おまけもの2





1.come off


 青学の越前という1年生に生まれて初めての敗北を喫して以来、どうしてか毒気の抜けた自分を亜久津は持て余していた。
 何とかペースを取り戻そうと、家を出て夜ごと盛り場をうろつく。
 しかし、どれほど目つきを悪く徘徊しても、危ない話を持ちかけてくる者、喧嘩をふっかけてくる者は皆無で。
 たとえば、あの試合以前、100メートルも歩けば危険な人々が両手にひと山だった裏路地を、ノンストップで通り抜けてしまう。


 まとう空気が変わったからだろうか。
 理由は不明だったが、とにかくこのままではまずい。
 漠然と、亜久津は思った。
 目についた店に入ろうとすれば、「中坊は帰んな」と入り口で弾かれる。
 中坊という言葉の古さに、目眩がするほどのジェネレーションギャップを感じながら、亜久津は、自分が一目で中学生と見抜かれたことに驚いていた。
 これまで一度だって中学生、いや、未成年に見られたことさえほとんどなかったのだ。


 夜の街に居場所を失った亜久津は、朝が来るまでの長い時間を、繁華街近くの誰もいない工事現場に潜りこんで過ごしていた。
 季節が季節なら凍死しかねない行いだが、幸いにも初夏である。
 建設途中で放り出されたビルの汚れた資材にもたれながら、夜明けまでの時間を眠るでもなくただ潰した。
 そんなときに思い出すのは、つい先日、思いがけず再会した幼なじみの顔だ。
 越前との試合が終わった後、人気の絶えた会場で1人、自分を待っていてくれた。
「河村」
 帰る場所を失ったのか、それとも、帰るべき場所に帰るときがようやく来たのか。
 しらじらと明けてくる空を見上げ、つぶやく亜久津には分からなかった。


「亜久津が休んでる間に、青学の河村君が来たよ」
 久しぶりに行った学校で亜久津を待ち構えていたのは、元チームメイトの人の悪い笑顔だった。
「亜久津の友だちだよね?」
 小首を傾げながら、動体視力に優れた視線が抜け目なくこちらを観察している。
 冗談じゃねえ。
 フィルターを噛みしめて、もう吸うことのできなくなった煙草を亜久津は吐き捨てた。
 オレンジ色の頭を掴んで、「違ぇ」と凄む。
 しかし、千石はひるむこともなく、「何が違うの?」と、返ってきたのは無垢を装う言葉だった。
 出会ったときから今日に至るまで、亜久津は、河村のことを友だちだなんて一度も思ったことがない。
 しかし、友だちでないなら何か、と問われれば言葉に窮するだろう自分が、そんなことを口にできるはずもなく。
 「河村君、亜久津に会いに来たんだよ」と千石に言われても、にわかには信じることができなかった。





2.Hello!


 病室のドアをノックすると、「どうぞ」と返ってきた。
 荷物を足元に置いてノブに手をかける。
「河村はん」
 呼びながらドアを開ければ、窓際に置かれたベッドの上で、満身創痍の河村が「石田君」と目を丸くしていた。
「副部長はんに聞きまして」
「ああ、大石に」
 チームメイトの名を口にするとき、ごく自然に破顔する。
 やわらかなその表情にかすかな違和感を覚えつつも、これは好い男だ、と石田は思った。


 見舞いに来たと告げると、随分と恐縮された。
 運ばれた先の病院は大石に教えてもらった。
 そう言うと、「運ばれたなんて大げさだな」と河村は笑う。
 首のところを傷めて、上体を起こすことができないらしい。
 「寝たままでごめんね」と差し出された花を受け取った。
 ガーベラとカーネーションの花かごは、見舞いの品としては定番中の定番。
 作ってもらったときには、男宛てにどうかと思ったが、こうして見ると、かわいらしい花が意外とよく似合う御仁である。
 折れた腕の具合を聞かれたので、「大事ない」と答えた。
 自分よりもよほど重傷に見える相手から神妙な顔で謝られても、正直なところ戸惑うばかりだ。
 やはり見舞いになど来るべきでなかったか。
「でも、俺、後悔はしてないんだ」
 しかし、続けて耳にしたのは思いがけない言葉だった。
「他人の腕折っといて何だ、って怒られるかもしれないけど」
 恐ろしいほど澄んだ眼差しに、思わず首を横に振る。
 「ああ……」と、知らず、溜め息がもれた。


