狸の言い分




 目が覚めるとキスだった。
 覚醒した意識に、最初に飛び込んできたのが河村の顔のアップで、正直亜久津は驚いた。
 唇に、やわらかいものが触れる。
 視線だけで窓を確認すれば、遮光カーテンの向こうの空からは、さんさんと日光が差している。早朝から仕事に出ていた河村は、昼休みに店を抜けて家に戻ってきたらしい。
 良いだけキスをして、いったん唇を離す。亜久津を見つめる河村の目は、真昼間だというのに、この前の夜の、最中を思い起こさせるような熱に満ち満ちている。物言いたげに緩んだ口もとに、寝たふりの同居人は、やべえなとひそかに零す。
 我慢がききそうにない。
 一体どこの大和撫子ですかオラと問い詰めたくなるほど、普段の河村は良く言えば慎み深い。悪く言えば勿体ぶっているわけだが、実のところ、そちら方面の欲求が薄い方でもなかった。






 河村は、時々、眠る亜久津にキスをする。一緒に暮らし始めた当初、いや、体の関係を持った当初から、亜久津は彼のそうした、性癖というには、あまりにも罪のない行動を知っていた。
 セックスでは、とにかく何もかもを欲しがる亜久津に、ひたすら与えるのに必死な河村という役割が定着してしまっている。
 だから、亜久津は河村の、このキスが好きだった。言い方は悪いが寝込みを襲うようなキスだ。外からは分かりにくい彼の欲望を、ダイレクトに感じられる。自分だけがこの関係に溺れているのではないのだと、安心できた。



 最初の頃、それは、2人がまだ十代の頃だが、その頃のキスには今ほどあからさまな色がなかった。ただ、唇を触れ合わせているだけで満足だ、というような。それが今のように熱の籠もったものになったのが、いつだったのか、亜久津には分からない。
 亜久津に分かるのは、今のように河村を変化させたさせたのが他でもない、自分である、という事実だけだ。そして、その事実だけで亜久津には十分だった。
 考えただけで、じんと痺れる。
 頭の中であったり、腹の底であったり、時によって場所はまちまちであったけれど、気が遠くなるほどの快感で、亜久津の体は痺れた。
 暴いてみたら意外と強かった河村の性欲が、それはもうまっすぐに、自分だけに向かっている。
 河村は、亜久津のほかに男を知らない。もちろん、女も知らない。経験があるのは抱かれることだけで、立派な雄の体を持っているにもかかわらず、抱く側には一度も回ったことがない。
 人生のとば口で、俺みたいなバカに捕まってしまった。こいつもよくよく運がない。
 この地球上には、60億を越える人間がいて、その中で、河村と性の快楽を分け合える者が、ただ1人、自分だけだという悦び。肥大化した自己が、世界中に拡散していく。
 そんな、事大主義の妄想にとり憑かれるほどに、河村の仕掛けてくるキスは快かった。テクニックなど問題ではない。河村が、眠る亜久津の唇に唇を寄せて、もう何度体を重ねたか分からない亜久津にさえ見せない顔で、自分だけの欲求を露にする。



 効きの悪いブレーキを必死で踏んで、亜久津は思わず応えそうになる自分を抑えた。
 もし、亜久津が起きていることに河村が気づいたら、もう二度と、彼はこのキスをしてくれなくなるだろう。それはいかにも惜しい。自分から求めることなんて、起きているときにいくらでもできるのだ。
 そう思って我慢した。
 この世に生まれてはや何十年、初めて覚えた忍耐は、しかし悪くねえ、と声には出さず亜久津は笑った。





 タカさんの性欲に充たされる亜久津の独占欲。自分もまたタカさんに捕まってしまったのだ、とは考えたくないお年頃。何歳くらいかなあ、この2人。30は過ぎてるつもりで書いたけど、それにしてはなあ。


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