きみとぼくの町で
帰宅。とりあえず風呂。軽くシャワーを浴びて、寝室に入る。
午前3時。河村は、よく眠っている。
丑三つ時も、とっくに過ぎたかという時間。こんな夜中でも妙に明るいのが、東京の空だ。遮光カーテンの隙間から薄明かりの漏れる窓を背に、亜久津は河村の枕元に膝をついた。
暗い中でも、よく分かる。河村の目元には、濃い疲れの色が残っていた。寝ているときでさえこうだ。まして起きているときは、推して知るべしである。
河村は、仕事に真面目で休み下手な、今では珍しいタイプの日本人である。幼なじみだった亜久津と初めて会った子どもの頃から、社会人の今に至るまで、彼の性格の基本的なところは変わらない。変わったことと言えば、今日のように亜久津が起こしてやれるとき限定で、寝起きが悪くなったこと、くらいだろうか。
眠る河村を横に色々なことを考えて、それから、2LDKのLDKの方に戻って、掃除機を使わない掃除だの洗い物だのといった細々としたことを片づけているうちに、時間なんてすぐに経ってしまう。
いつのまにか白々と明けてきた空に、亜久津はスチールラックの上の置時計に視線をやった。
午前5時30分。河村を起こす時間だ。
「河村、起きろ」
「う〜ん…」
亜久津が声をかけると、かけ布団を頭まで引き上げて、河村はくぐもった返事をかえす。
「オラ、起きろ」
「うう…」
布団を剥ごうとする亜久津と、阻止しようとする河村の間で小さな攻防戦が展開される。
亜久津の本音を言えば、このまま寝かせておいてやりたいのだが、後で河村が困ることを考えればそうもいかない。
「遅刻するぞ」
時刻を告げて、ついでに布団の中に手を突っ込んで、風呂あがりに飲んでいたミネラルウォーターのペットボトルを首筋に当ててやる。
効果は覿面。河村は、「ひゃっ」と声を上げて、目を見開いた。
「やっと起きたか」
「う、うん…」
まだ眠そうな目元をこすりながら、体を起こす。枕元に腰を下ろす亜久津を見上げた。
「ごめんね」
とりあえず謝罪、は、亜久津がどんなに言っても直らない河村の癖みたいなものだ。
「手間かけんな」
そして、亜久津の舌打ちと悪態も。
ペットボトルの蓋を開けて手渡してやると、冷たい水をひと息に飲み下した。もしも亜久津が同じことをしたら、「お腹痛くなるよ」と言う。絶対、言うに違いないのだ。
亜久津は、河村の上下する喉をじっと見つめた。
昔から、この男は対亜久津限定で心配性、かつ小言も多い。いつだって、自分のことは棚に上げて、自分のことは後回しで。
「亜久津、何か疲れてる?」
今だって、目元にうっすらと隈のういた顔で、心配そうに亜久津を見た。
「仕事、大変?」
下から掬い上げるようにのぞき込まれ、思わず目を逸らす。
いかにも寿司職人、と言うべきか、河村の手はまるで冷え性の女のように冷たい。寝起きで体温が高いはずの今も。ひんやりとした指が頬に触れたのに、心中ひそかに亜久津は動揺する。
「無理するなよ」と言われ、「テメエが言うな」と返したい。それなのに、上手く言葉が出ない。思わず喉が鳴った。
初めて体の関係をもって、もう10年近くになるというのに、こんな些細な接触で、いまだにいちいちぐらつき、煽られる。
ベッドを下り、のろのろとした足取りで洗面所に向かおうとする、河村の腕を取る。驚いたように振り向いた体を、力まかせに亜久津は抱きしめた。
「ど、どうしたの?亜久津、いきなり。ダメだよ、俺今から仕事だし…」
「うるせえ。ちょっと黙ってろ」
強い力でぎゅっと抱いたまま、河村の肩に頭をもたせかける。耳元で、諦めたように息をつく、河村がひどく愛しかった。
「今日の昼、帰ってこられるのか?」
「うん」
「買い物行くから、早めに起こせ」
「うん?」
「明日、休みにしてきた。お前も休みだろ?」
「うん」
「明日一日、家から出ねえからな」