 確かにこの顔だ。


 病室に入った当初から、にこにこと愛想の良い河村にほんの少し、変だ、と実は感じていた。
 難しく言えば、不退転の決意を秘めた顔。
 あの試合中、ネットを挟んで対峙していたのは、ついさっきまでの穏やかな顔とは違う。
 恐ろしくも強い、確かにこの顔だった。


「最後のテニスの相手が、君でよかった」
 差し出された手を「光栄だ」と握り返す。
 河村がこの大会を最後にテニスをやめることは、試合中の様子から何となく察することができた。
 自分は高校に進学してもテニスを続けるつもりだが、あんなゲームは彼以外の誰とも、もう二度とできない気がする。
 けれど、河村がラケットを手放すことが残念だという言葉は、口にしかけたところでやめにした。
 この男がいったん腹を決めたが最後、何があってもその決意を翻させることはできないだろう。
 意外と冷たい河村の手を握り返しながら、石田は思った。


 あまり長居をしても悪いから、とその後はすぐに病室を辞した。
「今度は家の方に遊びに来てくれよ」
 律儀な性格をうかがわせる言葉で送り出される。
 河村はやはり好い男だ、と思いながら、しかし、と石田は、病院の建物を出たところで首を傾げた。
 自分が来るより前からいて、自分が帰るときにも帰る気配がなかった。
 部屋の隅に置かれた椅子に座り、怪我人の剥いたリンゴを食べながら、こちらをずっと睨んでいた。
 あの白髪の男は一体何だったのだろう。





3.I want you.


 世界史の授業は第一次世界大戦。
 アンクル・サムの「I WANT YOU」。
 白髭の男が青地に星のシルクハットで、君がほしい、とこちらを指している。


「こんなプロパガンダに、意味があったのかしら」
 隣の席の優等生女史が軽蔑したように呟く。
「さあね」
 その声を右から左に聞き流して、桃城はぼんやりと窓の外を眺めた。
 「I WANT YOU」と、中学レベルの一文を反芻する。
 分解すれば、「I」と「WANT」と「YOU」。
 「私は」と「欲する」と「あなたを」。


 100年前に終わった戦争で、某国の出した募兵のポスターにどれほどの効果があったかなんて、自分に答えられるはずもない。
 グラウンドでは体育の授業で、1学年上の男子生徒たちが土を蹴立てながらボールを追っている。
 1学年上、と分かったのは、サッカーボールを囲んで団子になっている中に顔見知りを1人発見したからだ。
 大きな体なのに奇妙に目立たない。
 彼は、3年前まで同じ部活の先輩だった。


 世界史の授業はいつのまにか行く行くパリへベルサイユで、隣の席の優等生女史は熱心にノートを取っている。
 眼鏡をかけた真面目な横顔に、「俺、知ってるよ」と声には出さず、桃城は言ってみた。
 グラウンドでは、彼のチームの誰かがゴールを決めたらしく、騒ぐチームメイトたちの中で、彼もまたごく控え目に喜んでいる。
 黄砂を浴びた窓ガラスの向こうで、その姿はまるで紗がかかったように見えた。


 100前、某国に生きていた若者たちは知らない。
 けれど、少なくとも現代日本には1人いる。
 「I WANT YOU」の単純な1文にうかされて、どんな死地にも赴いてしまうだろう、若者が。
 窓の外では、体育教師がホイッスルを鳴らした。
 その音は聞こえないが、再び走り出す。
 彼に向かって「君が欲しい」と、やはり声には出さず桃城は呟いた。





