となりの体温 10
ある秋の夕方、キョンが帰宅して居間に行くと、彼の妹は足をぶらぶらさせて椅子に座っていた。おかえりただいまと言い交わしながら冷蔵庫を開けて中を見る。不意にシャツをぎゅっと引かれて、何気なくその引っ張った手を握るとその小ささに驚いた。振り返ると、背後の妹が明るい声で笑う。 「キョンくんおかしいの。びっくりした?」 キョンは黙って首を振る。出すつもりもなかった麦茶を出してのろのろ妹の手を外し、椅子についた。 無意識に、背後にいるのは古泉だと思ってしまっていたのだ。手に触れるのはしっかりした手首で、その高い体温に安堵して振り返ると、縋り付くような目をした背の高い男がいるはずだった。その状況に余りにも慣れ過ぎてしまった自分に、キョンはうんざりする。心なしか顔が熱い。 古泉の部屋に初めて行ったあの日以来、古泉はキョンにだけ度々弱音を吐くようになった。とはいえ、別に正直に心情を吐露するというようなわけではなく、ただ耐えきれないような時に、ひっそりとキョンの服の裾をつかんでくるのだった。机の下、壁際、帰り道の最後尾、そういう誰も見えないようなところでひっそりと。そういう時、キョンは何を言えるでもなく、古泉の肌の一部を触った。頭を撫でることもあれば、手の甲を掠めることもあった。古泉はキョンと体温を交わすと、非常に安心するらしいことがなんとなくわかってきたからだった。そうすると、ようやく古泉はなにがしかの自信を得るのか、キョンを自宅にこっそりと誘うのだった。 古泉はそのようにして時折キョンを部屋に呼んだ。いちいち口実をつけるのだが、キョンにもその方がありがたかった。正直なところ、ふたりはその関係をはっきりとした言葉にしかねていた。だから、古泉は夕食を作りすぎたといってはキョンを呼び、宿題のプリントをなくしたと言ってはキョンを呼んだ。徐々に彼のキャラクターを離れていく口実は、やりもしないテレビゲームの攻略方法がわからないから助けてくれという話に至った時にはさすがにキョンを笑わせた。 「古泉、それでわざわざゲーム機買ったのか」 「いえ、元から持っていたものです」 「嘘つけ、埃ひとつついてないぞ。どうせメモリーカードも真っ白なんだろ」 「メモリーカード?そんな名前のゲームじゃありませんけど」 そういうわけで、彼のこれ以上の余計な出費を防ぐためにも、キョンは自分を呼びたい時はただ誘えばいいのだと仕方なく説明した。それはキョン自身においてもずいぶん恥ずかしい説得だったが、なにしろ古泉の財布はその体を張って営まれているものなのだ。無駄遣いさせるわけにはいかなかった。俺も行きたいときは勝手に行くから、とキョンが言うと古泉は破顔して、次の日には合鍵をキョンの鞄に滑り込ませた。 古泉の世間知らずは、時にはその豊かな教養と蘊蓄男ぶりをしのぐほどだった。岩波文庫の書名を番号で当てられるくせに、カップラーメンの作り方も知らない。小さな鍋を取り出してカップの麺をゆでようとし始めた時には、キョンは我が目を疑った。 「おまえカップラーメン食ったことないのか」 キョンがほとんど呆れてそう問うと、古泉はうつむいて珍しく歯切れが悪かった。 「そうですね。…体に悪いと言われたりしまして」 誰にかはわからない。古泉は家族の話をしたがらなかったし、キョンも無理に聞こうとはしなかった。コンビニ弁当はまずくて食べられないと真顔で言う古泉に料理をさせてみると、あっさり一汁三菜を揃えてみせて、しかもやたらとうまい。口の肥えたお坊ちゃんだったのではないかとキョンは推測しているが、本人にそれを言うとまたおかしな行動を取りそうなので黙っている。 季節は冬になり、古泉はキョンと頻繁に会っていたが、それは大抵彼の部屋でのことだった。ふたりは注意深くその事実を周囲から隠していた。