「うん」
「お前もだ。出さねえ」
「…うん」
「買い物、今日俺がしておく。お前も、何かあったら今日のうちにしておけ」
「うん」
小さな応えの繰り返しが、触れあった部分から、振動として肌に伝わってくる。河村を愛しく感じる。その気持ちの強さは、いっそ自分でもおそろしくなるほどだ。
フローリングの床に、ゆっくりと腰を下ろす。赤く染まった耳に食らいつきたい衝動をかろうじて抑え、亜久津は、河村の背に回した腕をそっと解いた。
「行ってこい」
河村の頭を撫で、肩を押す。
「うん」
頷き、立ち上がった河村は、寝室のドアを出るところで立ち止まり、「亜久津」と呼んだ。
「何だよ?」
「ありがとう」
「何が?」
「起こしてくれて」
そう言うと、河村は「おやすみ」と手を振り、寝室の扉を閉めた。
午前6時30分。遠ざかっていく河村のバイクの音を、耳を澄まして亜久津は聞いた。
数年前、河村が専門学校を卒業し、実家とは別の遠方の寿司屋に就職すると同時に、2人は一緒に暮らし始めた。
生業でもあり修行でもある仕事に打ち込む。河村の日々は忙しい。出勤は早朝。帰りはまちまちだが、夕方からの勤めの亜久津が、休憩時間、家に電話を入れてみても、まだ帰宅していないことの方が多い。
週に一、二度の休みの日にも、掃除だ練習だと店に通う河村の姿は、今やはるか昔の中学時代、テニスをしていた頃を彷彿とさせる。
充実、しているのだと思う。
だからと言って、無理をして体でも壊したら、本も子もないわけで。
他人の健康だの何だのには人一倍気を遣うくせに、自分のこととなると無頓着な河村の性格は、困ったものだと思う。
たまに店に出かけない休日があるかと思えば、衣替えを始めたり、突然、何を思ったのか大掃除をしていたりする。
「お前はもう少しだらしない生活に慣れろ」
亜久津は、何度怒鳴りつけてやりたくなったかしれない。
同じ家に住んでいる2人の人間が、2人ともに1日8時間以上働いていれば、家の中が多少とも乱雑に散らかるのは仕方がない。
とにかく、1人で放っておいても決して休まない河村に、亜久津は明日、自分も一緒に仕事の休みをとって、それこそ力づくででも休日らしい休日を過ごさせてやるつもりでいる。
「覚悟してろ」
穏やかならぬ声音で呟き、布団の中に身を滑らせる。
河村の体温の名残もすでに消えた布団の中は、ひんやりと冷えていた。その肌触りに、何となく河村の指先の冷たさを思い出す。
亜久津は目を閉じた。
午前7時。河村の仕事が始まる時間だ。
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婚姻届も子どももないから、2人の生活を維持していくのには、それなりに努力も必要です、という話。
大きな家で優雅に暮らしているイメージが沸かなかったので、2LDK。双方の体の大きさも考慮して、ギリギリ広げて2LDK。8畳LDKに4畳半か6畳の寝室、4畳半の物置部屋といったところでしょうか。
それほど物があるようにも思えないので、LDKでなくDKで良かったかも。
ダブルベッドを置くことを考えると、寝室が4畳半は狭すぎるかな。6畳かな。
タカさんは、実家の自分の部屋が和室で畳の上に布団を敷いて寝るのに慣れていることもあって、「ベッド置くと部屋が狭くなるからこっちの和室(物置にしている部屋のこと)を寝室にしようよ」と主張しますが、亜久津に却下されます。フローリングにダブルベッドが、亜久津の譲れないロマン。むしろダブルベッドがロマン。
4畳半の部屋に、「ぎっしり」って感じでダブルベッドが置いてあるのも、それはそれでいいな。引き戸を開けて(洋間に引き戸がいかにも日本の住宅で良いと思う)、そのままベッドに乗るアクタカさん。いいな、それ。
毎日、こんなことばかり考えています。