今日は何の日?





 たかしくんへ
 いーものがあるから
 来てね☆☆
 ゆうきちゃんより



 2月14日の昼休み、優紀ちゃんから1通のメールが届いた。授業中に女子が回しているみたいな文面のそのメールは、どうやら、学校帰りに寄れという指令らしい。
 授業後、指示どおり亜久津家のインターフォンを鳴らすと、送り主は留守で、代わりに彼女の息子がドアの隙間から顔を出した。
 彼女の息子、要するに、幼なじみの亜久津仁。
「……何しに来た」
 暦の上ではもう春、と何日か前、夕方のニュースで聞いた。暦の上では。つまり、実際の気候は未だ冬で、今日だって学ランのボタンを1番上まで締めていても、時に歯の根が合わなくなるほど寒い。そんな日に、亜久津の上半身は半袖のTシャツ1枚。下はペラペラのナイロンみたいな生地のズボンで、これまた防寒にはほど遠い。もともと色素の薄い亜久津の顔が、血の気が失せているせいでほとんど青に見えた。
「今起きたのか?」
「悪ぃかよ」
 学校行きなよ、という小言もどこ吹く風。エアコンの付け方が分からないという亜久津の言葉に呆れた。
 玄関にしゃがんでスニーカーの紐を解く。
 学校行きなよ、卒業近いんだから。
 そう言うと、鼻で笑われた。確かに、亜久津にしろ自分にしろ、同じ学校の高等部へ上がるだけだから、感慨なんてないと言えばないんだけど。
 エアコンのリモコンは、なぜか廊下に置かれた、以前は電話台に使っていたというチェストの上に放り出されていた。
「おい」
 リモコンを片手に居間へ入ると、亜久津が声をかけてきた。
「何?」
 彼の指す先にはテーブル。テーブルの上には新品と思しきケーキクーラー。そして、ケーキクーラーの上には特大のガトーショコラが、「でん」とSEを入れたいような存在感で鎮座ましましていた。
「ババアが食えとよ」
 ため息とともに亜久津が言う。こちらの方は、と言えば驚きで口は半開き。いつものように、お母さんをババアと呼んだ亜久津を嗜めることも忘れていた。
「……すごいね」
 やっとのことでそれだけを言うと、亜久津はニヤリと笑い、10号、と呟く。
「何考えてんだって感じだろ」
 テーブルに顔を背け、不機嫌そうに鼻を鳴らす。不機嫌そうに。でも、その実それほど不機嫌でないことを知っている。意外と甘いものが好きで、特にケーキには目のない彼だ。大体、好きでなければ、ケーキクーラーからはみ出しそうな大きさの、直径が30センチ定規と同じくらいのガトーショコラが、ひと目で何号かなんて分かるはずがない。
 このまま待っていても、ケーキを切ったり取り分けたりする準備なんて絶対に始めなさそうな亜久津を置いて、台所に向かう。
 勝手知ったる他人のキッチンで、シンク扉の包丁立てからケーキナイフを取り出す。同じくシンクの引き出しからフォーク2本、食器棚から取り皿2枚。白地に黄緑の縁がいかにも優紀ちゃんの趣味な取り皿を片手に、食器棚の扉を閉めようとするとき、ふと、同じ棚のコップ類が目についた。
 目についたのは、マグカップ。陶製のビアグラスのかげに隠れるように置かれた2つのマグカップは、自分がこの家に出入りするようになったばかりの頃、優紀ちゃんが買ってくれた亜久津とお揃いのものだ。手にした取り皿と同じ、これも白地に、それぞれ青と緑のシルエットみたいなクマの顔が入っている。
「そうだ……」
 お菓子のマシュマロを思わせる、丸っこいマグカップのフォルムを見ていたら思い出した。



 ケーキの取り皿や何かを両手いっぱいにもって台所から戻ってきた河村は、ちょっと待ってて、と言い残し、玄関を出て行った。
 すぐ戻るから、と言って、本当にすぐに戻ってきたその手にはスーパーのビニール袋。袋から透けている牛乳の500mlパックが気になったけれど、それ以上に、同じ袋の、これも透けている正方形の箱に胸が高鳴った。



