「ファイッ!」




 きっかけは些細なことだった。
 確か、河村がテレビで見ていたボクシングの試合を、隣でごろごろしていた亜久津が勝手に消したとか、そんなこと。
 「何するんだよ」と珍しく声を荒げた被害者に、「うるせえ」と加害者が返す。そこから本格的な喧嘩になった。
 亜久津の身勝手さを河村が詰り、亜久津はそうして詰られることへの憤りを河村にぶつけた。
 互いに手は出さなかった。河村は暴力が苦手だし、暴力が全く苦手ではない亜久津も、なぜか河村には手をあげることができない。  加えて、場所が場所だった。4畳半の小さな部屋で、平均よりもかなり体格の良い中学生男子2人が取っ組み合うことは、そもそも物理的に不可能である。
 2人ともに、言いたいことを言いたいだけ言い合った。付き合いが長い分、遠慮はなかった。いつしか口論の原因も忘れ果て、ごく最近のことから大昔のことまで、この機会に、とばかりに相手への不満をぶつけ合う。
 そうして、腹の中が空っぽになってしまうと、部屋には重い沈黙が満ちた。


 どちらも押し黙ったままの部屋で、テレビ台の棚に置かれた時計の針だけが、コチコチと規則正しい音をたてている。
 亜久津は、気づかれないよう、そっと、河村の顔を盗み見た。
 ちゃぶ台を斜めに挟んで、向かいに座る幼なじみは、心なしか青ざめた顔を俯けている。
 本気で怒っているのか、口論の中で亜久津に言われたことが堪えているのか。
 こいつの場合、自分が俺に言ったことを思い出して、後悔してるってことも有り得るな。
 面倒な奴だ、と亜久津は思う。しかし、彼のそうした面倒な性格を、嫌いではないことも事実で。
「おい」
 声をかける。たくましい肩がビクリと震えた。
「こっち見ろよ」
 どうしても、口調が凄むようになってしまう。一度震え出した河村の体は、カタカタと小刻みに揺れながら、しかし、俯けた顔を上げようとはしない。
「こっち見ろって」
 襟元をつかんで引き寄せる。肩にかけた手にぐっと力をこめると、呻くような細い声が、喉元から漏れた。


「河村」


「聞いてんのか、河村」


「おい」


 脅しても、締め上げても、どうしても顔を上げない河村に、亜久津がとうとう不安にかられ始めた、そのとき、
「……ふ」
「あぁ?」
「ふ………あはははは!」
 突然、河村が、弾けるように笑い出した。もう堪えきれないというように、大声で。
「てっめえ……」
「ごめんごめん」
 からかいやがったのか。
 河村は、顔を赤くする亜久津の前で、笑い過ぎて痛むらしい腹を押さえながら、ひらひらと手を振ってみせた。
「馬鹿にしてんのか」
 何が我慢ならないといって、亜久津にとって、他人に馬鹿にされるくらい我慢ならないことはない。憤りを隠さない亜久津に、河村は、「違うよ」とそこだけ妙にはっきりと否定した。
 体を海老のように丸め、ひとしきり笑い終わると、深く息をついて亜久津の前に座りなおす。
「ああ……まだ呼吸苦しいよ」
 腕を後ろに回して背中をさする。
「そんなことはどうでもいいから、何で笑ったのか早く話せ」
 無言のうちに訴えながら、睨みつける亜久津の手を、河村はふいにぎゅっと握った。
「おい……」
 握られた手を見つめ、困惑気味に亜久津が呟く。いつもなら、困らせるのは亜久津、困るのは河村、と役割が固定している2人なのだが、逆転してしまっている。
「ごめんね」
 2人分の右手と左手、まとめて4つの大きな手をちゃぶ台の真ん中に重ねた。黒目がちの大きな目が、じっと見つめてくるのに、耐えきれなくなって視線を逸らす。喧嘩は、先に視線を逸らした方が負けだ。
 チッ。
 舌打ちをする。しかし、河村はもう喧嘩を続けているつもりはないようだった。
 手の平が広く、指も長い。亜久津の手は、立派な体格に負けない大きな手だ。その手を、まるで、それが壊れ物ででもあるかのように、優しく握る。
「俺、嬉しかったんだ」


「は?」
 嬉しかった。
 思いがけない言葉だった。
「だから、嬉しかったんだよ」
 河村はもう一度、念を押すようにくり返す。


「俺、今まで友だちと……、亜久津は俺のことなんか友だちじゃないって言うかもしれないけどさ、友だちと喧嘩とかしたことなかったんだ。何か、嫌なこととかあっても、嫌だってはっきり言えなくてさ」
 訥々とした河村の話に、亜久津は頷く。
 確かに、同じ道場に通っていたときも、河村が誰かと言い争ったり、まして他人に手をあげている姿など、一度も見たことがない。空手の練習や、試合ですら、相手を傷つけることが恐くて、本気を出せない男なのだ。
「みんな俺のことを優しいって言ってくれるけど、優しいんじゃなくて……、弱いだけなんだよ」
 そうして、今にも泣き出しそうな顔で亜久津を見る。
 河村は決して弱くない。強さの種類が、たとえば自分とは違うだけだ。大いに反論したい亜久津だったが、黙って続きを促した。
「でも、何だか……、何でなんだろうね。亜久津には、言いたいこと全部言えるんだ」
 いわゆる体育座りの河村は、立てた膝に頬をすり寄せるように首を傾け、じっと亜久津を見た。
「亜久津とは喧嘩できるんだなあ、って。そう思ったら、何だか嬉しくてさ」
 だから、思わず大笑いしてしまった。「ごめんね」と、河村は視線を落とす。ちゃぶ台の上で、いまだ重ねられたままの手が熱かった。
「……そうか」
 長い沈黙の後、亜久津は辛うじてそれだけを口にした。


 他の誰とも喧嘩なんてできないのに、亜久津とだけは喧嘩ができる。
 河村は無意識なのかもしれないが、それは、取りも直さず河村にとって、亜久津が特別な存在だ、ということを表しているのではなかろうか。
 短く刈られた栗色の髪の下から覗く、河村の耳は真っ赤だった。もっとも、亜久津の耳だって、河村に負けず劣らず熱いはずだ。
 もしかして、脈があるのだろうか。
 そんなことを考えて、期待に胸が高鳴る自分は少々情けないが、この際、情けなさにも目を瞑る。チャンスがあったらまたコイツと喧嘩をしてみよう、と目の前の河村が聞いたら困ってしまいそうなことを思った。
 思いながら、さっき消したテレビのリモコンに手を伸ばす。ボタンを押すと、あふれるような歓声に、河村がハッと顔を上げた。
 高く、ゴングの音が響く。
「ファイッ!」
 思わず、といった風に身を乗り出す。画面の向こう、ボクシングの試合では、ちょうど第2ラウンドが始まったところだった。





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 「ファイッ!」は、ボクシングでスタート時にレフェリーのかける声。




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