一体今まで何度、亜久津と河村に遭遇しているのか。
「亜久津はね、河村君のことを、絶対に殴らないんだよ」
 千石は、桃城の肩に置いた手を軸に爪先だちに伸び上がる。
「でも、何でなんだろうね?殴ってもいいのに。何で殴らないんだろうね?」
 耳元で囁かれる。桃城は、背中をぶるりと震わせた。
「しまった、さっき絶対とか言っちゃったよ、俺。絶対なんてないのにね」
 そう言って、千石はカラカラと笑った。
 この人、恐ぇ……。  桃城が、千石の恐ろしさを看破するのに対し、リョーマはリョーマで、千石の言葉から、ある光景を思い出していた。
 それは、亜久津が青学に乗りこんできた直後のことだ。
 ファミレスで、後で亜久津の母親と分かった女の人と河村が会っているところに、亜久津が現れた。そのとき、亜久津は、青学テニス部に手を出さないよう亜久津に頼む河村の頭に、問答無用でジュースをかけた。
 桃城や菊丸といった、居合わせた先輩たちは、亜久津の行為に一様に憤っていたが、リョーマとて憤ってはいたが、本当のことを言うと、リョーマには、あれが少し不思議だった。あの後、何度かあの光景、亜久津が河村の頭にジュースをかけている光景を思い出したが、そのたびに、妙だと思った。
 青学に乗り込んできた亜久津に、その場にいたメンバーの中では、リョーマが唯一、直接に相対していたからだろう。亜久津が青学で、荒井やカチロー、それに自分にしたことを考えると、あの場で彼が河村に暴力を振るわなかったことは、とても不思議に思えた。
 母親がいたからだろうか?
 それでも、違和感は消えない。ずっと、消えなかった。




 そこまで思い出して、ぴんとくる。千石が、桃城が亜久津と河村を「合わない」と評したことについて、「そうとも言い切れない」と言った理由。あの亜久津が、河村にだけ不思議な態度をとる理由。
「殴らないんじゃなくて、殴れないんじゃないっすか」
 しかし、リョーマがそれを言いかけたところで、桃城が、あ゛ーっ!と本日2度目の叫び声をあげた。
 マジでうるさい……。
 深く被った帽子のせいで見えないが、手塚ばりの縦線が入ったリョーマの眉間である。
「あ゛くつ!」
 これも本日2度目の「あ゛くつ」であった。
 視線の先では、片手で煙草をふかす亜久津が、もう片手で河村の腕を取り、今しも大股で歩み去っていこうとするところだった。桃城の目には、悪魔がお姫さまを連れ去ろうとする場面に見えている。ちなみに、あくまで桃城の主観だが、悪魔が亜久津、お姫さまが河村である。
 亜久津の動作は、見るからに乱暴だった。河村だから、腕を引かれながらも何とか普通に歩いているが、もう少しでも非力な者ならば、勢いに負けて転んでいてもおかしくない。
 今度こそ飛び出していこうとする桃城の前に、今度は小さな体が立ちふさがる。
「どけ!越前!」
 リョーマを押しのけようとした桃城の肩に、再びかかったのは、千石の手だった。
「止めんな!」
 勢いこんだまま桃城は振り返る。
 振り返った先にあったのは、ほとんど無表情の千石の顔だった。千石は桃城に、あれを見ろ、と言うように顎をしゃくってみせた。
 見れば、河村が亜久津の耳に何事かを囁いている。顔も体も、2人の距離は限りなくゼロに近い。
 すると、亜久津はそれぞれ一瞬、河村の腕をつかんだ自分の手と、つかまれた河村の腕に視線をやり、次の瞬間、弾かれたように顔を上げた。
「何だ…?」
 亜久津の不審な様子を、いぶかしく思う桃城とリョーマの前で、亜久津は白面にみるみる血をのぼらせ、
「バカ野郎!」
 大声で叫んだ。2人は、反射的に耳を手で押さえる。
 亜久津は、まるで自分がつかまれていたのを振り払うように、河村の腕を放した。白い髪、白い制服に、亜久津にとっては不本意だろうが、真っ赤になった耳が映えて、遠目からでもよく見えた。
 河村は一体何を囁いたのか。らしくない亜久津の狼狽に、リョーマは驚いていた。隣の桃城を見ると、桃城もやはり、「唖然」の顔をしている。
 しかし、こちらの時計が止まっている間にも、あちらの時計は動いているようで、亜久津が再び歩き出すと、河村も、今度は亜久津の隣に並んで、やはり一緒に歩き出した。肩を並べて歩く2人の背中が段々と遠くなり、人波にまぎれていく。2人が去っていった方向に何があるのかは、正直考えたくはない桃城とリョーマだった。
 亜久津と河村の姿が完全に視界から消えた頃、無意識につめていた息を吐き出した2人、桃城とリョーマの顔をのぞきこんで、
「ね、おもしろいでしょ?」
 千石が言った。ただ、頷くことしかできなかった。




 その後の話である。
 件のレストランで、桃城とリョーマは、なぜか千石に食べ放題を奢ってもらっていた。
「奢ってもらう理由、分かんないんすけど…」
 桃城は、すっかり意気消沈していた。それはもう、傍目から見ても気の毒なほどだった。
「いいからいいから」
 千石は、そんな桃城を見て、おかしそうに笑った。
「失恋者には俺、優しんだよ」
 そう言って、向かい合わせの席に座った、桃城とリョーマにメニューを広げてみせる。
「ほら、オモシロ君、ハンバーグがおいしそうだよ?越前君もたくさんお食べ?」
 失恋者って、何で俺まで?
 運ばれてきた大量の料理の皿を前に、リョーマは釈然としなかった。





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 作中リョーマの抱いた違和感は、実は私の違和感。王子には、代弁に使って申し訳ないです。後輩2人を書くのが、予想以上に楽しかった。

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