おまけもの





1.光


 よく覚えている。
 どうにもこうにも今以上におもしろくないことの多かった過去の記憶に、そこだけ違う色の光が射している。

 痩せた体にまとう刺々しい雰囲気。口が悪く、目つきも悪く、恐ろしく手が早い。そこへ、主に家庭環境に関する口さがない大人たちの噂がプラスされて、同年代の子どもたちは皆、亜久津のことを遠巻きにしていた。
 それは、学校でも、どこでもそうだった。
 そんな中で、ただ1人、亜久津に近づいてきたのが河村だ。

 その日、空手の稽古を終えた亜久津は、誰もいない道場の隅で1人帰り支度をしていた。珍しく稽古に出てきたものの、途中でつまらなくなって抜け出し、戻ってきたときには、もう誰もいなかった。
 母親は、まだ仕事から帰っていないんだろうか。
 鞄を背負いながら、普段なら気にしないことを何となく考える。そんなことを考える自分が嫌で、衝動のままに足を振り上げ壁を蹴った。
 孤独はもう肌に馴じんだものなのに、こうして時々、ふとした瞬間に感じる耐え難さ。それは弱さだ。少なくとも、亜久津はそう思う。そんなものは弱さで、唾棄すべきものだ。
 寂寥の嵐が過ぎ去ると、いつも訪れるのは後悔の嵐だった。後悔することはもう分かっているから、できるだけやり過ごす。けれど、それでも、その瞬間は耐え難い。
 誰もいない道場を無限に広く感じる。たった1人の自分の姿を、蛍光灯が明るく照らす。
 どうにかしてくれと、叫び出してしまいたいような気持ち。

 そのときだった。

「亜久津」

 自分の名を呼ぶ声がした。壁を蹴りつけた姿勢のまま、亜久津は固まっていた。声のした方にゆっくりと顔を向ける。
「良かった、まだいたんだね」
 道場の入り口に、栗色の短い髪が見えた。膝に両手をつき、肩を上下させる。笑みを含んだ声だった。
「お前…」
「河村だよ、寿司屋の」
 怪訝な顔をした亜久津に、自分が覚えられていないと思ったのだろう。少年は、バツが悪そうに頬を掻いた。
 河村なら知っている。
 家が近所だし、彼の言うとおり、寿司屋の息子、で覚えてもいる。同じ道場の門下生の中では、何となく気にかかる存在だった。
「途中まで帰ったんだけどさ、戻ってきちゃった」
 何故、と視線だけで問う。鋭い目を向けられ、河村は最初口ごもり俯いていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「一緒に帰ろうと思って」
 心持ち上ずった、けれど好意に満ちた声。思わず頷いてしまったのは、どうしてだったのだろう。
「亜久津と一緒に帰ろうと思って、戻ってきたんだ」

 そのとき、目の前に差し出された小さな手が、今も亜久津の記憶の底で輝いている。







2.再


「また行く」
 川原でリョーマと打ち合った後、勧められるままに河村の家を訪れた亜久津は、別れ際、河村に言った。
「うん」
 頷き返す河村の顔には、安堵の笑みが浮かぶ。向かい合う2人の影を、水銀灯の青い明かりが照らしていた。

 「また行く」という言葉に違わず、それから、亜久津は気まぐれに河村の家を訪れるようになった。事前の連絡など入れるはずもない。河村はいるときも、いないときもあった。
「隆なら、もうじき帰ってくるはずだから」
 その日、亜久津が河村の家を訪ねたとき、河村はまだ学校から帰っていなかった。不在を知り、踵を返しかけたところを、河村の母親に引きとめられる。

 そうして、河村の部屋で1人、河村の帰りを待っている。

 通りに面した窓から、表の様子を眺める。畳敷きの小さな立方体は、いつも不思議な安らぎに満ちていた。河村がいなくても、河村の気配に満ちた部屋。凪いだ空気は、彼のまとう空気そのものだった。
 主不在の部屋で、河村の帰りを待ちながら1人で過ごす時間。波のない湖面のように落ち着いた心に、やがて、「寂しい」という言葉が浮かび始める。浮かんでは消えるその言葉は、初め、亜久津を狼狽させ、苛立たせもしたが、やがて、またか、と受け流すことができるものになった。

