若大将を怒らせないで




 亜久津とのキスは気持ちがいい。他の誰かとキスをしたことはないけれど、そう思う。河村の、キスは気持ちがいい、には、いつでも「亜久津との」という枕詞がついている。
 ざらざらとした苦い舌は、煙草を吸っているせいだ、と気づくのに、しばらくかかった。亜久津の薄い唇が、河村の唇を奪う。噛みつくようなキスは、欲望を伝えるキスだ。
 それなのに、亜久津はキス以上のことを、河村に求めてきたことはない。一度も、ない。


 中学を卒業した河村は、かねて宣言していたとおり、「かわむらすし」の跡を継ぐべく本格的な修行を始めた。
 テニス部の仲間たちは、河村を除き、全員が高等部に進学後もテニスを続けている。高校の部活の厳しさは、中学の比ではないらしい。校内でよく顔をあわせる英二や、あの不二さえもが、毎日へとへとになっているようだ。
 不二とは、高等部に進学して、初めて同じクラスになった。頬杖をついて、窓の外を眺めているフリをしながら、時々、居眠りをしていることがある。疲れているんだな、と思う。
 たまに部活が休みの日は、英二いわく、
「爆睡!」
らしい。
 そんなわけで河村も、自分の休みの日や、ふとした空き時間に
「遊ぼうよ」
と彼らを誘うのは、憚られた。
 自然、増えたのは亜久津との時間だ。

 でも、と河村は思う。
 もしかしたら、それは言い訳かもしれない。
 最近、河村は、学校に行っている時間と店の手伝いをしている時間を除けば、起きている時間のほぼ全てを亜久津と過ごしている。
「隆、1時間休憩な」
 父親にもらった、たった1時間や2時間を2人で過ごすため、亜久津の家や、時には山吹高校へと走ったことも一度や二度ではなかった。
 自分の周りの他の人は忙しいから。
 それは、気がつけば、いつも亜久津と一緒にいる、自分に対する言い訳かもしれなかった。

「亜久津、飯できたよ」
 フライパンを片手に声をかける。河村は亜久津家の台所に立って、昼食の準備をしていた。昼食といっても、亜久津には朝食だ。
 今朝、河村が亜久津の家へとやってきたとき、亜久津はまだ自室のベッドで惰眠を貪っていた。そのとき、時計は11時を少しすぎたところ。河村が食事の用意をして、12時。亜久津は、まだ眠っている。
「亜久津、起きろよ」
 放っておけば、亜久津は食事をとらない。そして、よく眠る。眠りが浅いせいだ、と亜久津は言う。眠りが浅いせいで、寝ても寝ても、寝た気がしないのだ、と。けれど、眠りが浅いはずの亜久津の肌は、眠っているとき、起きているときに増して血の気が感じられない。言い方は悪いが、まるで死体のように見えた。大きなベッドの上で長い手足を丸めて、眠る亜久津を目にするたび、河村はどきりとする。
 もう、二度と目覚めてくれないんじゃないか。そのたびに、考えてしまう。
「亜久津」
 河村は、亜久津の肩に手をかけて、強く揺すった。亜久津を怒らせても、このときばかりはかまわなかった。無理やりにでも起こして、食事をとらせる。
 いつのまにか、河村が亜久津家の台所に立つことが、日常的な光景になっていた。優紀は、自分が何を言っても改められなかった亜久津の生活態度が、河村が来るようになってなおった、と喜んでいたが、それは決して亜久津のためばかりではない。亜久津がものを食べているのを見ると、ひどく安心する自分を、河村は自覚していた。

「玉子、薄い」
 寝起きの半眼で、河村の作ったオムライスを食べながら、亜久津が呟く。
「ああ、ごめん」
 錦糸玉子のクセが出ちゃったんだな。
 中のチキンライスが透けるほど、薄く焼かれた玉子焼き。
 河村が謝ると、亜久津は、
「別に怒ってねえよ」
と怒ったような顔をした。何でも謝んなよ、と。
「うん、ごめん」
「また」
「ああ、本当だ」
 あはは、と笑って、河村はケチャップのボトルに手を伸ばす。その手を、亜久津に握られた。スプーンを指に挟んだまま、河村の手を上から、テーブルに押さえつけるように重ねられた亜久津の手。熱を孕んだ亜久津の目が、河村の顔を、射抜くような強さで見つめていた。河村は目を伏せる。スツールから腰を浮かせた亜久津の顔が、ゆっくりと近づいてくる。重ねられた唇は、同じ食事をしていたはずなのに、どうしてこんなにも他者を感じさせるのだろう。
 唇を離し、また触れあわせる。そんな動作をくり返しながら、亜久津は時々、河村の胸や腰のあたりに視線をさまよわせる。
 亜久津が、自分に性的な関心を抱いていることを、河村は、ずいぶん前から知っていた。