それは一般的にいう仲のよさとはかけ離れているように思われたからだ。時に古泉はキョンに懇願して彼にからみついたし、キョンは古泉を不器用に抱え込んで夜を過ごした。古泉の夜目覚めるくせはなかなか治らなかった。彼は飛び起きる度に寝汗をぬぐい、隣にいるキョンの存在にぎょっとして、それから安堵のため息をついた。その後恥ずかしそうに微笑む古泉は、ひとりで生きることに慣れきったように見えて、キョンはひどく歯がゆい思いをした。 「俺にできることがあればいいのに」 キョンがそう呟くと、古泉は首を振った。 「いてくださればいいんですよ。あなたは」 キョンは古泉が、彼の言うところのアルバイトから帰ってくるとその身体の無事を確認しないではいられなかった。いつかの夕方が恐ろしい記憶として刻まれており、放っておくと古泉は知らない間に満身創痍で手足がもがれていってしまうように思われた。目に痛い白すぎるシャツを丁寧に脱がせると意外に厚い胸板があたたかく現れ、その健康的な熱はキョンをほっとさせた。「情熱的ですね」などと言って初めは笑っていた古泉だったが、次第にキョンの目に何も言わなくなり、やがてその確認作業は習慣になった。出て行く前も、その時キョンがそばにいれば、必ずその身体を触って異常がないか確かめた。わかっていても心配だったのだ。肌を触れ合わせれば、その体温と体温が重なれば、ふたりは確かに生きていて、ひどく身近に寄り添っていて、離れがたいつがいとしてつくられたものであると実感できた。実際、その習慣ができてから、古泉は目に見えて安定した。悪夢をうまくすり抜けられるようになり、キョンをいつも意識できるようになった。そして逆に、キョンがいないことを耐えられないほどつらく思うことが増えた。それを言うと実家住まいのキョンを困らせるため古泉は何も言わなかったが、キョンが出て行くときはいつも捨てられた犬のような顔をするので、キョンには気づかれていた。 「一緒に暮らせたらいいのにな。そしたらあんまり心配しないですむ」 キョンが何気なくそう言った時、それは雑誌をめくりながら本当に何気なくそう言ったのだが、それはいつも思っていたことがつい口から出たといった感じだった。古泉は目を丸くした。そんなことを口に出して言ってもいいのかという驚きと、それから喜びだった。やにわに立ち上がり、引き出しをごそごそやり出したかと思うと、古泉はキョンにせっぱつまったように小さな冊子を手渡した。 「なんだこれ」 キョンはそれを受け取ってまじまじと見た。どう見ても通帳だった。 「僕けっこう貯めてるんです。いつでも一緒に暮らせます。あなたは身一つで来て下さっても大丈夫ですよ」 そう真剣に訴えるので、キョンは「なんで駆け落ちみたいになるんだよ」と笑ったが、同時にその必死さがせつなかった。本当にできるだけ隣にいてやりたいと思った。ふたりともそれ以上口には出さなかったが、互いのそばにいつまでもいられたら、と心の底から思った。それは青春のあぶくのような思いだったかもしれないし、血を吐くほど切実な魂の懇願だったかもしれない。 ふたりはその未来を知らない。ただ互いの手を握りしめて立っている。これからどうなるのだろうと思わないでもないが、不思議なほど楽観的だ。社会的な問題よりも、もっと重大な障害がふたりの間には横たわっていたが、それも少なくとも、越えたいと思う。そう思えるのは、となりにそのひとがいるから。そのあたたたかさがいつも共にあるから。 目を閉じてその手を握る。肉の厚み。骨のきしみ。血が流れて、酸素の泡がきらきらと光る。毛穴から湯気が立ち、伸びた爪が肉に食い込む。このひとはとなりで、今、生きている。そのことにふたりは、静かに静かに息をひそめて、誰にも気づかれないよう街の片隅の部屋に隠れて、深く感謝を捧げていた。 【了】 |