 河村の部屋に2人でいるときは、1人のときの逆だった。
 寂しくはない。けれど、落ち着かない。元々、口数の少ない河村が、何かに憑かれたように喋り続ける。そして、亜久津が1つ1つ、律儀に相槌を打つ、それは、奇妙な緊張感に満たされた時間だった。

 優紀が留守の晩、初めて自分で河村の家の寿司屋に出前を頼んだ。
「『アクツ』って、やっぱり亜久津だったか」
 寿司桶を片手に現れた河村は、それならそうと言えばいいのに、と呆れた様子だった。代金を受け取ると、
「後で桶、取りに来るから」
 そう言い残して帰っていく。アパートの階段を下りる河村の背中を、どうしてか引き止めたくてたまらない。
 数時間後、
「桶、取りに来たんだけど」
と私服の河村が再び玄関先に現れたときは、大げさでなく、天にも昇るような心地だった。
 いかれてる、と思った。
 それは、遅すぎる自覚だった。
 俺はいかれてる。いつ、どこで、どうしてそうなったのかは分からない。とにかく、俺は河村にいかれてる。
 空の寿司桶を手に提げた河村は、帰り道、思い出したように亜久津に言った。
「そういえば、亜久津の家って、俺の家から意外と近いんだな」
 昔はもっと遠かった。きっと、あの頃は今より小さかったからだろうね。
 懐かしそうに目を細める。その横顔を、盗むように眺めながら、
「ああ」
 亜久津は言った。今言わなければ、と思った。
「だから、また来い」
 かわむらすしの看板が、目の前に見えていた。耳に血がのぼって熱い。背後で、河村が頷く気配がした。
「また行く」
 夜の澄んだ空気に、よく響く河村の声だった。

 そんなことがあってから、亜久津は河村と、互いの家を行き来するようになった。
 「また行く」という言葉のとおり、河村も時々、亜久津の家を訪れる。亜久津と河村と2人で、時には優紀も交えて3人で、亜久津家の食卓を囲むのが日常的なシチュエーションになるまで、それほど時間はかからなかった。







3.恋


 関東大会、準々決勝、青学対氷帝。互いに2勝2敗に1ノーゲームで、迎えたのは、補欠同士の決勝戦である。
 ここで負ければ、お終いだ。
 相対する両チームの、全ての人間がそのことを分かっているのだろう。コートは、まるで地鳴りのような応援の声に包まれる。不二の言葉を借りれば「スリル」で、背筋のぞくぞくするような、一種異様な雰囲気だった。
「氷帝!氷帝!」
 この大会で、すっかり大会名物のようになった、氷帝軍団200人の「氷帝!」コール。
 対する青学では、先の樺地とのシングルス3で手に怪我をした河村が、そんなことを微塵も感じさせない力強さで、重さ20キロ超の青学旗を掲げていた。
「青学ぅー!」
「ファイッ、オー!!」
 今やラケットではなく、団旗でバーニング状態となった河村の大声に、煽られるように青学の他の部員たちも声を張り上げる。
「青学ぅー!」
「ファイッ、オー!!」
「青学ぅー!」
「ファイッ、オー!!」
 数で勝る氷帝に負けまいと、青学のコールはヒートを続ける。

 青学の切り札、越前の対戦相手、氷帝2年の日吉若を、河村はそのとき初めて見た。

「タカさん、どうしたんすか?」
 危うく、団旗を取り落としてしまうところだった。河村に、隣に立つ桃城が、心配そうな顔をする。やっぱり怪我が…と言われたのに、大丈夫だよ、と返し、河村は再びコートに向き直った。
 旗を掲げる。5月はもう過ぎてしまったけれど、よく晴れた青い空に、まるで泳ぐようにはためく。五月の鯉の吹流しを思わせる、青と赤の青学の旗だ。

「氷帝!氷帝!」
「青学ぅー!」

 言えやしない。
 コート上、越前と対峙する日吉の姿に、いつかの日の小さな亜久津を思い出して、動揺してしまったなんて。
 誰にも言えない。
 団旗の竿で顔を隠して、河村は頬の熱を冷ます。

