コンモドゥス帝
〜筋肉とエロに生きた、その熱き漢(おとこ)の生涯〜 ギボン『ローマ帝国衰亡史』第4章より |
その1 コンモドゥス帝の父上と母上・・・マジメな父親、浮気性の母親 コンモドゥス帝の父帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は、その当時の評価も、後世の評価も、大変にすばらしいものです。ギボン先生も、こうおっしゃってます。 自己に対しては厳格、他人の欠点に対しては寛容、そして全人類に対して公正善意の人だった。アウィディウス・カシウスが、シリアで叛乱を煽動し、こと破れて自殺をとげたときも、彼は、敵を変えて友たらしめる喜びを奪われたことを、心から悲しんだ。そして激昂した元老院が、叛徒一味に対する極刑を考えたときも、彼はこれを抑えることによって、その心情が偽りでないことを証明した。すべて戦争なるものを、人間性への汚辱災厄として嫌悪した。が、ひとたび正当防衛の必要上、戈をとるもやむなしとなると直ちに起って、厳寒のドナウ河畔へ、八度までも陣頭にその身を曝した。 前にも書きましたが、ローマの外と中の敵は、ローマ軍と、ローマ皇帝が責任をもって、たたきつぶします。この時代の平和とは、そういう手段でないと、獲得する事は不可能です。無防備マンは、はっきり言って、全く役にたちません。 この人物評ですけど、もう、完璧ですよね。本当に、正統派少年マンガのヒーローそのままです。私は、 敵を変えて友たらしめる喜びを奪われたことを、心から悲しんだ。 というところで、「ドラゴンボール」の悟空が、ピッコロに仙豆を与えるシーンが頭によぎりました。 ですが、この皇帝にも、欠点はありました。というより、この完璧な美点、が、そのまま欠点になったんです。 マルクス・アウレリウス帝の温厚さは、厳しいストア哲学による鍛錬をもってしても、なお矯正することは不可能だったばかりか、唯一の欠点ともいうべき性格的弱さにまでなっていた。彼のすぐれた知力ですらが、疑うことを知らぬ人の好さによってしばしば裏切られていた。君主というものの心情を究めつくした上に、自身の感情などは決して見せぬ策謀家どもが、巧みに哲学的高潔さを装って彼に近づき、さも富や名誉など軽蔑するかのごとき顔をしては、実はちゃっかりそれらを手に入れていたのだった。 そう。この皇帝は、人が好すぎて、騙されやすかったんです。読んでて分かると思いますが、こういう人が上にたつと、下々の悪い人たちになめられますよね。 あと、マルクス・アウレリウス帝の奥様、つまり帝妃も、問題でした。 マルクス帝の后だったファウスティナは、その美貌とともに、多くの艶聞によっても有名である。彼女の浮気心をうまくつなぎとめ、また変化を求めてやまぬ情熱を抑えるのに、正直一途、生真面目一本のこの哲学者皇帝では、所詮無理だった。 だそうです。マジメな人が、遊んでる女を相手にするのが無理なのは、すでに大昔からみたいですね。 ファウスティナの不貞を知らぬもの、またそれに無関心らしく見えたのは、帝国広しといえども、当の皇帝ただ一人だった。 ここまでいくと、もはやギャグです。ちなみに、ローマ帝国皇帝で、女好きで名君だった人って、殆どいない気がします。 三十年間にわたる結婚生活中、一貫して彼はもっとも愛情にみちた信頼、彼女の死をもってしても終わらなかったほどの尊敬の証を、彼女の与えつづけていたのだった。例の「瞑想録」の中でも彼は、かくも貞淑、かくも温良、またかくも驚くべき誠実な妻を与えられたことを、神々に感謝しているのだ。 「瞑想録」は、マルクス・アウレリウス帝のご著書です。 ・・・・・・・・・・なんか、マルクス帝が気の毒になってきます。 マルクス・アウレリウス帝は、悪いひとを見抜くという点にかけては、零点に近かったということは確かでしょう。 コンモドゥス帝の父上と母上は、こういう方でした。なんでこんな立派な皇帝から、こんなバカ息子が生まれたんだとかそういう話は、古来ありましたが、コンモドゥス帝の立場からすれば、なんとなく、性格歪むのが分かりますよね。多分、彼は、「マジメは損、マジメはかっこわるい」と思ってしまったんでは、ないでしょうか。 実際に、マジメな父帝のまわりで、うまく立ち回った悪いひとたちが、父帝を、だまくらかしたりとか、母親の愛人どもが、何食わぬ顔で、そのへんの事情を全く知らない父帝の手で高官になったりとかしてるんで、まあ、コンモドゥス帝の心情は、なんとなく察しがつきます。 どうも、その後のコンモドゥス帝の生涯を見ると、こうした見方も、ちょっとは説得力あるのでは、と我ながら思っております。 なんていうかね、この人の、その後の言動見てると、わざと悪い事やって、悪い奴だってのを見せびらかして、「どうだ、俺ってワルだろう」という感じのが多すぎるんだよ。 |
■その2 |
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