幻の春
「かわむらすし」の2階は店主一家の住居で、表通りに面した4畳半は、長男の自室である。
古い暖簾のカーテンが目印のその窓を、2年ほど前まで、亜久津は、夜遊びの帰りによく見上げた。
亜久津が河村と疎遠でいたのは、小学6年から中学3年の約3年間。
その間、一度も河村と会おうとしなかった亜久津は、時々、その代わりのように河村の家の前に立ち、彼の部屋の窓をじっと見つめた。
河村家の人々の就寝する時間は早く、毎晩、日付の変わる頃には、家中の灯りが消えていた。
灯りの消えた暗い窓を眺めながら、亜久津は河村のことを考える。
ストーカーじみた行いは、いつも、煙草1本分の時間だけと決めていた。
懐旧。
後悔。
寝静まった町の片隅で、煙とともに味わったのは、13や14の子どもには、きっと早すぎる感情だった。
「亜久津」
俯けていた顔を上げると、河村が、どうしたの?と亜久津を見ていた。
知らぬ間に、自分の世界に入りこんでいたらしい。
指の間に挟んだ煙草が、いつのまにか短くなっている。
「だいぶ待たせちゃったもんな」
「何だ、それ?」
玄関に鍵をかける河村は、片手に風呂敷包みを提げていた。
「ああ、これ?」
並んで歩きながら、目の高さにまで上げられたそれは、ちょっとした辞書ほどの大きさだった。
昼飯と言われて頷いた亜久津だったが、スケロクと言われても何のことか分からない。
どうやら目的地のありそうな足取りの河村が、亜久津をどこに連れていこうとしているのかも分からなかった。
昼食を買いに行く途中、ふと通りかかった家の庭で、咲き初めの桜の木を見たら、河村を思い出した。
それで、何となく立ち寄った「かわむらすし」は、たまたま定休で。
どっか行こうか?と誘ってきた河村を、断る理由も特にない。
どこに行こうか?と話し合うこともないまま、玄関を出たところで、河村がふと立ち止まった。
「どうした?」
「少し待ってて」
踵を返し、家の中へと戻っていく。
河村から、待ってて、と言われれば、不本意ながら、亜久津には待つ他にないわけで。
家の前で煙草を吸いながら、自分の世界に入ってしまうほどの時間、亜久津を待たせた河村が、再び家から出てきたとき、片手に提げていたのは、唐草模様の風呂敷の、広辞苑よりも一回り小さいくらいの包みだった。
スケロクって何だ?
スケロクとは、河村の風呂敷包みの中身で、どうやら昼食になるものらしい。
しかし、それが一体何なのか、亜久津には全く見当がつかなかった。
河村に聞くか、と隣を歩く彼を盗み見る。
ん?と小首を傾げられて、心臓がはねた。
河村に聞けば、河村は、きっと、亜久津の微妙な物知らずを少しもバカにすることなく教えてくれるに違いない。
しかし、何となく、彼には聞きたくなかった。
何となくをもう少し正確に言えば、男のプライドである。
「亜久津」
呼ばれて顔を上げると、河村が、どうしたの?と亜久津を見ていた。
これで2回目。
スケロクって何?で頭がいっぱいになった亜久津は、どうやら、また自分の世界に入りこんでいたらしい。
「何だ?」
「えっと……」
用もないのに話しかけんな、とバツの悪さから、応える声の調子も、ついきつくなる。
しかし、河村は、突発的な亜久津の不機嫌に特に頓着した様子もなく、
「お茶いらない?」
歩いているうちに、いつのまにか目の前まで来ていたコンビニを指した。
「最近は、ペットボトルのお茶もおいしいよね」
そんなことを言いながら、河村は、片手に提げたコンビニの買物かごに緑茶の500mlと、目についたのだろう、新発売の棚に置かれた菓子を入れている。
飲み物どうする?と聞かれたので、お前と同じものでいい、と亜久津は答えた。
何が嬉しいのか、本当は分かっていたけれど、何が嬉しいのか、保冷庫の戸を開けて、自分と同じ緑茶のペットボトルをもう1本取りながら、河村が俯いたままニヤニヤと笑う。
途端、自分が、もの凄く恥ずかしいことを口にしたような気がして、亜久津は河村から顔を背けた。
と、
助六(スケロク)。
「これか……」
亜久津は思わず呟いた。
顔を背けた先には、出来合の蕎麦や、いわゆるコンビニ弁当の陳列された棚がある。
そのうちの1つ、プラスチックのパックに、亜久津の視線は吸い寄せられた。
パックの中に、2列縦隊で、巻き寿司と稲荷寿司が並んでいる。
ラベルには、助六、と漢字で書かれた横に、スケロクと括弧書きで読み仮名が付されていた。