 両校、ますます熱くなる応援の渦の中で、
「ベストオブワンセットマッチ、青学サービスプレイ!」
 試合開始のコールが響いた。







4.食


 就職して数年、仕事にもだいぶ慣れた。桃城は、勤め先の近くにアパートを借りて、一人暮らしを始めた。
 実家に住んでいたときは、全て母親任せだった家事が、自分でやってみると意外に楽しい。
「最初のうちだけ」
 高校の同級生で、結婚の早かった女友達が、笑って言った。そうかもな、と思いつつ、仕事の早く終わった日には、なるべく自宅で夕飯を作るようにしている。単純に、食費が浮くというのもある。
 用があって実家に寄ったとき、母親にそんな話をしたら、おもしろがって色々とレシピを教えてくれた。ついでに、使っていない調理器具や食器をみやげに持たされて、現在、桃城のアパートのキッチンは、ほとんど無駄に充実している。
 おかげで、当初はカレーと野菜炒めだけだったレパートリーも、短い間にずいぶん増えた。少なくとも、帰り道のスーパーで安売りの品を確認してから、メニューを決められるくらいには。

「桃は食べること好きだから、きっと、料理を始めたらすぐに上達するよ」
 中高時代、好きだった先輩に言われた言葉である。
 近頃、どうしてか、その人のことを思い出すことが多かった。
 たとえば、鮮魚コーナーで、いかにも油ののっていそうな鯖を見たときや、赤々と光る鮪の切り身を見たとき。その人が、寿司屋の息子で、今は自らも寿司職人の道を歩んでいる人だからだろうか。
 違うな。
 その人のことを思い出すのは、魚を見たときばかりではない。肉や野菜や果物や。美味そうだな、と思うたび、食いたいな、と思うたびに、桃城は、その人のことを思い出す。

 現在、桃城に恋人はいない。
 お前、女できねえぞ、とは、桃城が家事に凝っていることを話したときの同僚の反応である。もっとも、数秒をおかず、家事のできる男の人っていいわよ、と女子社員のフォローが入ったが。
 どっちでもいいや、と思う。今は彼女は要らない。
 ただ、特に思いがけず初めてのメニューが上手くできたときなど、テーブルの向かいに誰かが座っていてほしいな、と思うことはある。そして、自分の作ったものを食べてほしいと。
 誰か、なんて。
 誰か、なんて、誰でもいいわけじゃない。
 料理の皿の向こうに思い浮かべるのは、いつでもたった1人だった。おいしいね、と言ってくれるのは。
「俺、こんなにしつこい人間だったっけ?」
 独り言ちて笑う。自分でもいっそ可笑しいくらいに、今でも引きずっている。

 ここ数年、付き合いは年賀状のやり取りくらいになっている。噂に聞いたところでは、まだ実家は継いでいないらしい。実家ではない、都内某所の寿司屋で、現在も本人いわく「修行中」。彼の勤める店へ行った他の先輩が、彼の握った寿司を普通に食べたというから、順調に職人の道を歩んでいるのだろう。
「まだ独身だよ」
 その先輩は、そんなことを言って、自分のことを試すような視線を投げて寄こした。しかし桃城は、生憎、それで動揺したり、ましてや浮かれるほど単純にできてはいない。
 まだ独身。けれど、桃城は知っている。彼は数年前に実家を出て、アパート暮らしをしている。
 あの男と一緒に。
 胸のうちに苦いものがいっぱいに広がる。
「きっと、ずっと独身ですよ」
 思わず口をついて出た。自分でも驚くほどに低い声だった。







5.弟


「タカさん!」
 その日の昼休み、河村の教室に、桃城が訪ねてきた。
「あれ、桃、昼飯終わったの?」
「まだっす」
 なぜか歯切れ悪く答える。さすがの青学テニス部レギュラーも、上級生の教室は居心地が悪いらしい。座席についた河村と向かい合い、キョロキョロと落ち着かない様子で周りをうかがう。
「出よっか」
 緊張させておくのも気の毒なので、桃城を伴い外に出た。