 2月14日の朝、優紀が台所で何やら大騒ぎしている音に目が覚めた。とは言え、寝床を出る気など毛頭なく。毛布にくるまったままベッドに横になっていたら、
「仁ー!ハッピーバレンタインデー!!」
 耳を劈くような大声とともに、優紀が部屋に入ってきた。まさしく乱入。
 怒鳴りつけようとした鼻先に、見て!と突きつけられる。白い皿の上に置かれた台座の上には、茶色のでかいケーキ。まるでチョコレートの塊のようなそれを、何だよ、と指すと、ガトーショコラよ!と憤慨したように優紀が叫ぶ。
 数年ぶりに再会した息子の幼なじみが家に出入りするようになって、味方のできた母親は、最近とみに気が強い。元から決して弱くはなかったけれど。
 ベッドサイドに置かれた煙草に手を伸ばし、火をつけようとすると、今日は禁煙!とライターごと払い落とされた。
「このケーキ、仁と隆くんの2人分ね。さっきメールして、今日学校終わったらうちに寄ってくれるように言ったから、2人で食べて」
 焼きたてのところを見せるだけ見せたら満足したのか、優紀は居間のテーブルに台座ごとケーキを置き、出かける支度を始めた。
「あんた今からでも学校行きなさいよ!」
 そう言い残して出て行ったが、バカを言うな。背後で付けっぱなしのテレビを振り返る。オールバックにサングラスの司会者が、歌いながら踊る画面の隅に表示された時計は12時ちょうど。これから河村が来るっていうのに、あんなクソつまんねえところに行ってられるか。
 しかし、河村の下校時刻までとりあえずやることもないので、寝なおすことに決める。自分の部屋に戻り、まだ少し温かいベッドにもぐり込んだ。家中に充満するチョコレートの匂いは不快ではなく、むしろ快い。珍しく胸がワクワクしているのを感じる。
 インターフォンの音で目が覚めた。



 優紀に言われるまでもなく、今日がバレンタインデーだということは知っていた。そここで飛び交うチョコレートには、縁もなければ興味もなかったけれど、相手によっては話が変わる。
 河村が携えてきた、ちょうど両手にのるくらいの大きさの箱を目の端に入れて、ただいま、待たせてごめんね、に応える声も上擦る。期待するな、と自分に言い聞かせた。都合の良いこと考えてんじゃねえ。
 だから、河村がビニール袋から取り出したものを見たときには、手持ち無沙汰で読んでいた雑誌を思わず取り落とすほどに驚いた。



 それは、店のお客さんからの貰い物だった。
「最近は、こんなのも売られてるのね」
 感心したように母さんが見せたのは、「ホットチョコセット」なる正方形の箱だった。商品イメージの横には、「牛乳があればすぐできる!」。
「昔は自分でチョコレート刻んで作ったわよ」
 キャプションを読み上げながら母さんが言う。そういえば、うんと小さい頃、何度か作ってもらった覚えがあった。



 今、亜久津がその箱を凝視している。大きな目を、瞳をこぼれ落とさんばかりに見開いて。
「うちじゃ、親父も母さんも飲まないし。妹に聞いたら、ダイエット中なんて言うしさ」
 生意気だろ、と言うと曖昧に頷く。頷きながらも、視線だけは目の前の立方体から外れない。
 そして、突然、
「畜生……」
 亜久津は呻いた。低い、犬のうなるみたいな声だった。黄色とピンクの、ハートマークが満載された小さな箱に手を伸ばし、そのまま潰してしまいそうなほどに強く握りしめる。
「どういうつもりだ」
 亜久津の眉間に刻まれた皺の深さに、思わず後ずさってしまった。
「どういうつもりって……亜久津、チョコ苦手だった?」
 そんなはずはない。言葉に出して認めることこそないが、亜久津はかなり激しい甘党である。もしかしたら、液体のチョコレートだけはピンポイントで嫌いなのかも、と思ったけど、よく分からなかった。
 困惑したまま突っ立っていたら、奪われていた「ホットチョコセット」の箱を押しつけられる。嫌いだったか、と聞くと、嫌いじゃねえ、という返答。ますますもって訳が分からない。



