となりの体温 9
キョンはマンションのエントランスをくぐると、それがオートロック式であることを知った。平凡でそう新しくもないマンションだが、セキュリティは案外しっかりしているらしい。そう思って見ると防犯カメラの数がやたらと多いような気がして、それはキョンに古泉のバックについた機関の存在を思わせた。暗い色のカメラを鬱陶しく思いながらキョンは古泉の部屋番号を押して呼び出したが、返答は無い。古泉の不在は即ち彼がまだあの不気味な空間で何らかの務めを果たしていることに違いないのだが、キョンは妙に胸騒ぎがしてその場で古泉に電話をかけた。時間的には、もしいつか見たあの場面がごく平均的なものならば、とうにその仕事は済んでしかるべきだった。だが、キョンの携帯電話は無機的な音を立てるばかりで、そこに古泉は現れない。不在、不在、古泉はどこにもいないのだ。 (古泉に会って、俺はどうするつもりなんだろう) キョンがそう思って眉間に皺を寄せた時、ガラス扉の向こうのエレベーターから女性が降りてきた。主婦らしいその女性は身軽な格好で出て行き、キョンはその人の姿かたちを見て、案外と一般的な住民もいるのかもしれないと思いながら、彼女が出たことで開かれたロビーの中に入り込んでいた。そのまま閉まりかけたエレベーターのボタンを押して入り込み、自分は高校に入ってこんなことだけうまくなったものだとキョンはため息をついた。 目的の階に着いた時、キョンはほとんど腹をくくっていた。ここまで古泉の招きなしに来たことは機関に見とがめられるには十分であったし、古泉自身に拒まれる可能性もたっぷりとあった。キョンが恐れていたことは古泉に会えないまま機関の誰かに退けられることであって、自分は古泉本人の無事を確認できればそれで満足だという気もどこかでしていた。 「それは俺のエゴだな」 そう呟いて、キョンは古泉の部屋の前に立ちつくした。 古泉の部屋の玄関扉は極めて静かで、同じ階の廊下に並んだ何部屋かも同様に沈黙していた。廊下から外は住宅地が見下ろせて、その橙色の光る木の実のようななだらかな列を眺めていると、ふいにキョンは胸がしめつけられた。いつも自分はあの木の実の下で惰眠を貪っていて、下校してくる度古泉はここでそれを見ているのだ。この光景を。それはどんなに遠く隔てられた世界なのだろう。キョンは今自分がどこに立っているのかを考えたが、判断に困った。彼は古泉の部屋の前で、中にも進めず帰ることもできないままぼんやりとしているのだ。そのことに気がつくと胸の内がひやっとして、急激にキョンは焦り出した。そんなことを考えても仕方ない、この扉は開かないのだし、と思ってキョンが試しに玄関扉のノブを回すと、一瞬その事実を疑いたくなるほどあっさりとその扉は開いたのだった。 「古泉、いるのか」 キョンはそう声をかけて薄暗い部屋の中に入ったが、返答は無かった。だが三和土に乱雑に脱ぎ捨てられた通学用の革靴が転がっていたので、キョンはそこに古泉がいるのだろうと判断した。その瞬間、キョンは慌てて靴を脱いでいた。古泉が帰ってきて、返答もできない状態であるとしか思えなかった。 短い廊下に数個並んだ扉を過ぎて突き当たりのリビングと思しき部屋に入ると、キョンはそこで息を飲んだ。 爛れるような一条の西日を頬に受けて、紺に染まりつつあるがらんとした部屋に置かれた白いソファの上で、打ち捨てられた荷物のように古泉が倒れていた。色素の薄い髪がくしゃくしゃに乱れて、その眉と目を覆い隠していた。白いシャツが不自然にぱりっと張っているのがだらりと垂れた四肢と比べて余りに対照的で、それが先ほど着替えたものであることを物語っていた。長い脚がソファをはみ出して宙に浮いているのが、言いようも無く見る者に凄惨な印象を与える。 キョンはふらふらとソファに近付くと、そっと呼びかけた。 「古泉」 こいずみ。そう唇を動かし、キョンは脚を折り古泉の顔を覗き込んだ。髪で目元が見えないことにひどく不安になって、キョンはそっとその髪をかき上げた。それでよく知る顔が青白く表情を無くしているのを見て、余計に動揺した。きりっとした眉や鼻筋やしっかりした首筋が驚くほど男っぽく、それはいつもにやついてアイドル然とした古泉のものとは思えなかった。知らない人のような肩が微かに上下するのを見て、キョンは僅かにほっとした。寝ているだけだ。古泉は寝ているだけだ。 「古泉、大丈夫か」 もう一度キョンは声をかけた。何故目覚めないのかといらいらする気持ちと焦燥感が先立って、持て余すほど感情が乱れた。目の前の男はまるで人違いのような顔をして眠り込んでいる。 「起きろ」 「古泉、起きてくれ」 その彫刻じみた顔は頑に沈黙を守り、キョンは自分のかすれた声に胸が掻きむしられるようだった。もう永遠に古泉に自分の声が届かないような気さえした。床に届くほど垂れた古泉の右腕は包帯が巻かれて、額の脇にも擦り傷があり、シャツの下はもっとひどいことになっていることは容易に想像がついた。古泉は、目を覚まさない。