 昼休みに入ってすぐの時間、どこの教室も昼食を広げる生徒たちでざわめいている。そのわりに廊下は静かだった。購買に行った奴らはまだ戻ってないのかな、と何となく考える。
「あれ?」
 考えていたら、ふと、桃城の手ぶらの手が目に入った。
「桃、もしかして昼飯、買いに行ってない?」
 この後輩が、家から持参した弁当は午前中の休み時間に食べてしまい、昼はもっぱら購買でパンだのお握りだのの争奪戦に参加している、というのは、元も含めてテニス部員ならば誰でも知っている話だ。
 どうやら、桃城は、4時間目の授業が終わると同時に、いつもは購買にダッシュすべきところを、3年4組の教室にダッシュして来たらしい。それなのに、よほど急ぎの用事なのか、と問えば、いや…と首を横に振る。桃城の行動は不可解だった。
「パンとか、売り切れちゃうといけないから、先に購買行こっか?」
 河村は提案する。話は後でいいよな?
 普段の饒舌さを、まるで何処かに忘れてきたような桃城の寡黙。曲者の後輩は、時々、河村の手に余る。

「タカさん」
「うん?」
 桃城が、何か腹を決めたように河村を呼んだ。振り向いた鼻先につきつけられたのは、2つ折りを開いた携帯電話。「プロフィール」で、桃城自身のものと思しき番号と、メールアドレスが表示されている。
 もしかして。
 そこで河村は、初めて思い至る。お世辞にも勘が良いとは言えない自分だ。もしかしたら、勘違いかもしれないけれど。
「桃、もしかしたら…。もしかしたらって言うのも悪いんだけど、もしかしたら、それで、わざわざ来てくれたのか?」
 河村は、つきつけられた携帯電話を、そっと受け取る。桃城は、どことなく切羽詰まった顔で頷いた。

 昨日、河村は、携帯電話を変えた。変えた理由は、単純に、これまで使っていたものが壊れたからだ。
 新しい電話のアドレス帳には、前の電話からメモリを移すことができなかった。そのため、河村の今の携帯電話には、これまで登録されていたアドレスの、そのほとんどが登録されていない。桃城のものもその1つだ。
「ちょっと面倒だけど、皆に聞き回るしかないかな」
「ワン切りしてもらえばいいよ」
 河村が、通学途中で会った菊丸と、そんな話をしたのが今朝。
 桃城は、おそらく、その菊丸あたりに聞いたのだろう。河村が出向いて行く前に、わざわざ自分から来てくれたらしい。
「ありがとうな、桃」
 河村が言うのに、桃城が頷く。いつもは喋りすぎるほど喋る男なのに、こんなときに限って、この後輩は無口だ。
「タカさんの携帯のこと、さっき、3時間目が体育で、体育館で英二先輩に会って、聞いたんす」
「そうなんだ」
 桃城から受け取った携帯電話を片手に、制服のポケットから自分の携帯電話を取り出す。表示された番号を打ち、「桃城武」と氏名を付して登録を完了する。河村の手元を、恐ろしく真剣な顔で桃城は見ていた。
「3−6は4時間目が体育で。それで、本当は、すぐに行こうって思ったんだけど、着替えてたら次の授業始まっちゃって」
「うん」
「あの、タカさん」
「うん?」
 ディスプレイから顔を上げる。鼻先が触れるほど近くに、桃城の顔があった。
「いや、あの俺、図々しくなかったですか?」
「え?」
 河村が、新しい携帯電話に自分の番号やメールアドレスを登録したいと思っているのか分からないのに、自分から先に出向いてきて。  そう言って、今にも泣き出しそうな子どもの顔をする。
 すでに河村たち3年生は、部活を引退している。テニス部という接点はなくなったのに、再び河村が桃城の電話番号その他を必要とする機会があるのか。そうした疑問を受けての、図々しくなかったですか。
 桃城が曲者と呼ばれるのは、彼の中に、こうした複雑な部分があるからだと思う。豪快ではあっても、無神経では決してない。実は先回りして、空回るほどに他人に気を遣う。全てを計算づくでしていないからこそ、手強い彼だ。
「桃、あのね」
 河村は、桃城の携帯電話を閉じ、受け取ったときと同じように、そっと差し出した。
「図々しくなんか全然ないよ。桃が来てくれなかったら、きっと俺の方から行ってた」
 差し出された携帯電話を、桃城は何故か恭しく、押し戴くように受け取る。
 河村の言ったことは、嘘ではなかった。昨日、新品の携帯電話を手に、河村が、番号とか聞かなきゃな、と思い浮かべた中には、当然のように、元テニス部の同級生と、現テニス部の後輩たちの顔があった。もちろん、桃城もその中に含まれている。
「俺こそ、引退したのに、わざわざ番号教えて、アドレス教えてって現役の奴らのとこに聞きにいったりしたら迷惑かな、って迷ってたし。桃の方から来てくれて、本当、良かったよ」
 ありがとう、とテニスボール1個分低い位置にある、桃城の頭に手をやった。逆立てた短髪をぽんぽんと叩くと、桃城は頬を赤く染めて下を向いた。
 かわいいな、と思った。
 この後輩は、曲者で、複雑で、時々自分の手には余るけれど、とてもかわいい。
 男にかわいいなんて申し訳ないけれど、と心の中で謝罪を前置きして河村は思った。
 弟がいたら、こんな感じかな、と。目の前で嬉しそうに頭を撫でられ続けている、桃城が知ったら、ガックリとしてしまいそうな感想を付しながら。