4.an open question


 陽気に誘われて、いつもよりも早い時間に2人で買い物に出た。
 「桜も咲いてるし、散歩がてら行こう」と言われて、バイクも置いて。
 主にこの先1週間分の食料を大量に買いこんだ帰り道のことだ。
 突然、河村が「ああ」と楽しそうな声をあげた。


「1年生だ」


 おそらく、近くの小学校で入学式が終わったのだろう。
 河村の視線を向けた先では、真新しいランドセルに黄色い帽子の女の子が、父親らしき男性と一緒に、横断歩道を渡っていく。
 赤いランドセルを背負っているような、むしろ背負われているような後姿に目を細める。
 亜久津は、河村の顔をまじまじと見つめた。


「小1っていくつだ?」
 戸惑ったように亜久津を見返して、「6歳……かな?誕生日が来たら7歳」と小首を傾げる。
 今年の誕生日が来たら21になる河村は、良くいえば落ち着いて、悪く言えば老けているせいで、見た目にはもう少し上に見える。
 あれくらいの子どもがいても、おかしくはなかった。


 親になった自分の姿というのは考えられないが、親になった河村の姿ならば、実に容易に想像することができる。
 たとえば、横断歩道の彼女の横に、彼女の父親に代えて河村を配置したとする。
 少し若いという他に、それは、特に違和感のない図だった。
 横断歩道を渡りきった向こうで、娘の帽子が風に飛ばされてしまわないよう、父親がそっと押さえてやるのが見えた。
 元より捨てるべき何も持っていなかった自分に対し、亜久津と一緒になるため、河村が捨てた中のひとつが、ああした姿の可能性だ。
 そう考えると、何ということもない親子の姿が、亜久津には直視できなかった。
 「かわいいなあ」と河村がつぶやく。
 少しだけ強くなった風に溶けてしまいそうなその声に、亜久津は思わず河村の手を取った。


 親子の背中を見送った後、何となく目についた公園に寄った。
 藤棚の下のベンチに荷物を置き、腰を下ろした亜久津に、河村は「桜」と上方を指した。
 古びた木製のベンチは、まだ葉ばかりのツツジの植え込みに半ばもたれかかるようだった。
 ギィと鳴らしながら、亜久津も上を向く。
 「桜」とまるで歌うようにくり返す河村が、普段よりも舌足らずに感じるのは、亜久津の気のせいだろうか。
 桜の下には死体が埋まっている、という書き出しでよく知られた小説があるが、この公園では、桜の下には花壇が造られている。
 花吹雪と引くまでもない、薄紅の花弁は、降り積もる雪を思わせた。
「本当に、雪みてぇだな」
 亜久津の視線を追い、河村も頷く。
「まだ咲いてるね」
 しゃがみこんで、偽物の雪を取り除ける。
 花弁に埋もれた、枯れ残りのクロッカスの姿を少しずつ露わにしながら、河村は、「さっきはごめんね」と小さな声で言った。
 先ほどの、入学式帰りの親子連れのことを言っているのだと、すぐに分かった。


 河村は、いわゆる「まとも」や「普通」を、亜久津が自分から奪ったのだ、とは多分思っていない。
 しかし、亜久津が、それらを自分が河村から奪ったのだ、と、どこか負い目に感じていることは知っている。
 それを受けての「ごめんね」だ。
 クロッカスの、尖った葉先を優しく撫でる。
 河村は今、あの子を見て、思わず歓声を上げてしまった自分を責めているのだろう。
 きゅっと口元を結んだ表情は、手つきとは裏腹に厳しかった。
 「気にしてねえよ」と亜久津は口にしたが、その言葉が、どれほど河村に届いているのかは分からなかった。





1.は「とりあえずのアンサー」の後日談。2.は四天宝寺戦S2の後日談。3.は分かりにくいですが、「ファーストインプレッション」と同じ時空で実は桃→タカでもあった、という話。4.は大人のアクタカで、タイトルは「未解決の問題」という意味です。ここ最近、幸せな春の話ばかりだったので、うすぼんやりと不幸っぽい、不安な春の2人が書きたくなりました。後味が悪くて申し訳ないです。


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