キョンは包帯をそっと撫でて、その体温に胸が痛くなるようないとおしさを感じた。その体温だけは変わらずに高くて、人形のような顔をしているくせに大きな動物のように古泉はほかほかと熱を発しているのだった。そうやって触れると、目の前の男はやはり紛れもなく古泉なのだった。その長い睫毛も、細い顎も、影の差す頬も。キョンは静かに静かに、ひとかけらの埃も動かさないほどの慎重さをもって、ゆっくりと古泉と唇を重ねた。やはりそれは古泉だと、キョンは確信した。余りにも違和感がなくぴったりとして、そこには初めからお互いのために誂えられたように寄り添う感触があった。二人の血管が完全に繋がっていく。ぐるりと血が、二つの身体に巡っていく。 キョンは瞼に古泉の睫毛が動くのを感じて、そっと唇を離した。顔が離れると、古泉は子供のようにぽかんと驚いた顔をしていた。 「あの」 「黙れ」 キョンがかき上げていた古泉の髪をぐしゃりと下ろすと、古泉は慌てて頭を振ってキョンの手を追った。 「行かないで下さい」 古泉がソファからずり落ちそうになりながら悲痛な声をあげた。かすれてとがった、喉から血の出るような声だった。 「お願いです。お願いですから行かないで下さい」 そう言って古泉は前のめりのまま血が止まりそうなほどの力でぎゅうぎゅうとキョンの手首を握りしめたので、キョンはため息をついた。 「行くわけないだろう。俺が自分で来たんだから」 古泉はまた少し目を大きく開いた。 「どうなさったのですか」 「なにが」 「この部屋をよくご存知でしたね」 「長門に聞いた」 「ああ…」 沈黙が落ちる。古泉はじっとキョンの顔を見つめる。キョンはいてもたってもいられないほど恥ずかしく、体温が上がって行くのが自分でもわかる。それでも古泉の手を振り払えない。 「お訊ねしたいことは沢山ありますが、それはともかくとして、今僕は白雪姫の王子もかくやという心持ちですよ」 古泉は微笑んだ。南国の花が咲きほころんだようなその笑顔にキョンは数秒の間見惚れて、すぐには返答もできなかった。それをいいことに、古泉はキョンの腕を引く。 「黒檀のような黒髪、雪のように白い肌、血のように赤い唇、白雪姫の母親の望みというのは実に的を得ていますね。そう、それは確かにこんなにも美しいものなんですから。ああ、あなたはご存知ないかもしれませんが、僕は毎日噛み締めているんですよ。朝方あなたの髪がはねているところを見つけた時それがどんなにいとおしいものか、僕はそういう瞬間瞬間に、」 古泉は熱に浮かされたようだった。一種の興奮状態で、口が止まらないらしかった。気を高ぶらせた瞳は潤み、怪我をした身体はじんわりと熱かった。 「古泉もうしゃべるな。おまえしんどいんだろう」 キョンはそう言うと古泉を抱きしめた。 「大丈夫か?その様子だと手当てはしてもらってるんだな?」 「…はい」 「…痛みは」 「薬を飲みましたから、…それほどは。…痛くはないんです」 キョンの背中に、ひそやかに古泉の腕が回る。壊れ物を扱うように、そっとその腕がキョンを抱きしめる。触ったら消える煙であるかのように、その腕はとても慎重で緊張している。 「ただ、」 「うん」 「…」 「怖かった?」 古泉は身を硬くして、小さく頷いた。 「…怖いんです。怖い。本当はずっと、もう慣れたはずなんですけど。こんな傷ももう滅多に受けないし、受けても慣れましたし。でもまだ初めて怪我した夜のことが忘れられないんです。僕はその夜のことを牛みたいにしつこく反芻して全くしつこいんですけど、それでも忘れられないんです。傷つくのも怖いし、戦うのも怖い。それなのにへらへらと強がっていて、何の成長もないくせに、全くお笑いぐさですよ」 そう古泉がとってつけたように肩を揺らして笑うと、キョンはかぶりを振って古泉のシャツを握りしめた。 「ばか、笑うな、…のかと思った、ばか、いなくなるな、頼むから」 キョンの低い声に古泉は息を飲むと、返答の代わりにそっとキョンを抱きしめた。 「…いつか中庭で、あなたに何か言おうとしたことがあったでしょう」 「ああ」 「僕はあの時、何かどうしてもこの気持ちが溢れそうで、それを伝えたかったんです。でも好きというのとはまた違うと思ったし、余りにもそれを伝えることは大それている気がしてためらわれました。今なら分かります。いつかの放課後、僕はあなたに好きだと言いました。勿論それは間違いありませんが、それだけでは決してない。あなたは僕の何をおいても大事なものであり、守りたい、いわば世界そのものなのです。あなたがいなければ僕は駄目です。…ああ、こういう時、なぜ人はありきたりなことしか言えないのでしょうね。でも実際、あなたなど知らなければよかったと何度か思いましたし、その度に苦しかったのですが、それでもあなたに会えて僕は幸せでした。あなたは僕にとってかけがえのないひとなのです。本当に、何にも代え難い」 その演説のような講義のような大告白はキョンに二の句を継げなくさせ、それをいいことに古泉はその夜キョンに部屋にとどまることを約束させた。 |