6.傷


 亜久津仁と河村隆の関係は?と聞かれれば、2人を知る10人中10人が、こう答えるだろう。
 幼なじみだ、と。
 学齢に達する前から家が近所で顔見知り、通っていた空手道場でも、ひたすら好んで孤立していた亜久津が、唯一まともに口を利く相手が河村だった、となれば、そう言われるのは無理もない。
 しかし、それは正確な評価ではない。少なくとも、幼なじみと言われる2人の、片割れはそう思っている。
 周りが言うほど昔から、親しくしてきたわけではないのだ。
 同じ道場の門下生となる前は、本当に単なる近所の顔見知りで、話らしい話をしたこともなかった。亜久津が空手を修めていた期間は、2年足らずである。道場をやめて、中3の夏に思いがけない再会を果たすまでは、互いに連絡も取り合うこともなかった。近くに住んでいても、顔を合わせずにいようと思えば合わせずに暮らせるものだ。
 亜久津と河村。
 2人がともに過ごした時間というのは、実のところ、本人たちですら意外に感じるほど短い。

 河村は、亜久津のことを恐がらない。態度こそオドオドしているが、それは何も対亜久津に限ったことではない。
 あいつ、亜久津とは幼なじみだからね。
 亜久津の凶暴さと河村の気の弱さの双方を知っている人間が、しばしば口にする言葉である。亜久津はそれを聞くと無性に腹が立った。
 つきあいが長くなければ、あんな臆病な奴が、まともに亜久津に相対できるはずがない。そこには常に、河村を侮るような響きがあった。
 勝手に決めるな、と腹を立てる亜久津に、河村はいつも、困ったような顔で笑う。
「亜久津、いいんだよ」
 そう言われても、何がいいのか、亜久津にはまったく分からなかった。
 気の弱いことでは人後に落ちない寿司屋の息子が、凶暴なことではこれも人後に落ちない亜久津に、恐れ気もなく近づいていく。それを、2人が幼なじみだからだと他人は言う。
 とんでもない、と亜久津は思う。
 あいつは最初から、妙な奴だった。俺に「なじむ」前からああだった。

 亜久津仁は、生傷の絶えない子どもだった。
 それも一種の才能と言えるのか。1人で外出すれば、3回に1回の割合で絡まれた。絡んでくるのは、いずれも見るからに素行の悪そうな人間だ。中学生や、時には高校生もいた。相手は決して1人ということはなかった。
 その日も道場へ向かう途中、数人の中学生に囲まれた。
 目が合ったとか、肩が触れたとか、こと突発的な喧嘩の理由に関しては、中学生も本職の皆さんも同じである。横一列に並んで路地を塞ぐ。亜久津の行く手を遮る彼らは、数的優位を信じているようだったが、それに付き合ってやる義理は全くなかった。

