影踏みアリア 9
左の肩に三橋が顔を埋めて、ぶるぶる震えながらひっきりなしにしゃくり上げているのを聞きながら、阿部は文字通り石になっていた。まずいことに、寝る前の電話で三橋に何を言われたかまで思い出した。都合のいいもので、自分の言ったことは忘れ去っているのだが。 「…三橋?」 阿部がとりあえずぽんと三橋の肩を叩くと、三橋はびくっと震えてぎゅっと阿部のシャツを握りしめた。 「ご ごめんなさ、い」 「…何が」 「オ、オレ ウソ、ついた」 「え?」 「あ 会いたかった だけ、なんだ」 阿部は心拍数が明らかに異常になっていることを自覚して、本当に自分は死ぬんじゃないかと思った。 「声 聞いたら、大丈夫と お、もったんだけ ど」 三橋はぎゅうぎゅうと阿部の肩に頭を押し付ける。 「よけい だめ、だった。オレ おかしいんだ。阿部くん」 阿部は観念した。これは無理だ。二十年やそこらしか生きていない若輩が耐えられる場面じゃない。そもそも我慢する意味がどこにあるのか分からない。阿部は、色々と考えに考えて頑丈に造り上げ自らを捕らえ込んでいた枷を、適当に放り出した。 「オレの方がおかしいだろ。オレ、お前のこと好きなんだけど」 言ってしまうと逆にすっきりした阿部に比べると、三橋の動揺はひどかった。がばっと顔を上げて阿部のけろっとした顔を見ると、一瞬で真っ赤になったり真っ青になったりして、情報が処理できなくなったのかそのまま逃げようとした。立ち上がって後ろを向いた手を座ったままの阿部に取られて、三橋は紙のように白い顔で恐る恐る振り返った。 「オイ待て。お前、一言くらい何か言えよ」 阿部にそう言われて、三橋はのろのろと口を開いた。 「…すき だよ。ずっと好きだった、…か、片思いだと 思ってた」 「…そっか」 「あ、阿部くん、オレ 片思いでいいんだ」 「…は?」 「オレ、頭悪いか ら、ばれちゃう、けど 阿部くんやさしい から、」 「…なに?」 「む、無理 しなくていいんだ。オレ、もう わがまま言わない…」 「お前バカだろ!」 意味が分かった阿部は怒るより呆れ返って、そのまま繋いだ手を引っ張った。阿部は倒れ込んだ三橋を抱きしめて、深く深く息をついた。六年分のため息だった。 「で、三橋ここまでどうやって来たの?」 とりあえず三橋をローテーブルの前に座らせて、阿部もそのまま隣に腰を下ろした。三橋がシャツの端を掴んで離さないのだ。 「え?タ タクシー」 「タ…っ、…お前、いくらかかんだよ!ちょっと考えろ!」 「ご、ごめんなさ」 「ごめんじゃないだろ!親の金だろ!」 「す すごい会いたくて、へんになりそうだった…」 三橋の溶けそうな大きな瞳を見ていると、阿部はそれ以上何も言えなかった。文句が口の中で消えて、代わりに頭に血が集まる。 「阿部くん」 つい目を逸らせた阿部の顔を、三橋が少しのぞき込むようにした。 「オレ、本当に阿部くんのこと、好きでいいの?」 「おまっ、まだそんなこと」 阿部は勢いよく三橋を振り返り、その表情を見て一瞬口をつぐんだ。余りにも透明で迷いのない、一縷の隙もないその目は、阿部への恋情を流し込むように語っていた。 「…オレ、気付かないふりしてたんだよ。多分高校から三橋のこと、ずっと好きだった」 「ほ、ほんと?」 三橋は目を見開いて驚くと、ふと笑うと阿部の肩に額を押し付けた。 「もったい、なかった。オレの方が 前からずっとずっと好きだった のに」 「はあ?そんなん分かんねえじゃん」 「あのペン、ね」 「うん」 「本当は、高一のとき、買ったん だ」 でも、渡せなかった。三橋には阿部の趣味がよく分からなくて、それでも何かあげたくて無難と思われる物を買い、結局渡せなかった。二人は個人で贈り物をし合うほど、その時は親しくなかった。二年生の阿部の誕生日には、三橋の気持ちは余りにも強かった。何をしても言っても気付かれたり勘ぐられたりしないかと思うと、三橋は阿部に何もできなくなった。それは決して成就するはずのない想いで、三橋は深く静かに土をかけてそれを埋めることしか考えていなかった。 「代わりに、家でよく見てた」 「見てた?」 「三年生の誕生日 渡せなくて、オレ もう一生渡さないだろう て…、それで 包装はがして でも使えなくて、それで見てた。へ 変なんだ。阿部くんに渡せなかったのに、阿部くんが 使ったの持ってる、みたいな気が して」 「三橋」 阿部が三橋の顔を見ようとしても、三橋は阿部にもたれて顔を上げようとしなかった。 「見てるとき、うれしかった けど、阿部くんがほんとに持ってて くれる方が、ずっと ずっとうれしい」 結局我慢できなかった阿部は、俯いた三橋を強引に離してその目を覗き込んだ。唇を合わせる一瞬前に濡れた視線が絡んで、胸が引き絞られるように感じた。触れた唇は、あらかじめそうなることが決まっていたようにぴったりとして、一旦合わせると何故か二人はひどく落ち着いた。 |