 たとえば、亜久津の家の風呂が故障して、嫌がる亜久津を引きずるように、一緒に銭湯へ行ったとき。亜久津は、服を脱いだ河村と常に一定程度の距離を保ち、決して近づいてこようとはしなかった。
「どうした?」
と洗い場の亜久津に湯船から声をかけただけで、
「うるせえ!」
とキレて、泡を流すのもそこそこに出ていった。


 たとえば、初めてのキスからしばらく後。夏休み。自室で昼寝をしていた河村が目を覚ますと、いつのまに来たのか、傍らに亜久津が立ち尽くしている、ということが何度かあった。
 真夏の日盛り、クーラーのない河村の部屋は、窓を開けていてもまるで電子レンジの中にいるような熱気で、その日も、ランニングにトランクスというほとんど裸に近いような格好で、河村はタオルケットを広げた上に転がっていた。全身にかいた汗が不快だった。
「気持ち悪い」
 朦朧とした意識のままに呟く。途端、何かに撃たれたように、亜久津は河村を見た。亜久津は、これまで河村が見たこともないような真剣な顔で、半身を起こした河村のほど近くに膝をつき、
「気持ち悪いか?」
 聞いたこともないような、切実な声音で問いかけてきた。
「汗の話だよ?」
 言いかけた河村の、濡れた頬に手が添えられ、亜久津の唇が河村のそれに重なる。小さな部屋に籠もった空気より、照りつける太陽の日差しより、熱い、性の臭いのするキス。
 あのとき、もしも直後に妹の、
「ただいまあ」
と澄んだ声が玄関の方から響いてこなければ、亜久津に抱かれても河村はかまわなかった。


「どうした?」
 亜久津の声に我に返る。
 どうやら、唇が完全に離れた後も、河村はしばらくの間ぼんやりとしていたらしい。
 見れば、亜久津はもう食事を終えていた。
「どうもしないよ」
 河村は、ごまかすように笑って、皿の上に半分残ったオムライスを片づける。


 亜久津が自分を嫌っている、とは思わない。
 嫌いな人間をそばに置いておけるほど、我慢強くはない彼だ。多分、好いていてくれるのだと思う。
 それだけに、どうして亜久津が自分を抱こうとしないのが、河村は不思議だった。
 お互いに学生であることが、亜久津にとってのブレーキになるとは、正直、思えない。それに亜久津は、何と言うか…とても手が早そうに見えた。
 一度ならず、自ら誘おうとしたこともある。
 河村が、自分に対する亜久津の性欲に気づいたのは、多分、自分自身、そうした対象として亜久津を見ていたからだ。しかし、その度、亜久津から拒絶される不安に、河村の身は竦んだ。
 そうして、河村の心には、自分が男であることが重く圧しかかる。
 亜久津は、河村を好きでいてくれる。性の対象として、河村を見ている。それなのに、亜久津が河村にキス以上のことをしようとしないのは、河村が男であることを、改めて突きつけられたくないからではないだろうか。
 好きだ、キスもできる、それでも。
 河村の体は、遠目から見ても、がっしりとした男の体である。ほぼ全身に筋肉がついていて、触っても硬い。
 今のように亜久津を好きになるまで、河村は一度も自分が男であることに不満を持ったことはなかった。たくましい体は、単純に誇りだった。
 けれど、今は、自分が男であることが、時々本当に辛くなる。亜久津が触れることを躊躇わないような、もっと亜久津を受け入れやすい体であったら。そんなことまで考える。
 もしも亜久津が、河村のことを好きであり続けるために、嫌いにならないために、河村に触れようとしないのならば、それは、とても悲しいことだった。




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 タカさんを押し倒して、「やっちまうぞ、いいんだな?」と言う亜久津が書きたい話。続きは亜久津視点かな。

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