 適当に片づけて道場へ赴くと、奥の方で型の練習をしていた河村が、転げるように走り寄ってきた。
 多勢に無勢は、亜久津には関わりのない言葉である。相手が何人であろうと、負けることはありえない。
 それでも、いつでも全くの無傷とはいかなかった。その日は膝に擦過傷、腕に打撲を負っていた。
「亜久津!ち、血が出てるよ!」
 河村が悲鳴のような声をあげるのに、窓ガラスに映った自分の姿を確認する。こめかみから痩せた顔の輪郭をなぞるように一筋の血が流れていた。
「ちょっと待ってて!」
 慌てて踵を返す、河村の後ろ姿は怪我をした当人以上に狼狽えていた。
 仮にも格闘技を教えている場であるから、救急箱は常備されている。それを取ってくると、即席のナースは、板張りの隅に患者を引っぱっていった。
「きちんと消毒しないと化膿しちゃうよ」
 どうやら、血を見るのは大の苦手というタイプらしい。長い前髪をかき分け、真っ青な顔で怪我の様子を見ている。額にそっと当てられた指から、小刻みな震えが伝わってきた。

 血が苦手なくせに。本当は、赤い液体を少しでも視界に入れたが最後、卒倒してしまうほど苦手なくせに。
 消毒した傷にガーゼを当てる、涙目の河村を視界に入れながら、妙な奴だ、と亜久津は苦笑する。







7.妙


 空手の練習が終わった後、河村はいつものように亜久津の後をついてきた。
 ついてくるな、と言うと、その場で立ち止まる。亜久津が歩き出してしばらくすると、また追いかけてくる。懲りないバカに根負けしたように、時々2人で帰り道、コンビニなんかにも寄るようになった、そんな頃。
 いつものように、練習帰りの亜久津と河村は、堤防をぷらぷらと歩いていた。そろそろ風も冷たい秋のことだ。
 寒いね、と河村は世間話。亜久津は相槌をうつこともなく、川面に映る夕日を眺めていた。
 そういえば、去年の今頃は、この川原で1人、時間を潰すことが多かった。
 もう半年もしないうちに、小学校は卒業である。けれど、その後に待ち受けているのは、どうせ、また今と同じように退屈な毎日が続くだけの中学だ。亜久津はうんざりとため息をついた。

「あ、あのさ!」
 唐突に、河村が大きな声をあげた。振り返ると、目の前には、思いつめたような瞳。
「何だよ」
「あの、あ、亜久津はさ」
 亜久津はさ、と言ったきり、俯いてしまってその後が続かない。
「言いたいことがあるなら、ハッキリ言えよ」
 聞いている方は、自慢ではないが、全く気の長い方ではない。亜久津が言うと、河村は意を決したように顔をあげた。
「亜久津は、どこの中学に行くの?」
 小6の秋だった。中学受験をする奴らは皆、もう志望校も完全に固まった、という時期。
 河村が、バカみたいに必死な目で亜久津を見るから、適当にはぐらかす気もなくなった。
 地元、と亜久津が言うと、河村の肩が目に見えて下がった。察するに、自分はどこか、私立の中学を受験するつもりでいるのだろう。そんな亜久津の予想を肯定するように、河村が言った。
「俺は……受験するんだ、青学」
 まだ受かるか分かんないけど、と付け加えるのが、いかにも河村だった。

 亜久津と河村の家は近い。が、校区はちょうど、互いの家の間で分かれている。小学校も、中学も。河村にしてみれば、亜久津が受験で自分と同じ学校を受けるのが、唯一の2人同じ中学になるチャンスだったのだろう。
 地元の中学、すなわち受験はしない。
 たった1つのチャンスを逃して、ガックリと肩を落としていた彼は、しばらくすると、再び口を開いた。
「中学や高校に行っても俺ら友だちだったら、『幼なじみ』って言われるのかな?」
 後から思うに、河村はあのとき、本当は、中学や高校に行っても、自分たちは友だちでいられるよね?と言いたかったのだろう。
 今の亜久津ならば、それが分かるし、今の河村ならば、そうはっきりと言っただろう。  けれど、そのときの河村は、亜久津に対し、そこまでストレートに真意を伝えることはできず、そのときの亜久津に、河村の真意、言葉の裏に隠された、河村の気持ちを察することはできなかった。
 亜久津はただ、「友だち」、「幼なじみ」という河村の台詞が癇に障った。無性に腹が立って、しかも、腹が立つ理由が自分でも分からなくて、分からないことが苛立ちを助長した。
「いつ俺がお前の友だちになったんだよ?しかも、『幼なじみ』って、バカじゃねえの」
 憤りのままに、吐き捨てるように口にした。
 河村は、ひどく傷ついたような顔をして、その顔がまた、亜久津を苛立たせる。襟首をつかんで引き寄せても、抗わない。それがまた。