コンビニを出て、河村が向かった先は、近所の川原だった。
鉄橋を渡って電車も通る、広い川。
コンクリート造りの堤防を下りたところが、川の向こう岸は砂石の多い広場、亜久津と河村の立つ、こちら岸には、丈の高い草が生い茂っている。
草野球や、犬の散歩をする人々の姿が見える向こう岸と違って、天気の良い日だというのに、こちら側には2人のほか、人影の1つもなかった。
河村は堤防を下り、迷いのない足取りで、草をかきわけ進んでいく。
セイタカアワダチソウの図太い茎を、折れそうなほどに曲げながら、亜久津を振り返って、ニッと笑う。
河村は、目眩がするほど懐かしい顔をしていた。
しばらく行くと、ふいに草むらが途切れた。
広い川原の真ん中に、ぽっかりと、そこだけ忘れられたみたいな空き地。
腰を下ろすと、井戸の底で空を見上げているような気分になる。
「出前の途中でね、偶然見つけたんだ」
河村は、少しだけ得意そうに言う。
「何となく、秘密基地みたいだろ?」
小学生男子のような言葉を口にしながら、手渡してくるのが、袋入りのおしぼりな河村が可笑しい。
亜久津が手を拭くと、今度は「かわむらすし」の店名が入った割り箸、それから緑茶のペットボトル。
まるで母親のように、と思いかけて、まるで妻のように、と訂正する。
膝の上に置かれた風呂敷包みが解かれて、黒塗りの弁当箱の中身は、もう亜久津も知っている、助六寿司だった。
「すごいな」
「母さんがね、今日、親父や妹と出かけるのに作ったんだ。うちのメニューには助六ないから、妹も目新しかったみたい」
河村は、自分が作った、と見栄を張ることもなく、弁当箱を差し出してくる。
見た目に派手な巻き寿司でなく、稲荷寿司の方を最初に取った亜久津に、なぜか嬉しそうに笑った。
風に揺れる草の隙間から、波立つ川面が見える。
芝の上に腰を下ろして、空を仰ぎながら、河村は、きもちいいね、とまるで歌うように口にする。
「出前の途中で、たまたまこの場所見つけてさ。川の近くなのに、湿ってなくて、静かで、気持ちいい場所だなって。
亜久津と来たら、きっと、もっと気持ちいいんだろうな、と思った。
思ったとおりだった」
一緒に来てくれてありがとう、と言う河村に、亜久津は、2つ目の寿司を危うく箸から取り落としそうになる。
河村は、眩しく光る川面を背に、まるで、眩しいものを見るかのように目を細めて亜久津を見ていた。
遠回しの告白のような、恥ずかしい言葉の、ふわふわとした響きに、頭がくらくらする。
意地になって咀嚼する稲荷寿司の甘さも、河村の声も、ここが外だということも忘れて思わず重ねた唇も。
それら全てが、やわらかな春の空気と相まって、眩しくて、甘くて、ふわふわとしていて、亜久津にはもう、今が夢か現実か分からない。
本当に、自分に都合の良い夢を見ているだけじゃないのか。
目が覚めたら真夜中で、河村の家の前で、灯りの消えた窓を見上げながら、つい眠ってしまった。
立ったままで寝るなんて、相当器用だけれど、そんな寂しいシチュエーションではないのか。
「亜久津」
「……ああ」
呼ばれて顔を上げると、どうしたの?と河村が亜久津を見ていた。
河村は、亜久津のことを、「亜久津」と呼ぶ。
時に亜久津には腹が立つほど気の弱い河村は、誰の名前を呼ぶときにも、基本的には遠慮がちである。
それは、亜久津を呼ぶときにもそうだったが、それでも、亜久津は気づいていた。
気弱な河村が「亜久津」と口にするとき、ただ、自分を呼ぶときにだけ、河村の、腰の引けた声に含まれる親しみ、気安さのようなものに。
たとえて言えば、それは、プールほどの大きさがあるティーカップに、角砂糖を1つ落とした程度のものだったが、生まれて初めて口にした甘味に舌が歓喜するように、亜久津を夢中にさせた。
あの頃、夜ごと「かわむらすし」の前に立ち、何をするでもなく河村の部屋の窓を眺めていた頃、亜久津は、もう一度河村のあの声で、気弱さと気安さとを2つながらに含んだ「亜久津」という響きで、河村から呼んでもらえる日が来るなんて思っていなかった。
何でもねえ、と言うと、それならいいんだ、と河村が笑う。
幸せすぎてこわいなんて、いつかどこかで聞いたような言葉を、自分が使う日が来るなんて思っていなかった。
春の幸せ亜久津計画。
歌舞伎の方の助六で、揚巻の名台詞をタカさんに言ってもらおうかな、とも思いましたが、何となく、タカさんには似合わない気がしてやめました。
戻る