 台所借りるね、と河村はこちらに背を向ける。ふざけんなよ、と呟いた声は、河村の耳に届かないよう小さくした声だったから、当然のように気づかれることはない。
 カーペットを踏んだ両足に力をこめた。今動いたら、抱きしめるなんて中途半端なマネじゃ済みそうになかった。無防備な背中に飛びかかってしまわないよう、何か、取り返しのつかないことを口走ってしまわないよう、元々、持ち合わせの少ない自制心を総動員する。
 1年のうちでたった1日、2月14日のチョコレートの持つ意味に、河村は多分、絶対に気づいていない。自分ばかりが意識して、振り回されているような状況が悔しかった。気分で言えば、足元に唾でも吐きたいような。俺の気持ちに気づいてないのかよ、と考えて、俺の気持ちって何だよ、と死にたくなった。
 台所を覗くと、気配を察して河村が振り返る。コンロにかけられているのは、蓋のない小さな片手鍋だ。ミルクパンなんてきちんとあるんだな、と言われても、ミルクパンなんて名前も知らない。
「機嫌、なおったか?」
 そう言って、河村はこちらに顔を向けた。いつもの8時20分より、心持ち下がった眉の角度は困惑の徴だ。こいつを困らせているのが自分だ、と思うと、多少気分が上向きになる。頷いてみせると、河村は、安心したように笑った。
「良かった」
 いかれてる。本当に、いかれてる。
 しゃがみ込んで頭を抱えた。河村の笑顔に一瞬見とれた。
 作業のジャマになるのか、河村は学ランを脱いで上半身は白のワイシャツ1枚。全身を筋肉に覆われたその体は、きっと硬くて、抱き心地なんて最悪に違いない。それなのに、そんな体に触れてみたくて仕方ない。このバカに鉄槌を下してくれ、と神様か誰か分からないが、誰かに祈りたいような気分だった。
「マシュマロ」
 鍋をかき回していた河村が、ふいに口を開く。
「亜久津、マシュマロ好きだよね」
 訳が分からないままに首を縦に振ると、河村は再び、良かった、と呟いて、コンロの火をとめた。シンクの上に2つ並べられたマグカップに、注意深く鍋の中身を注ぐ。
 そして、そのまま台所を出て行き、またすぐに戻ってきた河村の手には学生鞄。
「俺、時々お遣いでスーパーとか行くんだけど、昨日行ったら、菓子売り場が何だかセールでさ」
 鞄の中から取り出されたのは、白いマシュマロのいっぱいに詰まった袋だった。
「亜久津、昔、空手の帰りに一度だけ家に寄ったことあったろ?そのとき、母さんがおやつにってマシュマロ出したら、結構たくさん食べてたなって」
 しゃがみ込んだままの鼻先に湯気が触れる。マグカップを手渡し、熱いから気をつけて、と河村は囁く。
「この中に入れても美味いんだよ」
 そんなセリフとともに投入されたマシュマロは、あ、と思う間もなくチョコレートの中に沈んでいった。
「おい……」
「うん?」
 何の偶然か、浮かんだままに残った白いマシュマロが2つ、茶色い液体の表面にハートマークを描く。先ほどの雑誌に続いて、今度は危うくマグカップを取り落とすところだった。
 しゃがんだ姿勢のまま、腰をかがめた河村の顔を見上げる。
「よく覚えてたな」
「何が?」
「マシュマロ」
「ああ」
 もう何年も前に、一度だけ家に来た人間が食べていた菓子の量なんて。どうにも足りない言葉を、頭の中で補ったらしい。河村は頷いた。
「覚えてるよ。好きなんだなあ、って思ったから、よく覚えてる」
 マシュマロのことを言っているのだと分かっているのに、その言葉に頬が熱くなった。赤くなったのを指摘されないよう、マグカップに口をつけて顔を隠す。
 好きなんだなあ、って思ったから、よく覚えてる。
 らしくねえ、と思った。河村の言葉ひとつで、幸せになってしまう。おめでたい奴だ、と自嘲した。
「バカだよな」
 いつのまにか、接近していた河村の頭を撫でた。河村は、驚いた顔で何度か瞬きをした後、そうかも、なんて言っている。
 同じ色の犬の毛を連想させる、短く刈り込まれた河村の髪。その髪をガシガシと乱暴に梳かれて、それなのに、なぜか嬉しそうな顔をした。
 その顔を見て、まあいいか、なんて気分になる。らしくないけど、まあいいか、なんて。よくよくいかれてる。