 河村は弱い。空手も弱いし、最近始めたばかりだというテニスも弱い。喧嘩をしているところなど、見たこともない。
 だから、亜久津はそのとき、河村は怯むと思った。
 そのときまで、亜久津は河村を殴ったことも、本気で腹を立てて凄んだこともなかった。
 河村は弱い。だから、亜久津は、亜久津が本気で凄めば河村は、すぐに逃げ出すと思っていた。

 けれど、結局逃げ出したのは、亜久津の方だった。
 河村のシャツの襟首をつかんで引き寄せる。
「調子にのんなよ。殺されてえのか」
 言いながら、本気で殺したいと思った。それはいつものことで、殺されてえのか、殺してえ、殺す、と言うとき、いつも亜久津は、相手を本気で殺したいと思っている。そのときも。
 殺したい、と思いながら、河村はそろそろ逃げるだろう、と亜久津の頭の中の妙に冷静な部分が言っていた。
 こいつの力でも、俺の手を振りほどくくらいなら、やってできないことはない。

 けれど、河村は逃げなかった。ぎりぎりと襟首を締めあげられ、苦しげに息を詰まらせながら、
「ごめん」
と。
 極めて普通に。極めて普通の子どもが、友だちに言うように、亜久津に言った。
 思わず手を離した亜久津の足元に膝をつき、激しく咳き込んだ後、亜久津の顔を見上げてもう一度。
「勝手に、友だちだとか思ってごめん」
 そう言って、ひどく悲しそうな顔で笑った。
 殴る気も失せた。笑うな、とは言えなかった。
 気がつくと、亜久津は駆け出していた。堤防に河村を置いたまま。自宅のアパートまで一気に駆けて、後ろ手にバタンと部屋の戸を閉める。亜久津の指は震えていた。震える指で扉に鍵をかけ、亜久津はその場にへたりこんだ。
 それから、亜久津は二度と、空手の練習には行かなかった。河村は何度か家まで誘いに来たが、そのたびに亜久津は居留守を使ったり、自宅を空けたりした。

 それから数か月後、河村は志望通り、青学に合格したらしい。名門と名高い青学のテニス部で本格的にテニスを始め、空手はやめたようだ、と優紀に聞いたのが、中1の2学期。亜久津は、地元の中学に入学して程なく、いくつかの事件を起こした。事件を表ざたにしない、という条件で転校が決まったのが、ちょうどそれと同じ時期だった。
 何度か転校をくり返し、中学2年の冬、ほとんど放り込まれるように入ったのが、山吹中学だった。
 そこで出会った教師に、無理やりテニス部に引き込まれ、くだらねえと言いながら出場した都大会で、亜久津は河村に再会した。
 それから、河村と和解して、それから……ともかく、2人は、「友だち」にはならなかった。「友だち」にはならず、しかし、違うかたちでつきあいは続いている。
 まあ、そういうことだ。
 亜久津は今でも、河村のことを、物好きの妙な奴、と思っている。







8.幸


 昇降口のところに人だかりがしている。
 当番だった教室のゴミ捨てを終えた河村は、渡り廊下でふと足を止めた。
「あれ、山吹の制服じゃない?」
「怖そう…」
 わだかまる生徒たちの囁き交わす声の中から漏れ聞こえたキーワードに、何となくぴんとくるものがあった。
 すなわち、山吹。で、怖い。
 犬走りに出て、うかがい見る。門柱の陰にのぞく、逆立てた白い髪。

 亜久津だ。
 河村の胸は高鳴る。

 空のゴミ箱を手に、教室へ取って返した。普段、ラケットを手にしていないときは、どちらかと言えばおっとり、のんびりとしたクラスメートの、いつになく慌てた様子に、デートか?と冷やかしの声が飛ぶ。
 靴を履き替え、焦って何度も取り落としそうになった鞄を抱えなおす。
 校舎から校門まで、ないも同然の短い距離。早歩きが駆け足に、駆け足がやがて全力疾走になった。

「亜久津!」

 大声で呼ぶと、門柱に寄りかかるように立っていた白い学ランが、ゆっくりと振り返る。苔の浮いた門柱にもたれて、それなのに、少しも背中は汚れていない。
 息を切らす河村の頬を、風が撫でていく。冷たく感じるのは、頬が上気しているせいだ。晩秋の風は冷たくて、でも気持ちが良い。

「急に、どうしたの?」
 亜久津は、あの都大会前の襲撃以来、一度も青学には来ていない。
「別に」
 俺のこと、迎えにきてくれたの?
 喉まで出かかったセリフを、ぐっと飲みこむ。
 亜久津のことだ。そんなことを言えば、意地になって、違う!と言い張るだろう。火を見るより明らかだった。

 亜久津が制服の胸ポケットに手を伸ばす。煙草のケースを取り出そうとするのを、河村は慌てて止めた。
「ダメだよ、ここじゃ」
「あぁ?」
 何といっても校門の前である。地味でおとなしく、しかしテニス部のレギュラーであるため、ある程度は顔も名前も知られた河村が、校門の前で、いかにも悪そうな他校生と待ち合わせをしている。注目されるのは、苦手だった。好奇心に満ちた視線が、今だって背中に何本も突き刺さっているのを感じるのに、このうえ喫煙までされては敵わない。
「帰ろう」
 そう言って、多少強引に腕を引いた。お得意の、指図するなが降ってくるかと思いきや、亜久津は意外にも素直についてくる。
 最初の交差点まで行ったところで、
「おい」
「何?」
 ちょいちょいと指で呼ばれ、何?と顔を寄せれば耳打ちされる。
「お前よぉ、これ」
 引かれている腕を軽く上げて、
「…腕、組んでるみたいじゃねえの」
 目くばせに合わせて振り向けば、目を逸らす通行人。
「あ…」
 一瞬にして頬に血が上った。亜久津の左腕に河村が右腕を回し、更に、逃げられないように、と左手で肘のところを押さえている。
 指摘されて初めて気がつくなんて、なんてバカなんだろう。亜久津が1人で喫煙をすることの比ではない。こんな往来で、こんな大きな男2人が、昼間から腕を組んで歩いている。目を逸らされた、ということは、こちらが気づいた今まで見られていたということだ。
「ご、ごめん!」
 河村は、慌てて腕を解く。 格好悪いことの嫌いな亜久津は、当然、恥ずかしいことも嫌いだろう。怒らせてしまったかもしれない。
 項垂れる河村に、しかし、亜久津は、
「いいんじゃねえの?」
「へ?」
 栗色の短い髪を、まるで犬でも撫でるように撫でて、ちょっと笑う。
「俺はかまわねえ」
 そう言って、河村の前に手を差し出した。
 傾いた太陽の光が、街路樹の影をアスファルトの上に伸ばしている。背中に突き刺さる視線は、学生以外の人間も通る分、校門の前にいたときよりも、更に数が増えたようだ。
 けれど、目の前には、どうするんだ?と試すような亜久津の視線。差し出された手を、じっと見つめる。量より質だ、と思い切った。
「俺も…いいよ」
 まるでダンスの申し込みを受けるように。頷いて、自分の手を重ねる。
 指先が触れ合うと、亜久津が、安堵の細い息をつく。気づかれないよう、そっとついたつもりだったのだろうが、河村は気づいてしまった。重ねた手に、ぎゅっと力をこめて、亜久津の目を見る。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
 さっきは言えなかった言葉が言えた。
 そのまま、赤い顔で横を向く亜久津と手を繋いだまま、家路をたどる。見上げた空に、最初の星が1つ、輝き始めていた。







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1.6.7.は、アクタカ過去話。一応、各話は繋がっています。
2.は、「Starting over」の続き。
3.は氷帝戦。日吉と子亜久津は似ているなあ、と皆さんも一度は思われたであろうことを思いました。
4.5.は、桃→タカ。4.は未来。桃タカで昼メロみたいな続きも考えましたが、それは不倫か?と考えていたら、頭がぐるぐるしたのでやめました。5.は携帯電話の話「たからもの」の番外編みたいなもの。
8.は、読んだまま。これから亜久津の家かタカさんの家かに寄るのでしょう。





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