 ガトーショコラにマシュマロ入りのホットチョコレートは、さすがに甘すぎた。帰り道、重たくもたれる胃の辺りを撫でながら、後悔のため息をつく。
 せっかく優紀ちゃんの作ってくれたケーキだというのに、半分近くも残してしまった。勿体ないことをした。それ以上に申し訳ない。ホットチョコとマシュマロの残りを置いてきたけれど、それだけでは足りない気がする。近々、彼女には埋め合わせをしよう、と思いつつ、考えるのは、彼女の息子のことだ。
 さすがは、と言うべきか。亜久津は、チョコonチョコの激しさにもめげず、ケーキこそ多少残したものの、ホットチョコレートの方は完飲していた。帰り際には、こちらに背中を向けたまま、覚えてろよ、と凄むみたいなセリフを吐かれたから、もしかすると機嫌は損ねていたのかもしれないが。



 帰宅すると、妹が玄関で待ち構えていた。
「遅いよ」
 入り口の柱にもたれて、彼女は口を尖らせる。ごめんね、と訳も分からないままに謝った兄に、リボンのかかった小さな箱を手渡した。
 居間に持っていって開けてみると、箱の中にはチョコレート。ピンク色のレースペーパーに包まれたトリュフの2列縦隊に、振り返ってカレンダーを確認する。
「今日、バレンタインか……」
 2月14日、いわゆるひとつの聖バレンタインデーだ。
「そうだよ、知らなかったの?」
 呆れたように言う妹の声が遠い。
 今日はバレンタインデーだ。今、初めて気づいた。
 部活をしていた頃なら、手塚や不二がたくさんもらっていたから、気づいたかもしれない。だけど、引退した今、クラスの違う元テニス部の皆とは、校内で顔を合わせる機会も少ないし、同じクラスには、自分のような恋愛方面に疎いクラスメイトの目を引くほど、大量のチョコレートをもらう生徒もいない。だから、気づかなかった。
 2月14日はバレンタインデーだ。日本では、いつのまにか、女性が主に意中の男性に、チョコレートを贈って愛を伝える日。
 そんな日に、自分は亜久津に何を飲ませた?
 脳裏に、マグカップに入ったホットチョコレートと、それを作る前、箱を見て驚いていた亜久津の顔がひらめく。
 どうしよう、と卓袱台に突っ伏した頭の上で、店の方から2階へと上がってきた母さんが、お兄ちゃんどうしたの?と妹に聞く。
「お兄ちゃん、今日がバレンタインだって知らなかったの」
 何も知らない妹の様子が、自己嫌悪の身には素直に応えた。次いで彼女の放った言葉は、情けない兄を轟沈させるには十分なものだった。
「チョコレート、学校で誰もくれなかったから気づかなかったみたい。今頃気づいて落ち込んでるの」
 そういえばそうだ……。
 亜久津に合わせる顔がない。色んな意味で、彼に合わせる顔がない、と思った。






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 中学生とはいえ、女の子は聡いです。他にガッチガチの本命がいて、自分に振り向いてくれる余地の全くなさそうな男子になんて、チョコはくれません。ええ、そうですとも、たとえ義理でも。その辺りはシビアに参ります。
 とか言いつつ、タカさんは地味にもてていたら良い、とも思います。ええ、そうですとも、矛盾してますとも。ジャンプ編集部気付で隆に贈るよ!
 タカさん視点と亜久津視点の交互。読みにくかったらすみません。





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